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八十二.暗く、長い回廊のように


 暗く、長い回廊のように木々の枝が絡んで奥まで続いていた。

 あちこちに緑色の燐光のような光が絶える事なく灯っては消えを繰り返し、そこいらを淡く照らし出している。

 足の下にも枝か根か、ともかく木が絡み合っている。回廊全体で枝が絡み合ってできているような感じだった。


 脇腹の傷に顔をしかめながら、グラハムはそこを歩いていた。背中にはミトをおぶっている。

 ミトは泣き疲れたせいか、それとも別の何かのせいなのか、眠ってこそいないものの、やや眠そうにとろんと目を半開きにしていた。

 リン、と鈴のような音が時折耳に届いた。陰鬱な影が覆いかぶさっているのとは対照的に、妙に涼し気で柔らかな音である。


 回廊は一本道であった。

 奥から生ぬるい風が吹いて来て、グラハムの銀髪を揺らした。あまり気持ちのいい風ではなかった。腐臭にも似た妙な生臭さが風に乗って鼻を突いた。


 どれくらい歩いたのか見当もつかないけれど、やがて回廊が広くなり出した。というよりも、回廊からぽっかりと開けた所に出た、という具合である。

 周囲は光を通さぬ闇に覆われて、足の下も地面がある事は分かるけれど、真っ暗で何だか分からない。しかし、回廊と違って枝が絡んでいるものではないようだ。平べったくて、凹凸がない。


 ふと、向こうの方からゆさりゆさりと枝葉の揺れる音がした。

 グラハムの目の前の闇の向こうに枯れかけた巨木の姿がぼんやりと現れた。その幹は大人が何十人も手をつないで始めて周りを囲めるくらいの太さがある。そのあちこちにコブやうろ(・・)があって、更に一部が変に突出して捻じれている部分もあり、決して真っ直ぐな印象は受けない。


 気が付くと、まるでグラハムを中心に円を描くようにして、周囲を幾つもの大きな木が囲んでいた。

 どの木も立派に大きく太いが、どれも幹が変な風に捻じれて、葉の色もくすんで綺麗ではない。生きているのか枯れているのか分からないような代物である。


 グラハムは黙ったまま眼前の巨木を睨んでいた。その木が他の木よりも一際大きく太い。時折心臓を握られるような不快な痛みが彼を襲ったが、彼は顔をしかめるだけで微動だにしなかった。

 やがて木々の幹から青白い燐光が幾つも現れて、宙に漂う。それで辺りが照らされて明るくなって来た。


 次第にその一部が一か所に集まり始めた。集まった燐光は少しずつ人の形を作り、グラハムの前に浮かび上がった。その輪郭には長い耳が窺える。エルフだ。


『……子よ』


 声がした。森を吹く風のような声だった。グラハムは微かに首を動かしただけで黙っている。


『よくぞ……ここまで』

「そなたが氏族の長か」


 グラハムが言った。燐光のエルフは頷いたように見えた。


『そなたを傷つけてしまった事、謝らせて欲しい……』

「構わぬ。それよりも、この森の事に関して聞かせてもらおう。これほどまでに憎しみと悪意ばかりの森は知らぬ。そなたらはどこからやって来たのだ?」

『……我らはここより南西の地より来た。神代の頃より存在する古き森だ』


 古森の歴史は非常に古かった。まだ大陸を支配する者の現れる前から、森は様々な生き物をそこに住まわせながら、静かに生と死を繰り返していた。 

 自然に属するものすべてに言える事ではあるが、森は慈愛の面と非情な面を併せ持っている。生の喜びと、暗い死の影とが常に同居しており、循環と小さな変化の連続により、森は常に代謝を繰り返していた。


 そんな性質を持っているから、来る者は誰でも受け入れるだけの懐の深さはあったが、支配に対してはどんなものに対しても激烈に抵抗した。


『森の憎しみと悪意は、外敵と戦う為に森本来の部分とは別に大きくなった……戦うという事は、攻めであろうと守りであろうと敵に攻撃するという事だ。憎しみというものは、ある種の戦いの為の原動力になる……』


