九十.雨が降っているのに空気は生ぬるく
雨が降っているのに空気は生ぬるく、肌にまとわりつくようだった。
分厚い雲がかぶさっていて、そこいらには飛沫のせいか、それとも雲が降りて来ているのか、濃い霧が立ち込めて見通しが悪かった。
あちこちに人の気配が満ちているのに、視界が悪いせいで変に気配ばかりが濃く、その分霧が重みを持って体を押して来るようだった。
武器が振るわれる音、魔法の炸裂する音がする。
金属が打ち合わされ、悲鳴や怒号が響いている。どことなく剣呑だ。霧に紛れて、『穴』から魔獣が幾匹も這い上がって来ているらしかった。
二足で歩く鱗を持った妙な魔獣を、槍が一突きにした。黒髪の女が面倒臭そうに突き倒した魔獣を蹴飛ばし、周囲を見回す。
「チッ、大海嘯はまだ先なのにこれか……今回のは大ごとになりそうじゃな」
女は再び槍を構えると、霧の向こうの黒い影を突き刺した。
「オイ! まだか!」
「もうちょい」
女の怒鳴り声に、その後ろに立っていた犬耳の少女が答えた。六弦の楽器を手に持って目を閉じている。時折犬耳がぱたぱたと揺れた。
はたと音が消えたような具合になった。やにわに右手で弦を鳴らす。じゃらん、と音が鳴るや、霧が振動するように震えた。
「べいべ」
少女が弦をかき鳴らす度に、霧が震えてそこいらに音が響き渡る。さっきまであちこちで聞こえていた戦いの音は、魔獣のものらしいうめき声や悲鳴ばかりになった。
黒髪の女が槍を肩に乗せて息をつく。
「霧に魔力を伝わせてそこに魔除けの音を流す、か。器用な事するもんじゃのう」
「本当はもっとロックしたい……」
「ド阿呆、おんしが本気で騒いだら魔獣どころかこっちもやられるじゃろうが」
「ぶるーす……」
犬耳の少女が六弦をがちゃがちゃとかき鳴らすほどに、そこいらから魔獣の気配が薄まって行った。どうやら魔獣の動きが鈍り、冒険者たちがそれを次々に仕留めているらしい。
黒髪の女は槍を杖のように突いてもたれると、嘆息して目を細めた。
「参るわい……ベルさんたちが来るにしても、いつになるのやら」
「おじさんは?」
「知らん。この霧に加えて『底の住人』相手じゃ他人に構ってなぞいられんわ」
「むう……」
周囲で戦いが終わったらしい気配がしたので、犬耳の少女は手を止めた。冒険者たちのものらしい話し声がそこここから聞こえて来る。それでも霧に阻まれて姿は見えない。
黒髪の女は肩を回し、槍を担いだ。
「やれやれ、ゆっくり身を隠そうと思っとったのに、今回の大海嘯は大変になりそうじゃな。精々、腕利きが集まる事を祈ろう」
「アンジェたちが来そうな予感がする……」
「なに?」
「勘……でもわたしの勘はよく当たる。夏のお皿はよく割れる」
「……まあええわ。どちらにせよ、アンジェたちが来ればかなり頼もしいがのう」
「君は自分の事ばっか考えてる。アンジェたちが来るのはわたしたちの為じゃないよ、べいべ」
「んなこたァ分かっとるわ。じゃが、ここで生き延びる事を考えて何が悪い。今度の大海嘯は今までよりも厄介そうじゃぞ。不安にもなろうっちゅうもんじゃわい」
「どんしんくとぅわいす」
「あん?」
「いっつおーらい」
犬耳少女は楽器を持ち直すと、足早に霧の向こうに駆けて行った。
残された黒髪の女がしばらく突っ立っていると、霧が少し薄まって、向こう側でうっすらとした人影が、幾人も同じ方向に歩いていた。
少し騒がしい所がある。黒髪の女は怪訝な顔をして、そちらに歩み寄った。
魔獣の死骸が山のように転がっている。その中に幾らか人間の死体も交ざっていた。刀傷だ。魔獣の牙や爪にやられたのではない。
