八十六.自分の呼吸の音が嫌に大きく
自分の呼吸の音が嫌に大きく聞こえた。
赤髪の少年は葉の茂った木を背に様子を窺いながら、額から伝う汗をもどかしげに拭った。
嫌に生ぬるい風が吹いている。心臓が早鐘のように打っている。ぱちん、と小枝が折れるような音がする度、少年は息を呑んで腰の剣に手をやった。
この向こうに何かがいる。さっきから、ピリピリと肌を刺すような魔力を感じる。
口の中に唾が溜まる。飲み下す音さえも相手に聞かれはしないかと不安になる。
やがて気配が薄まった。肌を刺す魔力が遠ざかって行く。
少年は少し体の力を抜き、しかし緊張感を保ったままゆっくりと後ずさった。枯れ枝を踏まないようにすり足で、音を立てないように。
やや離れた所まで行き、少年はようやく息をつく。胸につかえていた不快な緊張感も吐き出されるようだった。少しずつ心臓の音の感覚が長くなり、ほんの少し気分が楽になる。
「……どうしたもんかな」
何度も精神力の限界を感じた。しかし、こんな所で諦めるわけにはいかない。
もう都合五日は経っただろうか。
陽の動きこそあるようだが、あまりに緊張感を保ち過ぎている為か、時間の感覚すら希薄になって来るようだ。
それでも腹は減る。少年は鞄から炒り豆を出して何粒か口に入れ、時間をかけて噛み砕いた。それから干し肉をひとかけら、これもゆっくりと咀嚼する。塩をひとつまみ舐め、水筒の水を口に含み、口内をすすぐようにしてゆっくりと飲み下す。
水筒を振る。昨日見つけた湧水で中を満たした筈なのに、もう半分もない。しかし飲まなければ死ぬ。止むを得ない。
火を通したものが食いたい、と思った。だが慌てて頭を振って考えを吹き飛ばす。そんな事を考えると腹が鳴る。
Eランクのダンジョンの筈だった。しかし、内部に転移の罠があったのだ。
ダンジョンは魔力が溜まる事によって、地形や空間に歪みが生じて構築される。外から見れば大きくないように見えても、町一つくらいの大きさを持つ事だって珍しくない。内部で空間が歪んでいるからだ。
ダンジョン内部では常識は通用しない。魔力次第では何が起こるか分からないのだ。
下位ランクのダンジョンは魔力が薄い分それほどではないが、魔力の濃い高位ランクダンジョンともなれば、魔獣のランクが上がるのはもちろん、内部の入り組み具合、罠の悪質さなども段違いだ。
そして、下位ランクのダンジョンであろうとも、ふとした魔力の流れの変化でイレギュラーが起こる。赤髪の少年のかかった罠も、そういった類のものだった。
徘徊している魔獣からして、どうやら最低でもAランクはあるダンジョンに飛ばされたらしい。
Eランク、それも駆け出しもいいところの少年では、気を抜けば即座に死が訪れる難易度だ。
一人でダンジョン探索に来たわけではなかった。五人パーティだった。だが駆け出しの若い冒険者にありがちな、勢い任せで思慮に欠いた連中ばかりであった。そのせいか少年の慎重さは仲間内でも理解されず、押しに弱い性格も相まって、既にパーティ内で貧乏くじを引かされる立場にあった。
「……過ぎた事を言っても仕方がないとはいえ」
行き止まりの先に宝箱が置いてあったのだ。ダンジョン内には時折そういった不自然なものがある。人間の欲望に魔力が反応して物質化させているのだと言う者もあるし、その中で力尽きた過去の冒険者の持ち物が、魔力によって元のあるべき形へと戻ったのだと言う者もある。しかし真実は未だ分かっていない。
パーティメンバーたちがその箱を嬉々として開けるやそこいらに魔法陣が広がり、気が付くと転移していた。洞窟系のダンジョンにいた筈なのに、周囲が緑に覆われていたから、別の場所に来たのはすぐ分かった。別々の場所に飛ばされたらしく、仲間の姿はない。
不自然だから気を付けろと言ったのに、と少年は再び怒りが沸き上がって来るのを感じた。しかしここで冷静さを欠いては危ない。
死ぬぞ、と無理矢理自分に言い聞かせ、頬を両手で叩いて大きく息を吐く。