 燐光のエルフの声は少し悲しげだった。グラハムも頷く。彼自身、戦いの際に魔獣に対する敵意と憎しみを震わせて力を出した事もないではない。


「……それほど、この森を支配しようという者は多かったのか」

『左様……しかし、多くは森にとっては脅威ですらなかった。故に、憎しみや悪意をそこまで膨らませる必要はなかった……だが、ある時強大な敵と戦う事になったのだ』

「強大な敵か。いったい……」

『ソロモンだ』


 これにはグラハムも驚きに目の色を動かした。


「森はソロモンと戦ったのか……」

『そうだ。あれは尋常の相手ではなかった。ゆえに、森も自己防衛として戦う為の敵意と憎しみを肥大させた』


 燐光のエルフはまるで見て来たように語った。この燐光はエルフだけではなく、森そのものの意識も少し混ざっているのだろう。


『森はその面積の半分近くを失ったが、ついにソロモンに屈する事はなかった。ソロモン自身が元々森に興味が薄かったというのもあったろう。だが、森の悪意の側面は受けた傷の深さも相まって、防衛本能以上の存在感を持って森の影に潜む事になってしまった』

「……ゆえに戦う為の力を求めているのか」

『その通りだ……もはや森の悪意は力の為の力を求めている。その先に目的などない。だから我らも飲み込まれ、その魔力を奪われた。魂は未だ捕らわれたまま……』

「しかし分からぬ。何故森は目を覚ました?」


 ミトがトルネラに来てからしばらく経つ。魔力に惹かれて来たというならば、最初の森の異変騒ぎの時に姿を見せていなければおかしい筈だ。

 燐光のエルフは静かに首を振った。


『森の悪意を目覚めさせた者がいたのだ……白い服を来た男だった』

「何だと……? それはいったい」


 不意に、燐光のエルフは苦し気に身をよじらせた。その痛みがグラハムにも伝わり、彼も思わず顔をしかめる。背中のミトがもぞもぞと身じろぎした。


『何者かが……森の中へとやって来た……人間たちが……こちらに向かっている』


 グラハムは目を細め小さく笑った。長らく苦楽を共にした相棒の気配をうっすらと感じる。剣がこちらに向かっているのだ。ベルグリフたちだろうという確信があった。

 燐光のエルフはグラハムに向かって手を伸ばした。


『そなたに頼みがある……』

「……ミトを渡すわけにはいかぬ」

『……そのソロモンの落とし子を、そなたはどうするつもりなのだ?』

「分からぬ。しかし、この子は単なる破壊の申し子ではない……苦しむ事が分かっていて、みすみす手渡すつもりはない」


 ざわ、と周囲の木々の枝葉が揺れた。今まで身を潜めていた悪意が、少しずつ首をもたげて来たように感ぜられた。


『……そなたには、我らの苦しみが理解してもらえると思ったが……』

「十分に理解したつもりだ……だが、ミトを渡したところでそなたらの魂が解放されるとは思えぬ。森の悪意は更なる力を求めているだけだ。そなたらも捕らわれたままだろう」

『だが、ダが……そレでも、モウ、これ以上ハ……』


 燐光のエルフは明滅しながら身震いして頭を抱えた。声が凶暴性を帯びて来た。


『カイ……ホウ……ドうすルというノダ……我ラに、モっと苦しめト言うのカ……ッ!』


 木々が唸るようにして枝を振り上げ、根をくねらせながら前に押して来た。グラハムはミトを背負い直すと小さく体を動かして枝の一撃を軽くかわした。


「皮肉なものだ……ソロモンと戦う為に力を求めた森が、ソロモンの落とし子の力を求めようとは……」

『ググ……ガァぁあぁアあァァ……』

「……もう少し耐えてもらおうか。我が友人たちがそなたらを解放してくれよう」

『人間に……何ガできル……!』


 燐光のエルフは苦しそうに頭を押さえていたが、やがて幾つもの細かな光に散らばって形を失った。

 木々が吠えるような音を立ててグラハムに襲い掛かって来る。

 グラハムはその攻撃をかわしながら不敵に笑った。


「……我が友人たちを見くびらぬ事だな」



  ○



