六十六.雪解けの時期は川の水量が増える。
雪解けの時期は川の水量が増える。
しかし、岸の所には白々した分厚い氷が残っていて、あんまり寒い日には、はねたしぶきの形そのままに凍っている事もある。しかしもう春が近い事もあって、そんな氷はあまりないようだ。
川端で馬に水を飲ませている間、乗合馬車の一行は馬車を降り、座りっぱなしで固くなった体を伸ばしてほぐし、思い思いに談笑していた。
「なるほど! では近くに来た時は是非立ち寄ってもらいたい。“黒髪の戦乙女”と座を共にできれば我が家名も上がろうというものだからな!」
「ん……前向きに検討します……」
貴族の三男坊は笑いながら離れて行った。貧乏貴族だが、一応所領があるらしい。エストガル大公から勲章を授与されたアンジェリンの事は噂になっており、貴族ですら一目置くようになっているようだ。
旅の最中も色々な人から話を持ちかけられた。
うまい話にありつこうという下心を持つ者も多かったが、アンジェリンは慣れたもので、当たり障りもなく簡単にあしらった。生来の不愛想さが変なところで役に立つものだ。
嘆息するアンジェリンの横にヤクモが腰を下ろした。
「有名人は忙しいのう」
「全然嬉しくない……」
「そうかい? おんしは欲がないのう。もっと稼ごうとか、名を上げようとか、冒険者ならそんな思いはあって当然じゃろ?」
「興味ない……」
アンジェリンは膝を抱えて嘆息した。ヤクモはくつくつ笑って手にした瓢箪をあおった。
向こうの方でシャルロッテが駆けて行く。その後ろからルシールがのんびりした足取りでそれを追っかけていた。
この数日間の旅の間、ヤクモとルシールとはすっかり友人といえる関係になっていた。
飄々として、茶目っ気のあるヤクモの東方の話は誰もが耳を傾けたし、初めは対応に困ったルシールのおかしな性格も、今となっては笑って受け流せる。事あるごとに絡まれるシャルロッテはたまったものではなさそうだが。
袖で口を拭い、ヤクモはぼんやりと宙に視線を泳がした。
「その無欲さでSランクまで上がったとは驚きじゃ……飲むかの?」
「ん……ありがと」
受け取って一口飲む。白ワインだ。冷えていてうまい。アンジェリンは息をついて瓢箪を返した。
「……ヤクモさんの探してる人は、大事な人?」
「そういうわけではないよ。仕事じゃ」
「それで北部まで来たんだ……大変だね」
「ふふ、そうじゃの……思った以上に大変な仕事じゃ。人の心ほど難しいものはない」
「……どういう事?」
「アンジェ、おんしも何か迷っておるのう」
どきりとして、アンジェリンは思わず顔を背けた。ヤクモは頭を掻いた。
「責めておるわけではない。生きる事は迷いの連続じゃ。時には沈んでみるのもいいものよ」
「……ヤクモさんもそういう時があった?」
「おう、もちろんじゃ。今だって迷っておる」
「どんな悩み……?」
「ふふ、そいつは秘密じゃ。女には秘密があるものよ」
馬をつなぎ終えたらしい、御者が大声でお客を呼んだ。川端に三々五々立ったり座ったりしていた乗客たちは馬車に乗り込んだ。
次第にボルドーが近くなった。今晩眠って、翌日の夕方には辿り着くだろう。
一行は、オルフェンからここまで、中途で一度魔獣と戦った他は特に足止めを食う事もなく、順調に旅路を進めた。その魔獣の襲撃も、アンジェリンやカシムという規格外の存在のせいで、戦いらしい戦いにならずに終わったのだが。
馬車の脇をシャルロッテが駆けて行く。
「遊ぼうぜ、お嬢ちゃん……」
「やあだ! もう、匂い嗅ぐのやめなさいよ! 馬鹿!」
鼻をくんくんさせながら近づいて来るルシールから、シャルロッテはぽてぽてと逃げて、ベルグリフの後ろに隠れた。
「はは、随分仲良しになったねえ」
「仲良しじゃないもん! きゃあ、来た!」
シャルロッテはぱたぱたと駆けて行った。ルシールは詰まらなそうにふんと鼻を鳴らした。
「また逃げられちゃった……」