ともかくダンジョンを出る事が最優先だ。しかし急ぎ過ぎて高位ランクの魔獣に遭遇したり、却って迷って水や食料が尽きたりする方が危険だ。
皮肉にも荷物持ちを押し付けられていたのが幸いして、今まで食料に難儀はしなかった。しかし、もうそれも先が見え始めている。あまり長い探索の予定ではなかったから当然だ。空腹を抑える程度に、となるべく食べ伸ばしていたが、そろそろ限界である。森だから食材の採取も可能といえば可能だが、あまりそれに期待し過ぎるのもまずい。ジリ貧状態は精神的に来る。
荷物のある自分でこれでは他の連中はもう、と少年は嘆息した。まして勢いで突っ走る連中だ、格上の魔獣にも挑みかかるか、恐怖で動けなくなるかどちらかだろう。
あまり好ましい相手ではなかったが、それでも多少なりとも付き合いのあった者たちが死ぬというのは良い気持ちはしない。
赤髪の少年は荷物を背負い直し、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。
森には慣れていた。
故郷の村は森が近く、あまり深い所までは行かないとはいえ、薬草の類や茸を採取したり、時には狩りをしたりする事もあった。身の隠し方や、歩く時の注意点なども頭に入っている。
少年は持ち前の用心深さで魔獣との遭遇を避け、安全を重視して進んだ。
地面を見て足跡を探り、木の幹の傷などにも注意を払った。あまりに新しい足跡や傷のある方角は避け、場合によっては大きく迂回した。
途中途中で木に登って向かう方角を調整した。確かに進んではいるのだが、空間の歪みのせいか、確認する度に目的の平原は場所を変えていた。
キッ、キッ、と何かの鳴き声がした。
少年は体を硬直させて剣の柄に手をやる。
ばさばさと音をさせて近い所から飛び立って遠ざかって行った。鳥だろうか。
次第に辺りが暮れかけて薄暗くなって来る。
少年はこれ以上進む事を諦め、手ごろな木を見つけるとよじ登った。方角を確認する以外に、夜は木の上で眠る事にしていた。これだけでかなりの数の魔獣を避ける事ができる。
木の上で炒り豆と干し肉を食い、水を飲む。水筒はもう一口分の水しか残っていない。どこかで補給できればいいが、と少年は眉をひそめた。いざとなればミズの木の枝でもしゃぶって渇きを誤魔化すしかない。
やがてすっかり日が落ち、森の中は重苦しい漆黒の闇が覆い尽くした。
空には星も月もなく、時折燐光のような不可思議な光が蛍のように明滅するばかりである。おちこちで魔獣か野獣か、正体の分からない生き物の鳴き声がする。
少年は、時折顔の傍で音を立てる羽虫を追い払いながらも、うつらうつらと舟を漕いだ。
警戒心が解けるわけではないが、それでも疲労から来る脱力感で眠気はやって来る。そうなると、周囲の闇すら温かに自分を包み込んでくれるような気がするから不思議だ。
眠気と覚醒の狭間の薄ぼんやりとした意識の中で、何かかさかさという音を聞いた気がした。
突如として体を押して来るような不気味な気配に、うとうとしかけていた少年は総毛立って跳ね起きた。
それはまったく運が良かったと言っていい。何かべとべとしたものがさっきまで少年のいた所に張り付いた。
眠気が一気に吹き飛び、少年は腰の剣に手をやる。赤く光る八つの目が、ぎょろぎょろと動きながら少年を見ていた。
○
一息入れるように、ベルグリフはお茶のコップを口に運んだ。興奮した様子で頬を朱に染めたアンジェリンが身を乗り出す。
「それでそれで!?」
「蜘蛛か!? 倒したのか!?」
マルグリットが急かすように両手をこぶしに握ってテーブルを叩く。ベルグリフは少し考えるように視線を泳がした。
「倒した……わけじゃないな。ともかく逃げなきゃと思って、何とか逃げ出した」
「えー、なんだよ詰まんねえなあ」
「でもよく逃げられましたね。樹上で蜘蛛系の魔獣相手なんて、すごく不利じゃないですか」
アネッサの言葉にベルグリフは頷いた。