 周囲から迫っていた枝を、アンジェリンの一撃がまとめて吹き飛ばした。剣は唸りながら縦横に剣閃を走らせ、容赦なく敵を粉砕する。

 ひとしきり暴れ回ってから、アンジェリンは息をついた。


「全力で振り続けるのはきつい……ちょっと加減しないと……」


 遠くの巨大な芋虫を、カシムの魔弾が撃ち抜いた。芋虫は体液を噴き出して倒れた。


「へっへっへ、アンジェ、もう息が上がったんかい?」

「そんな事ない……でもこの剣、全力で振ると魔力の消耗が……」


 剣が唸って光った。アンジェリンは頬を膨らます。


「馬鹿にするなよ……! 絶対におじいちゃんの所に連れてってあげるもん!」


 アンジェリンは剣を握り直すと、大きく振りかぶって目の前の大蛇を斬り裂いた。そのまま体を捻って横から迫っていた大きな虫を斬り飛ばす。


「まだまだ……!」


 さらに周囲から迫っていた木の枝をまとめて切り払った。枝はばらばらと砕けてそこいらに飛び散った。

 その時、アンジェリンの頭上にビャクの立体魔法陣が飛んで来た。頭上の巣から一直線に降りて狙って来た蜘蛛の魔獣を魔法陣が挟んで押し潰す。

 アンジェリンは素早く地面を蹴って落ちて来る蜘蛛の残骸をかわした。

 ビャクの怒号が飛ぶ。


「バカヤロウ! 油断するんじゃねえ、馬鹿姉貴!」

「油断なんかしてない……」


 アンジェリンは唇を尖らして剣をぎゅうと握った。


 森に突入してから、一心に奥を目指しているけれど、周囲の木々だけでなく、魔獣も現れて行く手を阻む。先に進む程に数を増し、すっかり足止めを食うようになって来た。

 高位ランクのダンジョンでもこんな事はあった。最奥のアーティファクトの放つ魔力に惹かれて、近づくほどに強力な魔獣が徘徊しているのだ。それと同じと考えれば、別に何という事はない。

 アンジェリンは口を結び、更に魔獣を吹き飛ばそうと足を踏ん張った。


 その時、後ろからベルグリフの呼び声がした。


「アンジェ! あの奥だ! 虫のまとわりついている木を狙え!」


 アンジェリンは顔を上げて向こうを見た。周囲の木々に紛れて、捻じれてコブだらけの木が立っていた。あの極彩色の模様の虫がまとわりついている。アンジェリンは滑るような足取りで魔獣たちの間を縫って木に近づくと、力いっぱい剣を振り下ろした。刀身が幹にぶつかるや、激烈な魔力が迸り、まとわりつく虫や魔獣もろとも巨木を粉砕した。

 途端に、今まで寄せていた魔獣の気配が微弱になった。残った魔獣もカシムの魔弾で次々に撃ち抜かれて行く。

 アンジェリンは肩の力を抜いて、駆け寄って来るベルグリフの方を見た。


「お父さん……」

「よくやった。まだ行けるか?」

「うん! 全然大丈夫!」


 アンジェリンは嬉しそうに剣を担ぎ直して笑った。ベルグリフは微笑むと、崩れた木の幹を足の先でほじくり返した。


「……思った通り」


 崩れた木の破片の中から、古い骨が覗いていた。隣に立ったビャクが眉をひそめる。


「さっきもあったな……どういう事だ? 誰の骨だ、こいつは」

「さあな……ただ、相手は単なる魔獣じゃないってのは確かだ」


 正体不明ってのは厄介だな、とベルグリフはぼやいた。

 魔獣を粗方片づけたカシムがやって来た。


「こいつがこの辺の司令塔だったってわけか。よく気付いたねえ、流石ベル」

「なに、半分は勘だよ」

「もう半分は?」


 とアンジェリンが言った。ベルグリフは困ったように頬を掻いた。


「ほら、あの木はここに入る前にも魔獣たちを引き連れて来ただろう? だから、あの木を片付ければ何かが起こるとは思ったんだよ。それが何かは判断しかねたけど、あのままじゃ埒が明かなかったからね……まあ、皆が魔獣を抑えててくれたから見つけられたようなもんだが」

「……えへへ」


 アンジェリンはにまにま笑ってベルグリフの腕を取って頬ずりした。

 カシムの言っていた安心感。それが分かったような気がした。アネッサ、ミリアムも後ろを任せるに足る安心感はあるけれど、こうやって素早く全体の戦況を把握して、的確な指示や判断をしてくれる存在がいるというのは最高だ。

