表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/158

九十六.森の中を吹き抜けるような風の


 森の中を吹き抜けるような風の匂いがしたと思ったら、ふっと体が軽くなった。清涼な風が心臓から指先まで抜けて行ったような、そんな清々しさだ。

 うっすらと目を開けると、年季の入った石造りの天井が見えた。煤で黒く染まっている部分もある。身じろぎすると薄い旅用の寝具越しにごつごつした石の感触があった。


「あら、起きられました?」


 声のした方をベルグリフが見ると、エルフの女が腰を下ろしていた。

 たき火に鍋がかけられて、何か煮えているらしい、食欲をそそる良い匂いがした。

 ベルグリフは頭を掻き、手の平で軽くこめかみを叩いて意識を覚醒させた。


「確か……モーリンさん?」

「はい、モーリンでございます。よかった、霊薬が効いたみたいですね」


 モーリンはおどけるように笑って、鍋の中から何かつまみ出して皿に載せた。そうしてベルグリフの方に差し出す。

 湯気を上げているのは腕くらいの太さがあって、繊維が絡まったような見た目で、所々鮮やかに赤い変なものだった。磯の匂いがする。


「怪物蟹の塩茹でです。おいしいですよ」

「や、これはどうも……霊薬とは、まさかエルフの?」

「まあ、わたしの自作ですから、エルフのといえばそうですねえ」


 モーリンはくすくす笑って、自分も蟹の肉を頬張った。


「もぐもぐ……本領産並みの効果はありませんけど、外国産よりも効きはいいかなと」

「申し訳ない、貴重なものを……助かりました。どうもありがとうございます」

「いえいえ、困った時はお互い様ですよ。それに霊薬いっぱいあるんですよね。けど普段全然使わないから分けて持ってたの忘れてて……ホントにおいしいな、これ」


 そう言いながら、モーリンはまた鍋から蟹の肉を引っ張り出してはふはふ言いながら頬張っている。

 何だか掴みどころがない性格だ、とベルグリフは苦笑した。記憶の中のエルフの少女もそんな風だった気がする。他人に捉われない飄々とした気風はエルフには珍しくない特徴なのだろうか。そんな事を思う。


 いずれにせよ、本調子ではないにしてもだるさや辛さはもうない。残っている倦怠感は硬い床で寝ていたゆえのものだろう。


「魔獣はまだ来ているのですか?」

「さっき上がって来たのは撃退したみたいですよ。これがそうですから」と言って、モーリンは蟹の肉を指さした。「けど、もう大海嘯始まってるんでしょうかね? もう次の魔獣の気配がするみたいで、みんな『穴』の周辺で準備してますよ。まだ満月じゃないんですけどね」

「ふむ」


 ベルグリフは顎鬚を撫でた。すると、一緒に来た仲間たちも、モーリンの仲間らしい少年も、外にいるのだろう。モーリン一人、わざわざここに残ってくれた事がありがたくもあり申し訳なくもあった。


