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八十一.まるで木でできた繭だ


 まるで木でできた繭だ、とグラハムは薄ぼんやりとした意識の中でそう思った。

 細い枝が縦横に絡み合い、緩やかな縦長の球形を作っている。枝の隙間は腕一本通らないくらい密だが、向こう側が微かに見えるくらいには開いている。しかし、その向こうは漆黒の闇が広がっていた。


 腕の中ではミトが心配そうな顔をしてグラハムを見上げている。

 木のトンネルに飛び込んでミトを追いかけ、捕まえたと思ったら意識が吹き飛んだ。そして気が付くとこの繭の中にいたのである。

 ミトを捕まえてからでよかったが、とグラハムは嘆息し、ミトを撫でてやった。ミトはもそもそと身じろぎし、ぽろぽろと涙をこぼした。


「じいじ、ごめんなさい……ぼく、めいわくばっかり……」

「泣くな。そなたのせいではない」


 どことなく緑がかった、燐光のような不思議な光が満ちていた。それのせいか、周囲の風景が幻のように感ぜられて、どうにも頭の中がはっきりとしなかった。薄布を一枚隔てたような気分だ。


 その時、不意に何か人の形のようなものが宙に浮かび上がった。

 初めははっきりしない霞のようなものだったのが、次第に輪郭を明確にさせた。半透明の女のエルフが浮いていた。美しい顔立ちには皺ひとつなく、滑らかな銀髪が水の中でそうなるようにゆらゆらと揺れていた。

 エルフは口を開いた。しかしその声は口から発されるというよりは、頭の中に直接響いて来るような感じだった。


『子よ……どうか、どうか許してください』

「そなたは……」

『我らはかつて西の森より南に下った一族……森の悪意に飲まれ、今もその魂は捕らわれたままなのです……』

「……我らが父祖の傍流の者であったか」


 グラハムは目を伏せた。

 西の森の伝承にあるその話はグラハムも聞いていた。革新的な思想を持つ一派が、新たな地を目指して西の森を去って行ったのは、彼の曽祖父の時代の事らしい。数百年は昔の事だ。

 半透明のエルフの姿は、次第に年老いたものになった。


『皮肉なものです。森に生きる我らが森によって滅ぼされるとは……』

「……そなたたちは何を求めている? なぜミトを狙った」

『森の暗い影は、その憎しみと力を維持するための魔力――を――』


 ザザ、とエルフの姿がぶれた。グラハムの顔が苦悶に歪む。ほんのひと時の後、半透明のエルフの姿は元に戻った。その姿は若い男のそれだった。


『……大丈夫ですか?』

「……私が感じた妙なものは、そなたたちの苦しみであったのか」

『左様……我ら氏族の魂は未だ森の悪意に捕らわれ、魔力を吸われ続けています。長き時に渡る責め苦により、森の抱く狂気に取り込まれてしまった同胞も……その苦しみが、同じエルフであるそなたの魂と感応したのでしょう』

「だからか。だから代替としてミトを求めたのか……ッ」


 グラハムは少し声を荒げた。エルフは悲し気に目を伏せた。


『左様です……その小さな魔力の塊は、森にとってはすばらしいご馳走……その小さな者を取り込む事ができレば、我ラのたマシいもついにはカイ、ホウ――』


 エルフの端整な顔が、突如として醜悪に歪んだ。

 繭を形作っていた枝の一本が鋭く伸びたと思ったら、グラハムが抱くミトに向かって槍のように突き出て来た。

 グラハムは咄嗟にミトをかばうように身をかわす。枝はミトを掠め、グラハムの脇腹を刺し貫いた。


「ぐッ!?」

「じいじ!」

『アア――だめ……また、狂気が我らヲ覆う――前ニ、逃ゲて、テ、テ――』


 ――くるしい。


 繭が胎動するかの如くどくんと揺れた。エルフの姿が歪んで溶けるように消えた。グラハムは歯を食いしばったまま、脇腹に突き刺さった枝を軋むくらいに握りしめた。

 微かに残ったエルフたちの正気の部分と、解放を求める狂気の部分とが、枝を通じてグラハムに伝わってくるようだった。狂気は森の悪意と共鳴し、その勢いを増していた。


 彼らを解き放つことができれば、あるいは。


「面白い……」


 泣きながらすがり付くミトの頭に手をやりながら、グラハムは口端を吊り上げた。絶望的な状況だというのに、笑みが浮かぶのはなぜか。

 逆境など幾年ぶりだろう、などと思う。“パラディン”などと呼ばれて、自らに敵う相手がいなくなってから久しい。

 無鉄砲だった若き冒険者であった日の事が不思議と思い出されるようだった。長い間に染みついた冒険者としての本能がこんな危機にも、いや、むしろ危機だからこそ血をたぎらせる。


