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九十三.山脈の行軍は一週間ばかり


 山脈の行軍は一週間ばかり続いた。悪路に加えて荒涼とした土地柄であり、水の確保に何度か悩んだ。しかし何とか湧水や川を見つけ出し、時には木の根をかじって渇きを癒した。


 次第に漂う魔力が濃くなり、あからさまに異様な雰囲気が漂い出していた。

 生えている植物さえもまったく質が違うように感ぜられる。何かの視線を感じるような気がして、そちらに目をやると小さな花を咲かしたスミレがあった、などという事もしばしばだった。


「そっち! 後ろに行った!」


 アンジェリンはそう怒鳴って、向かって来たもう一匹に剣を振るった。しかしそれはたちまち足を止めて飛び退り、アンジェリンの剣を事もなげにかわした。魔獣は嘲るような挑発するような、おかしな調子で吼えた。真っ赤な体毛を持つ獅子で、尾が蠍のものになっている。マルティコラスという魔獣だ。

 すでに体にアネッサの放った矢が幾本も突き立っているのに、この魔獣はちっとも勢いを衰えさせずに向かって来た。魔法をかわされたミリアムが悔しそうに杖を振る。


「くそー、すっごいすばしっこい……!」

「参りましたね……一匹でも面倒なのに三匹とは」


 イシュメールの脇に浮いた魔導書が淡い光を放っている。後ろに回って来た個体はマルグリットが剣を振るって追い払った。


 頭の良い魔獣だ。力を過信して闇雲にかかって来るのではなく、一定の距離を保ちつつこちらが疲弊するのを待っている。アンジェリンは歯噛みして剣を構え直した。


「カシムさん、どうにかならない……?」

「さーて……どうするかね。下手に大魔法打ってもかわされそうだしね。負けはあり得ないけど、時間かかるかな、こりゃ」

「一匹ずつ仕留めるしかない」


 ベルグリフがそう言った。


「見ていたが、攻撃する時は必ず連携して来る。一対一ならば勝機は十分ある」

「けど、こっちから攻めると距離を取って三匹揃って向かって来ますよ」とアネッサが言った。

「だからだ。こっちから一斉に一匹ずつにかかって合流させる暇を与えない。アンジェ、あの矢が突き立っているのはお前が押さえなさい。片目のない奴はカシムとマリーに任せる。あとの全員で残り一匹をやろう。行くぞ」


 言い終わるや否やベルグリフは大剣を握り直すと地面を蹴った。ダンカンが後に続き、アネッサ、ミリアム、イシュメールの三人が援護の構えを取る。マルグリットも風のような素早さでマルティコラスに飛びかかり、カシムの周囲で魔力が渦を巻く。


 アンジェリンは口端を上げ、残り一匹に向かい合った。

 守勢だった人間が一転攻勢に出たので、マルティコラスたちもやや驚いているようだ。完全に間を塞がれて合流する事もできないらしい。

 確かに、二匹相手では辛いような気がしたが、こうやって一対一ならば負ける気など欠片もしない。逃がしもしない。


「散々からかってくれたな……!」


 状況の変化に加え、アンジェリンの闘気に冷静さを欠いたらしい、マルティコラスは吼えると鋭い爪をきらめかせて飛びかかって来た。

 アンジェリンはすうと息を吸って、軽く地面を蹴る。

 二太刀。

 振り下ろされた獅子の腕と頭とが、体と分かれて地面に転がった。


「……一対一ならなんて事ない」


 目をやると、他の二匹も仕留められていた。仮に仕留めきれなければ散らばるのは却ってリスキーだったが、相手の虚を突いたのと実力者揃いだったのが幸いした。


 三匹に周囲を取り巻かれて、攻めようとすると直ぐに逃げて二匹や三匹でかかって来る相手だったから攻めあぐねた。一斉に散らばって一匹ずつ相手にすれば問題なかったのだ。

 それを見抜いた観察眼と、即座に判断を下して指示を出すベルグリフの頼もしい姿に、アンジェリンは嬉しくなって笑みを漏らした。


「ふふ……」


 見ると、ベルグリフは大剣を収めて地面に腰を下ろしていた。その隣でミリアムが嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねている。


