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天河に秘めたる ~奏琶国烈女伝~  作者: 五十鈴 りく
第1部

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37◇風が伝う音

 しばらくして、展可と袁蓮は琵琶を返しに劉補佐のところへ向かった。


 兵も邑人(むらびと)も皆そろって熱狂が冷めやらぬ様子で、辺りは騒がしい。軍の料理番が調理した肉は、串焼きにして兵ばかりか邑人(むらびと)にも配っており、(むら)の外は祭のような騒ぎになっている。戦に出る兵にとっての気晴らしになればいいというところなのか、正規兵たちもあまりうるさく民兵を咎めるふうではなかった。


 黎基はというと、簡単な衝立の裏に置いた床几(しょうぎ)に腰かけて休んでおり、郭将軍と劉補佐と話していた。そこへ展可たちがやってきたのを音で察知したのか、黎基が誰よりも先に顔を向けた。

 この騒がしさの中でも音を聞き分けられるのだから、本当に耳がいい。


「展可。それから、袁蓮だったな?」


 にこやかに気安く声をかけてくれる。展可ばかりでなく、袁蓮にも。

 黎基は分け隔てなく優しいのだ。何も展可だけに特別なわけではない。そんなことはわかっていても面白くないと感じてしまうのは、袁蓮が美人だからだろうか。


 黎基は目が見えないから、袁蓮の美貌に鼻の下を伸ばすようなことはないが、それでも二人が美男美女で絵になるから妬いてしまうのだとしたら――馬鹿かもしれない、自分は。


 もやもやとした気分でいた展可は、頭を下げてそれをごまかす。抱えた琵琶が妙に重たく感じられた。


「ありがとう。おかげで助かった。褒美と言ってはなんだが、今日一日、(すい)(むら)で宿を取るからゆっくりと休んでくれ。いつもは湯を使うことも容易ではないから、今日くらいは気が休まるといいのだが」

「うわぁ、いいんですかっ? 嬉しいですぅ!」


 甘ったるい声で袁蓮が答えた。袁蓮は、こういう時は好ましく思ってもらえた方が得だということを熟知しているのか、どうも身分や地位のある男相手だと媚びる。潔いほどに違う。


 策瑛や鶴翼が相手の時とは明らかに違うのだ。

 展可にはできない芸当なので、すごいなと思うばかりである。

 しかし、相手が黎基だと少し穏やかでないものも混ざるのだが。


「よい腕前だな。また機会があれば頼む」


 あまり人を褒めない劉補佐までがそんなことを言った。袁蓮は内心で冷や汗をかいているかもしれないが、それを顔には出さない。


「はぁい、畏まりました」

「では、後で呼びに行くので、それまでは自由にしているといい」

「ありがとうございますぅ」


 チラリと袁蓮は展可を見たが、展可は黎基の世話役なので、袁蓮と遊びには行けない。展可はその場に残り、劉補佐に琵琶を差し出す。


「こちらをお返ししておきます」

「うむ」


 琵琶を受け取った劉補佐は、それを片づけに行った。黎基の隣に控えている郭将軍に、黎基は言う。


「では、我が軍の女人を集めて宿へ泊まる手配を頼む。こうした邑里(むらざと)に来た時くらいは何も気にせず眠れるとよいが」

「はっ」


 袁蓮だけでなく、他の女人たちもまとめて宿に泊まらせてくれるらしい。体を拭いたり、服を洗ったり、そうしたことはやはり大っぴらにはできないから、これはかなりありがたいことである。


 展可も宿へ行きたかった。しかし、展可は女だということを隠している。だから、そこには混ぜてもらえないのだ。

 黎基の剣舞は見れなかったし、手柄は袁蓮のものだし、宿にも泊まれない――。


 手柄なんて要らない、黎基の役に立てたらいいと思ってきたはずなのに、そんなふうに考えてしょげた自分が情けない。気分を切り替えねばと、展可は心のうちで自分を叱った。


 郭将軍は近くにいた兵に指示を出し、手配を任せている。その時、ふと黎基の顔が展可に向いていた。黎基の口元が綻ぶ。


「展可も見ていてくれたかい?」


 ギクリとした。

 黎基が舞った剣舞を、展可はまったくもって見るゆとりがなかったのだ。隠れて弾いていなければ、少しくらいは見れただろうけれど。


 表向きは袁蓮が弾いたということになっているから、展可も演奏に専念していて見れなかったとは言えない。

 仕方なく、つぶやく。


「はい。とても素晴らしかったです」


 嘘つきだ。

 けれど、嘘つきは今に始まったことではない。展可がついている他の嘘に比べたら、こんな嘘は他愛もない。


 それでも、こうして雪のように降り積もっていく嘘の多さに泣きたくもなるのだ。そんなことも言えないけれど。


 ただ、黎基はひとつ息を吐くと、柔らかな声をかけてくれる。


「展可、私は目に頼らない分、耳がよくてね」

「は、はい」


 あの演奏のどこかがおかしかったのだろうか。自分なりに一生懸命弾いたつもりではあるけれど、しばらく振りだから拙さが音に出ていたのかもしれない。

 一流の楽士が仕える人だから、もっと技量の高い雅楽を聴いて育っているのだ。下手すぎてつまずきそうになったと思っていたら悲しい。


 困惑していた展可に、黎基はそっと告げる。


「あれだけの演奏をしながら、私の剣舞をじっくりと見るのは無理だろうね」

「え?」

「舞いながら感じたよ。とても展可らしい音だと」


 ハッと、息が詰まる。固まった展可に、それでも黎基は微笑んでいた。

 それは本当に、神々しくさえ感じられる微笑だった。


 口に出して言わずとも、ちゃんと気づいてくれる。この人はそういう人なのだ。

 胸が痛いくらいに疼いて、言葉に詰まった。嬉しいのを通り越えて、目頭が熱くなって、とても答えられない。


 目の見えない黎基なのだから、何か言葉を返さなくてはと思うのに、声にならない。それでも、黎基は展可の様子を風が伝えてくれたかのようにしてうなずく。


「ありがとう、展可」

「い、いえ……」


 涙が零れそうになる。弱い心が、まだこんなにも展可の中に残っていて、それを暴かれたようなものなのに、嬉しい。


 名を借りて、男のふりをして、それでも完全になりきれるものではない。心の中にある女の部分が、こんなふうに涙を零させる。これではいけないのに。


 琵琶なんて、女子の嗜みだ。男が巧みに弾ける理由を何かもっともらしく語ろうとするけれど、頭がふやけて何も考えられなかった。

 

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