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七十一.まるで食いしばるようにぎゅうと閉じていた


 まるで食いしばるようにぎゅうと閉じていた目から、突然ふっと力が抜けた。

 妙な夢だった。暗く、明かりのない部屋に一人で座っている。


 部屋?


 いや、部屋なのかすら分からない。四方はもちろん、上下すら暗い空間が広がっているばかりで、まるで宙に浮いているかのようだ。しかし、確かに足の裏や尻の下には地面の感触があるように思われた。だが、固く押し返すというよりは、変に質感が曖昧で、そういう感触があると錯覚しているだけなのかも知れなかった。


 手を握ったり閉じたりして見た。

 ランプも蝋燭もないのに、座っている自分の足先や、膝を抱く手の形はくっきりと浮かび上がるように見えた。まるで背景だけが黒くすっぽりと抜け落ちたようだ。


 暖かくも寒くもなかった。およそ温度というものがまったく感ぜられなかった。

 居心地がいいようにも思うけれど、どうにも気持ちに締まりがなく、落ち着かないようにも思われた。

 誰かを呼ぼうかと、何か口に出そうと思ったが、口が言葉の形に動くだけで、音は出なかった。

 妙に寂しさを感じて立ち上がろうとも思った。けれど、立ち上がると何だか取り返しのつかない事になりそうで、それもできない。


 ふと気づくと、周囲の闇が次第に質量を持って来るように思われた。

 急に息苦しくなり、体をぎゅうぎゅうと押して来るようだった。急に恐怖が心を襲い、叫んだ。しかしやはり声は出ずに、ただ喉の奥がきゅうと締まっただけだった。


 そのうち肌の上を這うようにしてまっ黒な闇が体を覆って来た。



  ○



 がばと跳ね起きると、まっ黒な瞳が自分を見ているからアンジェリンは仰天した。


「おはよ、おねえさん」

「ミト……おはよう」


 アンジェリンはぼりぼりと頭を掻いて嘆息した。何だか嫌な夢を見ていたような気がするけれど、イマイチ思い出せない。

 わけもなく気分が悪かったけれど、起きて頭がはっきりするとすっかりなくなった。夢を見ていた事すら忘れるようだ。


 もう日が昇っていた。春らしい良いお天気である。窓から差す光で、舞う埃が嫌にはっきりと見えた。

 家の中にはアンジェリンとミトの他は誰もいない。皆出たようだ。


「……寝坊した。みんなは?」

「おそと……」

「起こしてくれればよかったのに……」

「よくねてるから、ねかせてあげよ、っておとうさんが」


 アンジェリンは口を尖らして、両手を組んで大きく伸びをした。背骨が音を立てる。

 横に座ってこちらを見上げているミトの頭を、何ともなしにくしゃくしゃと撫でてやった。ミトはくすぐったそうに目を細めた。

 この得体の知れない弟が、アンジェリンには可愛かった。長い黒髪に黒い瞳なんていうのは、並んで立つと本当の姉弟に見えた。

 尤も、弟といっても日によって弟だったり妹だったりする。しかし、元々中性的な容姿であるし、十歳前後の容姿ではどちらでも大した違いがないように思われた。


 外からは木を叩く音が聞こえていた。

 今回の帰郷でまた家族が増えた事もあり、いよいよ家が手狭になったので、隣に家を建て増す事にしたのである。アンジェリンは上着を羽織るとミトの手を引いて外に出た。


 温かな春の陽射しがそこら中に降り注いでいる。何となく目の奥がツンと痛むような気がした。

 もうそこいらにはすっかり緑の新芽が萌え出している。大小の花のつぼみが、開いたものもあり、これから開くものもあり、庭先は賑やかだ。


 その一角に置かれたベンチにアネッサとミリアムが並んで腰を下ろし、着々と進んで行く家造りを感心した面持ちで眺めていた。


「おはよ、二人とも」

「ん、ああ、アンジェか。おはよう」