 アンジェリンは得意気な顔をしてビャクを見た。ビャクは怪訝な顔をした。


「なんだよ……」

「やっぱりお父さんはすごいだろ……?」


 ビャクは黙ったままそっぽを向いた。

 ふと、アンジェリンは思い出したようにビャクの顔を覗き込む。


「ビャッくん……」

「あ?」

「さっき姉貴って……」

「!!」


 ビャクはうろたえて目を白黒させた。


「……言ったよね?」

「言ってねえ。気のせいだ」

「ふふ、ふふふ……ビャッくんは可愛いのう……」

「言ってねえっつってんだろ!」


 アンジェリンはにやにやしながらビャクのほっぺたをつついた。カシムが面白そうに笑っている。

 ベルグリフはアンジェリンの頭をぽんぽんと撫でると、顔を上げた。


「さ、まだ終わりじゃない。先を急ごう」


 魔獣も減ったとはいえいなくなったわけではない。また奥の方から迫って来る気配を感じ、アンジェリンは表情を引き締めた。聖剣の唸り声に耳を澄まし、グラハムのいる方に当たりを付けて足を進める。

 進みながら、カシムが言った。


「しっかし、完全にダンジョン化してるね。じーちゃんとミト、大丈夫といいんだけど」

「うん……おじいちゃんなら大丈夫、だと思うけど……」


 グラハムとミトはもちろん心配だが、残ったサーシャたちも大丈夫だろうかと思う。

 アネッサとミリアムもいるから滅多な事はないとは思うけれど、心配し始めると切りがない。それに自分たちだって油断すれば危ないのだ。後ろを心配するよりも前に進まねば。


 散発的に現れる魔獣を撃退しながら歩を進めて行くと、アンジェリンの手の大剣がより強く光った。


「近いかも……」

「む」


 まるで蔦のような細い枝が縦横に絡み合って、大きな壁のようになっていた。上の方には濃い緑の葉が茂って、それが頭上まで覆っている。


「この向こうか……?」

「そうみたい……これを破らないと」

「よっしゃ、下がってて」


 カシムが指を前に出した。魔力が吹き上がって渦を巻き、服の裾や髪の毛を揺らした。カシムは片手で帽子を押さえ、もう片方の指先に魔力を集約させた。


『地を穿つ 空を穿つ 魂を穿つ』


 渦を巻いた魔力が木の壁に向かって襲い掛かった。まるで巨大な獣の牙のように木の壁に食らいついた。カシムが顔をしかめる。


()った……こりゃここが本丸で間違いないね」


 カシムの痩せた腕に力が込められ、血管が浮いた。魔力の牙は勢いを増し、ついに木の壁に穴を開けた。向こう側は真っ暗だ。壁を作っていた細い枝がずるずると音を立てて動き出した。穴を塞ごうと周囲からゆっくりと迫って来る。


 先を急ごうと足を動かしたその時、一行の周囲を取り巻くように浮いている立体魔法陣が、後ろの方に集まった。ビャクが振り向いた。


「新手だ」

「なに?」


 ベルグリフも見返る。微かな音を立てながら枝や蔦が絡み合って、まるで巨大な龍のような形を取っていた。枝はうっすらと妙な影をまとい、木でできた龍は偽物にもかかわらず本物のような威圧感を放っている。