 どの面下げて姪孫に説教できたものか、と笑みは自嘲的なものも相まってより大きくなった。

 ミトは泣くのを止めて、困惑した表情でグラハムを見上げている。


 脇腹に刺さった枝を力任せに引き抜くと、グラハムは大きく息を吸った。


「……この命、そう安くはないぞ……!」


 一歩踏み込み、木の繭を作る枝を無理矢理に引きちぎった。枝が音を立ててへし折れ、声なき悲鳴を上げながら繭は苦しみに身をよじらせた。しかしグラハムは容赦なく次々と枝をへし折り、ついには繭に穴を開けた。


 向こう側には漆黒の闇が広がっている。

 グラハムはミトを抱いたまま、迷う事なく繭の外に飛び出した。



  ○



「ふんぬぬぬぬぬ!」


 顔を真っ赤にしたジェイクが、グラハムの剣を引っ張った。しかし剣はびくともせずに広場に刺さったままだ。カインが呆れたように言った。


「ジェイク、無理ですよ」

「けどさ、これを抜いてグラハムさんに届けないと……」


 と再びジェイクが引っ張ろうとした時、剣が唸り声を上げて光った。途端にジェイクは吹き飛ばされて地面に転がった。


「いったあ!」

「な、な、なんスか!? なんスか!?」


 ソラが目を白黒させた。剣は唸りながら刀身の光を明滅させた。アンジェリンが目を細める。


「……怒ってる。気安く触るなって」

「そういえば、この剣は生きているのでしたね。うーむ、流石は“パラディン”の剣……」


 サーシャが感心したように腕を組んだ。


「けど、これ抜いちゃっていいのかな? 結界はこの剣を媒介にして強化されてるんだろ? 木が襲って来ないかな?」とバーンズが言った。

「それは平気だと思うぞ。森はもうトルネラには興味ないみたいだし、それにベルさんたちが村の防衛策を話し合ってるし」


 と言ってアネッサが指さした。

 その指の先、少し離れた所で、ベルグリフとカシム、それにケリーやホフマンたち村の大人を中心に、ベルグリフたちが不在時の村の防衛を検討していた。戦いを教わっている若者たちを中心に、交代で見張りに立って、魔獣が出た時は守りを中心にして撃退するように、という方針らしい。

 昨晩くらいの勢いで攻め寄られてはどうしようもないが、相手はミトを手に入れるという目的を果たした。今更トルネラを狙いはしないだろう。防衛策はあくまで保険である。


 バーンズは少しでれっと表情を緩めて頭を掻いた。


「そっか。そうだよな。いやあ、アーネは流石あッ?」


 バーンズは飛び上がった。頬を膨らましたリタがバーンズの腰をつねったらしい。


「浮気、だめ」

「ち、違うっての!」

「いや、鼻の下伸びてた」とアンジェリンが言った。

「でれでれでしたにゃー」とミリアムが笑った。

「お、お前らぁ!」


 バーンズは赤くなって憤慨した。ビャクが呆れたように頭を振った。


「何やってんだ、馬鹿が……」


 そこに話し合いを終えたらしいベルグリフたちがやって来た。


「色々とまとまったよ。これで心置きなく森に乗り込める」

「なんだ、剣抜けてないじゃない。揃いも揃って何やってんの、お前ら」


 カシムがそう言って髭を撫でた。アンジェリンは口を尖らした。


「だって剣が触るなって怒るんだもん……」

「んん?」


 ベルグリフは怪訝な顔をして剣を見た。剣は小さく唸りながら明滅を繰り返している。

 生きている剣。それが人間と同じ意味で生きているのか、それは分からないが、ともかく何らかの意思を持っているらしい事は確かだ。

 それにしたって、長身のグラハムの背丈と同じくらいの長さがあるから、随分重そうだ。グラハムは難なく振るっていたが、果たして抜けたところでこれを持って行けるだろうか。