「やったやった! ねえ、ベルさん、この魔獣皮剥ぎますー?」

「ん……そうだな。素材としては悪くはなさそうだが……」


 ベルグリフは少し辛そうに目を閉じて額を指先でつまむように押さえた。何となく顔色が悪い。アンジェリンはドキリとして駆け寄った。


「お父さん、大丈夫? 怪我したの……?」

「いや……大丈夫だよ、少し疲れただけさ」


 ベルグリフは弱弱しく微笑んだ。ダンカンが眉をひそめてベルグリフの額に手をやった。


「ベル殿……熱があるではありませんか」

「ん、む……ふらつくのはそのせいか……」


 アンジェリンも驚いて額に手を伸ばす。確かに熱い。よく見れば目も熱っぽく潤んでいるように見える。カシムが頭を掻いた。


「おいおい……無茶するなよ、ベル」

「無茶したつもりはないんだが……参った」


 マルグリットが嘆息した。


「だらしねーぞベル。どうすんだよ、今日はもう休憩か?」

「いえ、いっそ『大地のヘソ』まで行った方がいいでしょう。魔力の濃さから鑑みるに、もう半日もあれば到着する筈です。ここで夜を迎える方が危険度は高い」


 イシュメールの言葉にベルグリフも頷いた。


「歩けないわけじゃない。先に進もう。またさっきのような魔獣が来たらまずい」


 アンジェリンはベルグリフの腕を取った。


「肩貸す……」

「いやアンジェ、お前は先頭を頼むよ。魔獣の気配に一番気付けるのはお前だからね」

「ん…………けど……」


 こんな気が気でない状況で冷静に周囲の索敵ができるだろうか。アンジェリンはもじもじした。ベルグリフは苦笑してその頭をくしゃりと撫でた。


「そんな顔するな。早く着いて休めればすぐ治るよ。それに冒険者はいつでも冷静じゃなくちゃ駄目だぞ? お父さんをがっかりさせないでくれ」

「……うん!」


 アンジェリンは何とか笑顔を作ると、水晶錐を取り出して一行の先頭に立った。マルティコラスの皮を剥ぐような時間はなさそうだ。


 足場が悪いから進みは遅いけれど、それでも何とか進んで行くと、ふと人の気配がした。斜面の上の方に冒険者らしき数人連れの姿が見える。進む方向はアンジェリンたちと同じようだ。

 もしやと思って遠くに目をやると、高く切り立った峡谷に挟まるようにして、何やら城塞のような明らかな人工物が見えた。

 イシュメールが安堵の息を漏らす。


「見えましたね……」

「え、城塞みたいに見えるけど……」

「古い時代のものだそうです。あの向こう側が『大地のヘソ』です」


 目的地が見えるようになると、足取りは俄然軽くなった。斜面を上って行くと、道らしきものがあった。作られた道というよりは、人が行き来する為に自然とこうなったというような道である。それは城塞に向かって伸び、先には冒険者たちの背中が見えた。

 マルグリットが詰まらなそうに頭の後ろで手を組んだ。


「なんだよ、道があるならこっちから来りゃよかった」

「いや、この道は城塞の近くにしかありません。御覧なさい」


 イシュメールが城塞の反対方向を指さした。道はしばらく続いていたが、途中でまるで掻き消えたようになくなり、荒涼とした地面が広がっている。


「山脈の何処から入っても、最初はいいのですが、次第に入り組んで同じ道を通る事は困難らしいです。しかし何処を通ってもここに行き着く……不思議なものです」


 アンジェリンは再び前に目を向けた。ひとまず辿り着く事が先決だ。ベルグリフの顔色はますます悪く、ダンカンに肩を借りて歩いているものの、今にも倒れそうである。


 近づくと、城塞はかなり大きなものらしい事が分かった。

 石は切り出されたものではなく、大きさも形もばらばらのものだったが、石と石の隙間はぴっちりと合わさっており、紙一枚差し込めそうもなかった。

 城塞に一歩踏み込んで、アンジェリンは目を剥いた。道の両側の斜面に石造りの建物が並び、多くの冒険者たちに交じって、商人らしき者たちの姿もあった。彼らは大きな荷物を担ぎ、木と布で簡素な露店を作って色々なものを売っていた。酒を酌み交わして笑っている者まである。


