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六十三.相変わらず降りしきる水


 相変わらず降りしきる水っぽい雪の中を家まで戻ると、中に誰かいるような気配である。おやと思って戸を開けると幾つかの顔が一斉にベルグリフの方を向いた。カシムが手を上げた。


「やあ、ベル。おかえり」

「どうした? 早いじゃないか」

「ちょっとね……オイラたちも今戻って来たところだよ」


 ベルグリフはマントを取って部屋に入った。そうして少し驚いたように目を開いた。かんかんと燃えるたき火のそばに、服で着膨れた女がうずくまるようにして座っていた。


「マリア殿?」

「あん? ああ、ベルグリフか。邪魔してるよ」


 マリアはベルグリフを横目で見ると、手に持ったカップを口にやった。

 ここ数か月の暮らしの中で、もちろんベルグリフはマリアとも知り合っていた。アンジェリンの暴走が彼女にも及んでいた為、初対面で品定めされるように見られたのには苦笑いが浮かんだものだ。

 ベルグリフは首をかしげながらマントを壁に掛け、たき火の近くに腰を下ろした。


「こちらに来られていたんですね」

「こいつと話したい事もあったからな。げほっ……」


 マリアは口元を袖で隠し、小さく咳き込んだ。ベルグリフはカシムの方を見た。カシムはおどけたように肩をすくめた。シャルロッテとビャクは並んで静かに座っている。シャルロッテは泣いた後なのか、少し目が充血していた。


「……席を外した方が?」

「いいや、むしろお前は聞くべきだ。こいつらを預かるつもりなら、お前も無関係じゃない。」


 マリアはビャクとシャルロッテを顎で示した。

 魔王がらみか、とベルグリフは眉をひそめた。確かに、それは避けては通れない問題だろう。ビャクに巣食っている存在もそうだし、ミトの事もまだまだ謎が多い。得られるだけの知識や情報は欲しいところだ。

 カシムがケトルから湯気の立つ花茶を注いでベルグリフに手渡した。


「オイラもそのうち話さなきゃいけない事だと思ってたんだ。もう少しでオルフェンを出るだろ? その前にね」

「うん……そうだな」


 ベルグリフは口をすぼめて花茶をすすった。

 マリアは少し考えるように黙っていたが、やがて口を開いた。


「“災厄の蒼炎”シュバイツ」


 ベルグリフは眉をひそめた。マリアはベルグリフの方を見て、目を細めた。


「知ってるだろ?」

「ええ……名前だけですが」


 有名な名だった。悪い意味で、と頭に付くが。


 “災厄の蒼炎”シュバイツ。

 ローデシア帝国の歴史上でも屈指の大魔導であり、かつてのソロモンの遺産研究の最前線に立っていた男である。

 優秀で、数多くの術式を開発し、魔法学を大いに発展させたのだが、その裏では凄惨な人体実験を始めとした非倫理的な行為に手を染めており、ついには帝国西部の町一つを死霊の町へと変えた。現在もその町はアンデッドの徘徊するダンジョンのような有様になっている。


 用心深く、抜け目のない性格で、帝国の上層部が異変に気付いた時には、辺境の村が幾つも消えており、帝都にもその術式が組まれようとしている最中だった。自らの知識欲と実験の為ならば、他人の事など何とも思っていない男だったのである。


 事件の全貌が発覚した後、当時の高位ランク冒険者を始めとした実力者たちとの激烈な死闘の末に討たれたと世間では言われている。異名の“蒼炎”の頭に“災厄”が付くようになったのはそれからの事だ。


「……死んだと思ってたんだがな。生きてやがった」

「見知りだったのですか?」

「帝都の魔法学研究機関の上司だった。色々と教えてもらったし、世話にもなったが……」


 マリアは複雑そうな表情を浮かべ、目を伏せた。


「あいつのせいで、あたしは研究機関から足を洗ったよ。騙されていたとはいえ、自分があれの片棒を担いでたのに我慢ならなかった。それであいつの討伐隊に加わって、冒険者になったのさ」

「……お察ししますよ」

「ふん……カシム、お前はシュバイツと絡みはあったのか?」


 カシムは髭を撫でた。


「いや、なかった。魔王を利用しようとしているグループは幾つもあってね、けど互いに競い合うというか潰し合うというか、ともかく協力的じゃなかった。オイラがつるんでたのはシュバイツとは別の連中さ」


 カシムはそう言って顎鬚を撫でた。


「でも噂はよく聞いてたよ。オイラのつるんでた連中も別に無能じゃなかったけど、やっぱりシュバイツは頭一つ抜けててね、所持してる魔王の数も桁違いだった。おかげで連中も随分焦ってたみたいだ」