「何があったんじゃ? 同士討ちか?」
近くの冒険者の男に問いかけると、男は首を振った。
「あの“鉄獅子”だよ。あいつがいつも手ごわい魔獣を片付けるから、それを面白く思わない連中がいたみたいでね、この状況に乗じて闇討ちをかまそうと画策したらしい」
男は死体をごろりと足で仰向けにした。
「前々から面白くないと愚痴ってたからな。プライドの高さも考え物だ」
「で、返り討ちか。情けないのう……」
黒髪の女は槍にもたれて嘆息した。トルネラのお人好しどものような冒険者の方が珍しいのだ、と改めて思い知らされる。
「ま、却ってよかったかも知れんな。下らん妬みで足並みを乱されちゃ大海嘯は乗り切れんからのう」
「俺もそう思うよ。馬鹿を間引いてくれてありがたいくらいだ。尤も、この連中もSランクにAAAと、決して弱くはねえ連中だった筈なんだが……やっぱりあいつは得体が知れんな。頼もしいとは思うが、何だか不気味だぜ」
「……そうじゃな」
黒髪の女は目を細めて周囲を見回した。雨脚が強まって、足元を幾筋もの細い流れが横切って行った。
霧の向こうで、背を向けて立っている枯草色の髪が見えた。
○
馬車がものすごいスピードで走っている。決して平坦ではない地面を車輪が踏むたびにがたがたと大きく揺れる。
その周囲を馬に乗った集団が追いかけるようにして取り巻いていた。
カシムが愉快そうに笑っている。
「いやあ、流石はティルディス馬賊だなあ、しつこいしつこい」
「笑ってる場合じゃないぞ」
あんまりに馬車が揺れるから、ベルグリフは立っていられないらしい、やや不格好に体をかがめて、馬車の縁に捕まっていた。片足が義足では踏ん張るという事が常人よりも得意でないようである。
馬上から射かけられる矢を、アンジェリンやマルグリットが切り払った。馬車の脇に立てた矢除けの板は既にハリネズミのようになっている。
ミリアムはあまりの振動に酔ったのか、青い顔をしてベルグリフにすがり付いているし、カシムは時折危ない矢を打ち落とすばかりで、この状況を楽しんでいる節さえある。
遠距離を尤も得意とするアネッサが手綱を握っている事もあって、馬賊に一方的にやられているように思われた。
ベルグリフは顔を上げて前を見た。
「もう少しだ」
「うわ、すっごいぜ。後ろにもっといっぱいいるよ」
見ると、馬車を取り巻く馬賊の後ろから、その仲間と思しき騎馬の集団が波のように押し寄せて来ている。
アンジェリンが振りかぶって空き瓶を放り投げた。空き瓶は近づいて来た馬賊の一人の頭に直撃し、賊はもんどりうって落馬した。
しかし焼け石に水である。意味があるようには思えない。アンジェリンは頭を掻いた。
「最初に何人かやっつけちゃったのが悪かったかな……」
「ティルディス馬賊は執念深いからなあ。向こうを皆殺しにするか、こっちが死ぬかするまで中々諦めないだろうね」
「皆殺しにすりゃいいじゃねーか」
マルグリットはそう言って笑い、飛んで来た矢を斬り払った。ベルグリフは苦笑した。
「いや、魔獣とはわけが違うんだ。人間は怖いぞ、マリー」
「ふうん? まあいいけどよ。確かに人間をいっぱい斬るのは気分悪りいや」
丁度馬車の真後ろを走っている騎馬数騎が、顔を見合わせて大声で何か言い合ったと思ったら、一人がサッと手を上げた。途端に後ろを走っていた騎馬が一斉に弓を構えて、同じタイミングで放った。まるで雨のような密度で一斉に矢が降り注いで来る。
ベルグリフは左足を踏みしめてぐんと立ち上がると、背中の大剣を抜き放った。
「捕まってろ!」