「すみません、ご迷惑を……」

「いえいえ、丁度いい休憩になりますし。けど凄いですね。色んな人に会って来ましたけど、親子で冒険者やってる人には初めて会ったかも知れません。はふはふ」

「いや、私は冒険者というわけではないんですが……」

「あれ? そうなんですか? マルグリット様の話では確か“パラディン”のグラハム様に教えを受けたとか。その剣もグラハム様の聖剣でしょう?」

「それはそうなんですが……なんと説明すればいいやら」


 ベルグリフは頭を掻きながら周囲を見回した。モーリンの他は誰もいない。アンジェリンは何処に行ったのだろうとか思う。そしてパーシヴァルは……。

 そう思いかけた時、仕切りの布がばさりとめくれて黒髪がひょいと覗いた。


「お邪魔するぞ」

「おお、ヤクモさん」


 黒髪を縛ってブリョウ装束に身を包んだヤクモは、にやりと笑って踏み込んで来た。その後ろからひょこりとルシールも顔を出した。


「お久しべいべ、ベルさん」

「調子が悪いと聞いとったが、どうやら心配はなさそうじゃの……いやはや、ご無沙汰しておりますのう、ベルさん」

「二人も元気そうで何より……ロベール卿の事は大丈夫だったかい?」

「うむ。自分の政争で手一杯みたいじゃったから、疑われもせんかったよ。おかげでたっぷり報酬をもぎ取ってやったわい。ふっふっふ」


 ヤクモは笑いながら腰を下ろした。そうしてモーリンに目を留めて不思議そうな顔をして首を傾げた。


「エルフ……? よもや昔の仲間だったという?」

「いや、彼女とは違うんだ。ここに来て初めて会ったんだよ」

「ふぅん、そう上手い話もないか」


 モーリンは相変わらず蟹を食いながらきょとんとしている。


「もぐもぐ……アンジェリンさんも言ってましたけど、エルフをお探しなんですか?」

「ああ、私が昔パーティを組んでいた相手がありましてね……サティというエルフの女なんですが」

「サティ、サティ……うーむ?」


 モーリンは何か考えるように視線を泳がした。ルシールがひょいと首を突っ込んだ。


「“覇王剣”のおじさん、来た?」

「パーシーか……あいつめ」


 まともに顔を見せる前に逃げるように去って行った旧友を思い出し、ベルグリフは苦笑した。どうにも自分はタイミングが悪い。具合の悪い有様を見せては、当てつけかと思われても仕方がないだろう。せめて話ができていれば。

 ルシールは首を傾げて耳をぱたぱた動かした。


「来てないの?」

「いや、来たよ。でも話をする前にどこかに行ってしまった」

「昔の人は言いました。友あり、遠方より来る、ああ楽しかった」

「どうかな……あいつは苦しんでたかい?」


 ヤクモが難しい顔をして腕を組んだ。


「あまり他人を寄せ付けん男じゃったからのう……儂は近づくのが怖かったが、そういう人間は往々にして悩み苦しみを抱いとるもんじゃ」

「違うよ。おじさんは寂しかったんだよ。ふぃーるろんり」

「寂しい、か」


 ベルグリフは目を伏せた。

 それは確かにそうなのだろう。ヤクモとルシールの話からすれば、パーシヴァルはずっと孤独だった筈だ。夢破れたとはいえ、故郷に帰って娘までできた自分はよほど恵まれている。パーシヴァルはまだあの頃に置き去りにされたままなのだ。


「……探しに行かなきゃな」


 立ち上がろうとしたベルグリフを、モーリンが慌てて制した。


「まだ駄目ですよ、霊薬がちゃんと体中に回るまで待たなきゃ。ぶり返しちゃいますよ?」

「む……」


 ヤクモがからから笑った。


「そう焦るでないよ、おんしらしくもないぞベルさん。それに、あやつも突然の事で心に整理がついておらんのかも知れんしの……しかし、本当に会いたいか?」

「……どういう事だい?」

「儂は正直不安じゃ。あの男は悲しみも大きかったが、時折憎しみを抱いているようにも思えた。時間というのは残酷じゃ、時には人の心を歪ませてしまう事もある……好意が一転して憎悪に変わるなんちゅう事も珍しくない。それに、人の心は微妙なもんじゃ。理屈じゃ分かっていても情が許さんという事もある」

「そうだな……俺もそう思うよ。でも、それでも会わなきゃいけない。心配してくれるのは嬉しいが……」

「そうか……いや、余計な事を言ってすまんの。しかし、“覇王剣”の事を教えたのは儂らじゃし……その、何となく放っておけなくてな」

「大丈夫だよ。ありがとうヤクモさん」


 ベルグリフは微笑んだ。ヤクモは下を向いて頬を掻いた。


「まったく……前も思ったが、一々難儀じゃのう、おんしらは」

「はは、すまないね……」


 過去と向き合う事は時として辛い。自分だってかつてはそうだった。足を失った事は悲しかったし、冒険者を辞めざるを得なかったのだって苦しかった。


 しかし、トルネラでアンジェリンを拾い育て、彼女が幾つもの出会いと再会を運んで来てくれた。目を背け続けて来た事に向き合う事ができたのも、娘のおかげだろう。だからこそ、自分は逃げずに向かって行かなくてはならない。そんな風に思う。