 ぽかんとする一行を見て、イシュメールがくつくつと笑う。


「驚きましたか? 『穴』自体はもう少し先です。ここには高位ランク魔獣の素材の買い取りを狙って、耳聡い商人たちが集まっているのですよ。護衛の冒険者も一流揃いです」

「ビックリ……もっとこう……殺伐とした感じだと思ってた」

「『穴』の周辺はそうですね。けど、ここらは冒険者向けに店を出している者も多いので……ともかく、休める場所を確保しましょう。ベルグリフさんを横にしてあげなくては」


 アンジェリンはハッとしてベルグリフを見返った。ベルグリフはしっかと立ってはいるものの、目を伏せて下を向き、浅い呼吸を繰り返していた。

 少し奥に進むと、一際大きな石造りの建物があった。城塞と同じように天然の石が隙間なく組み合わされていて丈夫そうである。一部は積み方が粗雑な所もある。一度崩れたのを誰かが積み直したのかも知れない。


 もしかしたら、ここは古い時代は国があったのかも知れないなとアンジェリンは思った。

 歴史の陰に埋もれた知られざる王国。魔獣に滅ぼされてしまったのかしら、と思う。


 大きな建物は冒険者たちが起臥しているらしかった。大きな広間のような場所のそこかしこに布で仕切りが作られ、各自が自分の場所を整えているようだ。

 もう随分混み合っているが、それでも何とか場所を見つけた。床を綺麗にし、ロープに布を垂らして場所を区切る。


 ようやく横になれたベルグリフはホッとしたように眠りに落ちた。アンジェリンは額に手をやった。熱は引いていない。むしろ熱くなったように思う。

 カシムが荷物を漁っている。


「薬草を煎じようかね。汗も拭いてやんなきゃ。誰か水汲んで来てくれる?」


 アネッサが革袋を持った。


「わたしが行って来ますよ」

「あ、おれも行く。ちょっとこの辺見て来たいし」

「じゃわたしも行こーっと。マリーだけじゃ迷子になりそうだし」

「一言多いんだよ、馬鹿」


 三人は連れ立って出て行った。

 アンジェリンはしばらくベルグリフの手を握っていたが、やがて立ち上がって壁際に行き、穿たれたような形の窓から外を見た。さらりとした風が頬を撫で、髪を揺らして建物の中を通って行った。標高が高くなったせいか、イスタフほどの気温の高さはない。風がひんやりとして、心地良いくらいだ。


 眼下には沢山の人が行き交っている。見下ろす道を行き交っている一人一人が、腕に覚えのある冒険者なのだろう。

 ざわざわして、活気があって、小さな町くらいの賑わいがある。というより本当に町のようだ。大海嘯が近いから冒険者の数も多いのだろうか。これだけの数の高位ランク冒険者が一堂に会するのは経験がない。オルフェンの魔王討伐の時でさえ、こんな事はなかった。