気合一声、思い切り剣を横なぎに振るう。
途端、凄まじい衝撃波が巻き起こり、飛んで来た矢はばらばらと砕けて地面に舞い散った。
ベルグリフは息をついて大剣を収め、また身を屈める。馬賊たちは悔しそうに叫び、しかしまだ諦める様子もなく鞭を鳴らした。
アンジェリンが背中の方から覆いかぶさって来た。
「凄い……! お父さんすごぉい!」
「ま、待て、アンジェ、今はそれどころじゃない」
「へへへ、随分使い方が慣れて来たねえ。やるなあ、ベル」
「また暢気な事を……」
「突っ切りますよ! 舌噛むから黙って!」
アネッサが叫んで、叱咤するように手綱を打った。馬が速度を上げた。流石にティルディス馬だ、これだけ走ってもまだ速度が上がる。
草原を走り続けた馬車は、いつの間にか山の迫る辺りまでやって来て、崖に挟まれた峡谷のような所に突入した。ベルグリフはさっと後ろを振り向き、それからカシムの方を見た。
「いいぞ!」
「あいよ」
カシムが両手を振る。魔弾が撃ちだされ、両側の崖の上の方に直撃する。地鳴りがして、崩れた岩や土が、丁度下に来た馬賊を押しつぶした。
道は塞がれ、徒歩でならば登れなくはないものの、馬では到底超えられない。
辛くも難を逃れたものの、退路を断たれ、後続と分断された数騎の馬賊が困惑したように歩を緩め、右往左往した。
「あいつらどうする?」
「放っておいていいだろう。今のうちに距離を開けよう」
どのみち、彼らの本領は平原なんだしな、とベルグリフは呟き、額の汗を拭った。
馬車がやや速度を落とし、揺れが小さくなる。ベルグリフはようやく落ち着いた様子で息をついた。そうして青い顔をしてすがり付いていたミリアムの背中をさすってやった。
「ミリィ、大丈夫かい?」
「うぅー……気持ち悪い……」
「なんだよ、だらしねえなー」
からから笑うマルグリットを見て、ミリアムは頬を膨らました。
「ミリィちゃんは繊細なんですー!」
「……わたしも気持ち悪いー」
アンジェリンが不自然にしなを作ってベルグリフにくっ付いた。ベルグリフは呆れたようにアンジェリンの背中をぽんぽんと叩いた。
「お前は何ともないじゃないか……」
「だってミリィばっかりずるい……」
「なんだよー、アンジェは理由がなくてもくっ付く癖に――ういっ!」
ミリアムはえづいたように口元を押さえた。カシムが腰を下ろして馬車の縁に寄り掛かった。
「おいおい、ここで吐いちゃ大慘事だぞー」
「もう少し距離を開けたら休憩しようか。馬も休ませた方がいいだろうし」
ベルグリフは後ろや崖の上を見ながら言った。こちらを窺っている気配や追手はいないようだ。馬は大汗をかいて、滑らかな毛がじっとりと濡れているように見えた。
マンサを出てもう半月以上が経つ。夏が盛りを迎えようとしているからか、より暑い南部へと下っているせいか、暑気は日ごとに増した。
そんな中、中途で遊牧民の集落に立ち寄って交流したり、魔獣の群れと戦ったり、ダンジョン化した廃村を突っ切ったり、色々の事があって、今しがたようやく平野部を抜けて山岳部に入る事ができた。最後の最後に馬賊とのひと悶着があったから、緊張し通しだった心がようやく落ち着いたようである。
このまま順調に行けば、一週間もしないで南部の大都市、イスタフに着く筈である。
町や村で寝床に横になる事なく、これだけの長い旅路を行ったのはベルグリフには初めての体験であった。若い頃ならばともかく、鍬を振るってばかりいた四十を超えた体には随分辛いように思われた。