 ふと、それでアンジェリンの事を思い出してベルグリフは顔を上げた。


「そういえば、アンジェは……」

「アンジェリンさん? その、パーシーさん? ですか? お父さんのお友達を連れて来るって言って出て行きましたけど」

「……駄目な親父だな、俺は」


 また娘ばかりが頑張ってくれている、とベルグリフは情けなさに頭を掻いた。

 ルシールが手に持った楽器をちゃらんと鳴らした。


「えべしん、ごな、びーおーらい」



  ○



 肌にまとわりつくような闇だった。一歩歩くごとに肌を生温かいものが撫でるような気がした。ランプの明かりは心もとなく、ほんの少し先をかろうじて見通せる程度である。

 隣を歩くパーシヴァルは、時折怪訝な顔をしてアンジェリンを見た。


「……どうしてついて来た」


 アンジェリンはちょっとムスッとした顔でパーシヴァルを見返した。

 ずっと畏怖を感じていたこの男に、今は妙な苛立ちを感じた。お父さんがあんなに会いたがってるのに、どうして逃げるようにしてわざわざこんな所に来ているんだ、と思った。

 そうなると、もうパーシヴァルを目の前にしても委縮しない。むしろ睨み返すくらいの余裕ができた。


「お父さんが会いたいって……だから捕まえに来たの」

「……そうか」


 パーシヴァルは眉根の皺を深くしたまま前を向いた。

 またしばらく互いに無言の時間が続く。周囲に魔獣の気配がするものの、向かって来る様子はない。アンジェリンとパーシヴァルがピリピリしているのが、妙な闘気になって魔獣を寄せ付けなくなっているのかも知れない。


「パーシーさんはお父さんに会いたくないの……?」


 パーシヴァルはそれには答えず、黙ったまま少し足を速めた。アンジェリンもそれに合わせて早足になる。

 ごつごつした岩が靴越しに足の裏に感ぜられた。ちらと見上げる頭上も闇が包んでいる。そういえば、ここに飛び込んだ時霧のような雲のような、妙な靄を通り抜けたな、とアンジェリンは思った。


 不意にパーシヴァルが剣を抜いた。アンジェリンも即座に柄に手をやる。ざらざら、と地面をこするような音がしたと思ったら、大きく長い胴体に無数の足を生やしたムカデのような魔獣が暗がりから飛びかかって来た。

 しかしパーシヴァルはさらりと身をかわし、すれ違いざまに頭を叩き落とした。アンジェリンは胴体を真二つにする。戦いとも言えないくらい、一瞬で勝負はついた。また気配ばかりが濃くなっている。

 パーシヴァルはアンジェリンの方を見た。


「……やるな」

「……お父さんに教わったんだから、当たり前」


 ピクリ、とパーシヴァルは眉を動かした。


「ベルから……? カシムが言っていたが、まだ剣を振るっているのは本当だったのか」

「そう。お父さんはめっちゃ強いんだぞ……きっとパーシーさんよりも強い」

「そうか……」


 パーシヴァルは一瞬可笑し気に笑うと、不意に顔を歪めて匂い袋を取り出した。そうしてまた前を向いて歩き出す。

 アンジェリンは思わず呆けた。一瞬見せた笑顔は、確かに快活さの面影を感じさせるものだった。

 少し立ち止まっていたアンジェリンは、ハッとしたように足早にパーシヴァルに追い付くとマントの裾を掴んだ。


「パーシーさんは、ずっとここで戦ってたの?」

「……どれくらいかは忘れたがな」


 パーシヴァルは遠い目をした。過ぎた過去に思いを馳せるような顔だった。


「だが、結局ここにもいないんだろう……心のどこかじゃ分かっていたんだが、自分への言い訳をしたかったのかも知れねえな」

「……? 何がいないって?」

「ベルの足を奪った魔獣だ」


 アンジェリンはドキリとした。


「……その魔獣をずっと追いかけてたの?」

「ああ……初めは足を治す方法を探していたが、ベルがいなくなったと分かってからは、死んだものだとばかり思っていたからな。だからせめて復讐くらいと思っていたが……とんだ道化だ」


