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七十四.剣を研ぐ音を聞いていると


 剣を研ぐ音を聞いていると、何だか背筋が伸びるようだといつも思った。しかしそれが嫌いなわけではない。剣が鋭くなるほどに、自分の感覚も鋭くなるような気がしたものだ。


 ベルグリフの剣はオルフェンで買ったものだ。

 もう二十五年以上現役で使い続けているが、分厚く重く、一片の錆もなく、まだまだ衰える様子はない。研いだ分だけ薄くなっているとはいえ、十二分に実用に耐えるものであり、そうそう折れる事もないだろう。むしろ持ち主の研ぎの技術が上がっているのか、年々鋭さを増すように思われた。

 尤も、現役の冒険者に比べれば魔獣と戦う機会も少ないのであるし、剣が摩耗する機会が少ないだけ、と言われればそうかも知れないのだが。


 十分に水を吸わした砥石の上で刃を滑らせる。

 不思議と、昔よりも鋭さが鈍る事がなくなったような感じだ。魔力を上手く剣に流す事ができるようになったから、それで剣自体がコーティングされるようになって来たのかも知れない。

 しかし、それでも研いでやるのは剣との対話のようなものだ。

 砥石の刃の角度を変えないように注意しながら、ベルグリフは丁寧に剣を研ぎ、それから溶かした蜜蝋を塗ってから乾いた布で拭き上げた。


「……うん。よし」


 剣は鈍い光をたたえてぎらぎらと輝いている。

 ずっと傍らで眺めていたアンジェリンが自分の剣を取り上げた。


「わたしも研ぐ……」

「ん? ああ、いいよ」


 ベルグリフが場所を空けてやると、アンジェリンは剣を抜いて刃に水を垂らした。

 良い剣だ。薄刃で鋭いが、それでも丈夫である。命を預ける得物なのだから、なるべく良いものを選べと教えたのをきちんと守っている事に、ベルグリフは満足した。


 アンジェリンは剣を研ぎ出したが、その刀身は目立った汚れも刃こぼれもなく綺麗だ。とても魔獣と戦う事を生業としている剣には見えない。

 もちろん手入れを怠っているわけではないだろうが、それでも刀身の減りも少ない。恐らく剣との感応が高く、必要以上の負荷を刃にかけない為に状態がいいのだろうと察せられた。


 アンジェリンは感覚的に魔力の扱いを身につけてはいたが、今回の帰郷でグラハムに出会い、瞑想や感応の教示をされてからは、その鋭さにさらに磨きがかかったようだった。

 これ以上に実力を伸ばすとどういう事になるのだろう、とベルグリフは自分の娘の才能に改めて感じ入り、そうして身震いした。


 丁寧に研ぎ終えたアンジェリンは、ベルグリフと同じように刀身を蜜蝋で磨き上げると、目を細めて刃の先を見て、それからベルグリフの方に見せるように差し出した。


「どう……?」

「ああ、よく砥げてるよ。上手だ」


 アンジェリンはにへらと笑うと剣を鞘に収めて伸びをした。そうして屈んで片づけをしているベルグリフの髪の毛を後ろからくしゃくしゃと揉んだ。


「二人っきり久しぶり……」

「そういえばそうだなあ……うちも賑やかになったから」


 珍しくこの父娘以外は出払っていた。

 今では村の子守役を請け負っているグラハムはミトを連れて行ったし、カシムは若者たちに魔法を教え、シャルロッテとビャクはそこで一緒に教わり、ミリアムとアネッサも一緒だ。狩りにも役立つからと、最近はアネッサも弓を教えている。


 作業していたのは庭先だ。向こうには屋根板が張られた新居で大工たちが槌を振るっている。

 ベルグリフは砥石を洗い、木桶の水を捨て、そこらを片付けた。アンジェリンは研いだばかりの剣を再び抜いて確かめるように振った。それから鞘に戻してベルグリフの方を見る。


「ちょっと体動かしたい……相手して」

「よしよし」


 ベルグリフは軽く体をほぐしてアンジェリンと向き合った。

 剣を鞘ごと構える。

 アンジェリンはグラハムの教授によって、前に相対した時よりも遥かに剣との感応が高いらしく、目に見えて剣気が溢れている。自分も少し成長したと思っていたが、そのさらに上を行く才能を見せるこの娘の前に立つと、自分など大した事はないといつも思わされる。