「ルシール、あんまりいじめないでくれよ? デリケートな子なんだ」
まあ、心底嫌がっているわけではなさそうだが、とベルグリフは苦笑した。嫌がって逃げるのが楽しくなっているようにも見えた。
「昔の人は言いました。おーゆにーでぃず、ら。しかし愛だけでは駄目なのね……」
「相変わらず君はよく分からないねえ」
「あの子は類まれな良い匂いがするんだよ、ベルさん……貴族みたいにいやらしい香水の匂いがするわけでもない。庶民の土と汗の野暮ったい匂いでもない……丸くて柔らかい、とってもいい匂い」
「そうかい? やっぱり君は鼻が利くんだね。俺にはよく分からないよ」
ベルグリフは笑いながら荷物を下ろした。
「悲しみがわたしを襲う……しかし辛い時こそ、苦しい時こそ歌うのさ。おー、べいべー、ぷりーずどんごー」
ルシールは手に持った六弦をちゃらちゃら鳴らした。辛いだのなんだのと言っても、その響きには悲愴感はまるでない。
悲しい歌を明るい曲調で歌う事に何だかちぐはぐさを感じたが、この南部の獣人の、どこか素っ頓狂な明るさは、奴隷制という暗い過去を乗り越えた上にあるものなのかも知れない、と少し思った。
宿に着くたびに荷物の積み下ろしがあるのが面倒だが、馬車に置いたままにして盗まれても面白くない。もう何度もやっていると手慣れたもので、ベルグリフは要領よく荷物を下ろし、カシムたちが受け取って部屋に運んだ。
ボルドーに近づくほどに、まだまだそこいらに冬が残っているような感じだった。柔らかく感じていた風は再び鋭さを取り戻し、雪もまだまだ辺りを白く染めている。
それでも、北部にある冬の厳しさからは幾分か抜け出しているのも確かだった。もう畑を起こしている農家もあるように思われた。麦畑からは青々とした芽が幾つも顔をのぞかせている。
故郷に近づいている事がありありと感ぜられ、ベルグリフは何だか安心するような気分だった。もう、自分は都会よりも田舎の方が合っているのだとあらためて思った。
最後の荷物を肩に乗せると、ヤクモがふらふらとやって来た。
「おう、ベルさん。荷物はもうないかの?」
「ああ、ヤクモさんか。おかげさまで済んだよ。これが最後だ」
「ふふ、おんしらは行商人でもないのに大荷物じゃのう」
「はは、田舎者丸出しで悪いね……君たちは荷物が少なくていいねえ」
ベルグリフが言うと、ヤクモは笑った。
「身軽さが売りじゃからの。どうせする事もなし、困った時はお互い様じゃ」
「ありがとう、助かったよ」
ベルグリフは笑って荷物を担ぎ直した。歩きはじめると、ヤクモとルシールも付いて来た。同じ宿なのである。
「さて、明日にはボルドーだ。君たちの探し人も見つかるといいが……」
ベルグリフが言うと、ヤクモはぽりぽりと頬を掻いた。
「ん……そうじゃの……」
「……? どうかしたのかい?」
「うんにゃ……」ヤクモはバツが悪そうに笑った。「何でもないよ」
二人と別れて部屋に入ると、カシムとビャクがテーブルを挟んで差し向いになっていた。ビャクは目を閉じてジッとしている。義足が床を叩く音で気付いたらしい、カシムが振り返った。
「お、それで荷物最後?」
「ああ。瞑想か?」
「まあね。なんか随分こなれて来たな。変な気負いがなくなったからかな?」
二人が話していても、ビャクはぴくりとも動かなかった。すっかり集中しているようだ。ベルグリフはベッドに腰を下ろす。
「上達してるのかい?」
「だね。こういうのって精神の安定が割と大事だから、変な遠慮がなくなって殻が破れたんじゃないかな」
「はは、ようやく気負いがなくなって来たって事か」
「勝手な事ばっか言ってんじゃねえぞ、クソ親父ども」
見るとビャクが片目だけ開けて二人を睨んでいた。
「黙って見てろ……」
「へいへい」
「ごめんごめん」
「……チッ」
ビャクは舌打ちして再び目を閉じた。ベルグリフとカシムは顔を見合わせて忍び笑いを漏らした。
○
宿に併設された酒場で夕飯を取り、また別々の部屋に落ち着いた。