「賑やかだね」


 隣から声がしたので驚いて目をやった。同じか少し年下くらいの少年が隣に立って、同じように窓から下を見下ろしていた。

 少年は長く伸ばした髪の毛を頭の後ろで束ねている。一見黒髪だが、光が当たると群青色に照り返した。貫頭衣の上からキータイ織りの着物を羽織っている。東方の出身らしい。

 この距離で気取られないとは、とアンジェリンは驚いた。かなりの腕前なのは間違いない。


 少年はアンジェリンの方を見てにっこり笑い、手を差し出した。


「トーヤです。よろしく」

「は……どうも」


 アンジェリンは訳も分からずにトーヤの手を握り返した。トーヤは可笑しそうに笑った。


「そんなに怖がらないでよ。短い間とはいえ、一緒に戦う事になるんだから」

「は」

「……? 君も大海嘯を狙って来たんでしょ?」

「……ああ」


 何の事か、と思ったけれど、そういえば『大地のヘソ』では冒険者同士が協力し合わないと危険だと聞いていたっけと思い出し、アンジェリンは小さく会釈した。


「よろしく……」

「名前は?」

「……? ああ、わたし? アンジェリン……」


 アンジェリンの不愛想さにトーヤは苦笑して肩をすくめた。


「嫌われたかな? ごめんね」

「いや……こういう性格なんで……」


 アンジェリンは頭を掻いた。別にトーヤの事を警戒しているわけではないが、初対面の相手に何をどう話したものか、イマイチ頭が回らない。ベルグリフの調子の方が気になってしまう。

 トーヤは何となく話の接ぎ穂がなくなったようにもじもじしたが、やがて口を開いた。


「実は人を探していて……エルフを見てないかな?」

「エルフ……?」


 マルグリットの事か? とアンジェリンは首を傾げた。


「トーヤ、どうしました?」


 その時、ふらりと人影が現れた。そちらを見てアンジェリンは仰天した。滑らかな銀髪に笹葉のように尖った耳、背の高いエルフが立っていた。女性だ。


「……サティさん?」


 思わず呟くと、エルフは首を傾げた。


「サティ? いえ?」

「あ……すみません」


 別人か、とアンジェリンは肩を落とした。そう都合よくは行かない。

 トーヤは頬を掻いた。


「どうしたじゃないよ、モーリン。君の姿が見えないから、こうやって窓から眺めて探してたんじゃないか」

「いなくなったのはそっちじゃないですか、もう……そちらのお嬢さんは?」

「ああ、アンジェリンさんだって」

「どうも……」


 アンジェリンが会釈するとモーリンは微笑んだ。


「モーリンです、よろしく。トーヤがご迷惑を……」

「何も迷惑じゃないったら……ねえ?」

「はあ」


 アンジェリンは当惑して視線を泳がした。モーリンは呆れたように嘆息した。


「やっぱり迷惑じゃないですか。ほら、行きますよ。お腹が空きました」

「さっき食べたばっかりじゃ……まあいいや。じゃあねアンジェリンさん。また」

「はあ、まあ……」


 二人は去って行った。何となくホッとする。

 悪い人たちではなさそうだが、何となくノリに付いて行けない。いつもカシムにからかわれる自分の不愛想さが何となく気恥ずかしい。この場にカシムがいなくてよかった、とアンジェリンは息をつき、踵を返して戻った。

 石で組んだかまどで火が熾されて燃えている。ベルグリフは穏やかに寝息を立てていた。


「お父さん、ちょっと落ち着いたのかな……?」

「ああ、ベルが色々薬を持っててね、息を楽にする塗り薬があったから塗ってやった」

「しかし意外ですね。ベルグリフさんはもっと頑丈な方だと思っていたのですが」


 イシュメールの言葉に、戦斧を磨いていたダンカンが首を振った。


「いや、ベル殿は素晴らしい腕と観察眼をお持ちですが、トルネラでの暮らしが長い。体が頑健とはいえ、旅慣れていなければ環境の変化は体に負担をかけます。おそらくそれに起因するものではありませんかな?」

「成る程……それはそうですね。そういえば冒険者ではないとか……」

「やれやれ、しかもオイラたちもベルに頼りっぱなしだったからなあ」


 カシムがそう言って後ろ手に手を突いた。


「けど参ったね。この有様じゃパーシーに会うどころじゃないぞ」

「うん……」


 アンジェリンはたき火の脇に腰を下ろし、俯いた。しかもこれだけ人が多いと探し出すのも容易ではあるまい。大海嘯が始まってしまえば久闊を叙している場合ではなくなるかも知れない。