 滑るように距離を詰めて来たアンジェリンの一撃目を受け止める。

 剣が合わさった瞬間、まるで張りつめた糸が振動するかのように体中が震えた。剣だけの衝撃ではない。アンジェリンの剣との感応が直に体の中の魔力を振動させたのである。


 ベルグリフは驚きに目を見開き、しかし即座に後ろに踏み込んだ足の裏から衝撃を地面に逃がした。そうしてその反動で前に押し返す。

 アンジェリンはぽんと跳ね飛んで難なく距離を取った。

 だがそれも束の間、着地と同時に地を蹴り、再び前へと押すと横なぎに剣を振るった。ベルグリフは何とかそれを受ける。しかし両手で柄を持たねばならないくらいに重い。


 ぐん、と足に力を込めた。右の義足で踏み込んで飛ぶ。そうして上段に構えて振り下ろした。


「――ッ! えいや!」


 アンジェリンは受け流すようにそれを剣で防いだと思うと、滑るように横に抜け出し、急にターンして反撃した。

 ベルグリフは咄嗟に右足を上げた。義足が剣を受け止めた。びりびりと体中が振動する。そうして一瞬動きの止まったアンジェリンの頭をぽかりと殴った。


「にゃあ!」


 アンジェリンは頭を押さえてしゃがみ込んだ。

 ベルグリフは痺れたように小さく震える手の平を握ったり開いたりして、大きく息をついた。本気の立ち合いではなかったとはいえ、よく勝てたものだ。


「……まいったな」

「うー……」


 涙目のアンジェリンが胸に飛び込んで来た。


「また本気でぶった……」

「悪かった悪かった……」


 ベルグリフは苦笑してその頭を撫でてやった。アンジェリンは頬を膨らまして上目遣いでベルグリフを睨んだ。

 アンジェリンはベルグリフ相手にはまだ全力を出せないらしい。父親相手では無意識に力が抜けてしまうのである。対アンジェリン専用最終兵器は未だ健在のようだ。


 アンジェリンはくしゃりと乱れた大きな三つ編みをつまみ上げる。


「……編み直して」

「ああ、髪か……はいはい」


 二人は家に入った。暖炉の前でアンジェリンはベルグリフに背を向けて座り、ベルグリフはその後ろに座って、模擬戦で乱れた長い黒髪を大きく三つ編みに編む。

 アンジェリンはたちまち機嫌を直して鼻歌交じりに足をぱたぱた動かした。


「ふんふん……ねえ、お父さんも三つ編みにしてあげようか?」

「いや、お父さんはいいなあ……」

「えー、似合いそうなのに……お揃い。だめ?」

「お父さんには似合わないよ……お前の綺麗な髪とは違うから」


 さらさらとしているのに、手に持つとしっとりとした重みがある。こういう事に疎いベルグリフでも綺麗だと思うくらいには、アンジェリンの髪の毛は美しい。

 アンジェリンはむうと不満そうに口を尖らしたが、それ以上は言わなかった。それからふと思い出したように口を開く。


「お父さん、さっき義足とも感応してた……」

「む」


 ドキリとした。確かにそうだ。自分で意識したわけではなかったが、木の棒でしかない筈の右足が、まるで本物の足のような感覚があった。そして、咄嗟にアンジェリンの剣を受け止めた時の強烈な感覚。あれはさながら剣と変わりない。

 アンジェリンは頭を後ろに逸らして逆さまにベルグリフの方を見た。


「おじいちゃんがね、お父さんは魔力の扱いが上手だって言ってた……」

「はは、そうか」

「わたしね……お父さんは元々義足を扱って来たから、無意識に体以外のものとの感応が高いんじゃないかって思う」

「……そうだな。そうかも知れない」


 果たして義足でこんな風に動けるものだろうかという漠然とした疑問は、無意識ながら心の隅の方にひっそりとあった。

 いかにリハビリに精を出し、厳しい鍛錬を積んだとしても、ベルグリフの義足は棒であり、足首やつま先はない。本来人体のできる細かな動作は再現できない筈である。


 しかし、魔力による剣との感応が実感として掴めて来ると、その謎が分かるような気がした。アンジェリンもそれを感じたのだろう。

 即ち、剣と感応するかの如く、義足と体とが魔力を介して感応し、さながら本物の如き感覚を取り戻させたのだ。

 ベルグリフ自身は無意識であったが、執念の如きリハビリと鍛錬は、知らず知らずのうちにそうやって義足と彼との感応を高めさせた。その後のグラハムの教授による魔力の操作がすんなりと呑み込めたのも、そういった下地があった事が大きい。


 何だか皮肉だな、とベルグリフは苦笑しながらアンジェリンの髪の最後をリボンで縛った。


「よし、できた」

「ん!」


 アンジェリンは満足そうに三つ編みをつまんで撫でた。


「えへへ……はい、そっち向いて!」

「え、なんだなんだ」


 言われるがままに後ろを向かされたベルグリフは、束ねている髪の毛がほどかれたのを感じた。アンジェリンの細い指が赤髪を梳いて、分けて、編む。元々長いのがしばらく切っていないから大分伸びていて、編むのにも充分な長さである。