まだ始まってすらいないのにな、とベルグリフは自嘲気味に笑った。通過点に過ぎないのに、もうこんなにくたびれてしまった。『大地のヘソ』とやらに着く頃にはどうなってしまっているのやら、と思う。
アネッサが肩越しに振り返った。
「どうします、ベルさん? どこまで行きましょうか」
「もう少し開けた場所の方がいいかもな。この辺にも山賊がいないとも限らないし、あまり不利な地形で休むと襲撃が怖い」
「そうですね。それじゃあ、ひとまず並足で行きますから」
よさそうな場所があったら声をかけて下さい、とアネッサはまた前を向いた。
くたっとしたミリアムは馬車の縁に背を預けている。マルグリットは気付けの小瓶を探して荷物を漁り、カシムは目を閉じて寝る体勢に入っている。
アンジェリンがベルグリフに寄り掛かった。
「矢、抜かなきゃだね」
「そうだなあ。流石にこれは痛々しいものな」
ハリネズミになっている矢除けの板を見て、ベルグリフは苦笑した。馬上からよくこれだけの精度の矢を撃てるものだという感心もあり、アンジェリンたちがいなければただでは済まなかっただろうなという思いもあり、背筋が冷たくなる。南下のルートを通りたがる者がいないというのも納得できるようであった。シエラから聞いていたからある程度の心構えができていたものの、そうでなければ浮足立っていただろう。
しばらく行った先に崖が穿たれて屋根のようになっている場所があった。近くに渓流があるらしく、水音がする。
まだ日は高いが、逃走の疲れもあり、早めに休む事にした。逃げる時に重みになるからと水樽の中身をぶちまけたので、補給ができるのはありがたい。
元気が有り余っているマルグリットとアンジェリンが木桶を持って渓流に下って行った。
アネッサは何か獲物がいないかと弓矢を手に出掛け、ミリアムは完全にグロッキーで仰向けに寝転がっている。
カシムが枯れ枝を抱えてやって来た。
「薪集めて来たよ」
「ああ、ありがとう」
大きな石を除けたり、地面をならしたりと寝床を整えていたベルグリフは、石を組んで簡単なかまどをこしらえ、火を灯した。アンジェリンたちの汲んで来た水を鍋に入れて火にかける。干し肉を刻んで入れ、そこに乾燥麦や豆などを入れてくつくつと煮込んだ。
アンジェリンが背後でうろうろしている。
「お父さん、何か手伝う……?」
「いや、こっちは大丈夫だよ。馬車に刺さった矢を抜いておいてくれるかい?」
「ん!」
アンジェリンは張り切って馬車の方に駆けて行った。向こうで馬が水をがぶがぶ飲んでいる。
やがてアネッサが戻って来た。犬くらいの大きさの山羊を携えている。
「山羊が獲れましたよ。この辺のは小さいみたいですね」
「ああ、丁度良かった……お、もう中身は出してあるんだね。頭も落ちてる」
「沢の近くだったんで。でも皮剥ぎはベルさんの方が上手だと思って……」
「そんな事ないと思うけどな……まあ、二人でやった方が早いだろう。一緒にやろうか」
「は、はい、えへへ……」
アネッサは嬉しそうにはにかんだ。そこに音もなくアンジェリンが現れた。
「……わたしもやる」
「わあ!」
「おや、もう終わったのかい?」
「そう。それにアーネだけずるい……」
「……ったく、別に取ろうなんて考えてないって」
アネッサは呆れたように嘆息した。ベルグリフは苦笑しながら皮剥ぎナイフを取り出した。
ベルグリフは慣れた手つきで皮を剥いだが、アネッサも解体には慣れているし、ベルグリフから教わっているアンジェリンも同様だ。ほどなくして、山羊はたちまち赤い肉の塊になった。季節柄脂こそあまり乗っていなかったが、食事の彩りには十分だ。
