八十九.オルフェンの都の外は、初夏の
オルフェンの都の外は、初夏の陽光が燦々と降り注いで、青々と茂った背の低い草に白く照り返されていた。
厚底のブーツが草を踏み、ぎゅうとよじる拍子に下の土をむき出しにした。
初撃こそいなした赤髪の少年だったが、すぐさま二撃目を肩に受けた。
「お前、なんでそこで前に来ようとすんだよ」
枯草色の髪の少年が呆れたように木剣で肩を叩いた。赤髪の少年は苦笑する。
「いや、どうも俺は後ろに引く癖があるみたいだから……」
「前に出りゃいいってもんじゃねえぞ。お前、得意の状況判断を捨ててまでかかって来るなよな、長所が台無しだぞ」
「ぐむ……」
「慣れない事はしない方がいいんじゃないの」
傍らで岩に座って眺めていたエルフの少女がそう言って笑った。赤髪の少年は困ったように頭を掻いた。
「むう……けどなあ」
「そのせいで今までのパーティで上手くやれなかったってか?」
ドキリとした。視線を泳がせる赤髪の少年を見て、枯草色の髪の少年がにやりと笑った。
「いいか、おい。言っとくが、お前が俺とかこいつよりも剣の腕があるとは思っちゃいねえよ。俺がお前に期待してるのはそういう事じゃない、もっと別の事だ」
「……そうはっきり言われると流石にキツイんだけどな」
「弱いとは言ってねえよ、あんまり焦っちゃ駄目だぜ。上手く言えないけど、お前はお前の役割がある。攻めは俺たちに任せておけよ。な」
「そうだよ。彼はともかく、わたしは天才だから安心して任せておきたまえ、ふふ」
くすくす笑うエルフの少女に、枯草色の髪の少年は眉を吊り上げた。
「あんだと? 喧嘩売ってんのか?」
「ふふん、連続引き分けの記録を打ち止めにしようじゃないか!」
エルフの少女は木剣をくるくると振りながら立ち上がった。
「おー、いいぜ。ようやく負ける決心が付いたんだな?」
「その台詞そっくりそのまま返す!」
言い合う少年とエルフの少女を尻目に、赤髪の少年は後ろに引いて嘆息した。
役割分担。今でも戦況の把握や索敵、他、冒険の準備や諸々の雑用など、主に赤髪の少年が取り仕切ってやっている。そういう事は得意だし、枯草色の髪の少年はもちろん、エルフの少女も茶髪の少年も、そういう事に関しては妙に雑だった。だから自分の役目というのは理解できる。
確かに剣に関しては、枯草色の髪の少年にもエルフの少女にも、技量の上でも才能の上でも敵う気はしない。
しかし、自分にだって剣士としての矜持くらいある。剣で張り合おうという事自体が間違いだとは思うけれど、せめて並んで戦うくらいの腕は欲しい。
どちらにしても、今のままでは駄目だ。
自分に合った剣とは何だろう、と赤髪の少年は目を伏せた。
剣士は前衛で戦い、後衛を守る。尤も魔獣とぶつかる役割だ。だが、枯草色の髪の少年が求めているものはそうではないという。
確かに、ただでさえ、剣士は自分含めて三人もいるのだ。全員が前に出ても仕様がない。あの二人に並んでは自分など前に出ても足を引っ張るばかりだ。故郷の村ではそれなりの腕自慢で通ってはいたのだが、やはり世界は広い。
激烈に木剣を打ち合う少年と少女を、離れた所で笑いながら見ていた茶髪の少年に近づいた。
「やー、あの二人は相変わらずだねえ」
「なあ、君はどう思う? 俺はどういう剣を振るえばいいんだろう?」
「え、オイラに聞くの? うーん……」
茶髪の少年は難しい顔をして腕を組んだ。彼も天才型の人間であるし、何よりも魔法使いだ。剣の事を聞くのは筋違いかも知れない。赤髪の少年は頭を掻いた。しかし、茶髪の少年は何か思いついたようにぽんと手を打った。
「盾だね」
「はっ?」
「ほら、あの二人は前に押すのが好きだし、オイラもどっちかっていうと攻撃の方が得意だし、正直矛役は足り過ぎってくらい足りてる」
「それで、盾? 俺が?」