 アンジェリンは咄嗟に剣を構えて前に飛び出した。

 牛の胴体ほどもある枝が、破城槌のような勢いで突き出され、防御に固まっていた立体魔法陣を突き抜けて迫った。アンジェリンはそれを大剣の腹で受ける。


「重……ッ!」


 魔法陣でいくらか威力を削られていてもこれだ。まともに受けては腕をやられる。

 アンジェリンは剣の角度をわずかにずらし、衝撃を斜めに受け流した。木でできた龍は枝と枝を軋ませながら咆哮した。張り合うように剣が唸り声を上げる。


 ビャクの立体魔法陣が幾つも飛んで木の龍に直撃した。

 魔法陣は球体に見えるくらいに激しく回転するが、木の表面をわずかに削る程度にとどまった。龍は吠えて身震いし、まとわりつく立体魔法陣を跳ね飛ばした。


 龍種は数多い魔獣の中でも最上級に位置する存在である。

 竜や亜竜は下位ランクのものも存在するが、龍ともなれば高位ランク、それもAAAランク、Sランクに相当するものしかいない。

 眼前の木の龍は本物ではないが、森の持つ魔力によって、本物と遜色がないくらいの実力を持っているようだ。肌にぴりぴりと刺す威圧感は偽物ではない。

 アンジェリンは大きく息を吐き出して龍を睨み付けた。


「……落ち着いてかかれば大した相手じゃない」

「おっと、ちょい待ち」


 カシムがにやりと笑って、剣を構えるアンジェリンを制して前に出た。


「偽龍とは本気出して来たな……こいつはオイラが引き受けた。早く行ってじーちゃんに剣を届けてやんなよ」

「一人で大丈夫……?」

「馬鹿にするない、オイラを誰だと思ってんのさ。弱っちいのばっかで物足りなかったから丁度いいぜ」

「カシムさん……そういうの死亡フラグっていうらしいよ」

「……お前はそういうのどこで覚えて来んの? いいからさっさと行きなよ」


 カシムは呆れたように笑った。

 穴を塞ぎかけた枝を切り払いながら、ベルグリフが怒鳴った。


「アンジェ、ビャク、行くぞ! カシム、無茶するなよ? 無理そうなら自分の身を一番に考えろ」

「分かってるよ。へへ、ベルにかかっちゃSランク冒険者も形無しだ」


 咆哮する木の龍に平然と向かい合うカシムを残し、三人は少し小さくなった穴に飛び込んだ。



  ○



 外から見た暗闇は、自分がその中に入って見ると思ったよりも暗くない事が分かった。遠くまでは見通せないが、歩いて行く自分の足がぼんやりと見えるくらいの薄明かりがある。

 足の下は木の根や枝が絡み合っているらしく、細かな凹凸が靴越しに感ぜられた。

 アンジェリンの持つ聖剣の輝きとビャクの魔法陣の淡い砂色の光に混じって、薄緑や青白い燐光が灯っては消え、消えては灯り、その度に三人の顔に濃淡の陰影が浮いた。


 妙だ、とベルグリフは眉をひそめた。

 この中に入ってからは魔獣の気配がまったくしない。ずっと感じていた舐めるような視線も感じない。

 アンジェリンとビャクも不審に思ったらしく、怪訝な顔をして辺りを注意深く見回しながら慎重に歩を進めている。


「こっちで合ってる筈なんだけど……」


 とアンジェリンが呟いた。剣は光ったまま小さく唸った。アンジェリンは唇を尖らす。


「……もう、別にあなたを疑ってるわけじゃ」

「しっ!」


 ベルグリフはそっとアンジェリンを制して、周囲を見回した。何かが這いずるような音が周囲から聞こえた。ベルグリフは目を細め、ジッと暗闇の向こうを見た。明滅する燐光に照らされて、何かがうごめいている。

 蔓だ。木の幹ともとれるくらいの太さの蔓が、蛇のように這いずっている。硬くでこぼこした表面が地面をこすってざらざらと音を立てた。

 敵意を感じるわけではないが、この森は抜け目がない。何かを企んでいるのだろうか。

 ビャクが魔法陣の数を増やす。


「……どうする?」

「ひとまず先に行こう。ここで立ち止まっても仕方がない」


 ベルグリフたちはより警戒を強めながらも、やや足を速めてさらに奥へと向かった。


「随分深いな……」

「どこまで続いてるんだろう……」


 先導するアンジェリンにもそれは分からないようだ。ただ剣の導くままに歩いている。輝きは増して来ているので、グラハムに近づいているのは確かだと思うのだが、確証がない。延々と同じような暗闇を歩き続けていると不安にもなろうというものだ。