「だろうな。あたしも調べるうちに色々な事が見えて来た。げほっ、げほっ……」


 マリアは口元を押さえてむせ込んだ。隣に座っていたシャルロッテが背中をさすってやる。


「マリアおばあさま、大丈夫?」

「チッ……それでだ。こいつらを利用してたのはシュバイツだ」


 ベルグリフは眉をひそめた。随分な大物が出て来たものだ。


「……まだシュバイツがシャルたちを狙っている、と?」

「げほっ……どうだろうな。余程の利用価値がなければ、あいつはリスクを負うような事はしないだろうよ。だが、少なくとも奴はこいつらがここにいる事を知ってやがる。あたしは実際オルフェンであいつと一度戦ったからな」


 ビャクがぴくりと反応した。


「……ギルドにホムンクルスが出た時か」

「気づいてたか……そうだよ。あの魔王もシュバイツが持って来たみてぇだな」

「それでも手を出してこない、ってのは何か思惑があるんだろうね」


 カシムが花茶をすすりながら言った。マリアは頷いた。


「魔王、つまりソロモンのホムンクルスに関して分かっている事は少ない。シュバイツですらまだ真実の半分にも辿り着いていないだろうよ。ビャクはいい観察対象として泳がせておくつもりなのか、もう興味をなくして別の実験をしているか……まあ、後者の可能性は低いな。ごほっ、ごほっ……」


 マリアはぶるりと肩を震わせた。


「おい、少し薪を足せ。寒い」


 ベルグリフは薪を幾つか火の上にくべた。マリアはため息をついた。


「……オルフェンに出たホムンクルスの溶けたのを調べた。とんでもねえ代物だ。あたしにもまだ全貌は見えねえが、質量のある魔力の塊とでも言えばいいか。ともかく、複雑な術式が何重にもかけられて、その上で自我や感情を個別に作り出すプログラムが組まれてた。尤も、どこかに欠陥があるのは確かだがな」

「ソロモンが時空の彼方に消えて魔王が暴走した、というのがそれでしょうか?」

「伝承が正しいなら、な。まあ、あたしはその線は濃いと思ってる。あれは術者が統率して初めて安定する代物だ。それがいなくなれば狂気に支配されるのは目に見えてる」

「オイラもこの前ちょっと見してもらったけどね、意味不明だったよ。何を考えたらあんなものを作れるんだかね」


 カシムは言いながらちょっと腰を浮かしてクッションの位置を直した。


「で、シュバイツどもがやってた実験はいくつかあってね、オルフェンで去年あったっていう魔獣の大量発生もそうだし、こいつもそうだ」


 カシムはそう言ってビャクの肩を叩いた。ビャクは目を伏せた。ベルグリフは首を傾げる。


「魔王が巣食っているとは聞いているが……」

「ああ、それは間違いない。実験の結果ね。ただね、その実験てのが結構エグイんだよ」

「……人間の女に産ませるんだ」


 ビャクが言った。視線が集まった。


「詳しい事は知らねえが、ホムンクルスは形を変える。それをどうやってか人間の女の体に入れる。するとホムンクルスは胎内で赤ん坊になる」

「……それじゃあ」

「そうだ。俺はそうやって産まれた。人間の肉体に魔王の力を持ってな」


 ビャクはベルグリフを見据えた。


「だが、あいつらが言うには、俺は失敗作だ。俺の魂と魔王の魂が同居している。成功作は、魔王の気配がなくなる。魂が溶け合って、ソロモンのホムンクルスとしての頸木から解放される」