宵の口で、外は寒々しいのに、酔漢が大勢いるらしい、窓の外の往来では陽気な声が行ったり来たりしている。
アンジェリンはシャルロッテの髪の毛を編み、ほどいて、また編んでと遊んでいた。シャルロッテは眠そうな顔をしてされるがままになっている。
シャルロッテの髪の毛はさらさらしていて手触りがとてもいい。匂いもふかふかと甘く、確かにルシールが夢中になるのも分かるような気がする。犬の獣人では、自分よりもずっと鼻が利くだろう。
ミリアムはテーブルの上に顎を乗せてぽやぽやと溶けていた。腹ができたから眠いのだろう。アンジェリンも何となく眠いような気がする。
その時、散歩に出ていたアネッサが戻って来た。寒風に吹かれて赤くなった頬に手を当ててこすっている。
「もう眠いか?」
「ん、ぼちぼち……何かあったの?」
「いや、歩いてたら蒸し風呂の店があってさ。行かないかと思って」
焔石を組み合わせて、その上に干した香草を敷いたものらしい。なるほど、確かにここ数日は体を拭きこそしたが、風呂に入った覚えはない。
「行こうかな……シャルは? 蒸し風呂だって」
「んみゅ……? お風呂? 行く……」
シャルロッテはもそもそと見返ってアンジェリンに抱き付いた。寝ぼけているのか何なのか、ともかく連れて行く事にする。ミリアムも立ち上がって頬をぺしぺし叩いていた。
ベルグリフたちにも声をかけたが、ベルグリフは書き物があるから行かず、カシムは風呂が嫌いだと行かず、ビャクは「誰が行くか」と吐き捨てた。
カシムがけらけら笑った。
「お年頃だもんね。美少女の中に男一人じゃ居心地悪いかな?」
「そんなんじゃねえ」
「ゆっくり体を休めておいで。湯冷めしないように、上がったら寄り道しないで戻って来るんだよ」
アンジェリンは頷いた。
「うん、分かった……行ってきます」
寂しいようなホッとしたような、何だか変な心持なのが不思議だった。
外に出ると風が冷たい。ひゅうひゅうと向かいから吹き付けて、目が細くなるようだった。シャルロッテがアンジェリンの腕に抱き付く。
「ひゃー、目が覚めちゃった」
「そうだね……早く行こ」
それほど遠い場所ではなかった。木造りの建物で、裏手にある崖に埋もれるようにして建っている。隙間からは湯気がもうもうと立ち上り、ランプだか黄輝石だか、下から照らされる光で陰影の具合が変に立体的に見えた。
受付に料金を払って入ると、中にはそれほどお客が入っている様子ではなかった。あるいは、もう客の入りのピークが過ぎたのかも知れなかった。ともかくゆっくりと入れそうである。
田舎の蒸し風呂には珍しく男と女が別れていて、裏手の崖に広い洞窟のようになっている所が風呂になっていた。
服を脱いで浴場に入った。組み合わせで温度が変わる焔石をいくつも組んで高い温度にしてあり、その上に伸ばした樋から湧水がかかるようになっている。
じゅうじゅうと音をさせて湯気がどんどん舞い上がっていた。不思議にする爽やかな匂いは、石の上に置かれた香草のものだろう。
天井からランプが吊るされているが、湯気が濃いから視界が白濁して何だかよく分からない。かろうじていくつかの人影が見える程度である。
「ちょっとー、三人ともどこー?」
後ろの方でミリアムが言った。
「こっちだよ。足元気を付けろよ」
アネッサが振り向いて呼びかけた。
木造りのベンチが壁際にあって、そこに腰かけてジッとするらしい。
入った時から随分暑いと思っていたが、座ってジッとしていると余計にそれが感ぜられた。湯気だけでなく、焔石の温度が高いのもあるだろう。
差し向いに座っている人の顔も分からない。アンジェリンは目をしばたかせ、額から垂れて来る水滴だか汗だかを手の甲で拭った。
その時向かいの人影が口を利いた。
「もしかしてアンジェたちかの?」
「……ヤクモさん?」
顔の前で手を振って湯気を払った向かいの顔は、なるほどヤクモである。隣にはルシールも座っていた。シャルロッテがひゃあと悲鳴を上げた。ルシールはふふんと鼻を鳴らした。
