七十.南風だった。北から降りて来る
南風だった。北から降りて来る寒風と違った温かな風だが、大きな雲を運んで来て、次第に辺りは曇り始め、そうして朝からはらはらと湿った雪が散らばった。
ボルドー家の屋敷の一室で、ベルグリフはカシムを伴い、ヤクモと向き合って座っていた。
「はー、うまい酒を飲ましてもらったわい……アンジェの甘えようは凄かったのう。後半はベル殿の背中に貼り付いて離れんかったぞ」
半笑いのヤクモに、ベルグリフは苦笑して頬を掻いた。
「普段はいい子なんだがね……どうも親離れできてないみたいで」
「ふふん、おんしも満更でもなさそうじゃったぞ?」
「はは……俺も子離れできてないみたいだな。参った」
「いいじゃないの、ベルとアンジェは仲良しが似合うぜ」
カシムがけらけら笑った。ベルグリフは頭を掻いて、改めてヤクモの方を見た。
「それで……すぐにでも戻るかい?」
「ああ、そうさせてもらうわい。どうにもロベール卿もまだまだ地位が安泰というわけではなさそうじゃしの。あっさりシャルロッテを切ったあたり、綱渡りに近い状況なんじゃろうな。利を取るよりも不安を除きたいようでは、土台がしっかりしているとは言えまい」
「ルクレシアの政情も安定しているわけじゃなさそうだからな……」
「うむ。帰ったらとっくに失脚しておったら骨折り損じゃからの。依頼料をむしり取ってから消えてもらいたいもんじゃ」
「へへ、正直だね。そういうの嫌いじゃないよ、オイラ」
ヤクモはにやりと笑って煙管を取り出し、煙草の残りが少ないのに顔をしかめた。
それでも口に咥えて煙を吐き出し、改めて二人の顔を見た。
「さて……“覇王剣”の事じゃな?」
「ああ」
ベルグリフは頷き、少し体を動かして姿勢を直した。
ロベール卿に対して大芝居を打った夜が明け、成功祝いと称した酒盛りが夜半まで続いたせいで、少女たちは別の部屋でまだ眠っていた。完璧な下戸にも関わらず飲まされたビャクなども、死んだように寝床に突っ伏している。
酒には強いカシムと、なんだかんだとほどほどに留めていたベルグリフはこうやって起き出してヤクモと向かい合っていた。“覇王剣”パーシヴァルの情報を知っているらしい彼女から話を聞く為に。
ヤクモは煙管の灰を落とし、指先でくるくると回した。
「何から話せばいいかのう?」
「ふむ……パーシーは生きているんだよね? 元気なのかい?」
「そうじゃの。少なくとも、儂らがあやつと別れた時はまだまだ元気じゃった。口数も少ない、無表情な男じゃからな。元気というと少し変な気がするが」
カシムが寂し気に嘆息した。
「あいつ、まだまだ責任感じてるんだなあ……」
「……ヤクモさんとルシールは、パーシーとはどういう関係だったんだい?」
「短い間じゃが、戦いを共にしておった。と言っても、普通の冒険者のようにパーティを組んだわけではない。単に戦う場所が一緒じゃった、というだけじゃがのう」
ヤクモは手先をこすり合わせた。
「ティルディスとダダンの間に山脈がある。ニンディア山脈じゃ。険しく切り立った崖や、流れのはやい渓谷が多くての、普通の人間はまず近づかん。その奥地に『穴』があるのはご存知かな?」
「……いや、知らないな。カシム、君は知ってるかい?」
「噂だけしか聞いた事ないけど。確か人跡未踏の山奥に、魔界に繋がってるとかいう大穴があるとか……眉唾な話だけど、それの事かい?」
ヤクモは頷いた。
「左様、その大穴じゃ。知る者は『大地のヘソ』と呼んでおる。尤も、本当に魔界に繋がっておるわけではない。大地が大きく陥没して、さながら穴のように見えるだけなんじゃが、驚異的に大きな魔力溜りなんじゃ。その為、そこの周辺には災害級の魔獣が数多く出現しよる……危険度やら、採れる素材のうまみやらから、一部の者しか知らん」
「パーシーはそこに?」
「ああ。強力な魔獣ゆえに、そこから採れる素材も良質でな、耳聡い腕に覚えのある連中ばかりが一獲千金を狙って集まって来るんじゃ。儂とルシールもそんな連中の一人じゃった。そこでは下らんプライドは命取りじゃ。来た連中が総力を上げて魔獣を倒し、素材を山分けする。そんな中で、他の連中と一切つるまず、たった一人で魔獣と戦い、生き延びておる男がおった。それが“覇王剣”じゃった」