 ベルグリフは困ったように笑った。


「お父さんは似合わないっていうのに……」

「いいの!」


 アンジェリンは鼻歌交じりにベルグリフの髪を編み、ベルグリフの方も結局されるがままになった。

 どうにも娘には敵わないな、と思った。



  ○



 ジッと少し先を見据えたシャルロッテが小さく手を動かすと、見ているであろう所に小さく火が灯った。遠巻きに見ていた若者たちが歓声を上げる。

 それで集中力が切れたらしい、シャルロッテは息をついて力を抜き、灯った火はしぼむようにして消えた。カシムがからから笑って顎鬚を撫でる。


「いいね、大分よくなった」

「本当?」シャルロッテはどうにも実感がないような様子で手を握ったり開いたりした。「いっぱい瞑想して……でもまだあんな小さな火だけじゃ」


 不満そうな顔のシャルロッテを見て、カシムは笑いながらその頭をぽんぽんと叩いた。


「そう不貞腐れるなって。お前は魔力の量が多いんだから、きちんと制御できてる方が大事だよ。下手な事したら家一軒吹き飛んじゃうよ」

「そういうものなのかしら……サミジナの指輪には、どれだけ魔力を込めても大丈夫だったけど……」

「あー、魔王の結晶って奴かい? ああいうのは魔力を込めて鍵になる詠唱を唱えれば何とかなるような代物だからね。言っとくけど、似たような魔道具にお前が全力で魔力込めたら多分壊れるよ。お前を飲み込もうとしたのも魔力を込め過ぎたからじゃない?」


 膨れ上がった宝石が腕を包んだ時の感触を思い出し、シャルロッテは身震いした。確かにあの時は怒りと狂気に目がくらんで、持てる限りの魔力を指輪に注ぎ込んだような気がする。

 カシムは山高帽をかぶり直して言った。


「ま、オイラとグラハムのじーちゃんが一緒に教えてんだから、安心しなよ。なーんも心配要らないよ」

「うん……ありがとう、おじさま」


 シャルロッテははにかんで、かぶった大きな麦藁帽子を両手で持った。傍で見ていたミリアムが面白そうな顔をしている。


「すごいねー。このままちゃんと制御できるようになったら大魔法だって使えるかもー」

「そりゃ使えるさ。まあでも、今は焦らないのが一番だよ」

「むー、わたしも追い抜かれないようにしないとにゃー」


 ミリアムはそう呟いて自分の指先を見た。


 一方のビャクは、少し離れた所でグラハムと向き合っていた。烈風が吹き荒れているように見え、地面に引っかき傷のようなものが幾つもできた。

 だが、それは彼らの傍だけである。ビャクの透明な立体魔法陣がすさまじい勢いで公転しているらしかった。しかし相対するグラハムは眉一つ動かさず、ほんの少し体を動かすだけでまったく当たらない。

 ビャクの顔が少し苦し気に歪んだ。白いままだった髪の毛の先端がやや黒く染まる。グラハムは手を前に出した。


「やめよ」


 途端に風は収まった。立体魔法陣が消えたらしい。同時にビャクは膝を突いて肩で大きく息をした。髪の毛はすぐに白に戻った。


「……くそ」

「悪くない。随分持つようになった」


 グラハムはにこりともしないが、気遣うような穏やかな手つきでビャクの肩を叩いた。

 離れて見ていた小さな子供の一団からミトが駆け寄って来て、ビャクの裾を引っ張った。


「ビャッくん……」

「お、おう……」


 ビャクは少し眉をひそめて口をもぐもぐさせた。ビャクはミトの事が少し苦手なようだった。ミト自身が、というよりは魔王であるという事が頭に引っかかっていて、まだ警戒心が抜けないといった様子である。しかしミトの方はビャクに懐いているから、どうにも対応に苦慮しているらしかった。


 そこに、村の外で弓矢の練習に行っていたアネッサが、数人の若者と一緒にやって来た。ミリアムが「おー」と手を上げた。


「アーネおかえりー。どう、調子は?」

「悪くないよ。元々軽い狩りくらいはする奴もいるし、体の使い方なんかはベルさんに基礎を教わってるみたいだし」

「ふっふー、“赤鬼”式教育法が効いておりますにゃー。トルネラ恐るべし」

「ホントになあ」


 アネッサは笑って弓を担ぎ直した。練習に出ていた若者たちも、褒められたのが嬉しいらしい、少し照れ臭そうに頭を掻いた。


 その後ろの方からがらがら音をさせて荷馬車がやって来た。どうやら行商人らしい。子供たちが興奮した様子でわっと荷車に駆け寄った。馬を引いた行商人は驚いたように笑った。