「つまり、そうする事で魔王とかいう得体の知れない強大な力を、好きなように支配しようと企んだわけだ」


 マリアはそう言って小さく咳き込んだ。カシムが肩をすくめる。


「で、こいつの言う事には、アンジェもそうなんだとさ」

「なに……? アンジェが?」


 ビャクは黙ったまま目を伏せた。ざわ、と空気が揺らぎ、ビャクの髪の毛が黒く染まった。


「あいつの強さは明らかにそれ由来だ……それに、俺の中のホムンクルスがそう言ってる。人間には分からなくても、同族には感じられるものがあるみてえだ」

「……その魔王は何て言ってるんだい?」

「帰りたい、あいつばっかりずるい、ってよ」

「ふむ……」


 ベルグリフは顎鬚を撫でた。シャルロッテがおずおずと口を開く。


「あのね、お父さま……けど、そうだと決まったわけじゃ……」

「だがそうでないとも言い切れねえな」


 マリアはそう言って花茶をすすった。


「シュバイツが実際にそう定義していたとすれば、完全に正しくはなくとも幾分かは的を射ている見解の筈だ。胸糞悪ぃが、あいつの実力は本物だからな」

「でも……お姉さまがそうだなんて、信じられないわ」


 シャルロッテは俯いた。ベルグリフは考えるように視線を泳がせた。


「……カシム、君の見解はどうなんだい?」

「オイラとつるんでた連中の間でも、その実験の事は噂になってたからね。ただ、アンジェがそうかと言われると何とも言えない。まったく魔王の気配がないのが根拠なら、世の中の大半の人間がそうなっちゃうし、強さが根拠なら、オイラだってその可能性がある事になるだろ?」


 ビャクは頭を振った。


「特徴はもう一つ、黒髪だ。俺もホムンクルスの魔力を扱う時は髪が染まる」


 そう言って、ビャクは自分の髪をつまんだ。もう白に戻っているが、確かにさっき黒く染まった。魔王の魔力とやらを解放したのだろう。

 マリアが嘆息した。


「ま、東方の人間の血が入ってりゃ黒髪くらいにはなるしな。アンジェが捨て子だったってんなら、実の親が東方人って線もないわけじゃねえ。可能性がないわけじゃねえが、黒髪ってだけじゃ根拠としては弱いな」

「要するに、現時点じゃどちらとも言えないって事さ」


 そう言ってカシムは肩をすくめた。


「……だとしてもだ。ホムンクルスの力は常軌を逸する。奴らはソロモンへの思慕が行動原理だ……俺の中の魔王(カイム)だっていつ暴走するか分からねえ」


 ビャクはそう言って、ベルグリフを見据えた。


「ボルドーでの騒ぎを見ただろ? 奴らは形を変える。宝石のようにもなるし、粘体のようにもなる……魔力を流すだけで『力』を利用する事も可能だ。こいつが持ってた指輪もホムンクルスだった」


 シャルロッテはびくりと体を震わせる。ベルグリフは目を細めた。

 ボルドー家の屋敷でシャルロッテと相対した時、彼女の指輪が形を変えたのは知っている。妙な魔道具だと思ったが、あれも魔王だったとは。シャルロッテを飲み込もうとしたのは、ソロモンへの思慕による暴走なのだろうか。

 俯いて黙り込むシャルロッテを見て、ベルグリフは微笑んで肩を叩いた。


「気にしなくていい。もう終わった事だよ、シャル」

「……うん」


 シャルロッテは小さく頷いた。ビャクは目を伏せた。


「ともかく、ホムンクルスはあんたたちの想像の外側の存在だ」


 そう言って、ビャクはベルグリフの方を見た。


「俺はトルネラには行かねえ」

「……行きたくないのか?」

「家族ごっこはもう御免だ」


 ビャクの言葉に、シャルロッテが眉を吊り上げる。


「そんな言い方ないでしょ! お父さまだって、遊びでわたしたちを傍に置いてるんじゃないわ! 意地を張ってるのはビャクの方じゃない!」

「ふん……遊びじゃないってのはその通りだ。おい、親父……あんたがどう考えてるか知らねえが、俺たちを連れてくって事は面倒事を背負い込むって事だ。偽善のつもりならお勧めしねえな」

「ふうん……?」


 ベルグリフは片付かない顔をして頬を掻いた。マリアが言う。


「ま、そいつにはあたしも同意だね。お前の村に“パラディン”がいるってのは確かに安心出来る要因だが、単に同情心だけで抱え込むにはこいつは厄介だぞ。ベルグリフ、お前にそれだけの覚悟はあるのか?」

「ん……まあ、そうですね……」

「こいつはこいつなりに色々考えてるんだよ、ベル。魔王ってのは未知数の存在だからね。オイラもあまり積極的に関わるべきものじゃないとは思うよ」

「……君はビャクを置いて行くべきだと思うのかい?」


 カシムは顎鬚を捻じって苦笑した。


「別にそういう訳じゃないよ、オイラはこいつの事嫌いじゃないしね……ただ、軽い気持ちで付き合うには、魔王ってのは少し荷が重いのかな、とは思うよ」

「そういう事だ。あんたはホムンクルスの危険性を何も理解しちゃいねえ。甘ったれた偽善はやめて、さっさと切り捨てろ。あんたにとって俺なんかどうでもいい存在だろ。何の義理もねえよ」