「別に前に出て攻撃を受けろっていうわけじゃないけど、君は攻めるよりも守る方が得意でしょ? 現に、オイラたちが前しか見てない時に後ろを見てくれるのは君だし……オイラたち皆、調子に乗ってると周りが見えなくなっちゃうからね」
直さなきゃ駄目だと思うけど、と茶髪の少年はからから笑った。
それはそうかも知れない。守りが主体の剣士。そのせいで今までは邪険にされる事が多かったように思う。しかし、このパーティではむしろそうなるべきだと皆から言われる。
「……やれやれ」
何とか攻撃的な剣を身につけようと日々鍛錬していたが、サイズの合わない服を着ようと四苦八苦しているようで、どうにも無駄な足掻きだと思っていた。しかし、守りの剣などと言われても具体的にはどういうものなのかよく分からない。都に出て来てからの試行錯誤が、却って混乱をもたらしているようにも思えた。
「色々試してみるしかないな……」
「あっ、また引き分け」
茶髪の少年が言った。
見ると、それぞれの剣が同時に相手を直撃したらしい。エルフの少女は頭を、枯草色の髪の少年は脇腹を押さえ、膝をついて震えている。
赤髪の少年は呆れ顔で道具袋から打撲用の塗り薬を取り出した。
○
草原を撫でて行く風が草を揺らす度に、伸びた草が陽光を照り返して白く光った。さながら光の波のようだ。それは規則正しい間隔を置いて、ひっきりなしに広がっては消えを繰り返している。
悶着こそあったが、その後は問題もなくギルドからの依頼を受けたアンジェリンたちは、シエラと別れてマンサの町を出た。今は南への道を下っている最中である。
シエラは全幅の信頼を寄せてくれたようで、依頼料の半分は前払いしてくれ、残り半分は南部のギルドでもらえるよう受領用の書類をしたためた上、目的地までの詳細な地図と、食料や水などの旅に必要な種々の物資、馬車まで無償で貸与してくれた。ギルドの書簡と荷の配達という大事な仕事に加え、Sランク冒険者が二人もいるというのが建前だが、実際はもっと別のものがあるのだろう。
向かいに座るカシムはぼんやりと空を見上げていた。何となくホッとしているように見える。色々な事が片付いたら、また会おうと約束したらしい。
「……いくつになっても乙女は乙女」
アンジェリンはくふくふと笑った。隣に座っているベルグリフに寄り掛かる。
「ね、お父さん?」
「ん? ああ……」
何か考え事をしていたらしいベルグリフは、生返事をしてアンジェリンの頭をぽんぽんと撫でた。もう片方の手には広げた地図がある。
シエラ曰く、中途には廃村がいくつかある他は、村らしい村もないという。
かつては開拓移民が入ったというが、鉱石が出るわけでもないし、冒険者がわざわざ狙うほどの魔獣が出るわけではない。その上商売に有利な大都市は遠く、交通の便は悪い。結局うまみがないという事で人は去って行った。
却って山脈の中にまで入ってしまえば、少数民族の集落があるそうだが、そんな所に行く必要はない。個人的に興味はあるけれど、それでは流石に寄り道が過ぎる。
いずれにしても、そういう事情があるから行き来する人の数は少ない。遊牧民たちがやって来る事はあるそうだが、彼らは決まった道を行かないから、街道は用を成さない。
なるほど、確かに今まで進んでいた広い街道とは違って、整備されているとは言い難い道だ。起伏が多く、よく馬車ががたがたと揺れるので、隣に座るベルグリフはやや居心地が悪そうで、しきりに身じろぎしている。わざわざ南に向かう商人がいないというのも納得できるようだ。
それでもまったく人が通らないわけではないらしく、草に埋もれかけてはいるものの、馬車のものらしい轍の跡がずっと向こうに伸びていた。轍は少しずつ西に寄っているようだった。進む先で、青空に溶けるようにして青い山脈がそびえ立っている。山頂付近は白い雪の帽子をかぶっていた。山肌が青い分、雪の白が浮かび上がるように見えた。
アンジェリンは地図を覗き込む。
しばらくは草原が続くけれど、やがて岩が増え、山脈の傍は荒れ地のようになって来るようだ。峡谷のようになっている場所もあって、その辺りには魔獣や盗賊も出るらしい。