「……パーシーの奴、まさかまだベルの足を治す方法を……?」
カシムが呟くと、ヤクモは少し考えるように視線を泳がした。
「……どうかのう。あやつは素材にはまるで興味のない様子じゃった。とにかく魔獣を屠り続けておったよ。相手がAAAランクだろうがSランクだろうが、あやつはまるで臆せずに立ち向かって、真正面から粉砕しよったわ。まるで自分を追いつめるような戦い方をする男での、味方ながら、何だか恐ろしい気がしたものよ……」
「けど変だね。それなら噂で流れて来てもおかしくなさそうだけどな……秘密の地で規格外の戦いを続ける“覇王剣”の英雄譚なんて、吟遊詩人やら噂好きの連中なら飛び付きそうなもんだけど」
ヤクモは首を横に振った。
「あやつは自分の事をまったく話さんのじゃ。じゃから、同じように『穴』で戦う連中も、“覇王剣”をそれと知る事もないし、名前すら知らんかった。それに、『大地のヘソ』の事をあまりよそに広めない事は暗黙の了解になっておる」
「……じゃあ、どうして君たちはパーシーの事を?」
「はは……ルシールが付きまとったのよ。あやつは見ての通りの性格じゃし、気に入った相手に鬱陶しがられてもへこみやせん。しゃけじゃなんじゃと周りをうろちょろして、とうとうあっちが根負けしてのう、それで誰にも言わないという約束で素性を明かしてもらったのじゃ……よもや、こんな所でつながる事になろうとは思わんかったがの」
妙な運命だ、とベルグリフは唸った。もしも彼女たちと敵対していれば、これを知る事もなかっただろう。
「で、お前らはいつまでその『穴』にいたの?」
「ほんの一年くらい前かの。裏仕事よりも楽かもしれんと思って行ったが、どっちも変わらんかったわい……でもまあ、今回みたいな仕事よりは分かりやすくてええわいな。魔獣を倒せばいいんじゃから」
「……まだいると思うかい?」
「ああ。あれは戦いの中に身を置いて自分を確かめるタイプじゃ。他に居場所がありそうでもなし、きっとまだおると思うぞ」
「そうか……」
生きている事が分かっただけでも嬉しい。
しかし、パーシヴァルはまるで自分を痛めつけるかの如く、戦いの日々に身を置いているらしい。罪悪感から来ているものなのか、それとも別の何かか、いずれにしてもあまり好ましい印象は受けない。
「……ヤクモさん、君たちはルクレシアに行ってからはどうする?」
ヤクモはぼりぼりと首元を掻いた。
「ん……少し『大地のヘソ』の仕事に戻ろうかと思っとった。ちと今回の依頼は面倒じゃったからな。しばらく息をひそめようかとな。あそこは身を隠すにも都合がいいんでのう」
「へへ、なるほどね。ほとぼりが冷めるのを待つって事か」
「まあの。なんせ依頼主を騙すんじゃ、警戒するに越した事はない」
「……すまないね。君たちに危ない橋を渡らせるみたいで」
「なあに、儂らはおんしらの人柄に惚れたんじゃ。戦わずに済んで心底安心しておるのじゃよ。それに儂らも納得済みの事じゃしの、後の事は自分でするわい」
ヤクモは小さく笑いながら懐手をして、少し体を前に傾けた。
「で、“覇王剣”には何か言付けするかの?」
カシムはちらとベルグリフの方を見た。任せるつもりらしい。ベルグリフは少し目を伏せて考え、それから口を開いた。
「……何も言わないでくれ。俺たちの事も話さなくていい」
「ん? よいのか?」
「いいのかいベル? トルネラにいるって伝えなくてさ。そうでなくても、会いに行くって言っておいてもらえば……」
「伝えたところであいつは会いに来ないさ。俺たちが行くって聞いたら逃げるかも知れないし」
「……そっか。確かにね」
罪悪感ゆえに戦い続ける男が、その罪悪感の元になった自分に会いたがるだろうか、とベルグリフは思った。長い時間の間、パーシヴァルの心にどんな闇が巣食ってしまったのかは想像するに難くない。
しかし、だからこそ会わねばならないとも思う。記憶の中にある快活な少年の姿を思い浮かべ、ベルグリフはそっと目を閉じた。ヤクモは肩をすくめた。