「俺も駄目かと思ったよ。ひとまず荷物を下に投げ落として、どうやって降りようか必死で考えた。幸い、ずっと暗がりにいたから目は慣れていて、枝の輪郭は見る事ができたから、糸をかわしながら少しずつ下の枝に乗り移って……最後はなけなしの発光玉で蜘蛛の動きを止めてね、夢中で飛び降りたな。足が痺れたけど、荷物を掴んで走って……這う這うの体ってのはああいうのを言うんだな、きっと」
「格上の相手に会った時は、逃げる事を念頭に置いて退路を確保する。で、相手の虚を突いて動きを止めて……」
「ははは、よく覚えてるなあ、アンジェ」
小さな時に教わった事をそらんじて見せるアンジェリンに、ベルグリフは嬉し気に笑った。アンジェリンも得意気にんまりと笑みを浮かべる。
ミリアムがお茶のポットにお湯を注いだ。
「じゃあ、その時の経験がベルさんの体に残ってるんですねー」
「そうだな……あの時は本当に死と隣り合わせだった。感覚が鋭敏になるっていうのかな。後になってそれを活かせたかは分からないけど、それまでよりももっと臆病者になったのは確かだな」
ベルグリフはそう言って笑った。カシムがちょっと不満そうに頭の後ろで手を組む。
「何言ってんだい、その用心深さのおかげでオイラたちは助かったんだぜ? そんな卑下するみたいに言うもんじゃないよ」
「そうですよ。それに発光玉で動きを止めて、蜘蛛を倒そうとしないのが凄いと思いましたよ。相手の動きが止まったら何とか倒そうと思っちゃうだろうな、わたし……逃げる判断を下せる凄さを知ったのは、高位ランクになってからでしたよ」
アネッサがそう言ってお茶をすすった。そうやって油断して格上に挑みかかり、命を落とす若い冒険者は後を絶たない。ベルグリフは照れたように微笑んで顎鬚を撫でた。
「はは、そう言ってもらえると何だか嬉しいな……」
ちりちりと蝋燭が音を立てた。随分短くなっている。夜更かしもいいけれど、くたびれているし、ぼつぼつ眠い。ベルグリフは伸びをした。
「さて、今日はここらにしようか。そろそろ寝よう」
「ん……ふあ、あー」
思い出したようにアンジェリンは大きくあくびをした。マルグリットはまだ物足りなさそうだが、まだ先が長いという事を思い返して納得したらしい、文句も言わずに立ち上がった。
「おやすみ、お父さん」
「ああ、お休み」
「へっへっへ、アンジェリンちゃん、お父さんに添い寝してもらわなくて大丈夫?」
「もう、カシムさんの意地悪」
アンジェリンは頬を膨らましてぷいと部屋から出て行った。少女たちはくすくす笑いながら口々にお休みを言ってその後に続いた。
ベルグリフは嘆息して、開いたコップにお茶を注いだ。カシムが面白そうな顔をしている。
「娘が親離れしちゃって寂しい? ベル」
「何言ってるんだ……大体、添い寝したがらなくなっただけで、くっつき癖は相変わらずだよ」
「それもそうか」
ここのところ、アンジェリンは前のようにベルグリフと一緒の布団で寝たがらなくなっていた。カシムにからかわれるのも少し気になったようだ。
別にベルグリフとの仲の良さはいくらでも揶揄されても気にならないが、尊敬する父親の手前、小さな子供の様に扱われるのが少し気恥ずかしくなって来たようである。
成長というのか何というのか、べたべた甘えて来るうちは独り立ちできるものだろうかと不安に思ってはいたが、実際にそうなって来ると何となく寂しいような気がするのが勝手だなあ、とベルグリフはお茶を含んで椅子の背にもたれた。慣れなくてはいけないのは子供だけではなく親の方も同じようだ。むしろ親の方が、と思う。
カシムがあくびをした。
「……パーシーは何をやってるんだろうね」
「さてね。ヤクモさんたちの話じゃ魔獣を倒し続けているんだろうが……」
「なのかなあ……」
カシムは目元に浮いた涙を指先で拭い、頭の後ろで手を組んだ。
「でもきっと君と会えれば喜ぶよ。ずっと気にかけてたようなものだもの」