「ほらほら、待っておくれ。すぐ荷物を広げるから」


 そうして広場の一角に陣取って荷物を下ろして広げる。護衛に雇われたらしい三人連れの若い冒険者も一緒に手伝っている。


「おー、行商か。あんちゃん、何持って来たの?」


 カシムが髭を撫でながら近づくと、行商人は荷を解きながら笑った。


「海の魚が多いですよ。この辺じゃあまり手に入らんでしょう」

「そりゃそうだ。けど大丈夫? 冷蔵魔法(クーラー)もなさそうだけど」

「はは、そりゃ生とはいきませんや。塩漬けと干物ですよ」


 そう言って木の箱や密封された壺を開けて中を見せる。

 木箱には背開きになって干された魚、壺には塩漬けらしい、手の平に乗るくらいの大きさの変なものが入っていた。鼻を突く臭気にカシムは顔をしかめた。


「えらいくっさいけど、なにこれ。腐ってない?」

「何をおっしゃる、これは魚卵の塩漬けですよ。何なら試食されますか?」

「うーん、どうすっかなあ……」


 カシムはぼりぼりと頭を掻いて少し考えたが、やがて諦めたように肩をすくめた。


「やめとこ。こういうのはベルに任せる方がいいや」

「おいしいのに。売り切れちゃっても知りませんよ?」


 行商人はいたずら気に笑いながら角笛を手に持って吹き鳴らした。行商の合図なのである。

 敷き布の上に並べられたおもちゃには子供が群がっており、それを護衛の冒険者が慌てて止めている。練習に参加していた若者たちや、アネッサにミリアム、シャルロッテも何があるかと品物をあれこれ物色している。


「シャル、お前、魚は詳しいんじゃないか?」

「うん。ねえおじさま、これはエルブレンのお魚なの?」

「ああ、そうだよお嬢さん」

「んー……この魚卵の塩漬けはおいしいけど」

「お目が高い!」


 グラハムとカシムは並んで立って、盛り上がる露店を遠目に眺めていた。


「やー、行商でこれだもんね。ここは刺激がないんだなあ」

「うむ……」グラハムは体重をかける足を逆にして腕を組んだ。「カシム」

「ん?」

「そなたはミトの事をどう見る?」

「……いい子だと思ってるよ。ただまあ、あんなでっかい魔力の塊は何か妙なもんを呼び込むんじゃないかって心配はあるね」

「そうか……」

「やっぱり心配かい、じーちゃん」

「無論だ……ただの魔力の塊ならばまだしも、ミトの体内では未だ魔力が生み出されて渦を巻いている。何かの拍子に解き放たれる事でもあれば、この辺り一帯がダンジョン化する可能性もある」

「ふーむ……どうすっかねえ。何か適度に魔力を消費できる方法でもあればいいんだけど」

「力の制御法を教えようとは思っているのだがな……体こそ成長したが、内面はまだ幼子と相違ない」

「はは、教えようにも難しいって事か。参ったねえ」


 カシムは困ったように笑いながら山高帽子をかぶり直した。グラハムは目を伏せる。


「……いずれにせよ、そなたには力を借りる事になるだろう。その時は頼む」

「水臭いなあ、当たり前でしょ。オイラだけじゃなくてベルはもちろん、アンジェたちだって力を貸すさ。一人で抱え込んじゃ駄目だよ、じーちゃん。オイラ、それで随分苦しんだんだから」


 そう言って笑うカシムに、グラハムは小さく微笑んで応えた。


「お、噂をすれば」


 向こうの方からベルグリフとアンジェリンがやって来た。行商人の角笛が聞こえたようだ。


「お、やっぱり行商か。夕飯に使えるものがあればいいが」

「魚の匂いがする……」


 アンジェリンは鼻をくんくんさせている。

 近づいて来たベルグリフを見て、カシムは噴き出した。


「あっはははは! なんだベル、可愛くなっちゃって!」

「ん? あ、いや、まあ……」


 ベルグリフは困ったような顔をして三つ編みになった髪の毛をつまんだ。先の方にはリボンまでついている。アンジェリンがにんまりと笑った。


「お揃い。どう?」

「似合う似合う。いやあ、愉快な親子だなあ」

「……君も編んでもらえ」


 珍しく不貞腐れたような表情のベルグリフに、カシムは余計に腹を抱えて笑った。

 それでたちまち注目の的が移り、広場はまた別の賑やかさが溢れた。


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