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(17)霹靂と成りて

 思い出したことが一つあった。初めて香織が明鏡止水を発動させた時のことを。俺を相手に、まるで高段者のような指し回しを続けた結果、彼女の体力は消耗し、猛烈な頭痛に襲われたのだ。

 今の状況は、あの時に似ている。

 違うのは、『桂花』が使っているのが明鏡止水ではなく、他人の力を拝借したものである点。


「辛いよな。せっかく正解手を示されても、その手の意味がわからないと」

「っ!? それハ」

「隠さなくて良い。俺も前に、似たような経験をしたことがある」


 俺の言葉に、彼女は息を呑んだ後。海よりも深い、ため息をついた。その反応が何よりの肯定の証であるように、俺には思えた。

 皮肉なものだ。

 異能の力を借り、プロに限りなく近い棋力を得たことが、かえって足枷になるとは。増大した棋力に、頭が付いて行けていない。

 昔、プロの棋譜を並べた時のことを思い出す。当時は将棋を指し始めたばかりで、一手一手に込められた意味がよくわからなかった。

 同じことが、『桂花』の中でも起きている。


 最善手を示されても、理解が追い付かない。自分ならこうするという思考がノイズとなって混じり、ちぐはぐな手を指してしまう。その結果が今の局面だ。いつでもトドメを刺せたはずなのに、未だに詰みに至っていない。

 目の前に居るのが本物の木綿麻山桂花なら──りんを手玉に取っていた彼女なら、こんなことにはならなかったはずだ。


「どうしテ? あたしは最強になったんダ。キミなんか瞬殺できる棋力を手に入れたのニ……!」

「所詮は借り物。血がにじむような努力を経て、ようやく手に入れたものには遠く及ばない。

 たしなむ程度に、確かにな。あんたの将棋はぬるま湯に浸かっているよ。センセイ」


 ぱちん! 打ち返す。反撃の時が来た。


 桂花でないなら、彼女のフリをしている奴は誰か。導き出した答は、りんの話に登場したもう一人の人物。りんが『先生』と呼び、慕っていた男性だった。


「先生? 何の話ダ?」

「とぼけるな。今のこの局面自体が、あんたが木綿麻山桂花じゃないことを証明しているんだよ」

「あたしは、桂花ダ……!」


 ばちん! 叫びと共に、強打で返される。

 まだシラを切るつもりか。それとも、あるいはまさか。自分のことを桂花だと、本気で思い込んでいるのか?

 ぱちん。どうであれ問題無い。将棋を指して、勝つまでのことだ。いつもと何も変わらない。

 ぱちん。今度は普通の駒音が響く。先程までの勢いは無い。

 なら、遠慮なく攻めさせてもらう。『先生』本来の棋力は、りんの話から推測し、2級程度と見積もった。ぎりぎりの勝負にはなるだろうが、勝機が無い訳じゃない。

 詰まされる前に、寄せ切ってやる。

 ぱちん。相手陣に駒を打ち込む。『彼』の顔色が変わった。


「最強……あたしは……桂花は、誰よりも強イ……」


 自分に言い聞かせるように『彼』はぶつぶつと呟く。

 ぱちん。その駒音は小さく、覇気を感じなかった。


「最強なんて、空しいものさ」


 準決勝を思い出す。最強の称号を持つ男のことを。彼は強かったが、胸の内には孤独を抱えていた。

 最強とは言い換えれば、肩を並べる相手が居ないということでもある。

 将棋は、ライバル達と切磋琢磨して強くなるものだと俺は思う。最強は、それ以上強くなる必要すら無い。孤高の存在だ。それが幸せなのかどうかは、俺にはわからないが。

 間違いなく言えることは。今この瞬間こそが楽しい、ということだ。


「一足飛びで強くなって楽しいか? あんたも、地に足を着けてみたらどうだ?」

「楽しイ? わからなイ」


 俺の問いかけに、『彼』は悲しげに首を横に振る。将棋の楽しさがわからない、か。

 俺にはその気持ちは理解できないが。楽しくないのなら、無理に指す必要は無いと思う。

 しかし、同時に。もしも楽しさに気づけたなら、将棋を続けて欲しいとも思う。


「今、楽にしてやるよ」


 俺にしてやれることは、最短で詰まし切ることだけだ。せめて、一手でも早く。

 香澄さんと対局した時の、指し手が痺れるような感覚を思い出せ。白き雷よ、今こそ俺の指先に宿れ。


 ばちばちっ!