「そうだといいんだが……」
それでも不安は拭えない。
時間というのは傷を癒しもするが悪化させもする。カシムは楽観的だが、ベルグリフは少し怖かった。それでも会わないという選択肢はあり得ないのだが。
「パーシーに会ったら、次はサティだね」
「はは、そう簡単にいくかなあ……」
「意外にそうなるもんだよ。だってこの短い間にオイラは君に会えて、今度はパーシーに会おうとしてる。なんかさ、サティにも会えそうな気がするんだな」
「そうだといいんだがね。もちろん会いたいとは思っているが……」
「それなら大丈夫さ。人の意思や願いってのは馬鹿にできないもんだよ。魔法を扱ってると尚更そう思う」
「そうか……そうだな」
カシム曰く、魔法は魔力を利用して自分の外側に干渉する技術だそうだ。つまり、自分の望みを叶えるのと同義だという。人間の意識の流れに沿って魔力は流れ、そして現象を引き起こす。事象すらも引き起こすかも知れない。
再会という流れに沿って、俺たちは進んでいるのだろうか、とベルグリフは目を伏せた。
「望んでいれば……巡り合えるって事か」
「そういう事! オイラは挫折しかけたけど……信じる事って大事だね」
カシムは笑いながら、寝る為だろう、髪の毛を束ねた。
「しっかし、楽しみだなあ。オイラ、パーシーに会うのもそうだけど、これからの旅も楽しみだよ。へへへ、後で聞いたらパーシーが羨ましがって怒るかもね」
「どうだかな……」
会うのが怖くないとは言えない。だが、それ以上に会いたい。
あいつはどんな顔をするだろう、とベルグリフは微笑んでお茶を飲み干した。蝋燭の火が揺れて、二人の顔の影がゆらゆらと動いた。
○
来るぞおッ!
と穴の縁で誰かが叫んだ。周囲で腰をかがめていた冒険者たちが一斉に立ち上がり武器を構える。
穴の奥から風が吹き上げて来たと思うや、一緒になって細長いものが吹き上がって来た。
銀龍だった。
蛇のように長い体を銀色の鱗が覆って光っている。頭から背中にかけて馬のたてがみのように毛がなびき、大きく裂けた口からは鋭い牙が覗いている。
龍は体をくねらせながら夕暮れの空へと舞い上がると、唸り声を上げて眼下の冒険者たちを睥睨した。
射手や魔法使いたちが一斉に矢や魔法を放つ。どれも高位ランク相当の強力なものだ。しかし龍は体をくねらせたと思うやそのすべてを薙ぎ払った。冒険者たちがどよめいた。
龍が咆哮した。その声は衝撃波のように冒険者たちの肌にぴりぴりと突き刺さった。
鞭のようなしなやかさで身を振ったと思うや、龍は放たれた矢のように一気に下降して来た。冒険者たちが武器を構える。
流石に高位ランクの実力者ばかりだ、龍の突撃にもまるでひるまない。むしろ近づいて来たのは好機だとばかりに剣士たち始め前衛職の者たちがかかって行く。しかし龍の魔力も含んだ頑強な鱗は生半可な攻撃では傷さえつかなかった。
「オラァ! どきやがれ!」
巨大な戦槌を振り上げた男が跳躍し、龍の胴体をぶん殴った。
龍は怒ったように声を上げ、尾を鞭のように振る。大半の冒険者は武器で防御したりかわしたりしたが、幾人かはまともに受けて跳ね飛ばされた。
「くそっ、流石に一筋縄じゃいかねえか……」
「いつもの事だろ! 着実に削るぞ!」
しかし一斉攻撃を察知したのか、龍は一気に上空に飛び上がった。
空を飛ぶ分、巨人や地龍などよりも少し厄介である。しかし、ここに揃うのは高位ランクの実力者ばかりだ。負けこそあり得ないだろうが、誰もが長期戦を予想した。
その時、後ろの方で誰かが咳き込んだ。枯草色の髪の毛を揺らしながら、獅子のような男が現れた。不機嫌そうに眉をひそめながら匂い袋を懐にしまい、腰の剣の柄に手をやっている。
冒険者たちがざわめいた。
「あ、あいつだ……」
男はじろりと周囲を見回し、それから上空の銀龍に目をやった。龍の方も男を見た。明らかに他の冒険者と違うものを見るように瞳を絞る。
「……お前じゃ俺は殺せねえな」