 パーシヴァルは自嘲気味に笑った。その笑顔はさっきのものとは全く違って、見ていて痛々しいように感じた。


「あいつの姿は今でも思い出せる。黒い影、四足の狼のような容姿……一番近かったのは魔王だが……あれが魔王の一種だったのか、まったく別種の魔獣だったのか、今となってはそれすら分からん」

「魔王……倒したの?」

「ああ。だが別に大した話じゃない。あの魔獣じゃなけりゃ魔王だろうが龍だろうが無意味だ」

「だから……ここで、ずっと?」

「言っただろう。結局自分への言い訳だ。何もしてなかったって言いたくなかっただけだ」


 アンジェリンはくっと唇を結んだ。エストガル大公家でカシムと一触即発になった時も、同じような事を言っていた気がする。

 パーシヴァルは立ち止まって大きく息をついた。再び匂い袋を取り出して口元に当てる。


「……だが、ベルが現れた今、俺は……」


 二人はしばらく黙ったまま歩いて行った。時折魔獣が現れたが、無言のまま切り伏せられた。アンジェリンは剣に付いた血を振り払い、鞘に収める。


「『穴』の中ってもっと凄いのかと思ってた……外があんなに凄いのに」

「場所による。この辺りはもう……見えて来たぞ」


 パーシヴァルがずっと先を指さした。その先に白く、真っ直ぐに屹立したものが見えていた。

 目を細めて見ると塔のようだった。塔自体が光を放っているのか、その周辺だけが妙に明るく、ごつごつした岩肌が照らされて見える。塔自体は白いレンガ造りらしく、周囲の景色から切り離されて奇妙に浮かび上がるように見えた。

 遠目には細く小さく見えた塔だったが、近づくと中々の大きさがある事が分かった。


「ここは……」

「ア・バオ・ア・クーの住処だ。この周辺には他の魔獣も近づかん」


 パーシヴァルはそう言うと、扉のない入り口を潜った。アンジェリンも慌ててその後に続く。

 中はがらんどうだった。遥か上に天井があるらしいが、高いから分からない。壁に沿ってらせん状になった階段が伸びていて、ずっと上まで続いていた。すべて白いレンガで造られていて、それがみんな淡い光を放っているらしかった。