尤も、この道はあまり通らない為に情報が少なく、シエラにも把握しきれていないものがあるかも知れないから、十分に注意して欲しいと言われていた。
知らない所に行くというのはわくわくする。危険があると思えば尚更だ。
だが、それに加えて驚くほどの安心感を抱いている自分がいる。ベルグリフが一緒にいるからだろう。高揚感を共有できているかはともかくとして、同じスリルを大好きな父親と一緒に味わえるというのが嬉しくて仕様がない。
荷台から身を乗り出したミリアムが、目を細めて山脈の方を見た。山の向こうから高い雲が流れて来ている。
「あの向こうは公国なんだよねー」
「そうだな。山脈一つなのに、向こうとこっちじゃ結構気候が違うよなあ」
手綱を握るアネッサが言う。
オルフェンも北部に位置するために乾燥気味の気候ではあるが、冬は雪も降るし、雨だって降る。しかし、湿った重い雲は山脈に引っかかって東へは来づらいらしく、ティルディス領は降雨が少なく、乾燥気味の気候であるらしい。尤も、この初夏の爽やかさは、乾燥しているからこその清々しさなのかも知れないが。
そう考えるとトルネラと似ているな、とアンジェリンは思った。
トルネラも冬の雪こそ多いが、雨が降るのは少ない。夏は涼しく爽やかだ。
今頃、シャルロッテやビャクが裏手の畑を手入れしているのかしら、と考える。ミトは元のように皆と遊んでいるかしら。もしかしたら、グラハムに連れられて他の子供たちと一緒に森に行っているかも知れない。
飽きる事無く流れて行く景色を眺めていたマルグリットが、少し身を乗り出して遠くを見た。
「なんかあるぞ」
「ん?」
アンジェリンが顔を上げるよりも先に、マルグリットはひらりと馬車から飛び降りると、草の間を縫うようにして駆けて行った。そうして草の間から見えていた棒のような物を引き抜いて戻って来た。
「剣だ……剣か、これ?」
「うわ、錆び錆びじゃん」
柄の長い武器だった。柄も鉄でできているらしく、地面に刺さっていた刀身の部分は錆びて刃がこぼれている。槍にしては刀身が長めで、剣にしては柄が長い。あまり馴染みのない武器である。
マルグリットはその武器を持ち変えながら周囲を見回した。
「草に埋もれてるけどさ、結構こういう錆びた武器とか防具が転がってるぜ、この辺」
「へえ……昔の戦場か何かかな?」
アンジェリンがそう言ってベルグリフの方を見ると、ベルグリフは頷いた。
「多分そうだろうな。その武器は馬上で扱いやすいような形状なんじゃないか」
なるほど、確かに馬の上からでは射程のある武器の方が有利だろう。
マルグリットは立ち上がって振りかぶると、拾って来た武器を放り投げた。武器は遠くに飛んで行って、地面に突き立った。
「しっかし、なーんもないな。魔獣の一匹でも出りゃ楽しいのによ」
「ダンジョンの中でもないのに、昼日中に襲撃して来る魔獣なんかいるもんかい」
カシムがそう言って大きく欠伸をした。そうして山高帽子を顔に傾けて寝る体勢に入る。
マンサを出てもう二日だ。ずっと平原が続いていたが、今日の夕暮れには山脈の裾辺りにまでは行きそうだ。ただ、地図からすれば道は山脈に沿ってはいるが、近くを通るというわけではないようだ。そうなるのはもっと南に下ってからのようである。
エストガルにまで行くのに半月近くはかかったのである。それよりも遠く南へ行こうというのだから、まだまだ時間はかかるだろう。空間転移も飛行の術も使えないのだから当然である。
しかし、そういうのが旅の良いところだとアンジェリンは思う。あんまり速過ぎると、こうやって景色を楽しんだり、話に花を咲かせたりはできない。
馬に水を飲ませたり草を食ませたりと休憩をはさんで進むと、次第に陽射しが黄金色を増して来て、何だか質量まで持ったようになって来た。進む方向に陽が沈んでいくから眩しい。アンジェリンが目をしばたかせていると、不意に強い風が吹いて、揺れる草が擦れ合ってざあざあと音を立てた。