「おはよー。よく寝てたねえ」


 アンジェリンはくすくす笑うミリアムの隣に腰を下ろし、ミトを膝に乗せた。


「春眠暁を思い出す……だっけ?」

「覚えず、じゃなかったか?」

「まあ、そういうの……ふあ……」


 アンジェリンは大きくあくびをした。


 トルネラに帰って来てもう二週間が経とうとしていた。日に日に春の彩りは濃くなり、吹く風も暖かさを増して来るように思われた。

 村人たちは冬の間に強張っていた体をほぐすように畑仕事に励み、羊や山羊はまだ匂い立つ青草を毎日たらふく頬張った。


 アンジェリンはトルネラでの春を思う存分満喫していた。アネッサやミリアムと野山を歩き回って出始めの山菜を採ったり、ミトをおぶって羊を追ったり、シャルロッテやビャクを連れて畑仕事を手伝ったりした。故郷の幼友達との交流も楽しかったし、シャルロッテが活き活きとしているのも嬉しかった。

 ベルグリフと過ごすオルフェンの冬も楽しかったが、やはりこうやって生まれ故郷に帰って来るとホッとする。

 こうなると、やっぱりベルグリフをオルフェンに呼んで一緒に暮らすよりは、彼がトルネラで帰りを待ってくれている方が好ましいように思われた。尤も、またオルフェンに行く時になれば寂しくなって一緒に来て欲しいと思うのだろうが。

 アンジェリンはミトの髪の毛をいじくりながら、辺りを見回した。


「お父さんたちは……?」

「ベルさんはケリーさんたちと出かけた。グラハムさんは子守り。カシムさんは広場でみんなに魔法を教えてるよ。シャルとビャクはカシムさんと一緒」

「ふーむ……」アンジェリンはミトの頭を抱くようにして、そのまま顎を頭に乗せた。「とってものんびり……」

「だねー。はー、やっぱトルネラは落ち着くにゃー」


 ミリアムはぐんぐんと伸びをした。いつも頑として脱がない鍔広の三角帽もかぶっておらず、猫耳が気持ちよさそうに揺れている。獣人に対する差別も妙な気遣いもないトルネラでは、変に気張って猫耳を隠す事もやめたようだ。

 まだ何となく眠いような気分で色々の事を思う。

 帰ろうとする度にあれこれと問題が起こるのは困ったものだが、過ぎてしまえばそれも何となく面白かったような気がしないでもない。ヤクモとルシールは今頃どうしているのかしら。

 アンジェリンはふうと息をついて、ミトのほっぺたをむにむにと引っ張った。柔らかく、手触りがとてもいい。ミトは黙ってされるがままになっている。


「……お前はいつも抵抗しないね」

「ていこう?」


 ミトは目をぱちくりさせた。ミリアムも面白そうな顔をしてミトを撫でた。


「ふふ、ミトは可愛いねー」

「かあいい?」


 アネッサがやれやれといった面持ちで小さく笑った。


「結局、魔王って何なんだろうな? ミトを見てると、よく分からなくなるよ」

「わかんないけど……まあ、どうでもいい」

「そうそう。襲って来るなら倒す、可愛かったら愛でる。それでいいんじゃない?」

「ざっつらい」

「あ、南部語だー」

「ふふ、ルシールに教わった……」

「二人とも、今頃どうしてるかなー?」

「オルフェンは過ぎたんじゃないか? 流石にまだエストガルまでは行ってないだろうし」


 かたかたと音をさせながら、屋根組みの上から大工たちが降りて来た。休憩らしい。

 作りかけの新居はまだ骨組みだけだが、見ているとわくわくする。どんな風に新しい生活が始まるのだろう、とアンジェリンは期待感に胸を膨らました。


 ミトがもそもそと身じろぎした。


「おさんぽ、いきたい……」

「ん、行こうか」


 ひょいと立ち上がり、ミトの手を取って広場の方に行った。片方をアンジェリンが持ち、もう片方の手をミリアムが持つ。時折ぐいと上に持ち上げるようにすると、ミトは足を丸めてぶら下がるような格好をした。