 しかし、あまり急ぐ必要もないのではないかとも思う。

 パーシヴァルはずっとこの『大地のヘソ』にいるのであるし、大海嘯が終わったからといって何処かへいなくなるわけではないだろう。大海嘯が終わって人が減ってから、ゆっくりと会うのも悪くはないのではあるまいか。

 そうだ、ヤクモとルシールもいるのだろうか。いれば会いたいなとアンジェリンは膝を抱いた。


 斧の手入れを終えたらしいダンカンが顔を上げた。


「アンジェ殿、何か発見はありましたかな?」

「ん……人がすっごく多い。みんな実力者ばっかり……さっき話した人たちも。あ、エルフがいたよ。サティさんじゃなかったけど……」


 エルフという単語に少し反応したカシムを見て、アンジェリンは付け加えた。カシムは苦笑して山高帽子をかぶり直した。


「へっへっへ、そう上手くは行かないかね……けど珍しいもんだね。ま、オイラたちもマリーを連れてるけどさ」

「しかしこれだけ実力者が多いと、情報も集まりそうですな。アンジェ殿は何の話をなされたのですか?」

「えっと…………」


 あ、自己紹介しかしていない、とアンジェリンは頬を掻いた。これじゃあ不愛想さをまたカシムに笑われてしまう。


「……なにか食べ物探して来る」


 アンジェリンは誤魔化すように席を立った。カシムがからから笑った。

 ベルグリフの事は心配だが、ずっと横で膨れていても仕様がない。何か栄養のあるものを探して来て、食べさせてあげようと思う。


 建物を出て、城塞の方に歩いて行った。大陸中から集まっているのだろう、意匠様々な冒険者装束ばかりとすれ違い、小さな露店が幾つも並ぶ中を進む。日が暮れかけて、露店の軒先にランプが灯り始めている。こんな光景を見ると、すぐ近くに高位ランク魔獣の巣窟があるなど信じられないようだ。


 露店は傷薬や食い物を売る店が多い。また、逆に素材を買い取る事を専門にしている店もあるようだ。

 酒場のような所もあり、驚く事に婀娜な姿でしなを作り、男に酌をする女の姿も見受けられた。本当に町である。ここで生計を立てて暮らしている者までいるような気がする。


 思わず目移りしていると、どん、と誰かにぶつかった。何か薬草のような匂いがした。

 アンジェリンは慌てて前を見た。


「すみません……」


 顔を上げて、アンジェリンは思わず息を呑んだ。

 立っていたのは獅子のような男だった。簡素な鎧の上にマントを羽織っている。前に立つだけで何だか総毛立つような気分だ。自分が気圧されるとは、と思う。

 男は鋭い目線でアンジェリンを見ると、何も言わずに去って行った。


 喉元を掴まれていたのが開放された、というような気分でアンジェリンは息をついた。


「……あんな人、久しぶり」


 アンジェリンにとって、勝てそうもない、と思う相手はそう多くない。ベルグリフやグラハムがそうだ。この地に居並ぶ多くの冒険者たちも、眺める限りは強そうではあるが負けはしないという気がしていた。

