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九十四.息苦しさに思わず目を


 息苦しさに思わず目を開けた。まだ熱は引いていないらしい、朦朧とした視界に石造りの天井が飛び込んで来た。何処にいるのだか分からなくなったが、少し考えて『大地のヘソ』にやって来たのだという事を思い出した。


 突如として幻肢痛が疼き出した。

 ベルグリフは驚いて跳ねるように上体を起こした。額に乗せられていた濡れ手ぬぐいが滑り落ちた。

 ある筈のない右足が焼けるように痛む。ここ数年はほんの一瞬蘇るばかりだったのだが、今回のは強力だ。思わず義足を握りしめる。


「ぐ……ぅ……」


 熱のせいか視界が変に歪む。頭が締め付けられるようで、ぐわんぐわんと奇妙な音が耳の奥で鳴り響いた。


「ベル殿!」


 窓辺で外を見ていたらしいダンカンが慌てたようにやって来て、ベルグリフの背中をさすった。


「如何いたした……」

「……いや、大丈夫だ。すまない……」


 額に浮いた脂汗を落ちた手ぬぐいで拭い、大きく息をつく。幻肢痛は去ってしまえば何もなかったかのようだ。これが鎌首をもたげると、自分には右足がないのだと嫌でも思い出させられる。


 建物の中はがらんとしていた。たむろしていた冒険者たちの姿はほとんどない。

 代わりに窓の外は騒がしいようだ。何やら戦いが起こっているらしい。魚のものらしい生臭ささが漂って、何だか異様な雰囲気になっている。


「何か起こっているのか……?」

「魔獣が現れたのです。あれは噂に聞く龍鯨バハムートかと」

「バハムート……」


 安穏と寝ている場合ではない、とベルグリフは立とうとしたが足に力が入らないから諦めた。不甲斐なさに舌を打つ。


「カシムたちは……」

「魔獣がかなり近くまで来ておりますからな、出て戦いに行き申した。某はここを任されましたので……ベル殿、具合は如何ですか? 苦しそうでしたが……」


 ベルグリフは弱弱しく笑った。


「いや、大丈夫だよ。ちょっと悪い夢を見ただけさ……アンジェも行ったのか?」

「アンジェ殿は食べ物を探して来ると出て行かれたまま戻られておりませんが……そのまま戦いに行かれた可能性もありますな」

「そうか……」


 ベルグリフは頭痛を感じて再び体を横たえた。

 必死になって読み込み、頭に叩き込んだ魔獣の図鑑の事を思い出す。バハムートはSランクの魔獣だという。実際に高位ランク冒険者ばかりが揃っているというこの場所で、未だ戦いが終わらないくらい強力なのだろう。

 アンジェリンならば心配は要らないだろうと頭では思っても、やはり落ち着かない。しかし、こんな体の自分が出て行って何ができるだろう。

 その時石の床を踏んで駆けて来る音が聞こえた。


「うわ、全然人がいねえ! あっ、ダンカン!」

「おお、御三方。ご無事でしたか」

「市場の方は何ともないですよー。こっちもまだ平気そうだねー」

「あれ、カシムさんは?」


 アネッサが辺りを見回した。ダンカンが戦斧を床についてもたれた。


「カシム殿とイシュメール殿は戦いに。某はベル殿の事を任されまして」

「ベルさん、具合は……ああ、いいですよ起きなくて」


 ごそごそと起き出そうとするベルグリフを制して、アネッサが手ぬぐいを水で洗って絞り直してくれた。ベルグリフは大きく息をつく。


「すまん。まだ動けそうにない……」

「なんだ、だらしねえなあ。おれも行くぜ。Sランク魔獣なんて面白そうだ」

「わたしたちはどうしよっか、アーネ」

「んむ……」


 視線を泳がせるアネッサに、ベルグリフは話しかけた。


「二人とも、マリーを見ていてもらっていいかい? 危なっかしいから……」

「あ! またそういう事を言いやがって!」


 頬を膨らませるマルグリットに、アネッサとミリアムはくすくす笑った。


「分かりました。行こう、二人とも」

「うん。アンジェもいるかもねー。合流しないと……」

「ったく、退屈しなくていいけど、ちょっとくたびれるぜ……」


 三人が足早に出て行き、再び遠い喧騒が聞こえるばかりになった。

 ベルグリフは再び横になり、目を閉じた。こんな時に動けない自分が嫌に情けなかった。だが体は素直に休息を欲している。

 やがてまどろんだと思うと、ベルグリフは再び眠りに落ちて行った。



  ○



 バハムートの方からきらきら光る水滴のようなものが飛び散らかったと思ったら、誰かが「まずい! よけろ!」と叫んだ。

 アンジェリンは咄嗟に身をよじり、凄まじい勢いで剣を振るって水滴を打ち払った。思わず腕に力が籠る。握りこぶしくらいの透明な水滴は、まるで鋼のように固かった。アンジェリンでも斬り裂けないところを見ると、かなりの魔力が込められているようだ。あちこちでまともに食らったらしい連中の悲鳴が聞こえた。