 しかし、だからといってここに放って行っても仕方がない。


 ベルグリフはアンジェリンの方を見た。


「この剣は生きているんだから、力任せに引き抜こうとしないで、きちんとお願いしてみたらどうだい?」

「お願い……?」

「ああ。アンジェだって、理由も言われずに無理に連れていかれようとしたら嫌だろう?」


 アンジェリンはこくりと頷いて剣の前に立った。そっと柄に触れる。剣は唸り声を上げた。


「怒らないで……あなたをおじいちゃんの所に連れて行ってあげたいだけ……」


 柄に指を回し、握る。柄に巻かれた布越しに、不思議な暖かさを感じた。


「おじいちゃんの所に行くまで……ちょっとだけ力を貸してよ」


 剣は唸り声をひそめ、光も少し淡いくらいになった。

 了承の意かな、とアンジェリンは腕に力を込めてそっと引き抜く。さっきまでの頑強な抵抗が嘘のように、剣はするりと抜けた。アンジェリンは思わずよろめいて慌ててバランスを取った。


「やっぱり重いか?」


 ベルグリフの問いに、アンジェリンは首を横に振った。


「逆……めっちゃ軽い」


 重いと思って身構えていたのが、予想外に軽かったので却ってバランスを崩したらしい。

 アンジェリンは剣を両手で握って振ってみた。風を切る音がして、剣が唸り声を上げる。

 まるで体の方が振り回されるかのような奔放さで剣は風を切るのに、止めようと思ったところでぴたりと止まる。大剣などまったく使った事がないのに、これは普通の剣と同じくらいに余裕で取り回せる。

 アンジェリンはうっとりとした表情で剣を見た。刃の所に顔が映るようだった。


「……凄い美人」

「なに? 自画自賛?」とミリアムが言った。

「違う、この剣……これ女の子だよ。それも凄い美人。ツンとしたお澄ましさんって感じ……」

「剣に男とか女とかあるのか?」


 アネッサが言った。アンジェリンは頷く。


「他の剣は知らないけど、これは女の子。仕方がないから力を貸してやるって言ってる。おじいちゃんの事が大好きみたい……」


 そう言った時、突然剣が重みを増した。アンジェリンは慌てて足を踏ん張る。刀身の光が少し朱に染まって明滅する。


「……照れて怒ってる」

「なんだか妙に感情が豊かだな……」


 ベルグリフは苦笑しながら顎鬚を撫でた。グラハムが持っていた時は静かなものだったのに、と思う。

 アンジェリンはなだめるように剣の腹を撫でて笑った。


「多分、おじいちゃんの前だと気取ってたんだと思う……」

「ふーむ、なんか突然可愛く見えて来たぞー」


 ミリアムがけらけら笑った。剣は唸ってちかちか光った。

 さて、剣も抜けた。これ以上ここで便便としている法はない。ベルグリフは表情を引き締めた。


「よし、行こうか。アンジェ、その剣はお前が持ってなさい。多分、一番上手く扱えるだろう」

「うん!」


 アンジェリンは嬉しそうに剣を肩に担いで頷いた。


 森に行くのは、ベルグリフにアンジェリン、カシム、アネッサ、ミリアム、ビャク。それにサーシャと、ジェイク、ソラ、カインの若い冒険者三人組だ。総勢十人の大所帯である。

 シャルロッテはセレンたちと村で留守番だ。トルネラの守りはバーンズやリタたち若者たちを中心に行う。

 村の入り口で、シャルロッテが心配そうに胸の前で手を握った。


「皆、気を付けてね……」


 ベルグリフは微笑んでシャルロッテの頭をぽんぽんと撫でた。


「留守を頼んだよ」


 森の方を見る。いつもと何も変わりがないように見える。これから命をかけた探索が始まるというのに、嫌に暖かな陽光が降り注いでいるのが変にちぐはぐなように思えた。


 荒らされた麦畑を通って森の際まで来た。特に変わった様子は見受けられない。

 カシムが目を細めて森の奥を睨んだ。


「逃げて行ってるね。この辺の森は元々の森だ。村を襲った連中はもっと奥だね、こりゃ」

「……いったいあの木たちはどこから来たんだろうな」


 ベルグリフは呟きながら、セレンから聞いた古森(ふるもり)の影の話を思い出していた。あの木々はミトの魔力に惹かれて南西の地から山脈を超えて来たのだろうか。だとすれば恐ろしい事だ。古森まで逃げ戻られては最早打つ手がない。