 それにしても、この敵意のなさは却って異常だ。森の抜け目なさを知っている身としては、何か罠のようなものを感じずにはいられない。

 しかし、それでも進まざるを得ない。戻って態勢をなどと悠長な事は言っていられないのである。


 ふと、ずっと明滅していた燐光が、遠くで何かを照り返した。木の肌のようだったが、さっき周囲を這っていた蔓とは違う。古く、捻じれた大木のようだ。


 不意に聖剣が激しく輝き、より大きな唸り声を上げた。

 木の前に誰かが倒れていた。

 長く滑らかな銀髪に灰色のマント……アンジェリンが目を剥く。


「おじいちゃん!」


 周囲に敵意が充満した。ざわざわと音をさせて、村を襲った捻じれた木々が姿を現し、その間から、さっき這いまわっていた蔓が蛇のように身をくねらせながら何本も迫って来る。

 ビャクが魔法陣の数をさらに増やした。


「チッ! 来るぞ親父!」

「くそ、やはり罠だったか……」


 ベルグリフは素早く周囲を見回す。迫って来るのは木と蔓ばかりだ。魔獣の姿はない。剣を抜き放ち、怒鳴る。


「アンジェ! グラハムを頼む!」

「分かった……!」


 アンジェリンが地面を蹴り、グラハムの方に駆ける。

 蔓が飛びかかって来た。丸太がそのまま向かって来るようだ。とても剣では斬れそうにない。ベルグリフは身を翻して木の一撃をかわす。


 何かが炸裂するような音がした。ハッとしてそちらを見やる。

 アンジェリンが大剣を振り回して、阻むように向かって来る周囲の枝や蔓を粉砕していた。その向こうで、一際おおきな木から伸びて来た枝が、グラハムの体に巻き付いていた。


「邪魔をッ……するなあッ!」


 アンジェリンは雄たけびを上げながら次々と枝や蔓、木を砕く。

 剣は振るわれる度に唸り声を上げ、刀身が相手に当たると込められた魔力が爆発するかのように弾け、その周囲の枝や蔓までまとめて吹き飛ばした。

 しかし、まるであざ笑うかのように次から次へと枝や蔓は数を増し、中々埒が明かない。


 ベルグリフは舌を打つ。こんな時に、大して戦力にならない自分が恨めしい。

 相手の懐に飛び込む事になった時、不利なのは承知のつもりだった。だが、それでも認識が甘かったかも知れない。

 それにミトはどこだろう。もしや既に森に取り込まれてしまったのだろうか。


 不意に、木々の動きが鈍った。何かに押さえ付けられているようにぎりぎりと音をさせて体を震わせる。


『何故だ……?』


 凛、とした声がした。男とも女ともつかぬ声だ。だが、鼓膜を震わすものではない。頭の中に直接響いて来るようだ。


『そなたたちは何故……身を挺してこんな所まで……』


 ベルグリフは近くの枝を斬り払って怒鳴った。


「子供と友人を返してもらいに来た!」

『……エルフの子は返しても構わない……我らが力を尽くせばそれくらいは可能だ……だが、ソロモンの落とし子は渡すわけにはいかぬ……』

「馬鹿な事言うな! ミトはわたしの弟だぞ! 勝手に連れてくなんて許さない……!」


 アンジェリンが怒りを燃やして叫ぶ。