「おんしら、揃いも揃って不器用者じゃのう……」
「はは、すまないね……いずれにせよ、近いうちにその『大地のヘソ』に行ってみるよ」
「そうか……うむ、またの再会を楽しみにするとしようかの」
ヤクモは微笑んで、もそもそと身じろぎした。
○
ルシールに捕まったシャルロッテがむきゅむきゅ言いながら暴れている。しかしがっちりと後ろから腹に腕を回されているから逃げられない。ルシールは短くなったシャルロッテの髪の毛に鼻先をうずめてふがふがと息をしている。
「ぐっどすめるだぜキティちゃん……」
「やぁん、もうやめてよぉ……ひゃう!」
吐息が髪の毛をかきわけて肌に触れるのがくすぐったいようで、シャルロッテはしきりに身をよじって悩まし気な声を上げた。
寝床に転がっているアンジェリンは寝返りを打ってそちらを見た。
「飽きないの……?」
「飽きない……超幸せ……らーばなはぴね」
ルシールは満足げに目を細めてくんくんと鼻を鳴らした。垂れた耳がぱたぱた動く。シャルロッテは暴れ疲れてぐったりしている。
アンジェリンは「ふふ」と小さく笑った。ルシールに絡まれる事で、変に思いつめたようにならないのが、今のシャルロッテにとっては良いのかも知れないと思った。
窓の外を眺めていたアネッサが嘆息した。
「駄目だな、今日は止みそうにないよ」
「割とあったかい日なのにねー……あ、むしろあったかいからかにゃー?」
椅子に座ってぽやぽやと揺れていたミリアムが言った。外は水っぽい雪がずっと降り続いている。
昨夜の大芝居の後、サーシャたちも交えて酒盛りをした。何だか色々と肩に乗っていたものからの解放感で随分盛り上がり、気づくと寝床に転がっていたようである。酒の勢いで散々ベルグリフに甘えたような記憶があり、それを思い出す度にアンジェリンは嬉しくてにやにやした。
ごろりとまた寝返って、天井を眺める。品の良い意匠が凝らしてあって、刻まれた模様を目で追うだけでもなんだか面白い。
ヘルベチカたちの話では、あと数日のうちにはトルネラへも行けるだろうとの事だ。
街道の整備の話も進展しそうで、そうなれば交通の便もよくなる。もっと気軽に里帰りできるようになるだろう。
どちらにせよ、もうトルネラまで自分たちを阻むものはない。色々な事があったけれど、アンジェリンとしては無事にみんなでトルネラに戻れることが一番嬉しい。
「……ホッとした。これで心置きなくトルネラに帰れる」
ぽつりと呟いたアンジェリンの腹の上に、ようやくルシールの手から逃れたシャルロッテがもそもそと這い上がった。
「お姉さま、見捨てるなんてひどい……」
「ごめんごめん……でもちょっと嬉しそうだったよ……?」
「そ、そんな事ないもん……」
シャルロッテは頬を染めてアンジェリンの腹に額をつけた。短くなった髪の毛がさらさらと揺れた。
その時扉が開いてヤクモが入って来た。
「おう、ぼつぼつ行くぞ」
「ええのんかヤクモん。本日はれいんどろっきーふぉりんおまへだぜ……?」
「黙らっしゃい。儂らにのんびりしとる時間があると思うでないわ」
「昔の人は言いました。急がば回れやくーるくる……やべえ、目が回った」
「やかましい。さっさと支度せい」
ヤクモは愛想を尽かしたような顔をしている。相手にならないつもりらしい。アンジェリンはむくりと上体を起こした。シャルロッテも起き上る。
「行っちゃうの……?」
「うむ。まだ儂らの仕事は終わっとらんでな」
槍を担ぎ、荷物を担ぎしたヤクモはくきくきと音を立てて首を回した。ルシールも楽器のケースを持ち、リュックサックを背負う。ミリアムがテーブルに顎を付けた。
「なんか寂しくなるねー……変な話だけど」
「まったくじゃのう……ふふ、数奇な運命もあったものよ」
「しんぷるとぅえすとふぇい。べいべ」
「けど、シャルを探しに来たのがヤクモさんたちでよかったよ。話の通じない相手だったらどうなってた事か……」
アネッサの言葉に、アンジェリンも頷いた。