 掴み上げた駒と、盤との間で放電が起こる。来た、この感じ。俺の願いに、将棋の神様は応えてくれた。

 ぱぢん! 打った瞬間、盤上に雷鳴が轟いた。衝撃が指先から腕を伝い、脳天へと突き抜ける。同時に、眼球を覆っていた曇りガラスが、粉々に砕け散った。世界が、その真実の姿を露わにする。

 ──完全に、繋がった。


「あァ……!?」


 悲鳴に近い声を出し、『先生』は盤から飛び退いた。見えたか。己の最期が。


「負けル? どうしテ? あたしは──桂花、じゃなイ?」

「将棋盤の上には常に、嘘偽りの無い真実のみが存在する。思い出すんだな、あんたの将棋を。この一局を通して」


 呆然と呟く『彼』の、駒を摘まんだ手が震えている。ぶるぶると、次の一手を拒んでいる。だが、将棋にパスは無い。嫌でも指してもらう。


「あんたは、あんたのことを信じて付いて来た教え子の気持ちを踏みにじった。責任を取ってもらうぞ、センセイ」

「あっ……ぐ……!」

「りんを返せ。仮にも教育者なら、最後くらいは立派な姿を見せてやれ」

「あ、あたしは……お、俺は」

「あんたは誰だ? さあ、指してみろ」


 手の震えが、徐々に収まっていく。

 深緑色の瞳は、光を放たない黒灰色へと変化し。顔からは、一切の表情が消えた。まるで苦しみから解放されたかのように、静かに佇んでいる。

 恐らくはこれが、彼本来の姿。初めて対局者を目の当たりにし、俺は感動に近い気持ちを胸に抱く。

 ああ、やっと会えた。やはり将棋は、対面で指すのが一番だ。


「……鬼籠野には、悪いことをした」

「本当にな。だが今は対局中だ。謝罪の言葉は、感想戦まで取っておきな」


 ぼんやりとした目で見つめられる。生気を感じないのは、彼が既にこの世の存在ではなくなっているから、なのかもしれない。

 さすがの俺も、死人と指すのは初めてだが。不思議と恐怖は感じない。

 肉体を失って、教え子の身体に乗り移って。桂花を演じて、異能の力を手に入れて。挙句の果てに、彼は俺と対局している。決勝戦の舞台で。穴熊さんじゃないが、運命的なモノを感じずにはいられない。


「宜しくお願いします」


 二人して頭を下げる。そうだ、この一局は、今まさに始まったのだ。

 最終盤にして序盤戦。奇妙な感覚を覚えつつ、俺は彼の指し手を待つ。持ち時間は尽きかけているが、彼は盤をぼんやりと眺めたまま動かない。

 胡乱うろんな瞳に輝きは戻らない。だが、彼の玉はまだ生きている。


「桂花は。もう、居ないのか」


 ぽつりと呟き、ようやく彼は着手する。静かな本殿内に、美しい駒音が響いた。

 目が覚めるような、清々しさを感じる一手だった。とても死者の指し手とは思えない、一点の曇りも無い晴れやかな好手。

 決して未練が無い訳ではないだろう。桂花のこと、りんのこと。気になることは多いと察する。

 それでも彼は、この手を指すことができたのだ。男として、一人の将棋指しとして、尊敬に値する。彼の想いに応えたいと思った。

 ぱちん。打ち返す。形勢は俺が有利なはずだが、詰まし切らなければ意味が無い。指先の痺れる感覚はまだ残っている。晴天の空に、白雷を放つ。


「夢を、叶えてやりたかった」


 遠い眼差しに、在りし日の光景が映る。夢とは。桂花の、あるいはりんの。もしかしたら、その両方か。

 凶行の動機は、純粋な願いだった。


 ぱちん。自らが桂花になりきることで、彼女の願いを──恐らくはプロの棋士になりたいという夢を、叶えようとしたのか。そのためにりんを利用したのは許せないけれども。りんの成長を願う気持ちもまた、本物だったのではないか……?

 ぱちん。片方の夢は叶わないが。せめてもう片方だけでも、叶えてやろう。


 あんたを倒し、りんを解放する。

 そのために俺は、青天あんたにとっての霹靂へきれきとなろう。少し痺れるが、我慢してくれよ?

 ぱちん。互いに好手を指し続ける。それでも形勢はどちらかに傾いていく。見えない何かに導かれるように。決着の時は、刻一刻と近づく。

 ぱちん。心まで、雷に成れ。

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