 パーシヴァルがアンジェリンを見た。


「ここで待ってるか?」

「やだ」

「……そうか」


 パーシヴァルはアンジェリンの肩を掴んで、階段の壁側に立たせた。匂い袋のものだろう、爽やかな不思議な匂いがした。


「いいか、後ろを向くな。何かの気配がしても見るな」

「え、うん……どういう事?」

「行けば分かる。屋上に着くまで前の階段だけ見てろ」


 そう言ってパーシヴァルは歩き出した。アンジェリンもその隣を行く。

 白いレンガは光を放っているせいか変にのっぺりしていて、油断すると見当違いの所を踏んで転びそうな気がした。

 ふと、カシムの事を思った。追い越すようにして自分が先に穴に飛び込んだが、カシムはどうしたろうかと思う。恐らく飛び込んだ筈だが、着地した先には現れなかった。

 パーシヴァル曰く、『穴』の中は空間が歪む事もあり、同じ場所から入っても別の場所に飛ばされる事もあるそうだ。


「カシムさん、どうしたかな……」

「さあな。まあ、あいつなら何とでもなるだろう」


 パーシヴァルは素っ気ない。しかしその裏側に本当に何とかなるだろうという信頼感が透けているように感じた。


「……カシムさんの事、信頼してるんだね」

「そういうわけじゃないがな。何とかなるって分かってるだけだ」


 それが信頼っていうんじゃないのかな、とアンジェリンはくすくす笑った。何だか、最初に感じた威圧感がちっとも怖いものではなくなって来たようだった。

 パーシヴァルは怪訝な顔をして横目でアンジェリンを見た。


「なんだ」

「ふふ……ねえ、パーシーさん。お父さんはどんな冒険者だったの?」

「ベルか……慎重で、臆病で、冷静な奴だった。あいつからは多くを学んだよ。剣で負けた事は一度もねえがな」


 アンジェリンは少し面白くなさそうに頬を膨らました。


「今ならお父さんも負けないもん……」

「随分ベルにゾッコンだな。お前、母親は誰だ? あまりベルには似ていないな」

「わたしは拾われっ子なの……だからお父さんしか知らない」

「……そうか」


 不意に、斜め後ろ側に妙な気配がした。

 咄嗟に振り向こうとしかけたアンジェリンの肩を、パーシヴァルが掴んで押し留めた。


「見るな」

「で、でも……」

「屋上まで我慢しろ。今振り向くと襲って来るぞ。そうなると勝ち目はねえ」

「……ア・バオ・ア・クーって、どんな魔獣なの?」

「透明だ。この塔を上る者にぴったり付いて一緒に上って来る。上に上がるほどに実体が現れ、屋上で完全に姿を現す。途中で振り向くと襲って来るが、完全に実体化していない場合は、こちらの攻撃はすべて通らん」

「……魔法も?」

「魔法もすべてだ」


 ゾッとした。そんな相手、勝てる筈がない。

 硬くなった表情のアンジェリンを見て、パーシヴァルはくつくつと笑った。


「そう怖がるな。屋上まで上がれば攻撃は通る。そうなれば単なるSランク魔獣と変わらん」

「そっか……よかった……」


 アンジェリンは胸を撫で下ろした。しかし、どうしてパーシヴァルはそんな事を知っているんだろう。


「パーシーさんは、戦った事あるの?」

「ある。だが最初は死にかけた。攻撃の通じない相手と、この悪い足場で延々とやり合うんだからな」

「ど、どうして助かったの……?」

「勝てないと諦めて、一目散に逃げた。まだそれほど上がっていなかったから階段からぎりぎり飛び降りられたからな。塔から出れば追っては来ない。満身創痍だったが……」


 パーシヴァルは懐かしむように目を細めた。


「意地を張らず勝てない相手からは逃げる、ってのを教えてくれたのはベルだったかも知れん。俺もカシムも突っ走るタイプだった。戦ってりゃ勝てると本気で思ってた」

「サティさんも?」

「サティの事も知ってんのか……そうだな。自分の腕に自信があった。俺たち三人はそうだった。ベルは俺たちが持つものは持っていなかったかも知れんが……俺たちにないものは全部持っていた。戦闘の実力だけが冒険者の価値じゃない、ってのを体現した男だったな」


 段々と背後の気配が濃くなって来るから、アンジェリンは何となく落ち着かないような気がしたが、パーシヴァルの思い出話が気になって、振り向こうなどとは思いもよらなかった。