「これでシャルが死んだと思われれば、浄罪機関も手を出さなくなる筈……おかげで心置きなくトルネラに行ける……ありがと。ルシールも」
「今度はまたゆっくりしぇけなべいべしようね、アンジェ……」
「うん。しぇけしぇけ」
「べいべー」
「……何を通じ合ってるんだよ」
体を揺らす二人を見て、アネッサが呆れた様子で腕を組んだ。
二人を見送ろうと外まで出ると、ベルグリフたちが待っていた。馬車を手配してもらっていたらしい。
「では、いずれまた会おうぞ」
「あいるびーばっく……」
水っぽい雪の中、泥を跳ね飛ばしながら馬車は走って行った。アンジェリンは大きくあくびをしてから、ぶるりと身震いした。隣に立っていたベルグリフの腕を取る。
「寒いか?」
「ちょっとだけ……」
「うん……色々あってくたびれたからな。中に入ろう」
○
ボルドーにいる間、塩と砂糖の大袋を買い、色々の支度をして、おおよそ一週間ばかり経った頃に出発した。
ヘルベチカのしたためた街道整備に関する書簡を預かり、馬車を一台借り受けてさらに北へと向かう。
いよいよ街道整備も着手の段階に来ているようだ。ロディナに拠点を置き、トルネラ側とロディナ側の両方から工事を進める。トルネラでも農閑期の仕事に丁度いいだろう。
雪はまだ残ってはいるが、寒さはすっかり和らいで、溶けた雪の下には緑の新芽が見え始めていた。馬車から見るボルドー周辺の畑でも春の麦踏みなどが始まっていて、ベルグリフなどは知らず知らずのうちに春の畑始めの事を考えた。
ロディナに辿り着き、もうトルネラへの交通は再開していると聞いて安心した。毎年、この時期には交通は再開しているのが普通だが、年によっては寒さが残り、通れない時もある。少し警戒していたが、概ね例年通りのようでベルグリフは安心した。
暦を見てみるともう一週間かそこらで暦上の春がやって来るようだ。少し手間取ったせいで予定より若干遅れたが、ロディナからトルネラまでは、順調に行けば一日で着く。
「何とか春告祭には間に合いそうだな……」
「お父さん、豚肉買って行ってあげようよ。みんな喜ぶ……」
「そうだな……準備は手伝えなさそうだし、それくらいはしないと」
ロディナは豚肉の産地だ。周囲の林で豊富にドングリを食べて育った豚肉はうまいと評判である。この時期ならば生肉でも腐らないだろう。
ベルグリフは生肉に加えて塩漬けと燻製をそれぞれ買い込み、村への土産にする事にした。
ロディナで一晩明かし、翌朝早くに出発して、雪解けの道を北上した。オルフェンはもちろんボルドーよりも風が冷たいように思われたが、雪の合間にまだらに出た黒い土から、青々とした草の新芽が顔を出していた。
岩の影から雲雀が一声、高い声で鳴いて飛び立った。空気が冷たい分空が抜けるように青く、見ていると吸い込まれるようだった。
カシムが両手を上げて大きく伸びをした。
「はー、なんだかのんびりするね。空気がうまいや」
「だよねー。カシムさんもそう思うー?」
「そりゃそうよ。胸がすっとして良い気分だ……おっと」
車輪が石を踏んだらしい、がたんと大きく揺れた。
遠くに見える青い山々に、残っているらしい雪が筋のようになって走っていた。雪解けは大分進んでいるようだが、山頂の方はまだ真っ白である。時折風に混じって雪が舞うのは、山の残雪が吹き下ろして来るのだろう。
朝早く出た事もあって、日が傾き始めた頃にはトルネラに近づいた。あちこちの畑で麦を踏んだり、耕して芋を植えたりしている。
村人たちは馬車に気付き、ベルグリフが乗っている事を見とめると「おかえり!」と大きく手を振った。
村の周辺は雪が寄せられ、その雪の山が凍って固まっている他は地面が見えている。羊や山羊がべえべえと鳴きながら柵の中で行ったり来たりして、鶏が道を横切って地面を引っかいている。
カシムが荷車の縁に手をつき、何だか嬉しそうにそこらを見回した。
「ここがベルの生まれ故郷かあ」
「ああ」
馬車をごとごといわして家の前まで来た。戸は開け放されて、グラハムは出掛けているのか人の気配がない。何も変わっていないように見える。しかし、何だか随分長い事留守にしていたような気もする。
