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【連載五周年】にいづましょうぎ──将棋盤の中心で愛を叫ぶ──  作者: すだチ
第九章・園瀬修司の切愛──それでも君を愛してる──
112/203

(15)ありがとう

 彼女は見たのではないか、と推測する。対局を通じ、親父から俺へと受け継がれたものを。

 目覚めた後で彼女が流したという涙には、一体どんな意味があったのだろう。果たしてそれは悲しみの涙だったのか。今一度、考え直す必要があるのかもしれない。


「思い違いをしていたというのか? 彼女のことを」


 独り言のようにそう呟いて、穴熊さんは表情を曇らせる。指し手を忘れる程に、彼は明らかに動揺していた。

 カウントが0に近付き、慌てて83に金を打って来る。

 この土壇場で、守りに入った? それはすなわち、攻めが途切れたことを意味する。千載一遇のチャンスが訪れた。


 一気に寄せ切る。

 96金打で王手をかける。


 そもそも、彼の妻はどうして将棋を始めたのか? 彼への復讐なら、他にいくらでも方法はあったはずだ。何故将棋を選んだのか?

 しかも。大会で指し合った時には、当時の彼を遥かに凌ぐ棋力を有していたという。復讐心だけで、そこまで強くなれるものなのか?

 俺は思う。穴熊さんはとんでもない誤解をしていると。

 彼女の本心は、恐らく──。


 94と退いた玉の頭に、更に歩を打ち込む。徐々に見えて来た、新たなる理想の未来。あの75銀が導いてくれた、旅路の果て。遠く儚く、だからこそ尊く感じる理想郷。

 93玉に、71角の追い打ち。悪あがきでもらった駒の数々。惜しみなく投入させてもらう。俗手を重ねて好手を成す。それが俺達、園瀬の将棋だ。


 親父よ。今度は俺が、穴熊さんに真実を見せてやる。あんたが、彼の妻に己の生き様を観せたように。

 香織。俺は彼女が、君と同じ想いを抱いて将棋を始めたと信じる。だから伝えるよ。彼の誤解を解くために。

 三つの園瀬の将棋を、今こそ一つに束ねる。穴熊さんを過去の呪縛から解放し、この勝負に勝つんだ。俺達なら、きっとできる。


「妻が、私と指すつもりで将棋を始めたのなら。何故彼女は、離婚届など持っていたのだ……?」

「さあ。そこまではわからんが」

「──わかる気がする」


 俺と穴熊さんの会話に入って来たのは、香織だった。


「きっと、最後の賭けだったんだよ。将棋を指しても振り向いてくれなかったら、諦めるつもりだった」


 私も、そうだったから。

 そう言って、寂しげな微笑を浮かべる彼女。思い出したのかもしれない。俺が将棋に夢中になり、孤独な日々を送っていた、あの頃のことを。

 最後の賭け、か。胸がちくりと痛む。本当に、申し訳ないことをしたと思う。何度謝っても謝り足りない。ごめん、香織。

 結果的には、彼女は賭けに勝ち、今ここに俺と共に居る。だが一方で、穴熊さんの妻は。


「私は……彼女に、怖れを抱いてしまった」


 82金打に、94銀打。

 同金、同歩、同玉と進む。重い手つきで、それでも投了は告げずに指し続ける穴熊さん。 サロン席主としての意地か。それとも一人の夫として、罪(詰み)を受け入れるつもりなのか。

 終わらせる。今、楽にしてやる。85金。

 彼はため息をつき。同歩と取って来た。空いた84の位置に、金を打つ。


「あんたは確かに、一人の女性を不幸にしたのかもしれない。だが、その分の罰は十分受けたと思うよ。誰よりも情の深いあんたが、頑なに愛を否定し続けて来たのだからな。さぞや、苦しかったことだろう」

「修司君……最後まで付き合ってくれて、ありがとう」


 95玉に、96香打までの詰み。

 最後は、香織を象徴する駒で締め括った。


「負けました」


 穴熊さんはこうべを垂れる。黒い闘気が、浄化されていく。終局図から放たれた、淡い輝きによって。

 自分で言うのも何だが、綺麗な形で詰ませられたと思う。


 ぱちぱちと、手を叩く音が聞こえて来る。香織が、満面の笑顔で俺を祝福してくれていた。

 ──いや、違う。俺達二人を、だ。


「二人とも、お疲れ様」


 労いの言葉に、肩の力を抜いて頷きを返す。張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。

 香織は、不思議な女性だ。一緒に居るだけで、俺の心を癒してくれる。俺に力をくれる。


 まさか自分にまで声を掛けられるとは思わなかったのか、穴熊さんは驚いた様子だったが。


「ありがとう……香織さん」


 礼を言って、彼は目を伏せた。頬を、一筋の煌めきが流れ落ちる。

 伝わった。俺達の気持ちが、ようやく彼に。

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