 何とか水滴を打ち払ったアンジェリンは、後ろを見返った。


「ルシール、大丈夫?」

「どんうぉり」


 ルシールは獣人らしいしなやかな身のこなしで攻撃をかわしていた。アンジェリンはホッと胸を撫で降ろし、空に浮かぶバハムートを睨み付けた。既に魔法や矢による攻撃を食らっているにもかかわらず、空飛ぶ巨大な魚は悠然と空気の中を泳いでいた。

 何やら魔力による障壁をまとっているらしく、生半可な攻撃では通用しない。空を飛んでいる為、剣士たちでは手が出せずに、水滴から魔法使いや射手を守るのが精いっぱいだ。


「ずるいぞ、飛ぶのは……」


 アンジェリンは口の中でぶつぶつと文句を言い、それでも剣を構え直した。

 バハムートはゆっくりと、しかし確実にあの石造りの建物の方に向かっている。

 ベルグリフの事が頭をよぎる。まだ治ってはいないだろう。


「……お父さんはわたしが守る」


 決して楽観できる状況でもないのに、何故だか口元には笑みすら浮かんだ。


「障壁が厚い! 一点狙いで一斉に行くぞ! 合わせろ!」


 誰かが大声を出して、何か詠唱を始める。見ると、さっき話したトーヤという若者が剣の先でバハムートを差していた。よく通る声だ。ばらばらだった冒険者たちの動きが、たちまち揃った。

 リーダー向きの性格なんだな、と感心し、同時に魔法使いなのに剣? とアンジェリンが首を傾げている間に、周囲の魔法使いたちが一斉に大魔法の準備を始め、射手始め遠距離攻撃を持つ者たちが武器を構えて魔法のタイミングを待つ。流石に百戦錬磨揃いだ。咄嗟の一斉攻撃にも即座に対応している。


 今にも攻撃が放たれるというその時、バハムートの口が開いた。まるで地の底から響いて来るような、背筋がびりびりと震える咆哮が耳に刺さった。目の前が揺れるようだ。

 射手たちはこらえきれずに耳を塞ぐ。集中した魔力が掻き消され、詠唱が無理矢理中断された。魔法使いたちは顔を歪めて歯噛みした。


「くそっ……」

「焦るな! まだ勝機はある! 障壁も無限じゃない! 同じ場所を狙って攻撃を!」


 トーヤはまるでめげる事無く、鼓舞するように剣を振るった。再び降り注ぐ水滴をあしらいながら、冒険者たちはバハムートの下を行き交った。

 アンジェリンは足を踏ん張って、バハムートを睨む。その肩を誰かが叩いた。振り向くとカシムが立っていた。


「ほれほれ、あれ相手じゃ剣士はお呼びでないよ。しっかし参ったね。来て早々あれが相手とはついてないなあ」

「カシムさん……」

「いいから下がってな。ん? ありゃ、ワンコ。お前いたの?」

「お久しべいべ、カシムさん……どうするの?」

「さーてね。ベルがいりゃいい策をくれそうなもんだけど……ま、相当分厚い魔力のコーティングがありそうだから、あの若いのの言う通り一点に集中して攻撃するのがいいかもね」

「けど大魔法の詠唱を始めたら魔力を掻き消す咆哮、そうでなくてもこの水滴じゃ攻撃する暇がないんじゃありませんか?」


 さらに別の声がした。見るとアネッサがいた。ミリアムとマルグリットもいる。

 ミリアムが「わあ」と言って駆け寄って来た。


「ルシールだ! 久しぶりー!」

「オッス、ミリィにゃん……アーネも」

「はは、元気そうだな。ヤクモさんは……?」

「誰だよ? おれ知らないぞ、紹介してくれよ――うわっと」


 マルグリットの足元に水滴がめり込んだ。地面に落ちると、水滴はさっきまでの硬さが嘘のように溶けて、ただの水になって地面に広がる。

 カシムが山高帽子を押さえて笑った。


「暢気だねえ、お前らは。ま、話は後だよ。今はともかくあれを何とかしなきゃ……」


 カシムがそう言いかけた時、バハムートの背中の方から何かがわらわらと現れた。小さい、といっても大人くらいの大きさのある種々の魚である。本来水を掻く筈のひれは空気を掻き、開いた口に鋭い牙が見えた。