馬車から降りて、荷物をごそごそと降ろしていると、ゆらりと人影が現れた。
「帰って来たか、ベル……」
「ん? ああ、グラハム。留守番ありが……とう?」
ベルグリフはぽかんと口を開けた。目の前で立っているグラハムは長い髪の毛をひっつめて結び、さらに団子に結い上げて、それを隠すように頭に手ぬぐいを巻いている。作業着らしい服の上からエプロンをつけ、背負い紐で赤ん坊を一人、胸の前にも赤ん坊を一人抱えて、さらに周囲には小さな子供らが群がっていた。
「……何をしてるんだい?」
「……? 子守だが?」
グラハムはそう言って首を傾げた。子供たちが「じいじあそぼー」と騒いでエプロンの裾を引っ張っている。
マルグリットが見たら腹を抱えて転げまわりそうだな、とベルグリフは思わず吹き出した。
アンジェリンが家の中からひょいと顔を出して、目をぱちくりさせた。
「この人は……?」
「ああ、紹介するよ。エルフのグラハムだ。マルグリットの大叔父だよ。グラハム、俺の娘のアンジェリンとその友人……」
赤ん坊を抱えているグラハムは首だけで会釈した。
「グラハムだ……こんな格好ですまぬ。ベルには随分世話になっている」
「“パラディン”の……?」
「ほ、本物……? わあ……でもなんか……ふふっ」
おとぎ話の英雄の登場に少女たちはどよめいたが、おかみさんみたいな恰好をして子供に群がられている様相ではイマイチ恰好が付かないらしい、思わずくすくすと笑いが漏れた。
「しかし随分恰好が変わったね」
「髪の毛をな……引っ張るものでな」
「ああ……」
子供たちが面白がって長髪を引っ張るから、こうやってひっつめているらしい。そういえば、自分も髪の毛を引っ張られた記憶があるなあ、とベルグリフは苦笑した。
カシムが顎鬚を撫でながら、ため息交じりに呟いた。
「すげーすげー……勝てるところが想像できない相手とか久しぶりだよ……」
「カシムさんも……? わたしもそう」
「十回やって……一回勝てるか勝てないか、かな?」
「うん……負ける所が想像できる人はいたけど、勝てる想像ができない人は初めて……」
何だか雲の上の会話をしているSランク冒険者たちを尻目に、ベルグリフは荷物を下ろし、家の中に運び込みながら、ふと思い出してグラハムの方を見た。
「ミトは?」
「一人で駆け回っていたが」
「はっ? おいおい、それは……」
その時ぱたぱたと軽い足音がして、黒髪をなびかせて誰かが駆けて来た。少年とも少女ともつかない中性的な容姿の子供である。ベルグリフは目を丸くした。
「な……ミト、か?」
「おかえり、おとうさん」
ミトはきょろんとした黒い瞳でベルグリフを見た。何だか背が高くなり、口ぶりも成長したように思われた。十歳にもならないくらいの容姿の筈なのだが、今は十歳以上に見える。
状況が呑み込めずにベルグリフがグラハムの方を見ると、グラハムは肩をすくめた。
「育ったようだ……」
「いや……この短期間で?」
一冬しか経ってないぞ、と困惑するベルグリフを見て、ミトは首を傾げた。
「どうかしたの?」
「いや、うん……ただいま」
「お父さん……お父さん! もしかして件の弟とはこの子の事……!?」
「ああ、うん……ミト、お前のお姉さんだよ」
「おねえさん?」
「そう! わたしがお姉さん!」
「ミト、です……よろしく、おねえさん」
「か、可愛い……うふふふ」
アンジェリンは目をきらきらさせてミトに抱き付いた。ミトは目を白黒させながらもされるがままになっている。アネッサ、ミリアム、シャルロッテもミトを囲んで頬をつついたり髪の毛を手で梳いたりした。
ビャクが眉をひそめながらベルグリフにささやいた。
「……あれが魔王かよ」
「うん、まあ……グラハム、どうなってるんだ?」
「ミトは厳密には人間ではないからな……さらに言えば男でも女でもない。どうも気分次第で変わるようだ。様々な人間と交流しているうちに学習して体を成長させたのだろうな」
ベルグリフは頭を抱えた。これでは村人たちにミトが人間ではないという事がばれるのも時間の問題ではないか。