『森がこの地に呼ばれたのは、あの者の魔力の為だ……あれは人間ではないのだぞ……』

「そんなの関係あるもんか!」


 木々がまた少しずつ前進した。


『また……また災いヲ呼び込む事にナる、ぞ……アァ……早ク』


 声が少しずつ狂気を帯びて来た。


『カイ……ホウ、サ、ル……ベシ……』

「……我儘かも知れないが、こちらにも譲れないものがある」


 ベルグリフは剣を構えて、キッと前を見た。

 頭に響く声はいよいよ正気を失い、唐突に冷たく、無機質なものに変わった。


『ナラバ、貴様ラモ我ラノ一部トナレ』


 木々が勢いを取り戻した。鞭のように振られて来る蔓をかわし、薙ぎ払う。ビャクは魔法陣を縦横に操って木の攻撃を防いでいるが、少しきつそうだ。


「ビャク、大丈夫か?」

「……くそ」


 ビャクは歯を食いしばって腕を振った。魔法陣が空中を駆け巡り、枝や蔓を払う。

 白かった髪の毛が黒く染まり始めた。ベルグリフは慌ててビャクの肩を抱いて引き寄せた。


「無茶するな!」

「ぐ……」


 その時、足元がざわりと揺らめいた。ギョッとして見下ろすと、いつの間にか細い蔦が足元に這い寄って来ていた。蛇のように足に巻き付き、這い上がって来ようとする。


「く、まずい……」


 ひとまずビャクを安全な所に、と背負いかけたが、ビャクは拒否するように身をよじらせて床に転がった。そのまま蔦にまとわりつかれ、手近な木の方に引き寄せられて行く。


『コイツモ、落トシ子カ』


 ベルグリフは慌てて剣を構えてそれを追おうとする。


「ビャク! しっかりしろ、今行く!」

「俺に構ってる場合か……! このままじゃ全滅だぞ! あんたが状況を見なきゃ誰が見るんだ! 早く大将を何とかしやがれクソ親父!」


 ビャクが怒鳴った。

 その通りだ。自分が冷静さを欠いてどうする。


「……すまん! 必ず助ける!」


 ベルグリフはビャクに背を向け、一番大きな木の方を睨んだ。幹に穿たれた溝やうろの中で、青白い燐光が灯っている。だが、木自体には暗く重い影がまとわり付き、ひどく陰鬱なものに見えた。


 何か確信めいたものがあって、ベルグリフは蔦を斬り払って前に駆けながらアンジェリンに向かって叫んだ。


「アンジェ! あの奥の木を狙え! 一番大きなやつだ!」


 アンジェリンは鋭い目で狙いを付けると、迫っていた枝をまとめて吹き飛ばし、跳躍した。迫って来る枝や蔓を逆に踏み台にしてより高く、遠くまで跳ぶ。

 ついには大木を射程に収め、剣を振りかぶり、そのまま振り下ろそうと腕に力を込めた。


 だが、その勢いが途中で殺された。

 床から音もなく伸び上がって来た蔦がアンジェリンの足を絡めとり、引っ張った。

 アンジェリンは咄嗟に剣を振るって蔦を斬り払ったが、そのまま床へと落ちる。そこに重なるように蔦が絡みついて来た。


『無駄ダ』

「くそ、この……! 放せ……ッ!」


 アンジェリンは剣を振り回して暴れるが、蔦は次から次へと絡みついて離れない。

 その後ろから、ベルグリフは深く地面を踏み込んで跳んだ。

 アンジェリンが駄目なら、自分がやるしかない。

 できるか?