そうして肉がじゅうじゅうとうまそうな匂いを漂わせる頃には日が落ち、ランプとたき火の明かりが一行の影を岩肌に映し出すようになっていた。
「イスタフに着けば、ニンディア山脈はすぐだね」
麦と豆の粥をよそいながら、カシムが言った。ベルグリフは頷いた。
「そうだな。しかし『大地のヘソ』というのがどの辺なのか、それが分からんからな」
ニンディア山脈はティルディスとダダンを隔てているが、北東から南西にいくつかの国を跨いで伸びている。イスタフはティルディス領だが、そこから山脈に沿って南西に下るとダダン帝国、その手前を西に向かえばルクレシアやローデシア帝国に繋がる。
だから山脈が近いとはいえ、『大地のヘソ』がどの部分に位置しているのか、それが分からない。シエラのくれた地図にもそこまでは記していないようだ。本当に腕に覚えのある一部の冒険者ばかりが口づてに知っているだけなのだろうか。
山羊の焼肉を飲み込んだマルグリットが言った。
「イスタフに行きゃ、知ってる奴くらいいるんじゃねえか?」
「多分、いる。ひとまずギルドの人に聞いてみて……」
アンジェリンがそう言って粥に匙を突っ込み、ふと思い出したように顔を上げた。
「お父さん、チーズある……?」
「ああ、あるよ」
ベルグリフは遊牧民と物々交換で貰ったチーズの塊を差し出した。ナイフで削って粥に落とすとコクが出てうまい。
「あー、やっぱベルの飯はうめーな。おれも料理得意だけど、ベルのはホッとするなあ」
「長旅だったけど……ご飯には困らなかったね」
「そうだな。シエラさんに感謝だ」
「それもあるけど、君の管理がよかったんだよ」
「そんな事ないさ。皆がちゃんと狩りや採取をしてくれたから……」
「でもその食料の割り振りとか、水の消費量の把握とか、そんなのをやってたのは全部ベルさんじゃないですか。考えてみれば凄いなあ……」
「ふふん、そうだろう……流石はお父さん」
凄い凄いと言い合う仲間たちを見て、ベルグリフはむず痒そうに頬を掻いた。
「……君たちは一々俺を持ち上げてどうするつもりなんだい?」
アンジェリンはきょとんとした顔でベルグリフを見た。
「だって実際凄いもん……」
「あのなあ、アンジェ……」
「まあまあ、別に悪口言ってんじゃないんだから、素直に受け取っときなって」
「そうそう。それに褒められて困ってるベルを見るのが楽しいぜ、おれは」
「……まったく」
ベルグリフは諦めたように嘆息して、たき火に薪を放り込んだ。褒め殺しという言葉を覚えた方が良いんじゃないかと思う。あんまり言われ過ぎても、からかわれているような気分になるものだ。マルグリットなどはからかい半分なのがよく分かる。
「んにゃ……いい匂いがするー」
後ろの方でもぞもぞと何かが動いたと思ったら、今の今まで眠っていたミリアムが起き出して来た。元々くしゃくしゃした髪の毛が寝癖で余計に跳ね散らかっている。
アネッサが椀を取り上げて粥をついでやった。
「朝まで起きないかと思った。今起きちゃ寝れないんじゃないのか?」
「そーかも。でも気分爽快だよー。夜の見張り、引き受けちゃおっかにゃー」
ミリアムは粥の椀を受け取りながら笑った。
夕餉を終えて、夜更かしをするというほどの事もない、それぞれに寝具にくるまって横になった。
十分に寝て元気になったらしいミリアムがたき火の傍に座り、同じく昼寝をしたカシムがその向かいに腰を下ろしている。アネッサとマルグリットが隣り合わせに眠り、地図を見直しているベルグリフに寄り掛かるようにしてアンジェリンが寝息を立てていた。
「基本的には一本道のようだが……」