 飛ぶ魚たちはバハムートを中心に衛星のように回りながら、不規則な動きで冒険者たちに襲い掛かった。降り注ぐ水滴に加えて、この予想外の強襲に冒険者たちは浮足立ったが、すぐさま体勢を整えて迎撃に入った。しかしこのままではバハムートを攻撃するどころではない。

 牙を剥き出しにしてかかって来た魚を、アンジェリンは一太刀で切り伏せた。しかしその後からまた別の魚が向かって来る。


「数が……痛ッ!」


 小さな水滴が太ももを打った。どうにも集中力が散らされていけない。アネッサにしても弓を構える暇もなさそうだし、ミリアムも魔力を集中する前に魚や水滴に阻まれている。マルグリットは危なげなく戦ってはいるが、バハムートに対しては為す術がなさそうだ。


 このままではあの建物まで到達するのは時間の問題だ。冒険者たちとしても大海嘯が始まってもいないのに拠点を潰されるのは堪らないらしい、何とか動きを止めようとしているが中々功を奏さない。

 ジリ貧だ、とアンジェリンは口を結んだ。カシムの方を見返る。


「カシムさん、大魔法撃てる……?」

「撃てるけどね、他の連中を巻き添えにしないくらいの調整なら……一分だな。まあ、あの咆哮が来なけりゃだが……」


 と言いかけたカシムは、不意に怪訝な顔をして後ろを振り向いた。アンジェリンも思わず背筋を震わせる。異様な威圧感がのしかかって来た。

 自然と人が左右に寄って道ができた。

 そこを獅子のような男がゆっくりした足取りで歩いて来た。さっき表の通りでぶつかった男だ。しかし、その威圧感は先ほど感じたものの比ではない。強者に、というよりはまるで怪物に出くわしたような気配だ。アネッサ、ミリアム、マルグリットの三人も、凍り付いたように棒立ちになって男を見ている。


 男はアンジェリンたちを一瞥もせずに脇を通り過ぎ、バハムートの方へと近づく。

 カシムが呆然としたように両手をだらんと垂らした。


「……パーシー?」

「え? え?」


 アンジェリンは困惑して男の後ろ姿を眺めた。枯草色の髪の毛が獅子のたてがみのように跳ね散らかっている。

 ルシールが袖を引っ張った。男の方を指さす。


「あれが“覇王剣”のおじさん」

「嘘……! あれが?」


 心臓が激しく胸を打った。あんな怪物みたいな人がお父さんの昔の友達?


 パーシヴァルは腰の剣を抜いた。そうして勢いよく足を踏み込むや、割れるのではないかと思うくらいに地面を蹴って、矢のような勢いで飛び上がった。かかって来た魚の頭を踏み付け、さらに高く跳躍する。魚たちがさらに向かって行くが、男はそれらを足場にしながらまるで宙を駆けるようにバハムートへと向かって行き、悠然と泳いでいた龍鯨の腹に、片刃の長剣を勢いよく突き刺した。

 バハムートが咆哮した。魔法を打ち消す攻撃の咆哮ではない、苦悶の声だ。冒険者たちがどよめいた。


「あ、あいつ……バハムートの障壁を貫きやがった!」

「なんて野郎だ……あの距離じゃ魔力障壁でボロボロだろうに……」


 パーシヴァルはすとんと着地した。頬や額にも傷があるが、ちっとも堪えた様子はない。マントは何か特殊な素材でできているのか、それとも魔力のコーティングがあるのか、ちっとも傷ついていなかった。パーシヴァルは頬を伝う血を指先で拭うと、再び剣を構え直す。


「はは……ははは! おい、パーシー!」


 カシムが怒鳴った。パーシヴァルはピクリと肩を動かし、顔だけ振り向いた。


「……誰だ?」

「なんだよ、オイラを忘れたの? 薄情な奴だなあ!」


 パーシヴァルはしばらく怪訝そうな顔をしてカシムをじろじろと見ていたが、やにわに驚愕したように目を見開いた。


「……カシム?」

「へへ、久しぶり! ゆっくり話がしたいけど、まずはそこの邪魔モン、片付けちまおうぜ!」


 カシムは腕を上げてバハムートを指さす。魔力が渦を巻いてカシムの長い髪の毛を揺らした。パーシヴァルは困惑した様子で、懐から匂い袋を出して口元に押し当てた。そうして剣を握り直してバハムートを見上げる。