 剣を構えかけた時、アンジェリンが叫んだ。


「お父さん!」


 唸り声が聞こえた。ちらと視線をやる。アンジェリンが聖剣を投げたのだ。

 危なげなく受け止めて柄を握り込み、驚いた。羽のように軽いのに、握ると振るのに十分なずっしりとした重みを感じた。


「……本当に凄い剣だな」


 感心するのは後だ。ベルグリフは剣を振りかざす。

 だが、その右足に蔦が絡みついた。アンジェリンが絶望したような表情で叫んだ。


「お父さん! 危ない!」


 咄嗟だった。

 義足の留め金を外した。義足に絡んでいた蔦はそれを引き寄せたまま床に落ちて行く。

 大木は目の前だ。

 枝に絡めとられたグラハムが、ぐったりと頭を垂れているのが見えた。


 柄を握り込んだ。

 一瞬の出来事なのに、それが随分長く感ぜられた。自分の中の魔力が剣へと流れ込み、剣がそれに応える。

 刀身から輝く魔力が溢れ出た。

 爆発的だ。

 腕の後ろから火でも噴き出したような勢いで、横薙ぎに剣が振るわれた。


 ものすごい勢いで動いていた木々が、やにわに動きを止めた。


 斬った、とも思えなかった。あまりにすんなりと刃が通ったのだ。

 しかし、確かに刀身は幹を通った筈だ。

 振り切ってやや呆けていたベルグリフだったが、自分が落ちている事に気付いて我に返った。


「うおっ!」


 着地しようとして、失敗した。さっき義足を外した事を忘れていた。床に転げてしたたかに腰を打つ。


『アア……アアア……』


 大木が身をよじらせた。だが、それは身をよじらせたのではない、中ほどから断ち切られ、ずるりと幹が倒れかけたのだ。

 木だけではない、それが纏っていた暗い影までも、ふっつりと真ん中で断たれたように直線に分かれてゆらゆらと揺れた。


 刀身よりも遥かに太い筈の幹が、一太刀で斬れた。

 自分のした事が信じられず、ベルグリフは手に持った大剣を見た。剣はわずかに光り、小さく唸っている。

 ぱたぱたと軽い足音がして、背中の方からアンジェリンが抱き付いた。


「凄い……! 凄い凄い! お父さん、凄ぉい!!」

「アンジェ……はは……」


 小さな子供の様にはしゃいで跳ねるアンジェリンに、ベルグリフは小さく笑ってから、ハッとしたように顔を上げた。


「グラハム!」


 少しずつ向こう側に傾いでいた幹がとうとう倒れ始めた。枝に絡めとられたグラハムは、気を失っているらしい、そのまま一緒に落ちて行く。アンジェリンが腰の剣を抜いて跳び上がった。


「おじいちゃん!」


 アンジェリンはグラハムに絡んでいた枝を斬り払い、その体を支えた。そうして倒れて行く幹を蹴って距離を取る。


 ずん、と地面を揺らして大木が倒れた。溝で光っていた燐光が消え去り、次いで纏っていた影が吹き払われるように散らばって行く。周囲にひしめいていた捻じれた木々が、ぼろぼろと朽ちて崩れて行った。



 ――ありがとう。



 風が吹いた。

 ずっと吹いていた不快な生臭い風ではない。森の木々を縫って行く爽やかな風だ。

 風は渦を巻くようにして吹き上がり、空へと舞い上がった。頭上を覆っていた影が払われて、木々や蔓は朽ちて塵になって飛んで行く。


 やがて木漏れ日が射して来て、気が付くとベルグリフたちは深い森の奥にいた。


「……ダンジョン化が解けたのか」


 呆然と前を見ると、小さな者が仰向けに倒れていた。さっきまで大木が立っていたと思しき所にミトが倒れている。

 ベルグリフは慌てて立ち上がろうとして、義足がない事を思い出して辺りを見回す。見当たらない。

 しかし義足どころではない。ベルグリフは片足で立ち上がってぽんぽんと跳ねてミトの所まで行った。


「ミト!」


 仰向けに転がるミトの口元に手を当てる。温かな吐息を感じた。

 ベルグリフは息をついて、思わず力を抜いて地面にまた座り込んだ。


「……やれやれ」


 ホッとした心持でミトの頭を撫でてやる。ミトは小さくうめいて、もそもそと身じろぎした。

 さくさくと地面を踏んで、ビャクが歩いて来た。


「……終わったか」

「ビャク、無事だったか……」

「もっと早く片付けろ、ノロマな親父だ……」

「はは、すまんすまん……怖かったか?」

「怖いわけあるか」


 遠くからまた足音がする。倒木や岩を飛び越えて、カシムが走って来た。ベルグリフたちの姿を見とめ、安心したように表情を緩める。


「やー、やったね。流石はベルだ」

「いや、俺一人じゃ到底どうにもならなかった……」


 ベルグリフはグラハムに肩を貸して歩いて来るアンジェリンの方を見た。最後は自分が手を出したが、殆どが娘のやった事だ。

 大きく息をついて、義足がないかと辺りを見回す。木漏れ日こそあるが、薄暗い森の中では中々見ただけでは分からない。


「義足は……」

「これだろ」


 ビャクが木の棒を放って寄越した。ベルグリフは受け取って慣れた手つきで元の通りに右足に付ける。

 立ち上がって、とんとんと地面を二、三度蹴った。


「うん……ありがとう、ビャク」

「……おう」


 ベルグリフは微笑んで、アンジェリンの方に歩み寄った。肩を借りてぐったりしているグラハムを見やる。手に持った剣が唸り声を上げた。身じろぎ一つしないグラハムを見て、ベルグリフは少し不安になった。


「……グラハム?」


 ベルグリフが呼びかけると、銀髪の老エルフはくたびれた表情でゆっくりと顔を上げ、小さく口端を緩めた。


「……死に損ねたわ」

「はは……さて、帰ろうか」


 ベルグリフは手に持った大剣にもたれかかった。

 さらさらと吹く柔らかな風に乗って、遠くから自分たちを呼ぶ賑やかな声が聞こえて来た。


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