横を見ると、ベルグリフは目を閉じて腕を組んでいた。寝ているわけではないようだが、少しばかりうとうとしているようだ。
アンジェリンはそっと四つん這いになってマルグリットの横に行った。
「何か見える……?」
「草ばっかだぜ。でもたまにでっかい岩とかあるし、やっぱり古い武器が転がってるみたいだ」
草原は緩やかに起伏して、場所によっては丘陵のようになっている場所もあった。あの上から不意を突いて盗賊の騎馬隊が一斉に下って来たら、自分一人では流石に対処しきれないかな、と思う。
しかしカシムもミリアムもいるし、何よりそんな襲撃はベルグリフが真っ先に気付くだろう。何も心配することはない、とアンジェリンは頷いた。マルグリットが怪訝な顔をしている。
「何考えてんだよ」
「盗賊が襲って来るならあっちかな、って」
「ははあ、なるほどな……でも今は逆光だから、あっちからも来そうじゃねーか?」
マルグリットはそう言って馬車の向かう方を指さす。確かに眩しい。光を背に来られては不利だろう。
「アーネ、前の方には誰かいそう?」
「いや、そういう気配はないな」
逆光除けだろう、ミリアムの帽子を目深にかぶったアネッサが振り返った。
「何か飲み物くれないか?」
「林檎酒?」
「いや、酒じゃない方がいいな」
「ん……薄荷水でいい?」
「うん、ありがと」
「襲撃があるとしたらさ、まず遠弓がざーって来るよね、多分」
ミリアムが鞄を漁りながらそう言った。アンジェリンは頷く。
「それでこっちが慌てたところで、高い所から一気に下って来る……と思う」
「射手の数が少なければ御者を狙うよねー。アーネ、気を付けないとー」
「そんなの飛んで来ればすぐ分かるって……」
「じゃあ、まずは弓矢対策かよ。どうすんだ? おれ、自分を狙って来る矢は全部叩き落せる自信あるけど、飛んで来る奴全部は無理だぜ?」
「マリーは護衛依頼は受けた事あるの……?」
「んー、ベルと一緒にトルネラから出る時のも護衛っちゃ護衛か? でもオルフェンに来てからはまだ受けてないな。ほら、下位ランクで一人でやってる奴は護衛依頼来ねーんだよ、知ってんだろ? パーティ組んでからってユーリに言われた」
高位ランク冒険者ならば、一人であっても護衛依頼を任される事はある。しかし下位ランクの冒険者ではパーティを組んでいなくては安全面からも信用面からも任せられないようだ。
そういえばそうだったな、とアンジェリンは頷いた。
「弓矢対策は、隊商の場合は他にも依頼を受けた護衛がいるから、その人たちと相談……でも、大概は馬車の横に矢除けの板が立てられるようになったりしてる」
「へえ、なるほど……そういやそうだったな」
青髪の女行商人の馬車を思い出したらしい、マルグリットは腕組みして頷いた。
アネッサが前を向いたまま口を開いた。
「そういえば、隊商の護衛は一人でも受けられる筈だぞ。あれは一パーティだけじゃなくて、他にも冒険者を集めて、頭数を揃える筈だからな」
「あれ、そうなのか? おれ、全部駄目だと思ってそっち方面の依頼は全然チェックしてなかった……アーネはそうやって一人で受けたのか?」
「いや、わたしとミリィはアンジェと組む前は孤児院の仲間でパーティ組んでたから、護衛依頼は問題なく受けてたよ。なあ、ミリィ?」
「そうだねー。あの頃は遠くまでは行けなかったけど、それでもあちこち色んな所に行って楽しかったなー」
「アンジェは?」
「わたしはさっさと高位ランクになったから、そういう悩みはなかった……」
「ちぇっ。見てろよ、おれもすぐにSランクになってやっからな」
「でも、護衛は護衛対象との連携も大事だから……自分勝手なマリーには不向き」
「なんだとー。お前だって似たようなもんじゃねーか、不愛想者の癖して」
アンジェリンとマルグリットはふざけて互いを小突き合った。
「ほらほら、喧嘩しなーい。甘いものでも食べにゃー」