 しかし今の男だけは別格だった。


「……大丈夫。敵じゃないし……それにお父さんほどじゃない」


 怖気を払うように深呼吸を繰り返していると、くいくいと服の裾を引っ張られた。見ると垂れた犬耳の少女がくりくりした目で見ていた。


「どぅーゆー、りめんばーみー?」

「あ! ルシール!」


 アンジェリンは思わず嬉しくなってルシールの手を取った。怖気が一気に吹き飛ばされた感じがした。ルシールは耳をぱたぱたさせた。


「お久しべいべー、アンジェ。しぇけなべいべ、してる?」

「うん。ルシールも元気だった……?」

「もちのろん……お一人さま?」

「ううん。お父さんもカシムさんも、皆来てるよ」


 ルシールは目をぱちくりさせた。


「ぐっど。シャルは?」

「シャルは……来てない」

「おー、悲しみろけんろー……でもここは危ないもんね」

「なんか想像とちょっと違うけど……」

「賑やかだけど、命の危機は隣り合わせ。だったら楽しくれっつえんじょい」


 成る程、ルシールの言によれば、この賑やかさも死と隣り合わせゆえのものなのか、とアンジェリンは何となく理解した。

 冒険者はいつ死ぬか分からない。ついさっき酒を酌み交わした者が物言わぬ屍になる事も珍しくないのだ。だから冒険者は楽しめる時には思い切り楽しむ。酒や食い物の店が多いのも納得できた。

 稼ぎの良い者ほど金使いも豪快だ。高位ランク冒険者ばかり集まっているんだから、ここでの商売はさぞ潤うだろう。


 しかし、だからこそ何だか不思議な気もした。


「けど、こんな場所によくこれだけ……食料とかどうしてるんだろ」

「昔の人は言いました。パンがないなら魔獣を食べればいいじゃない」

「え?」

「露店のご飯も魔獣の肉。植物型の魔獣も多いから野菜もたっぷり。お肉を売れば冒険者もほくほく。一石二鳥。鳥可哀想」


 何だか妙な自給自足が成り立っているんだな、とアンジェリンは半ば呆れたように笑った。もしかして、自分で魔獣を狩って、その肉を料理して出している変わり種の冒険者もいるかも知れない。


「ヤクモさんは……?」

「迷子。迷える子羊やくもん、今いずこ……」

「そっか……」


 迷子なのはルシールの方じゃないかしら、と思ったけれど口には出さなかった。

 ルシールがやにわにアンジェリンの顔を覗き込んだ。


「“覇王剣”のおじさん、会いたい?」

「……!」


 アンジェリンは息を呑んだ。

 そうだ。元はといえばヤクモとルシールが教えてくれて、この場所に来る事になったのだ。二人がパーシヴァルの事を知らないわけはない。


「会い、たい……けど、わたしよりもお父さんが……でも、お父さんは今ちょっと」

「わっつはっぷん?」


 その時、突然大きな音がした。アンジェリンが驚いて振り返ると、向こうの方で何か騒ぎが起こっているようだった。『大地のヘソ』の中心部である『穴』の方角である。

 ルシールが鼻をひくつかした。


「……魚臭い。ばっどすめる」


 少しして、アンジェリンの鼻にも妙な生臭さが漂って来た。冒険者が一人、『穴』の方から何か叫びながら走って来た。


「出た出た! 大物だ! しかもこっちに来やがるぞ!」


 何か魔獣が現れたらしい。往来で酒を飲んでいた連中の目つきが変わり、たちまち武器を携えて立ち上がる。ルシールがアンジェリンを見た。


「行ってみる?」

「ん……」


 こっちに来ている、という事は寝床に決めたあの大きな建物も危ないかも知れない。

 今のお父さんは戦える状態ではない。わたしが守ってあげなくちゃ。

 アンジェリンは頷いて駆け出した。ルシールも軽い足取りで付いて来る。


 二人は人の間を縫って通りを疾走し、建物の脇を通り抜けて開けた所に出た。


「うっ……」


 アンジェリンは思わず息を呑んだ。

 大勢の冒険者たちが手に手に武器を持ってそれを見上げていた。


 暮れかけた紫色の空に、巨大な魚が浮かんでいた。

 体は扁平で長く、背びれや腹びれがない代わりに、体の両側から鳥の羽のような大きなひれが張り出して、悠然と空気を掻いている。

 細かな、といってもその一枚一枚が人間の腰くらいはありそうな鱗が全身を覆い、大きな口の付近から髭が幾本も伸びて水に漂うように揺れていた。


 龍鯨(りゅうげい)バハムート。

 魚でありながら”龍”の名を冠されるSランク魔獣であった。


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