そこにケリーがやって来た。作業を放って来たらしく、作業着に泥が跳ねている。
「おう、おかえりベル! オルフェンの都はどうだった?」
「ああケリー……おかげで友達にも会えたよ……留守をありがとう」
「なぁに、良いって事よ! しっかしお前も水臭い奴だな! ミトが人間じゃないならそう言ってくれりゃいいのによ!」
「……はっ!?」
ベルグリフは目を点にしてグラハムの方を見た。グラハムは泰然としている。
「グラハム……みんなに言ったのか?」
「うむ……伝えていなかったか? どの道これだけ成長しては誤魔化しようがないだろう」
「そりゃそうだけど……」
ベルグリフが困惑しているとケリーがからからと笑った。
「おいおい、今更お前が人外を匿ったからってどうこう言う奴はいねえよ! トルネラに帰って来てから、お前がした事で間違ってた事が一つでもあったか? みんなお前を信用してるんだよ、変に隠し事するなって!」
「……は、はは、そうか」
「いい村だなあ、ベル」
カシムがにやにやしながらベルグリフの肩を叩いた。ビャクは呆れたように嘆息した。
トルネラの村人たちは、過去にベルグリフにした冷たい仕打ちを悔やむ気持ちもあって、彼の行動に全幅の信頼を置いているらしかった。
悩んで隠していたのが馬鹿らしく思われ、ベルグリフはすっかり脱力してしまった。
「……ケリー、ロディナで豚肉を買って来たんだ。春告祭で使ってくれ」
「お、ありがとよ! そっちが友達かい? なんだか子供も増えたみたいじゃないか」
「まあね……でも、ちょっと、休ませてくれ。何だか……疲れた」
ベルグリフは苦笑して頭を掻いた。レントの葉のお茶が飲みたかった。
○
斜面を降り、草の新芽を踏まないようにしながら森の中を歩く。陰になっている所にはまだ雪が残っていて、大粒の氷のようになってじゃりじゃりする。
アンジェリンは木に寄り掛かって息をついた。
まだ葉の出ていない木々の枝を縫って、早朝の陽光が地面に斜めに差し込んでいる。茶色くくすんだ色の茂みからも、枯れかけた葉の下の方から新しい芽が顔を出していた。
春告祭の当日だった。
朝から準備で騒がしい村の中から抜け出して、アンジェリンは一人で森を歩いていた。
帰って来てから一週間ほど、新たに増えた家族と、顔馴染みの村の友人たちと過ごす時間は心地よく、やはり自分の故郷はここなのだと強く確認した。
「……捨ててくれてありがとう、ってのは変かな」
アンジェリンは呟いた。
この辺りが、ベルグリフが自分を拾ったという場所の筈だった。トルネラに帰って来てから早速ベルグリフに案内してもらったのである。
ベルグリフはアンジェリンを拾ってから数日の間は、近くに行き倒れがいないかどうか探し回ったらしく、この場所もよく覚えていた。結局それで生きた人間も死んだ人間も見つからなかったから、彼が親に関する事を口ごもったのも仕方がないだろう。
アンジェリンは周囲を見回した。
緩やかな斜面の森は、落葉樹と広葉樹が入り混じっている。膝丈ほどの灌木の茂みもあちこちにあって、その陰に自分は置かれていたという。
不意に、目の前から色彩が失われた。風景がセピア色になり、逆光の向こうに人影が見えた気がした。
「うっ……く……」
アンジェリンはこめかみを押さえて目を細めた。もういつもの風景だった。
「……いいんだ、もう」
髪飾りに手をやった。指先で冷たさを感じながら、アンジェリンは顔を上げる。
麓の方から賑やかな声が聞こえる。日が次第に高くなって、もう村ではお祭りのムードに包まれ始めているらしい。
アンジェリンは足早に森を出て家に戻った。
ベルグリフを始めとした男性陣はもう出かけているらしかったが、少女たちが残っていた。帰って来たアンジェリンを見て、ミリアムが笑った。
「やっと戻って来たー」
「ごめん……待たせた?」
「というか、待ってた、って感じかにゃー?」
「そうだな」
アネッサが頷いた。シャルロッテが意気揚々と立ち上がった。
「お姉さまをおめかしするの!」
「えっ……ど、どういう事……?」