「旧道があるらしいね。馬車が通れりゃいいんだけど」
「魔獣が出るみたいだな。盗賊の類の注意書きはないが」
抱いた膝に顎を乗せたミリアムがこてんと首を傾げた。
「それ、いつの注意書きですかー?」
「日時は特に書いてないが……一番新しい情報だとは聞いているよ」
尤も、書いてあるから絶対に正しいというわけではない。根城を持つような大きな盗賊団ならば拠点を元に行動するが、そうではない流浪の盗賊もいるのだ。魔獣だって何かの拍子に魔力溜ができればそこに引き寄せられる事が多い。
カシムが大きくあくびをした。
「ま、今更びくびくしても仕方ないでしょ。イスタフ着いたらどうするか考えてた方がいいかもね。町の様子も飯も、オルフェンともヨベムとも違うから面白いぜ」
「それも大事だが、そっちに気を取られていたら思わぬ事で足をすくわれるぞ」
「へへ、じゃあその警戒は君に任せておくよ。一番適任だろうし」
初めからそのつもりだったな、とベルグリフは諦めて笑い、再び地図に目を落とした。カシムは小枝を折ってたき火に放り込む。
「よし、オイラたちはイスタフからの動きを考えようぜミリィ。でかい町だからなー。『穴』に行く前に色々準備が要るだろうし、何を買おうかね」
「わーい、楽しそう。どんなご飯があるのかなー? おいしいお菓子があったらいいなー」
カシムとミリアムは楽し気にあれこれと話をしている。ベルグリフも視線こそ地図に落としているが、知らず知らずに耳はそちらに傾けられていた。
イスタフはティルディス南部の大都市である。規模は中心地であるカリファに比肩しうる。
古い時代には一国の首都であった時もあるらしく、ティルディスの歴史上最強と称される“武帝”イハベナド率いる馬賊の襲撃で半壊したものの、かつての城壁が残っている。
現在は手直しされており、再び城塞都市としての趣を取り戻しているらしく、自立できるだけの戦力と経済力を伴っている事もあり、ヨベムと同じく半ば独立した都市国家のようになっているらしかった。
知る者は少ないが、『大地のヘソ』の希少な素材はここに流れて来る事も多く、装備品や魔道具の質の高さは折り紙付きだ。もちろん相応の値段はするので、あるからといって手が出るわけでもないのだが。
良質の素材がある場所には、腕のいい鍛冶師や研究を旨とする魔法使いが多く集まるらしく、それがまたイスタフを活性化させ、経済や流通を旺盛にしているようだ。
昼間はぬるかった風が、夜半の冷たさを伴って吹き込んで来た。昼間は夏の暑さが立ち込めていても、陽が落ちれば身震いするくらいには寒い。
アンジェリンがもぞもぞと身じろぎして、より深くベルグリフに寄り掛かった。ベルグリフは顔を上げた。岩の向こうに見える暗闇が、何の気配もしない分だけ妙に重苦しく感じられるようだった。
○
がらがらと音をさせて、集めて来た薪を傍らに降ろした。枯草色の髪の少年が、埃を払うように手の平をぱんぱんと打ち合わせる。
「こんなもんで朝までもつだろ」
「ああ。あまり燃やし過ぎなければ大丈夫だ」
赤髪の少年が火口を取り出して、手早く火を点けた。
もう辺りは暗い。分厚い雲がかぶさっているから、木立の間から見える空には月も星も見えていなかった。
空気はどことなく重く、じっとりとしていたが、雨が降りそうな気配はない。ただ、辺りの暗闇が質量を持ったように迫って来るようだった。
四人で森に来ていた。
薬草を始めとして、様々な素材を集める仕事である。エルフの少女がいるから、森で迷う事はない。もう随分な量が集まり、一泊野営して翌日帰る算段だ。