「急ごう」


 一行は足を速めて森の中に踏み込んだ。

 昨日村に現れた木々は、捻じれた古木が多かった。樹上性の蘚類に覆われた見事な風格を醸すものもあり、それだけでここいらの木ではないという事が分かる。今歩いて行く周囲にある木は、まだまだ若く背も低く、青々としたものばかりだ。村が近く、何度も人が入っているからだろう。

 不思議な事に、あれだけの木が動いて行ったにもかかわらず、森の中の土は掘り返された様子もなく、他の木がなぎ倒された気配もない。森同士で何か共鳴して譲り合った部分があるのだろうか、とベルグリフは思った。


 見当がつきそうにもないのに、先頭を行くアンジェリンは迷いのない足取りでずんずん進んで行く。


「これ、正しい方に向かってるんですかね?」


 ジェイクが不安そうな声で言った。アンジェリンは足を止めずに言った。


「多分、大丈夫……」

「勘ですか?」


 サーシャが言った。アンジェリンは首を振って、肩に担いだ聖剣を軽く持ち上げた。


「……この子が」


 剣は淡く光った。どうやら、長い事魔力を通わせ続けたせいか、剣とグラハムはつながる何かがあるらしかった。その感応は遠く離れても消える事がないようである。アンジェリンは剣の導くままに足を進めていたのである。

 生きている剣とはいえ、ここまで剣との絆を深められるとは凄まじいものだと、ベルグリフ始め、サーシャやジェイク、ソラたち剣士は思わず嘆声を漏らした。


 その間にも歩みは止めない。

 歩いて行くうちに、次第に辺りが鬱蒼として、背の高い木が増えて来た。

 微かに隙間から覗く空は青く、温かな陽光が降り注いでいるものの、頭上の枝葉に遮られて足元まで届かずに薄暗い。そのせいか草はあまり生えていない。代わりに冬の間に積もった枯葉が幾重にもなって柔らかく足を受け止めた。


 一行は誰が言うでもなく周囲に注意を配り始めていた。何かが確実にこちらの様子を窺っていた。カインがそっと隣のカシムに囁いた。


「魔獣、でしょうか」

「さーて、どうかな。昨晩の木がちゃっかり周りに紛れてたりしてね」


 若い冒険者たちはギョッとして慌てて周囲をきょろきょろ見回す。カシムはからから笑った。


「へっへっへ、冗談冗談、そんなもんあればすぐ分かるよ」

「いや、あながち冗談とも言い切れないぞ」


 ベルグリフがそう言って、木の間を睨み付けていた。一行はそちらに目をやり、息を呑んだ。木の牧人がゆっくりと近づいて来ていた。サーシャが剣を抜いた。


「戦いますか?」

「いや……」


 敵意は感じられない。ベルグリフは油断なく剣の柄に手をやりながらも、牧人が近づいて来るのを待った。

 木の牧人は葉や枝を微かに鳴らしながらやって来て、ほんの数歩離れた所で立ち止まった。アンジェリンが大剣を担ぎ直して一歩前に出た。


「……あなたはどっちなの?」

「どっち? アンジェ、お前何言ってるんだ?」


 アネッサが怪訝な顔をして首を傾げた。アンジェリンは牧人から目を離さずに言った。


「助けを求めてる牧人もいたの……」

「そうなの? 牧人を操ってるのがいるって事?」とミリアムが言った。

「分からないけど……」


 全部が敵じゃないのは確かだと思う、とアンジェリンは木の牧人を見つめた。牧人は何も言わずにジッとしていたが、不意に小さく左右に揺れた。頭の葉がかさかさと音を立てる。


 ――たすけて。


「な、なんスか、今のは……」

「こいつが言ったのか?」


 ソラとジェイクが目を白黒させた。木の牧人は体を揺すった。


 ――みんなを、かいほうしてあげて。


「解放……? どうすればいいの? みんなって誰なの……?」


 その時、ベルグリフが素早く身を翻し、背後を守るかのように一行の後ろに回った。そうして剣を抜き放ち怒鳴る。


「構えろ! 来るぞ!」


 瞬く間に辺りに敵意が満ちた。木々の間からグレイハウンド、その上位種であるヘルハウンドが群れをなして飛び出して来る。しかし、狼たちは一行に近づく前に何かに弾き飛ばされた。ビャクの不可視の立体魔法陣らしい。