ミリアムが笑いながら袋から砂糖まぶしのビスケットを取り出した。
やがて山脈に太陽が隠れ、馬車の走る辺りは影になった。
吹く風が肌にひんやりするようになって来て、アンジェリンは脱いでいた上着を羽織り直した。見上げる空は真っ青で輝いているのに、自分たちのいる辺りが暗いのが何だか可笑しい気がした。
石でも踏んだのか、馬車が大きくがたんと揺れる。その拍子に頭でも打ったのか、荷台で横になっていたカシムが「んがっ」と声を上げて起き上った。
「んあー……ありゃ、暗くなってんじゃん。オイラ、結構寝ちゃった?」
「カシムさん大丈夫……? 夜寝れなくなるんじゃない?」
「いいよ別に。そしたら夜の見張りしてやるから」
カシムはそう言って伸びをし、首や肩を鳴らした。
さらに日が暮れて、山脈の向こうが真っ赤に焼け始めた頃、小さな廃村に一行は辿り着いた。
崩れかけた石積みの建物の陰に馬車を停め、伸び放題の木に馬をつないだ。井戸はとうに枯れて崩れて埋まっている。しかし近くに小川が流れているようであった。
薪を集めて火を熾す頃には山脈の稜線に沿うように紫色、天頂の方が藍色に染まり、千切れたように浮かぶ雲の下半分だけが夕日に焼けて赤くなっている。星がぽつぽつと輝き出していた。
昼間は涼風というようだった風が、陽が落ちると身震いするような冷たさを伴っていた。しかし古い石壁が良い具合に風よけになってくれていて、壁に寄り掛かっていると風の冷たさは随分和らいだ。
マルグリットが鼻歌交じりに夕飯をこしらえている。言動は粗野なエルフの姫も、料理に関してはアンジェリン以上だ。何となく悔しい。別に自分だって料理が作れないわけではないが、オルフェンに帰ったらもう少し練習しようかと思う。
ベルグリフが取っ手付きの小箱を置いた。
「マリー、調味料置いておくぞ。使い過ぎないようにな」
「分かってるよ、おれに任せとけって」
小箱を開けて、小瓶の中身を確かめながら味付けをしているマルグリットを尻目に、ベルグリフはマントを羽織って踵を返した。アンジェリンも立ち上がって後を追う。
「何処行くの、お父さん……?」
「ああ、少し周りを見回っておこうと思ってね……何があるか分からないし」
「わたしも行く……」
「来るか? じゃあちゃんとマントを羽織って来なさい」
まだ月は上っていなかった。しかしもう目が暗闇に慣れて、歩くのにもなんの支障もない。
ベルグリフはいつも以上に慎重に歩いていた。草に埋もれて大小の石が転がっている。左の足でならばともかく、右の義足で変な風に踏んでは転んでしまうのだろう。
屋根が抜けて崩れてしまった廃屋がいくつもあり、雨風に晒されてすっかり角がなくなってしまった女神ヴィエナの神像が転がっていた。畑もあったのだろうが、もうその名残は全く残っていない。
ベルグリフ曰く、この村は帝国系の人々が移り住んだものだろうとの事だった。
ティルディスの遊牧民たちは主として土台のある家を持たず、大きなテントを利用して国中を行き交っている。もっと東のキータイに近い方になれば石造り、土造り、木造りの家も多いというが、この辺りの草原の民はそういった家は作らないそうである。
「すごい。詳しいね、お父さん……」
「はは、本で読んだだけだよ。確かまだ家にしまってあった筈だから、今度帰って来た時に読むといい」
「うん!」
歩きながら、アンジェリンはこの辺りにも古びた武器の残骸が転がっているのに気付いた。もしかしたら、この村は戦禍によって廃村になってしまったのだろうか、と思う。
「ここにも武器がいっぱい……」
「ああ……もう随分昔のものだろうね」
ベルグリフは周囲を見回し、顎鬚を撫でた。
「魔獣の気配もないし、悪いものの根城になっている様子もなし……さ、戻ろうか」
「うん!」
アンジェリンはベルグリフの手を握った。
温かな干し肉と豆のスープと堅パンを食べ、食器や鍋など諸々を片付ける頃には半月が昇って、草原を青白く照らしていた。