ミリアムがにやにやしながらドレスを取り上げた。アンジェリンがエストガル大公家に行った時、リーゼロッテから貰って来たドレスである。着たところをベルグリフに見せたいと思っていたのだが、実際に着る段になると妙に照れ臭くなり、お祭りでもないのに、と言い訳してずるずると着ずに済ませていたのがこのドレスだ。
アンジェリンは頬を染めてもじもじした。
「で、でも……やっぱり照れ臭い。一人だけ張り切ってるみたいで……」
「張り切っていいじゃん! わたしも見たーい!」
「そうよお姉さま! せっかくの綺麗なドレスなんだから、着てあげないと!」
「ほら、つべこべ言わずにさっさと脱ぐ」
「ひゃあ」
アンジェリンはたちまち服をひん剥かれ、着付けをよく知っているシャルロッテの指導でドレスを着、髪型を整えた。エストガルだろうがオルフェンだろうがトルネラだろうが、女の子が人をお洒落させるのに情熱を燃やすのは一緒らしい。
やがて着替え終えた。化粧こそしていないが、ざっくばらんに三つ編みにしてあった髪の毛には櫛が入って整えられ、靴こそいつものものだが、ドレスも合わせたようにぴったりだ。
シャルロッテがほうと嘆声を漏らした。
「綺麗……すごく! すっごくいいわ!」
「可愛いー、いいなー……羨ましい」
「うん。よく似合ってるぞ」
「そ、そう……?」
アンジェリンはもじもじと手を揉み合わせた。着慣れないひらひらした服であるし、場所がトルネラというのも何だか照れ臭さを助長した。
広場の方からは楽器の演奏が聞こえて来る。もう宴会が始まっているのだろう。
未だに煮え切らないアンジェリンは、三人に引っ張られて広場に連れていかれた。
陽気な音楽が響いて、若者たちが軽快に踊っている。酒を飲んで笑っていた村人たちも、ふとアンジェリンが視界に入ると言葉を失って目を剥いた。それが妙に恥ずかしくて、アンジェリンは赤く染まった頬を両手で押さえた。エストガルではこんな気分にはならなかったのに。
向こうの方でベルグリフが腰を下ろして、村長のホフマンと何か話していた。近くにはカシムやグラハムも座っていて、林檎酒に舌鼓を打っている。
「おーい、ベルさーん」
ミリアムが声を上げて手を振った。ベルグリフがこちらを向く。
アンジェリンはどきどきしながらその前に歩み出た。カシムが「おお」と声を上げた。
「そのドレス貰って来たんか。やっぱよく似合ってるねえ」
「え、えへへ……」
アンジェリンは照れ臭さに上気しながら、おずおずとベルグリフの方を見た。
ベルグリフはぽかんとした表情でアンジェリンを見つめていた。呆けている。
似合っていないんだろうか、呆れられたんだろうか、とアンジェリンは思わず口を結んだ。
その時、つーっとベルグリフの両眼から涙がこぼれた。くしゃりと表情が崩れる。笑っているとも泣いているとも分からぬ、しかし歓喜に打ち震えるかのような顔だ。
「アンジェ……立派に……なったんだなあ……本当によく似合ってる……ごめんなあ、綺麗な服の一つも買ってやれないで……」
ベルグリフは目を押さえてむせび泣いている。カシムやホフマンが笑って、その背中をばしばし叩いた。
恥ずかしさ、照れ臭さがみるみるうちに溶けてなくなり、アンジェリンは胸いっぱいの喜びのままにベルグリフに駆け寄って手を取った。
「踊ろっ! お父さん!」
「え、ちょ、待ってくれ、お父さん踊りは……」
「いいの! 早く!」
アンジェリンに引っ張られて、ベルグリフは踊りの輪の中に紛れ込んだ。村人たちがわあと歓声を上げる。
アンジェリンはベルグリフの手を握ったまま軽快にステップを踏み、それに合わせようと必死にひょこひょこ踊るベルグリフを見て、誰も彼もが大きな笑い声を上げた。
第五部終了です。例によって書き溜めしますので、三月半ばくらいまでお休みします。
ただ畑始めの時期でして、ちょいと本業が忙しくなりつつあり、執筆時間が取れなくなっております。
状況によっては再開が遅れる可能性もありますので、予めご了承ください。
ハッ! これはもしかして別の面白い小説を探しに行くチャンス!?
あ、書籍の方もよかったらよろしくお願いします。