 アンジェリンは少しはらはらした気分だったが、今はそれどころではない。同じように剣を握り、前に踏み出した。パーシヴァルの横に並ぶ。

 パーシヴァルは怪訝な顔をしてアンジェリンを横目で見た。アンジェリンはそれを感じながらも、そちらを見ないようにしてバハムートを睨んだ。強者であるがゆえに、感じた事のない痛みに戸惑っているのだろう、バハムートは咆哮するでもなく、ゆるやかに身をよじらせている。水滴も魔力を失ったのか、柔らかく肌を打つばかりだ。


「……一点狙い」

「ゴホッ…………カシム! 叩き込め!」


 パーシヴァルが怒鳴った。後ろからカシムの魔法が飛ぶ。細く、鋭く、さっきパーシヴァルが付けた傷に直撃した。バハムートが苦し気に身をよじらせる。

 パーシヴァルが跳んだ。

 遅れまいとアンジェリンも、ぐん、と足を踏み込んだ。地面を蹴り、向かって来る魚の頭や背を蹴り、瞬く間に空中へと跳び上がる。


 アンジェリンは剣を両手で持ち、切っ先をバハムートに向けたまま後ろに引く。

 ある地点から、まるで水の中に飛び込んだような抵抗を感じた。鋭く、濃い密度の魔力がびしびしと肌に当たり、服や肌を傷つける。

 魔法や矢の威力を軽減したのはこれか、とアンジェリンは目を細めた。しかしダメージを受けたからか、弾かれるほどではない。


「はあああああっ!!」


 気合と共に剣を突き込む。カシムの魔法が広げた傷に剣は易々と吸い込まれた。刃の先から迸る魔力が、その刀身の長さ以上にバハムートを貫き、肉を断ち内臓を引き割く。

 横目で見ると、パーシヴァルの剣もバハムートに突き立っていた。

 耳をつんざくような咆哮が水音で途絶え、バハムートの体が傾いた。

 アンジェリンは逆さまにバハムートの体を蹴り、強引に剣を引き抜いて地面に降り立った。わあと歓声が上がる。しかしアンジェリンは目を細めてバハムートを見た。


「まだ……?」


 バハムートはぐらつきこそしたが、大きなひれをバタつかせて体勢を整えている。目に怒りの炎が燃え、血の滴る大きな口を開けた。魔力が凝縮して行くのを感じる。

 誰かが叫んだ。


「やべえ、大魔法が来るぞ! 防御魔法!」


 魔法使いたちがハッとしたように魔法の展開を始める。バハムートの口に魔力が固まり、輝きを増して行く。

 その時パーシヴァルが再び跳び上がった。魚たちを蹴るようにして高度を上げ、たちまちバハムートの高さに並んだと思うや、その顎を蹴り上げた。口の中に溜まっていた魔力が暴発し、バハムートの口はずたずたになった。

 百戦錬磨の冒険者たちも、これには呆気に取られてぽかんと上空を見たままになってしまった。


「おいおい……冗談だろ?」

「あの状況で飛び込むかよ、普通……」


 不意に、上の方から声がした。


「危ないですよ。下がってください」


 見上げた。エルフのモーリンが浮いていた。銀髪が魔力の奔流になびいている。


『力は天に満ち 白は黒 黒は白 形を持って星の根に唄う』


 モーリンは掲げていた両手を振り下ろした。空から低い音がしたと思ったら、巨大な火の玉が落っこちて来てバハムートの背中に直撃した。

 ミリアムが帽子を押さえて呟いた。


「星落とし……凄い……」


 魔力の星の直撃を食らったバハムートは、断末魔の声を上げると急降下を始めた。アンジェリンは周囲を見回して叫ぶ。


「落ちて来る! 逃げて!」


 冒険者たちは、我に返ったように武器を収めて龍鯨から距離を取った。

 バハムートは大きな口からごぼごぼと血を溢れさせ、まるでもがくようにひれを動かしたと思ったら、横向きになって地面に落っこちた。地響きがし、足が地面から浮き上がるようだった。


 大仰な音の後の沈黙が一瞬、それから歓声が上がった。

 アンジェリンは安堵して大きく息をつき、頬から流れる血を指先で拭った。ミリアムが駆けて来てアンジェリンに抱き付いた。


「凄いよアンジェー! ビックリした!」

「ちょ、ミリィ、血が付くよ……」


 アンジェリンは顔を逸らしながら、それとなくパーシヴァルの姿を探した。


 パーシヴァルは少し離れた所に立っていた。剣を鞘に収め、妙に落ち着かない様子で手を握ったり開いたりしている。

 そこにカシムが歩み寄って声をかけた。よく聞こえないが、何か話している。カシムは嬉しそうだが、パーシヴァルは困惑の方が先に立っている様子である。久々の再会なのに、笑う気配もない。


 何となく不穏なものを感じながら、アンジェリンは口をもぐもぐさせた。


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