「オッス運命……でも、ここじゃ匂いは分からない……」
「二人も来てたんだね」
「おう、垢を落とそうと思ってな」
ヤクモはそう言って赤裸の体を手ぬぐいでこすった。着痩せする方なのか、胸や腰など出る所は出て、しかし引き締まって均整の取れた体つきである。だが見れば古傷だらけだ。肩から胸に裂かれたようになった大きな傷があり、脇腹にも貫かれたような傷があった。
思わず見ているのに気付いたのだろう、ヤクモはからから笑った。
「なに、昔の仕事でへましただけじゃよ。傷跡はひどいが、もう痛くはない」
「……なんの仕事してたの?」
「そりゃおんし、冒険者よ。身の丈に合わぬ魔獣と戦っちまったんじゃ。若気の至りじゃのう」
そう言って濡れた前髪をかき上げた。アネッサが言った。
「ヤクモさん、結構な腕前だと思いますけど……」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいがの。おんしらは綺麗な体しとるのう。傷を受けずにSやAAAまで上がれるのは才能の証左じゃ。誇ってよいと思うぞ」
「ん……」
アンジェリンは目を伏せた。冒険者にも色々な人がいる、と思う。
ルシールが立ち上がってミリアムの隣に座った。
「でけえ……羨ましいぜ、キティちゃん」
「そーお? 結構肩凝るんだよ、これー」
「幸せの重み……揉んでいい?」
「やめろー、金取るぞー」
「騒がしい連中じゃのう……」
ヤクモは嘆息して額の汗を拭った。
「けど明日でボルドーか……なんだかあっという間だったな」
「まだだぞアーネ……トルネラはまだ先」
「そりゃそうだけど、ヤクモさんとルシールの探してる人はボルドーにいる筈なんだろ? 二人とはお別れじゃないか」
「昔の人は言いました。旅は道連れ世は情け、あなたとおんざろーだげいん」
「おんしは静かにしとれ。ま、寂しいと思ってもらえるのはいいが……」
「……二人の探してる人って誰なの?」
「そういえば、それ聞いてなかったねー。教えといてくれれば、何か手伝えるよ?」
「ふむ……」
ヤクモは黙ったまま目を伏せた。ルシールも急に静かになって俯いている。
「……潮時だぜ、ヤクモん」
「誰がヤクモんじゃい……ま、そうじゃの」
ヤクモは乱暴に髪の毛を掻いた。水滴が飛び散らかった。
「……ルクレシアの貴族じゃよ。とある枢機卿の娘だそうでな、国を追われ、怪しげな遊説をしながらローデシアを放浪していると聞いていた」
シャルロッテの表情が引きつった。アンジェリンはそれとなく身構えた。
「……それで?」
「ルクレシアで政変があった事は聞き及んでおろう? 情勢が変わってな、その娘を然るべき地位に戻そうと画策する貴族が、儂らに連れ戻すよう依頼を出したんじゃ」
ヤクモはシャルロッテを見つめた。
「バルムンク卿の娘。シャル、おんしの事じゃ。依頼を出したのはロベール卿じゃよ」
「嘘よ……! おじさまは死んだ筈よ!」
ルシールがふるふると首を振った。
「したたかなおじさんでね……死んだのは身代わりだって。政変が起こるまで地下に潜伏してたみたい」
「そんな……」
「……ロベール卿って?」
「バルムンク卿の遠縁じゃ。反教皇派じゃったから、一度は異端審問にかけられておる」
「そうじゃない。どういう人なの? シャルを大事にしてくれそうなの?」
「んむ……」
ヤクモは困ったように頬を掻いた。
「正直、分からん。政争に明け暮れとる典型的なルクレシア貴族じゃからの。まあ、悪いようにはしないと思うが……」
「君たちが良い人だから……」ルシールが言った。「悪い人だったら、容赦なく叩きのめしてシャルを連れて行ったけど、ね……」
「そうじゃの。元貴族の娘で、見目も麗しい。おかしな連中に捕まっていたり、利用されているようだったら話は早かった。じゃが、おんしらは心配になるくらい善人じゃ。正直、儂らもシャルをルクレシアに連れ帰るのが正しいか迷っとる」