 そこにサーシャが疾風の如く切り込んだ。まるで鞭のようにしなやかに振られる剣が、瞬く間に狼たちの首を叩き落とす。


「おお、やるう」


 カシムが笑いながら指先をくるくる回した。魔力が渦を巻いて服の裾や木の葉を揺らした。空中で魔弾が幾つも生成され、次々と狼たちを撃ち抜いて行く。


「へっへっへ、もっと強いの連れて来いよぉ」

「おいカシム、あんまり消耗するなよ。後にまだ得体の知れないのが控えてるんだから」

「こんなもん準備運動にもなりゃしないよ」


 カシムは涼しい顔で狼を次々と撃ち抜いた。取りこぼしたものも他の者が危なげなく片付ける。

 Sランク二人にAAA三人。ギルドの高難易度の依頼でもなければお目にかかれないような布陣である。グレイハウンドやヘルハウンド如きでは相手にもならない。


 ソラが何となく片付かない表情で剣を鞘に収めた。


「わたしたちの出る幕がないッスね……」

「無駄に動かずに済むなら、それでいいの……」


 と、同じようにカシムたちに任せてあまり動かなかったアンジェリンが言った。ベルグリフの方を見る。


「ね、お父さん」

「ああ。これで終わりとは思えないからな……」


 果たしてその通りである。一行が肩の力を抜く間もなく、森の奥がざわめき、ねじくれた巨木が一本、枯れかけた枝葉を揺らしながら現れた。得体の知れない大きな虫が太い幹を上がったり降りたりしている。

 ミリアムが毛を逆立てるように肩を震わして杖を構えた。


「気持ちわるッ!」

「うう、生理的に来るッス……」

「……足の動きが嫌ですね」


 ソラとカインも嫌そうに顔をしかめた。

 虫は扁平な体に六本足、極彩色の奇妙な模様の殻と、お世辞にもいい見た目とは言えない。そういうものが苦手らしい連中はやや及び腰である。その上、木のうろから紫の体色をした巨大なムカデまで這い出して来た。幾つもの足がぞろぞろとうごめくさまは、見ていると背筋が震えるようだった。


 カシムが嫌そうな顔をして指を前に出した。


「あんま良い光景じゃないね。さっさとぶっ潰して先行こう」

「ちょっといい……?」


 アンジェリンがずいと前に踏み出した。肩に担いだグラハムの大剣が光る。


「準備運動、させて」


 カシムが頷くのを見て、アンジェリンは大剣を振り上げた。剣は唸り声を上げて光り輝き、溢れ出た魔力が渦を巻いてアンジェリンの黒髪を揺らした。

 大木にまとわりつく虫たちが跳ねるようにして一斉に地面に降り立ち、大挙して押し寄せて来た。アンジェリンはぐんと足を踏み込むと、


「ふっ――――!!」


 と息を吐いて剣を振り下ろした。

 途端、凄まじい衝撃と魔力の奔流が刀身から吐き出され、地面をえぐり、周囲の木や岩を斬り裂いて、向かって来た虫たちをまとめて粉々に砕いた。殻の欠片や体液が飛び散ったが、それらは突風の如き魔力に吹き飛ばされて消え去った。