 そんなに温かな思い出があるのに、どうしてパーシヴァルはこんなに悲しそうなのだろう。折角、その思い出の中の友人と再会できるというのに、どうして足踏みするんだろう。

 アンジェリンはそれが分からず、じれったい思いでパーシヴァルのマントを握りしめた。


「お父さんに会ってよ、パーシーさん……」

「……ここから無事に戻れたらな」

「約束だよ? お父さん、会いたがってるもん」

「ははっ……恨み節でも用意してんのかね、遠路遥々……」

「――ッ! お父さんはそんな人じゃないよ!」


 自分でも思った以上に大きな声が出たので、アンジェリンはびっくりした。

 パーシヴァルは横目でアンジェリンを見た。ほんの少し、愉快そうに口端が上がっていた。


「……拾われっ子でも、確かにお前はベルの娘だな」

「似てる……?」

「さあ? 似てるってのとは違うが……ベルの娘って感じがする」


 アンジェリンは口をもぐもぐさせて視線を泳がした。背中の方からかぶさって来る気配が鬱陶しいように思う。


「……いっぱい話したい事あるよ。思い出も、それぞれ何してたかって事も。ここまでの旅でも、色んな事があったんだよ、パーシーさん」

「だろうな。正直、ベルがここまで来るとは驚いた……大した奴だよ」


 パーシヴァルは腰の剣の位置を直した。


「あいつは前を向いて歩いていたって事だ。俺は……それができなかった」

「そんな事ない……だってパーシーさん、すっごく強い。それだけ頑張ったって事じゃないの?」

「大事なのは誰の為の努力だったかって事だ。結果だけでどうこう言うのはいくらでもできる。ベルの為だと思って来たが……俺は結局」

「……自分で自分を責めたって仕様がないと思う……それこそ誰の為なの?」

「さてね……話は終わりだ。着くぞ」


 いつの間にか随分高い所まで来ていた。見上げた先に天井があって、階段はその上まで続いている。背後の気配はいよいよ濃くなり、鳥肌が立つような不気味な呼吸の音や、生温かな吐息を耳の後ろに感じた。

 最後の一段に足を置いた瞬間、パーシヴァルがアンジェリンの手を掴んで引っ張った。


「跳べ!」


 ぐん、と踏み込んで跳躍する。最上階、屋上の床を踏むと同時に剣を抜いて振り返る。


 奇妙な生き物がいた。毛を抜かれた鼠のような容姿で、しかしアンジェリンよりも遥かに大きい。顔には大小の目が左右非対称にあって、それがぎょろぎょろ動いている。

 牙は長く鋭く、手足の先にも鉤爪があった。しかし後肢は大きく、二足がしっかと地面を踏んでいる。前足はさながら腕のように動かせるらしく、鋭い鉤爪が武器になる事は一目瞭然である。ピンク色の肌にはうっすらと産毛が生えているらしく、さながら桃の肌を思わせるようであった。


 ア・バオ・ア・クーは顔を上げて何か叫ぶような格好をした。しかし想像したような金切り声は聞こえて来ず、まるで衣擦れを思わせるような、微かで、淡い鳴き声を発したのみであった。


「分かれるぞ。爪は二度来る。気を付けろ」

「二度? それって」


 アンジェリンの言葉を待たず、パーシヴァルが左に跳んだ。アンジェリンは即座に右側に行き、魔獣を挟むように位置取った。

 ア・バオ・ア・クーはぎょろりと一瞬二人をそれぞれに見据えてから、アンジェリンの方に跳んで来た。速い。鎌のように湾曲した爪が振るわれた。

 アンジェリンは落ち着いたまま小さく後ろに身をかわした。だが、妙な悪寒に捉われ、咄嗟に剣を体の前に出すと、爪が通り過ぎた後なのに、剣に衝撃が走った。


 魔獣の後ろから飛び込んで来たパーシヴァルが、ア・バオ・ア・クーの右腕を肩から斬り落とした。魔獣は微かな声を上げて後ろへ飛び退った。

 アンジェリンは不満そうに口を尖らしてパーシヴァルを見た。見えない斬撃とは聞いていない。


「二度って……もっとちゃんと言ってよ」

「甘ったれんな。俺はお前の親父じゃねえ」


 パーシヴァルは剣を構え直し、飛び退ったア・バオ・ア・クーを追って地面を蹴った。アンジェリンもその後を追う。

 言葉を交わすわけでもないが、パーシヴァルが行くのと逆側に足を向け、魔獣を挟んで向き合った。一瞬だけ目を合わせ、同じタイミングで踏み込む。


 不意に、ア・バオ・ア・クーの姿が陽炎のように揺れた。アンジェリンは目を細めて、それでも横なぎに剣を振るう。剣は魔獣の胴体を寸断し、向かいからパーシヴァルが振るった剣は首を跳ね飛ばした。

 おかしい。呆気なさすぎる。


「終わり……?」

「……! 違うな。いるぞ」


 咄嗟に二人は背中合わせになって剣を構えた。

 周囲からチッ、チッ、と何かが地面をこするような音が聞こえる。それは二人の周囲を回るようにして、少しずつ近づいているように思われた。


「なんの音……?」

「爪が地面を引っかく音だ。感覚を研げ。視覚に頼るな」

「……透明なの? さっきのは幻?」

「そうだ。だが階段で戦うのと違って攻撃は通る。取り乱すんじゃねえぞ」

「余裕……確認しただけ」


 アンジェリンは油断なく柄を握る手に力を込めながら、少しずつ近づいて来る音に集中した。音がぶれ、変に重なったように聞こえた。衣擦れのような音がした。パーシヴァルが舌を打った。