壁を背にたき火を眺めていると、火が揺れる度に背後に映る影がゆらゆらして、それが自分を見下ろしているような気がして何となく落ち着かない。そういうつもりはなくても、アンジェリンは何度も後ろを振り返った。
荷物を点検していたらしいアネッサが、弓矢を持って立ちあがった。ミリアムも杖を持っている。
「ベルさん、ちょっと行って来ます」
「ん? 何かあったのかい?」
「食糧調達ですよー。兎獲って来ます、兎」
そう言ってミリアムは杖を振った。
確かに、シエラから食料品は提供してもらっているとはいえ、それにばかり頼りきりなのも考えものだ。現地調達できるに越した事はない。アンジェリンも立ち上がった。
「手伝う……」
「そうか? 助かるよ。じゃあくくり罠を……」
「おれも手伝う事あるか?」
マルグリットが期待に満ちた目でアネッサを見ている。アネッサは苦笑して頬を掻いた。
「実際に仕留めるのは矢が一番だけど……マリーは目はいいよな?」
「おう! 夜目も利くぜ!」
「じゃあ兎を追い込むのを手伝ってくれ」
「やった! やるやる!」
そういうわけでベルグリフとカシムを残して、アンジェリンたちは平原へと出た。相変わらず風が吹いているが、吹き付けるというよりは髪を揺らすといった程度だ。月明かりで嫌に明るいが、色彩が乏しい分だけ何だか見える風景が作りもののように感じた。
「けど、なんで今からなんだ? 昼間の方が見えるじゃんか」
「鳥ならそれでいいけど、兎は夜行性だからな。夜じゃないと出てこないよ。この辺の兎は特に夜しか出ないみたいだしな」
実際、南に下り始めてから昼間に兎の姿を見る事はなかった。夜に野宿をしているとそれらしい気配がしていたから、アネッサも夜の狩りを思い立ったのだろう。
マルグリットは感心したように腕を組んだ。
「なるほどなー……トルネラの森じゃ兎は昼間も見るから、なんでだろって思ったよ」
「森は見通しが悪いからだろうな。昼間でも天敵に見つかりにくいんだよ。この辺は見通しがいいから、夜じゃないと出てこないんだと思う」
「……マリー、そういう観察をちゃんとしろってお父さんが言ってたでしょ?」
「ぐむ……」
マルグリットは口を尖らした。
アンジェリンは身を低くして、石の陰や凹凸のある場所にくくり罠を幾つか仕掛けて、乾燥豆を数粒置いた。これは明日の朝に確認するものである。時折、草の間を何かが走り抜けるらしい、風とは違う揺れ方をした。
向こうを見ると、風下の方にアネッサが立って弓を構えている。
風上の方から、マルグリットがわざと音を立てるようにして駆けた。
ざっざっと音を立てて、草むらから兎が飛び出す。
同時にミリアムが魔法で光球を打ち上げて、閃光のように炸裂させた。兎は目が眩んだのか驚いたのか動きを止める。
そこにアネッサの放った矢が突き刺さった。
「よし」
「いえーい、ばっちりー」
アンジェリンは走って行って仕留めた兎を拾い上げる。もう何も映さない瞳に月光が反射していた。
「まだ獲るよね……?」
「ああ、そうすればしばらくは肉に困らないし」
塩漬け肉や干し肉の節約にもなる、と言いかけてアネッサが怪訝な顔をした。
「マリー、どうした?」
マルグリットはかがんで両手で顔を覆っていた。
「……目が」
「もー、ピカッてするから気を付けろって言ったのにー」
どうやらミリアムの放った閃光をまともに見て、目が眩んでしまったらしい。アンジェリンは思わず吹き出した。
「……やっぱりマリーはまだまだ半人前」
「ぐうー、ちくしょー」
マルグリットは悔しそうに呻いたが、見えないからどうしようもないらしい。アンジェリンは笑いながらマルグリットの手を取って立たせてやった。
「大丈夫、すぐ見えるようになる……」
「うぐぐ」
背後でぱしん、と音をさせてまた閃光が迸った。風切り音がして、兎に矢が突き刺さった。
閃光が止んだ後の草原を、半月が明るく照らしている。