 広場まで出てみると、数人の若者や子供たちがカシムの所に集まっていた。シャルロッテとビャクも一緒である。

 一歩前に出たリタがムツカシイ顔をして両手を前に出している。手の平を上にして、そこをジッと見つめていた。やがて、手の上が小さく揺らめいたと思ったらぼっと火が灯り、周りで見守っていた若者たち喝采を上げた。カシムがからから笑う。


「おー、やるじゃない」

「いえい」


 リタは火を消すと自慢げに胸を張った。少し後ろの方に立っているバーンズが片付かない表情で口をもぐもぐさせた。


「くそ、なんでお前ばっか……俺は全然なのに」

「守る、よ? 安心して?」

「そういう問題じゃないの!」

「あ、お姉さま」


 歩いて来るアンジェリンたちに気付いたシャルロッテが手を振った。


「どう? 順調?」

「うん。リタがとっても上手なの」

「見てた。リタ姉、やるね……」

「バーンズを守るの。ね?」


 リタはそう言ってバーンズの腕に抱き付いた。ミリアムが笑った。


「仲良しだねー」

「うん」

「ぐむ……」


 バーンズは何処ともなく不満そうである。

 アンジェリンは辺りを見回した。この一塊の集団の他は誰もいない。


「……少ないね。もっといなかったっけ?」

「ああ、村の外でグラハムのじーちゃんに剣を教わってる連中もいるよ。いやあ、皆中々筋がいいね。ベルに基礎を教わってたからかな?」

「ふふ、お父さんは教えるの上手……」

「だなあ」カシムはそう言ってバーンズの背中を叩いた。「ほれ、拗ねるんじゃないよ。魔法は駄目でも剣は悪くないって。じーちゃんにも言われたろ?」

「そうかも知れないですけど……」

「守ってくれる、の?」

「お、おう……」

「嬉しい」


 リタはバーンズの肩に頬を擦りつけた。


「ははっ、見せつけてくれるねえ」


 カシムは苦笑して髭を捻じった。


 春告祭を過ぎて、急ぎの仕事は一段落しているという事もあり、若者たちはグラハムやベルグリフに剣を教わり、カシムには魔法を教わった。

 元々ベルグリフによる剣の基礎を身に着け、魔獣退治も何回か経験している若者たちは、グラハムやカシムの教えも着実に吸収していた。彼らの見立てでは、高位ランクとまでは行かずとも、Bランク相当の実力を備えるに足る者も幾ばくかはいるとの事だった。

 いざという時に身を守る技術を持っていて悪い事はない。トルネラにも魔獣は出る事はあるし、盗賊の類が現れないとも限らない。一応はそういう理屈を付けてはいたが、何よりも元気の余っている若者たちだ、剣や魔法に憧れるのは当然の事である。


 カシムがぱんぱんと手を叩いた。


「さーて、もういっちょ行ってみるかね。きちんとイメージするんだぜ」

「みんな張り切ってるねー。未来の冒険者が出るかにゃー?」

「ふふ、これなら魔獣が出ても安心……」

「それにしても……“赤鬼”に基礎を教わって、“天蓋砕き”に魔法を教わって、“パラディン”に剣を教わって……トルネラはどこに行こうとしてるんだろうな」


 再び魔法の練習を始めた若者たちを見て、アネッサが苦笑交じりに呟いた。



  ○



 春の畑仕事は多岐に渡るが、まずもって大事なのは畑起こしである。雪解けの大地を耕し、主食になる芋と春まき小麦などをまかなくてはならない。

 トルネラは東に向かって開けていて、日当たりの良い農地には事欠かないから、広げようとすれば畑はいくらでも広がる。しかし際限がないから、あまりやり過ぎると仕事が増える。


 トルネラの主産業は農業と牧畜である。主食となる麦と芋、豆などを柱に、季節ごとの野菜をそれぞれの家で育てている。羊は毛、山羊は乳、鶏は卵、そしていずれも最後は肉を提供してくれる。