男は詰まらなそうに剣を抜いた。まるで波のような模様が幾重も刀身に走る片刃の長剣である。
侮られた事を悟ったのか、龍が怒ったように咆哮した。凄まじい威圧感がびりびりと肌を揺らす。身を縮めたと思うや、恐るべき速度で矢のように男へとかかって行く。
男が一歩踏み出した。地面を砕くほどに深く踏み込むと、龍に向かって跳んだ。分厚いマントがはためく。
男は龍から一切目を逸らさずに睨み付けた。互いの瞳に互いの姿が映り込む。
龍が吼えた。男も吼えた。下段に構えた剣を振り抜く。
一瞬、音が消えたようだった。龍の首から下、一部が消し飛んだように見えた。
龍の胴体は大の大人四つ抱え以上の太さがある。男の刀身よりも遥かに太い筈なのに、首と胴体は別れて、そのままの勢いで地面へと突っ込んだ。
マントをはためかせて男が着地する。
墜落した龍の死骸に近づくと、剣を振って龍の肉の一部をはぎ取り、それをかついですたすたと歩き始めた。見守っていた冒険者の一人がおずおずと前に出た。
「な、なあ、他はいつも通り……?」
男は面倒臭そうに頷いた。途端に冒険者たちが龍の死骸にわっと群がった。
「鱗! 鱗くれ、鱗! 頭に近い所がいい!」
「肝が欲しい奴はいるか? いなきゃもらうぞ!」
「牙だ牙! 一番長いのを譲ってくれえ!」
「慌てんじゃねえよ! おい、解体ナイフは?」
大騒ぎを尻目に、男は穴を離れて行く。多くの冒険者は高位ランク魔獣の素材に夢中だが、何人かは去って行く男の背中を苦々し気に睨んでいた。
歩き去って行く男に犬耳の少女が追い付いて服の裾を引っ張った。
「おじさん、おじさん」
男は少女を睨んだ。しかし少女はまったく怯えるそぶりもない。くりくりした目で男をジッと見ている。
「ドラゴンステーキ、作ってあげるよ、べいべ」
「……余計なお世話だ」
「だっておじさんいっつも焦がすじゃない。ばーにん、こげこげ」
「チッ……」
男は舌を打って、ぶっきらぼうに肉を少女に放った。少女は受け止めたが肉は重く、よろめいた。滴る血が少女の服を濡らす。
「へびい!」
騒ぐ少女を無視して男は歩き出した。魔獣を屠り、しかし素材には一切興味を示さず、せいぜいが食べる分の肉を剥ぐくらいだ。その肉だって適当に焼いて塩を振るだけの味気ない代物である。犬耳の少女とその仲間の槍使いの女が絡むようになってからは、時折まともな食事を取るようにはなっていたのだが。
ふと、昔の事を思い出す。
まだ若い冒険者だった頃、頼りになる仲間たちと肩を並べて戦っていた時の事を。依頼を終える度に馬鹿な話に興じ、あの赤髪の少年の作るうまい食事に舌鼓を打つ事も多かった。毎日が輝き、心躍った。
男は拳を握りしめた。
温かな思い出の筈なのに、男の表情は渋い。まるで苦虫でも噛み潰したかのようだ。
胸の奥がざわめき、不意に咳き込みそうになる。慌てて懐から匂い袋を取り出した。
「……忌々しい」
男は呟いた。苛立った乱暴な足取りで去って行く。
よろめいていた少女を、後ろから黒髪の女が支えた。
「何をやっとるんじゃ、おんしは」
「今夜はご馳走だぜ、べいべ」
「ったく、おんしも鱗一枚でいいから素材の分け前をもらって来い」
「いいの。きっとおじさんは寂しいんだよ」
黒髪の女は嘆息した。
「儂らにどうせいちゅうんじゃ。ベルさんたちの事を教えるわけにはいかんじゃろ」
「だから傍にいてあげるのさ。すてんばい」
「儂らで代わりになるもんかい。鬱陶しがられとるぞ、おんし」
「本気で嫌だったらぶっ飛ばされてる筈」
「むぬ……まあ、そうかも知れんが……」
犬耳の少女は服から突き出た尻尾をぱたぱた振った。
「ベルさんたちは来る……きっと来る。それまで、おじさんの気を散らして思い詰めさせないようにしてあげるの」
「……まあ、好きにせい。儂は怖くて無理じゃ」
黒髪の女は呆れたように息をつき、煙管を取り出して咥えた。犬耳の少女はふらふらしながらも肉を抱えて男の後を追っかけた。