 虫を連れて来たねじれた巨木も、幹や枝をずたずたに引き裂かれ今にも倒れそうに揺れている。


 振り下ろしたアンジェリンが呆気に取られるくらいの威力だった。剣は唸りながら淡く光っている。「どうだ」と言っているかのようである。


「……これは反則。やっぱり、おじいちゃんには勝てそうにない……」


 グラハム自身の強さに加えてこの聖剣だ。これは誰も敵う筈がない、とアンジェリンは身震いしながら剣の柄を握り直した。

 後ろで見ていた一行もぽかんと口を開いて突っ立った。


「す、すごいッス……」

「なんか、ますます俺らの出番ないな……」

「むむう、“パラディン”の剣を“黒髪の戦乙女”が振るう姿が見られようとは」


 サーシャは感動した面持ちである。

 かつての森の異変の時、グラハムが異形の魔獣を一撃で吹き飛ばした光景を思い出し、ベルグリフは小さく笑った。


 傷ついた大木はしばらく揺れていたが、やがて傾いで大きな音を立てて倒れた。まるで朽ちて行くように幹がぼろぼろと崩れて行く。

 ベルグリフが何かを見つけたように目を細めて、足早に近づいた。


「……むう」


 しゃがみ込んで眉をひそめているベルグリフの後ろに、アンジェリンたちが駆けて来た。


「どうしたの、お父さん……?」

「骨だ。それも人の」


 朽ちて崩れた木の破片の間から、人の形をした骨が覗いていた。


「……村人か?」


 ビャクの呟いた言葉に、アンジェリンがギョッとして顔を上げる。ベルグリフは首を振った。


「いや、違う。トルネラの連中は皆無事だし、なによりもこの骨は古すぎる」

「妙ですね……死体を養分に成長した木なら根元に骨がある筈なのに、幹から出て来るなんて」


 カインが言った。ベルグリフが頷く。


「……本当に得体の知れない相手だ。油断できん」

「まあ、こいつらが出て来たって事は、目的地は近いって事だね」


 カシムはからから笑って、さっきの剣の衝撃でずれた帽子をかぶり直した。

 その時、再び地鳴りがした。今度は後ろの方からである。一行が来た道を辿るようにして、幾本もの木が体を揺らして現れた。虫や狼の魔獣を伴っている。


「次から次へと……」


 舌を打って前に出ようとするアンジェリンを制して、サーシャが踏み出した。両翼をジェイクとソラが固め、カインも前に出る。


「こんな所で雑魚に足止めを食っていても仕方がないでしょう! ここはわたしたちが引き受けますので、皆さんは先に行かれてください!」

「このままじゃ何し来たか分からないですからね!」

「うおー、練習の成果を見せてやるッス!」


 ベルグリフは考えを巡らした。全員でかかれば大木や魔獣は相手にはなるまい。しかし、グラハムやミトの様子が心配である。あまり悠長に構えている時間もないように思われる。

 しかし、サーシャはともかく、若い冒険者三人は大丈夫だろうか、と思ったところでアネッサとミリアムがベルグリフの背中を叩いた。


「わたしたちも残ります。多分、まだ後に続いて来ると思うので」

「うん。乗り込むならアンジェとカシムさんがいた方が安全でしょー? 片が付いたら追いかけるから」

「……そうだな。頼む」


 ベルグリフは微笑んでマントを翻した。横に立ったままの木の牧人をちらりと見やった。牧人は何かを訴えるように、目のような穴をベルグリフに向けていた。


 ――おねがい。


「……行こう」

「うん! 皆、気を付けてね……」

「アンジェ殿もご武運を!」


 六人に後ろを任せ、四人は駆け出す。

 背後の戦いの音を聞きながら、ベルグリフは小さくため息をついた。本当ならばアネッサとミリアムには乗り込んでもらい自分が残るべきだと思うのだが、ミトの事を思うと黙って他人に任せておくのが忍びないように思われた。ミトをトルネラに連れ帰ったのはベルグリフの判断だからだ。たとえより確実だと思われようと、尻拭いを人に任せるのは筋が通らない。


「……我儘かな」


 どうにも年甲斐がないな、とベルグリフは頭を掻いた。

 走りながら、カシムがくつくつと笑った。ベルグリフは怪訝な顔をしてカシムの方を見た。


「どうした、笑って」

「いやあ、不謹慎かも知れないけど……オイラ、また君とダンジョンに潜れるのが嬉しくてさあ。へへへ」

「……まったく」


 ベルグリフは苦笑した。確かに悪い気はしない。しかし過去に思いを巡らせるのは後だ。気を引き締め、倒木や凹凸を乗り越えて進む。


 次第に頭上に枝が幾重にもなって、地衣類や蘚類が増え、周囲の雰囲気が変わって来た。濃い草の匂いがする。頭上は妙な影に覆われ、青空はとうに見えない。木々が絡み合うようになって、行く先を阻むようになって来た。

 こうなってはがむしゃらに速度を上げても仕方がない。それに走り続けでは体力を消耗してしまう。

 四人は速度を緩め、代わりに周囲により注意を配った。魔獣の気配、というわけではないが、常に何者かの視線を感じるようだった。


「……敵の懐だな」

「どうするベル?」

「俺に聞くのか……まあ、いいが。アンジェは前を頼む。剣の声を聞いて道案内もしてくれ。カシムとビャクはその後ろ。俺が殿を見る。ビャク、お前は守りに重点を置いてくれればいいよ。攻撃はアンジェとカシムで十分だろう。木が敵になり得るから、頭上にも注意を……」


 ベルグリフは周囲を見回しながら迷いのない口ぶりで指示を出す。その姿はトルネラで鍬を振るう農民のそれではない。


「ふふ……」


 アンジェリンは嬉しそうに笑い、改めて大剣を担ぎ直し、その唸り声に耳を澄ました。


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