「お父さま……ビャクを捨ててっちゃうの?」


 シャルロッテは泣きそうな顔をしてジッとベルグリフを見つめた。

 ベルグリフは困ったように頭を掻き、口をもぐもぐさせた。


「まあ、その……なんだ」


 何だか歯切れの悪い物言いを怪訝に思ったらしい、カシムが首を傾げた。


「……ベル、君さっきからなんか変だよ? どうしたの?」

「何というか、その……」


 ベルグリフはしばらくたき火を眺めていたが、やがて顔を上げた。


「……トルネラでミトっていう子供を拾ったって話をしただろう?」

「ああ、うん。森で拾ったっていう?」

「その……まあ、これもグラハムの見立てなんだが、その子はその……」


 ベルグリフは少し迷ったが、ゆっくりと言葉を選びながらミトの事を話した。

 森で起きた異変の事、その解決と以降の展開。グラハムの見立てによってミトは魔王かそれに近しい存在であるという事。それにもかかわらず、今はトルネラで面倒を見ているという事。すっかり村に馴染んで可愛がられている事。


 話が終わるとマリアとビャクはぽかんと呆気に取られ、カシムは手を叩いて大笑いした。


「わっははははは! それじゃあ、あれかい!? 君は魔王が巣食った人間どころか、魔王そのものを子供にしちゃったって事かい!? こいつは傑作だ!」

「おい、それは本当だな? お前の独断じゃなくて“パラディン”もそう判断したって事だな?」


 マリアが身を乗り出して言った。ベルグリフは顎鬚を撫でた。


「ええ。最初は少し警戒していた様子でしたが、今はすっかり仲良しですよ。祖父と孫みたいにね……正体を知ったらどうだかは分かりませんが、少なくとも村の連中も可愛がってくれているし、害らしい害はありません。だから、俺には魔王というのがどうも危険な存在には思えないんですよ」

「凄いわお父さま! どうして内緒にしてたの? 教えてくれればよかったのに!」


 シャルロッテが興奮した様子でベルグリフの膝に乗った。ベルグリフは苦笑して頬を掻いた。


「何というか……どう説明していいのか分からなくてね……ともかく、俺はお前だけ置いてトルネラに行くつもりはないよ、ビャク」

「何なんだ……本当に何なんだよ、あんたは……」


 ビャクが理解できないという風に頭を抱えた。ベルグリフは嘆息してカシムの方を見た。


「けど、ちょっと感心しないぞカシム。君は俺がビャクを置いて行くと言ったらそうするつもりだったのかい?」

「ベルがそう言うとは思わなかったけどね……でももしそうなったら、オイラはオルフェンに残ろうかと思ってたよ。マリアばーちゃんに付き合ってこいつを何とかしてやろうと思ってた」


 意外な言葉にベルグリフは驚き、またカシムにも考えがあった事を知って自身の浅薄さを恥じた。


「……そうか。君にも考えがあったんだな。すまん、軽率だった」

「へへ、いいよ。今までオイラは碌な事して来なかったんだから、それくらいの骨折りはするつもりだったよ。それで会えなくても、パーシーもサティも許してくれるさ。なあベル、オイラたちは過去を追っかけてるけど、こいつには未来があるんだぜ? どっちが大事かなんて言うまでもないだろ?」

「……やれやれ、君にそう諭されるとは、俺も歳を取ったなあ」


 ベルグリフは苦笑して頭を掻いた。マリアは呆れたように嘆息し、シャルロッテは嬉しそうに笑った。ベルグリフはビャクの方を見て、穏やかな口調で言った。


「なあビャク、俺だって別に聖人君子ってわけじゃないよ。面倒事は背負いたくないっていう気持ちだってもちろんあるさ……でも、俺はお前が魔王を宿していようと何とも思わないし、仮にアンジェがそうだったとしても何も変わらないよ。何より、お前はぶっきらぼうだけど、いつもさりげない優しさを感じるんだ。トルネラに来ないってのも、迷惑をかけまいとしたんだろう?」

「……違ぇよ、勘違いすんな」

「そうかい? けど、誰に頼まれたわけでもないのに、お前はずっとシャルを守って来たし、俺はそんなお前が好きなんだよ。魔王がどうとか、そんな事は関係なしにトルネラに連れて行ってやりたいと思ってる。嫌かい?」

「――ッ! 勝手にしろ!」


 ビャクは身を翻してベルグリフに背を向けた。カシムがからから笑う。


「照れてるね」

「照れてるわ」

「照れてやがるな」

「照れてねえ!」


 ビャクは大声を出した。少し鼻声だった。ベルグリフは微笑んだ。


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