 畑からも家畜からも、村人全員が飢える事なく、厳しい冬でも辛い思いをせずに乗り越えられるくらいには収穫高がある。


 しかし、それも基本的には自給自足を旨としている。

 税として納める他は、余剰分を行商人と取引して必要なものを手に入れる程度だ。その為、従来トルネラでは、必要以上の生産をする人は少なかった。


 だが、今後は街道が整備されるというし、そうなると商品の取引も前よりも頻繁になるだろう。単なる余剰分の他に、売る事を考えた農産物を作る必要が出てくるかも知れない。

 もちろん、街道は一朝一夕で完成するものではないが、畑とて同じで、広げたその年から思った通りに収量を上げてくれるわけではない。幾年か耕耘を繰り返し、肥料などを入れて土を作らねばならない。


 ベルグリフはケリーを始めとした農夫仲間たちと村のぐるりを歩き回った。新しい開墾予定地を探して午前中からうろつき回り、今は村の西側である。山に近いから午後は陰るのが早いが、野菜は午前中の光さえ当たればいい。この辺りは硬い草は生えておらず、開墾も容易だろう。


「東は放牧地だからよ、やっぱこの辺がいいだろうな」

「ああ。羊どもは若芽を食いやがるからな」


 農夫の一人が杖の先で土をほじくり返して呟いた。


「悪くねえな。二年も耕せば柔らかくなるだろうぜ」

「まずは屑麦だな。若葉の時に鋤き込んじまえば良い肥料にならあ」

「少し石が多いが、ま、大丈夫だろ」

「耕して、集めて、石は家の基礎に使うかね」

「そうだな。今はベルの家だが、そのうち大きな納屋が要るぜ」

「しっかしベルよう、お前んとこもすっかり大家族になっちまったなあ」

「嫁もいないのにな! はっはっは」


 農夫たちは笑い、ベルグリフも笑って頭を掻いた。


「妙な事になったもんだよ……まあ、賑やかでいいんだが」

「にしてもなあ、色々な事が変わりそうだな。街道ができたら、若い連中は外に行きたがりそうだしよ」

「だな……まあ、仕方ねえのかなあ」


 農夫たちは寂し気に嘆息した。皆ベルグリフと同世代で、家族を持っている。この村で死ぬ事を何とも思っていない。

 だが、若者たちはここ一年ばかりで外の世界への憧憬をより深めていた。幼い頃に一緒に遊んだアンジェリンが、都で名を馳せて故郷に錦を飾った事は彼らの心をトルネラの外に持って行く大きな要因になったに相違ない。


 今も、一応自衛の為と銘打ってはいるが、グラハムに剣を教わり、カシムからは魔法を教わっている若者たちも多い。今日だって、ここに来る途中で剣を持って向かい合っている所を見た。

 いずれ、実力が付けば村を出て行ってしまうのではないか、と農夫たちは心配していた。

 ベルグリフは複雑な気分で髭を捻じった。ケリーがからからと笑った。


「いいじゃねえか。若い連中が元気なのは良い事だしよ。それに、これからもベルが外から人を連れて来てくれるだろうよ!」


 農夫の間にたちまち爆笑が巻き起こった。


「そいつぁ違いねえ!」

「可愛い娘っ子を沢山連れて来てくれりゃあ、嫁には不自由しねえな!」

「いや、まずはベルの嫁だろうよ」

「駄目駄目、こいつは惚れた女がいるんだから」

「そういうのじゃないってのに……」


 ベルグリフは困ったように笑い、頭を掻いた。ケリーがその背中を叩く。


「照れるんじゃねえよ。その子を探してまた旅に出るんだろ?」

「む……まあ、そりゃそうなんだが」


 自分の過去を清算する、というベルグリフの決意はまだ変わっていない。

 カシムと会えた事で、まず一つ過去の自分と向き合う事ができた。そして、先日はヤクモとルシールからパーシヴァルの所在を聞かされた。当然、会いに行く以外の選択肢は存在しない。