「二体いやがる……前と違うぞ」

「……一人一体。丁度いい」

「ははっ! ベルの娘とは思えねえくらい強気だな。そっちはお前がやれ」


 パーシヴァルが地面を蹴るのと同時に、アンジェリンも前に踏み出した。見えないが、気配が迫る。アンジェリンは剣を振り上げて受け止める。


「もう一撃……!」


 手に力を込めた。一度受けて押された剣に再び衝撃が走る。それを耐え、ぐんと押し返した。

 よく見れば完全な透明ではない。光を放つ白いレンガの上で、陽炎のようにもやもやしたものが動いていた。

 動きはかなり速いが、捉えられないほどではない。数多くの魔獣を討伐して来たアンジェリンの瞳が、ア・バオ・ア・クーのわずかな姿を正確に追った。


「――そこっ!」


 体を捻り、つま先の踏み込みと肩の回転で鋭く突き込む。剣の切っ先はア・バオ・ア・クーの動きに合わせたように的確にその胸を刺し貫いた。魔獣は微かな悲鳴を上げて、後ろ向きに倒れた。


 アンジェリンが息をついた時、ア・バオ・ア・クーの心臓辺りから不意にまばゆい輝きが溢れ出た。驚いて剣を構え直したが、光はやがて小さくなり、手の平くらいの小さな光る塊になって床に転がった。

 大きく息をつく。神経を張りつめたままだったので、動いた以上に疲労を感じた。一人だったら危なかったかも知れない。肩を並べると、パーシヴァルの頼もしさは尋常ではない、と感じた。


 アンジェリンは後ろを見返る。パーシヴァルも上手い具合に片付けたようだが、こちらのように光る塊は落ちていなかった。

 パーシヴァルが剣を収めて振り返った。


「……二匹じゃなくて分身だったらしいな。そっちが本物か」

「そうみたい……これが魔力の結晶?」

「そうだ。お前が持っておけ」

「駄目。パーシーさんがお父さんに渡して」

「……頑固だな。しかし良い腕だ。誰かと肩を並べて戦うのは久しぶりだが……大したもんだな」

「だってわたしは”赤鬼”ベルグリフの娘だもん……」

「ふん……似てねえのに、確かに娘って感じがするからな。おかしなもんだ……赤鬼?」


 魔力の結晶を懐にしまいながら、パーシヴァルは怪訝な顔をして首を傾げた。


 その時、下の方から誰かが階段を駆け上がって来る音が聞こえた。二人は咄嗟に剣の柄に手をやったが、現れた顔を見て手を放した。カシムが息を切らして立っていた。


「魔法使いを一人置いて行きやがって……ふざけんなよ、お前ら!」

「うるせえ。現に平気だったんだからいいだろうが」

「もー、なんで君は昔っからそうガサツなんだよ! それにアンジェ! 驚かせやがって、足が止まっちゃったじゃないか。おかげでタイミング外して空間軸がずれちゃったよ!」

「ふふ、ごめんね……でもカシムさん、よくここが分かったね」

「魔力感知で追っかけて来たんだよ。でもここ他の魔力の気配がデカすぎるし、すっごく大変だったんだからね! もうくたくただよ!」


 カシムはそう言って怒ったように床を足で叩いた。サンダルがぺちぺち鳴った。パーシヴァルは面倒臭そうに腕を回してこきこきと音を立てた。


「そりゃご苦労。だが用事は終わった。帰るぞ」

「もー、あったま来た! パーシー! ベルときちんと話するまで絶対逃がさないからね!」

「……元より逃げられそうもねえからな」


 パーシヴァルはそう言ってちらりとアンジェリンの方を見た。

 アンジェリンはにんまりと笑ってパーシヴァルのマントを握りしめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