「それじゃあ、依頼をほっぽっちゃ駄目なの?」
ミリアムの問いに、ヤクモは首を振った。
「おんしらも冒険者なら分かっておろう? 一度受けた依頼を私用で放り出しては信頼に関わる。筋が通らん。それに、ロベール卿はシャルとは血縁関係じゃ。家族にもなれよう。最善かは分からんが、最悪でもないと思っとる」
血のつながり、という言葉に、アンジェリンはドキリとした。
その時、体に重みを感じた。シャルロッテが寄り掛かっていた。顔が赤い。突然の事に混乱したせいもあってか、のぼせてしまったようだ。
ヤクモは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……儂らも仕事じゃ。無理強いはしたくないが、もしも対立する事になれば……」
「……その時はその時。ごめん、シャルがのぼせたから、出る」
「すまんの……急かすつもりはない。ボルドーで答えを聞かせてもらいたい」
「おやすみ……」
呆然として出た。すっかり温まった体には寒風も心地よいが、それを楽しむだけの余裕がない。アネッサもミリアムも考えるようにして黙っている。
背中におぶったシャルロッテの重みを感じながら、アンジェリンは考えた。
本当の親でないにせよ、親戚であるならば、そちらの方が幸せなのだろうか。しかし、シャルロッテ自身はどう考えているのだろう。トルネラで土にまみれる生活に入るよりも、ルクレシアに戻って、貴族の令嬢として暮らすのが幸せなんだろうか。
部屋に戻っても、誰も相談らしい相談はしなかった。おそらく相談できるほど考えがまとまっていないのだ。ヤクモたちがなりふり構わずシャルロッテを連れ帰ろうと襲って来るような者たちならばまだよかった。だが、ああいう風に出られては腕っぷしでどうにかするわけにはいかない。
ベルグリフたちはもう寝ているらしかったから、アンジェリンたちも寝床に入った。
寝床の中で、自分の方にも考えは及ぶ。
血のつながり。自分だって同じだ。そのせいでベルグリフと過ごした日々が色褪せるわけではない。
しかし、本当の家族というのは何だろう。ベルグリフが、自分の生い立ちに関して何かを隠したまま、上っ面の家族を作っているとは考えたくない。しかし、そもそもその話すらしていないのだ。
疑念ばかりが膨らみ始めてしまい、まんじりともできず、気が付けば空が白んでいた。
○
陽が昇り出した頃に、日課の素振りをしようと宿の外に出て歩いていると、後ろからアンジェリンが駆けて来て背中に飛び付いた。
「おっと」
ベルグリフは少しよろめいたが、すぐに足を踏ん張って重心を取った。
「おはよう、アンジェ。どうした?」
「ん……」
アンジェリンはぐりぐりと首筋に顔を押し付け、ふがふがと息をした。くすぐったさと、何だか妙なアンジェリンの様子で、ベルグリフはくつくつ笑った。
「なんだい、甘えん坊だね」
「……素振り?」
「ああ。お前も来るかい?」
「うん……」
アンジェリンはそのままベルグリフの背におぶさった。
朝からもう出発する連中が幾人もある。商談がまとまったのか、大きな荷物の包みを荷車から荷車に積み替えたりしている者もある。辺りはまだ霜がきらきらしているのに、随分にぎやかなものだ、とベルグリフは白い息を吐き出した。
少し歩いた所に空き地があって、ガラクタやゴミが散らばっているからか、人の姿はない。ここなら剣を振っても迷惑にはならないだろう。
背中から降りたアンジェリンは、剣を抜くでもなくベルグリフを見ていたが、ベルグリフが剣を振るのを見て、自分もそれにならった。しかし、どうにも剣筋に鋭さがなかった。幾度か剣が行き来する。
様子のおかしさに気付いたのか、ベルグリフは剣を振るのをやめ、怪訝な顔をしてアンジェリンを見た。
「どうした? 何だか変だぞ?」
「あのね……」
「うん?」
アンジェリンはもじもじしていた。手を組み合わせ、何から話せばいいのかと迷っているような仕草だった。