 こうなると、サティも見つけ出すまで自分は落ち着かないだろう。まるで大きな運命の奔流が、自分を押し流していくようにも感じる。


 しかし、思い立ったが吉日と即座に行動に移すほど、もう若くはないのも確かだった。

 現に帰って来てからしばらくは体調が悪かったのだ。オルフェンで過ごしているうちには気にならなかったのだが、故郷に帰って来て気が抜けたらしい、春告祭が終わってから数日、寝床で横になる日が続いた。


 あまり無理を押して体を壊しても面白くない。それでは過去の清算というよりは、過去に捕らわれて呑まれるのと同義である。

 あくまで生きているのは今この時だ。それを取り違えてはいけない。


「で、いつ出発するんだよ」

「なに、そんな今すぐじゃないよ。早くても夏の頃だろう」

「あっという間だぜ、そんなもん」

「まったく、お前も元気な奴だなあ。別にわざわざ俺たちに付き合わなくてもいいんだぜ? 旅ってのは準備が大変なんだろ?」


 ベルグリフはやれやれと頭を振った。


「あのな、準備ったって大荷物抱えて行きゃしないんだから、たかが知れてるよ。それに俺は別によそに行って死のうってんじゃないんだから。旅から帰って来たら元通り畑を耕す生活なんだし、新しい農地の事を考えるのは当たり前だろう」