周囲を闇が包む程に、頼りないくらいの小さなたき火ですらすがりたいような気分だ。食事を終えた四人は、身を寄せ合うようにしてたき火を囲んだ。
「夜の暗さって不安になるじゃない?」
膝を抱えたエルフの少女が言った。調理道具を片付けていた赤髪の少年は頷いた。
「まあ、そうだね」
「その怖さってどこから来るんだろうなって考えるの」
「なんだよ、エルフの哲学かなんかか?」
枯草色の髪の少年が怪訝な顔をして小枝を折った。目の前のたき火がぱちんと音を立ててはぜた。エルフの少女は首を振った。
「そんなんじゃないよう。ただ、暗いと怖いっていうのは不思議だなって」
「そうかな? だって何がいるか分からないし、自分が一人きりになったような気分でさ」
茶髪の少年が言った。赤髪の少年は背後を見返って、後ろに長く伸びて揺れている自分の影を見た。その向こうには鬱蒼とした木立があり、木々の間は暗闇だ。あの向こうからこちらを窺っている何かがいるのだろうか、と思うと確かに怖い。
だが、やはりエルフの少女は首を横に振る。
「それはさ、暗いからじゃなくてそれによってもたらされる何かが怖いんじゃない。そうじゃなくて、もっとこう……暗闇そのものに対する怖さ。不思議だよね、わたしたち、みんなお母さんのお腹から生まれるのに。お腹の中には光なんか届かないのに」
「……でもよ、俺たち皆、本当の暗闇なんか知らないと思うぜ?」
「どういう事?」
茶髪の少年が首を傾げた。枯草色の髪の少年は腕を組んだ。
「だってさ、目を閉じたってそれは瞼の裏を見てるだけだろ? 完全に目が見えない奴じゃなけりゃ、暗闇なんか知らないんじゃねえか? いや、むしろ見えないってだけじゃ暗闇じゃねえかも……」
「そうかな……うん、そうかも」
エルフの少女は膝に口元をうずめて目を伏せた。赤髪の少年も考えるように視線を宙に泳がした。確かにそうかも知れない。すると、本当の暗闇というのはどんなものだろう、と思う。目で見えるものだけではないのだろうか。
エルフの少女は嘆息した。
「なんだろなー、夜だと思考が変な風に曲がっちゃうよ」
「……お前、意外に繊細なところあるんだな」
「むー、なにさ。人の事ガサツ者みたいに言って」
エルフの少女は枯草色の髪の少年の肩を小突いた。少年は笑ってエルフの少女の髪の毛をわしわしと撫でた。
「怒るなって。ま、ひとまず悩むのは町に帰ってからにしようぜ。今日はしっかり休んで、明日は森を抜けないとな。それに、今は暗くたって皆いるじゃねえか、不安になるなよ」
「あはは、そうだね…………ちょっと、いつまで撫でてるの」
「いや……すげえな、滅茶苦茶手触りいいんだな、エルフの髪って」
「え、マジで? オイラもいい?」
「もう! わたしの髪の毛はおもちゃじゃないよ!」
少年二人に乱暴に撫でられて、エルフの少女は不機嫌そうに身をよじった。そうして、一人だけもじもじして黙っている赤髪の少年の方を見た。
「……あなたも触りたいの?」
「え? いや、俺は……別に……」
茶髪の少年と枯草色の髪の少年がにやにやしている。
「ムッツリだね」
「ムッツリだな」
「な!?」
うろたえる赤髪の少年を見て、エルフの少女は口を尖らしたまま頬を染めたが、たき火の加減でそう見えただけかは分からない。そうして頭を突き出すように身を乗り出す。
「……ほら。撫でたきゃ撫でていいよ」
「ぐむ……」
赤髪の少年は困ったように視線を泳がした。
エルフの銀髪がたき火の光を照り返してちらちらした。
暗闇に対する妙な不安は、とうに何処かへ行ってしまったようだった。