「……お父さんは、わたしに隠してる事、ないよね?」
「ん? 隠し事……ない、と思うが……」
「……わたしの本当の親の事、知ってるの?」
ベルグリフは眉をひそめた。
「ふむ……」
アンジェリンは黒い瞳を潤ませながら、じっとベルグリフを見つめた。ベルグリフは嘆息した。
「……すまん」
「――ッ! それじゃあッ」
アンジェリンの顔が悲しみに歪むのと同時に、ベルグリフは続きを紡いだ。
「分からない。お前は一人でカゴに入っていたし……いや、拾った時に、それとなく周りを探してみたんだが……赤ん坊を抱いてあまり森をうろついてもいかんと思って……」
「……え?」
「ん……? その、だから、すまん。もし知っていれば、何とか会えるようにしてやりたいとは何度も思っていたんだが……お父さん、どうもその話題は言い出せなくてな」
ベルグリフはバツが悪そうに頭を掻いた。
いよいよアンジェリンも本当の親が気になったのか、と思った。どうあっても義理の親子だ。彼女が自分の大元を求めるのも仕方があるまい。
アンジェリンとは様々な話をしたが、本当の親、という話題はあまり口にしなかった。意図的にしなかったのだと自分で思う。自分の元からアンジェリンが離れてしまうような気がしたのだろう。
しかし、こうやってアンジェリンからその話が出たとなれば、親としてやれる事は娘の思いに応えてやる事だろう。逃げていた事に、自分も向き合わなくてはならない。
「アンジェ……お前が望むなら、その……本当の親御さんを探しても……」
だが、ベルグリフが言い終わる前に、アンジェリンはその胸に飛び込んだ。ぼろぼろ涙をこぼしている。
「いいの!」
「んん? いや、アンジェ」
「いいの!! わたしのお父さんはお父さんだけなの!」
ベルグリフは涙ぐむアンジェリンの背中をそっと撫でてやった。
「……何か悩んでたんだね?」
「うん……」
アンジェリンは言葉を選ぶように、たどたどしい口ぶりで話をした。
マルグリットとの話で、自分の本当の親の事が気になり始めた事、そこから、ベルグリフが自分に何か隠し事をしているのではないかと疑念を抱いた事、シャルロッテやビャクに嫉妬を感じてしまった事、家族というものが分からなくなってしまったという事。
ベルグリフは静かに、時折相槌を打ちながら聞いていた。そうして、全部話し終えたアンジェリンの頭を撫でてやった。
「そうか……よく頑張ったな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい。ごめんな、気づいてやれなくて」
「ううん、わたしが勝手だったから……」
ベルグリフは少し腰を落として、真正面からアンジェリンを見た。
「アンジェ、確かにお前は拾った子だよ。血のつながりはないかも知れない。だけど、お前は間違いなくお父さんの娘だし、お父さんにとっては何にも代えがたい一番大事なものなんだ。それだけは忘れないでくれ。な?」
「うん……」
「お父さんもな……お前が無理してないか心配だったんだよ。お前だってもう十八だし、あんまりお父さんの言った事に縛られてもいけないかなと」
「……それで、辛くないかって言ったの?」
「そう、だな……うん、そうだ」
「えへへ……わたしだって、お父さんの言う事ならなんでも聞くわけじゃないぞ!」
アンジェリンはベルグリフに飛び付いた。首に腕を回してぶら下がる。
「お父さん! 言いたい事があったらちゃんと言ってね! 変に口ごもられたら不安になるもん!」
「はは、悪かった……でもそれはお前もだぞ」
「えへへ……」
アンジェリンは地面に降りると、少し真面目な顔をしてベルグリフに向き直った。
「……それでね、大事な話があるの」
「うん?」
アンジェリンは昨晩のヤクモたちの話をした。ベルグリフは眉をひそめ、腕を組んだ。
向こうの方で鶏が鳴き、荷車のがらがらいう音が聞こえた。