「……それもそうか」

「まったく、そうのけ者にしないでくれよ」


 冗談めかして笑うベルグリフに、農夫たちはバツが悪そうに笑った。


「はは、俺らも随分お前に頼ってるからさ、せめて好きな事くらいはやって欲しいんだよ」

「そうそう」

「あの時は悪かったなあ、ベル」

「おいおい、そんな改まらなくても……」

「おら、何湿っぽくなってんだ。場所は見たし、帰って計画詰めるぞ」


 ケリーの鶴の一声で、下向きになり始めた雰囲気が払拭された。

 湿っぽい空気になるのは勘弁だが、農夫たちも彼らなりにベルグリフの事を気遣っているらしい事が分かり、ベルグリフは少し嬉しいような気がした。


 一行はホフマンの家に行った。

 ホフマンは庭先で馬具や鍬を点検して、泥を落としたり研ぎ直したりしていた。


「よう、村長」

「ああ、お前らか。どうだ、農地の目途はつきそうか」

「西側に良い所があったよ。どういう計画にするか詰めようと思ってね」

「よしきた。おいカーチャン! お茶淹れてくれ!」


 ホフマンは家の中に怒鳴り、庭先のテーブルを囲むように勧めた。


 薄雲が流れて来て、真っ青だった空が薄水色になっている。日が天頂を過ぎて西に傾きはじめ、段々と陽の光が重くなるようだった。

 さて、何を増産しようかとあれこれ意見が飛び交った。

 麦か、芋か、それとも新しい名産品を何か考えてみるか。


「ひとまず、最初は屑麦まいて若葉を鋤き込むでいいだろ」

「だな。肥しも入れて土を作ってやらにゃ」

「それからどうするかだなあ」

「葡萄の木は順調に大きくなってるし、新しい所も何か果樹を植えてみるのはどうかね」

「しかしなあ、木は時間がかかるし、結果がすぐに分からんからなあ」

「でも、上手くすれば実入りはいいぜ」

「上手く行けばな。作ったはいいが、売れないし使いでもないってんじゃ困る」

「なあ、普通に麦の作付けを増やすんじゃ駄目なのか?」

「別に構わんが、手がさらに必要だろう。麦だって作り過ぎて虫が湧いちゃ意味ねえしよ」

「あの面積を起こして、肥し入れて、種まいて収穫か。確かに倍近い労力が要るなあ」

「それに、北部の穀倉地帯はボルドーにあるからな。ここで小麦を増やしても大して良い値はつかないと思うよ」

「そう考えると果樹の方がよさそうだな。いっそドングリ植えて豚でも飼うか」

「馬鹿、養豚でロディナに勝てるわけないだろ」

「そうだよ。大体、俺は豚の臭いが嫌いなんだよ」

「お前の好き嫌いは問題じゃねえよ」

「なんだと」

「こらこら、喧嘩してる場合か」

「果樹にしても、何がいいだろうな。葡萄増やしてワインでも作るか」

「なあベル、何かいいアイデアないか」

「うーむ……」


 腕組みをして考えていると、ミトを連れたアンジェリンがやって来た。


「……おじさんたちが悪巧みしてる」

「わるだくみ?」

「おう、アンジェか」

「はっはっは、見つかっちまったな」


 ミトはベルグリフの背中によじ登り、アンジェリンがその隣に座った。


「どうした。皆といたんじゃないのか」

「うん……でもみんな練習中。だからお父さんはどうしてるかなーってミトと来たの」

「そうか……張り切ってるなあ」

「ったく、いくら強くなろうが食いもん作れなけりゃくたばっちまうぞ」

「まあまあ、あいつらも仕事サボってやってるわけじゃねえんだから」

「なあアンジェよ。新しく何かトルネラで特産品を作ろうと思ってるんだが、お前何かアイデアないかね?」


 ケリーに言われ、アンジェリンは首を傾げた。


「作ってどうするの?」

「街道が整備されるだろ? 人の行き来が増えれば行商人だって前より来るだろうし、その時に売れるものがあった方がいいと思ってな」

「元々トルネラの加工品は質がいいって評判だけどよ、今以上に売ろうと思ったら量が足りねえしよ」

「ふうん……」アンジェリンはベルグリフを見た。「生ものは駄目だよね、お父さん?」

「そうだなあ……長距離輸送になるから、保存の利くものがいいだろうね。冷蔵魔法(クーラー)の設備を持ってる人なんかそういないだろうし」


 いずれにしても、あちこちに持って行くのに保存が利くものは重宝がられる。そういうものの方が売るにしても喜ばれるだろう。仮に売れなくても村で保存ができるというのもリスクが低くていい。


「乾燥品とか、塩漬けとか、お酒とか……?」

「やっぱその辺かねえ」

「ま、あんまし気張って慣れないもんに手ェ出してもな」


 しばらく考えていたアンジェリンは、ふと思いついたように顔を上げた。


「薬草とか……」

「なに、薬草」

「うん……ルメルの木とかどう?」


 ルメルの木は常緑の低木で、葉を揉むと鼻に抜ける鮮烈な匂いがする。これをすり潰して塗ると外傷全般によく効く。すり潰したものを粘りが出るまで煮詰めるとひと月ほどは保存が可能であり、乾燥させた葉を煎じた湯で傷口を洗ってもいい。霊薬を買う事の出来ない下位ランクの冒険者たちはこれを愛用している。

 ベルグリフは顎鬚を撫でた。


「確かにいいかも知れないな……ルメルの葉はまだ冒険者の採集に頼ってるのかい?」

「うん。あの木、皮とか根っこも薬になるから、オルフェンの周りじゃ採りつくしちゃって、あんましないの」

「けど、そんなに使われてるんじゃ、あっちで栽培されてるんじゃねえのか?」

「そうなんだけど、確か寒い所のものほど質がいいって聞いた事ある……昔に比べて効きが弱くなったって愚痴ってる人もいたし」

「どうなんだベル?」

「なんで俺に聞くんだ……まあ、確かにそういう話はあるな。ここらの山にも自生してるし、そういう環境のものの方が薬効が高いのかも知れないな」

「へえ、それじゃあ苗木の心配も要らねえな」

「いきなり大規模なのは無理だが、少し試してみるか。自生してるなら手もかからんだろうし」

「そうだな。それに傷薬ならあって困る事もねえ」


 すっかり盛り上がり出した農夫たちを見て、アンジェリンが囁いた。


「いいアイデア……?」

「ああ。よく思い付いたなあ、大したもんだ」

「えへへ……」


 アンジェリンは嬉しそうにベルグリフの肩に頭を擦りつけた。


隔日更新予定です。

あと書籍二巻出るみたいです。感謝。

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