五十二.さくさくと地面を踏んで行く赤髪の少年の後を
さくさくと地面を踏んで行く赤髪の少年の後を、茶髪の少年が追いかけた。
「ちょっと待ってよ。オイラを置いてくなって」
赤髪の少年は笑いながら振り返った。
「よそ見してるからだよ。寝不足じゃないのか?」
「しょうがないでしょ……面白い魔導書があったんだからさ」
「そんな事じゃ困るなあ。夜はちゃんと寝ないと体力が戻らないぞ?」
「ちぇ、君は真面目すぎるから困るよ」
茶髪の少年は口を尖らした。赤髪の少年は苦笑した。
二人は道具の買い出しに来ていた。昨日のダンジョン探索では道具をあれこれと使ってしまったので、それを買い足しに来たのである。
買い出しは専ら赤髪の少年に任されていた。
彼は持ち前の慎重さで必要なものを考え、いくつも店を回って必要なものを安く買い揃えた。今日は特に魔道具が必要だという事で、パーティ内の魔法使いである茶髪の少年も同行していた。
彼らは表通りから裏道まで、様々な道を行って道具を揃えた。魔道具は茶髪の少年が見た。魔道具に関しては彼の方が良し悪しを見分けられるらしかった。
赤髪の少年は安い店や、質の高いものを揃えている店を熟知しているらしかった。茶髪の少年は感心したような顔をした。
「凄いなあ……よくこんなに沢山店を知ってるね」
「はは、ちょっとでも安く、質の良いものをと思ってさまよってたらいつの間にか頭に入ってただけだよ」
つまり貧乏性さ、と赤髪の少年は笑った。茶髪の少年もつられて笑う。
オルフェンの都は広く、まさかと思うような所に看板も出ていない店などもあった。明らかに非合法な店でも、利用できるものならば利用するのが冒険者だ。潔癖を気どって命を落としては元も子もない。
朝からずっと続いた買い出しは、昼頃に一区切りついた。
往来は人が沢山で、軽食の屋台が鎬を削っており、あちこちから良い匂いが漂っている。茶髪の少年はごくりと喉を鳴らした。
「なあ、オイラお腹空いたんだけど」
「もうちょっと辛抱してくれよ。これはパーティの共有財布だから」
「……ちょっとくらいよくない?」
「駄目。自分の小遣いで買いなよ」
「だって、昨日魔導書買うのに使っちゃったし……」
「自業自得じゃないか……」
「むー……というか、ダンジョン脱出のスクロールなんか買うから」
「いざという時に必要だよ、そういうものは。滅多にないんだから買っておかないと」
裏通りの怪しい魔道具店で買ったスクロールが一番高価だった。広げて魔力を流すだけで発動する巻物である。
様々な効果のものがあるが、今回少年たちが買ったのはダンジョンから即座に脱出できるスクロールだった。数があまりない分値段が非常に高い。茶髪の少年が調べたから偽物でない事は分かっていたが、だからこその高値だった。それで財布の中身がほとんどなくなったのだ。
「別にオイラたちにそんなピンチは起きないと思うけどなあ」
「冒険者に絶対はないよ」
「もー、君は慎重すぎるんだよ……お腹空いた」
茶髪の少年は恨めしそうな顔をして赤髪の少年を見た。赤髪の少年は苦笑した。
パーティの財布を預かる身としては、あまり無駄遣いはしたくない。しかし、そんな風にあまり堅苦しくしても仕様がないとも思う。
それに、何だか自分も小腹が空いたような気はする。後で自分の財布からこっちに移せばいいか。
「……仕方ないな、まったく」
赤髪の少年は財布から硬貨を二枚抓み出し、茶髪の少年に渡した。
「今回だけだぞ?」
「さっすが、君は話が分かる! じゃあちょっと買って来るね」
茶髪の少年は張り切った様子で屋台の方に向かって行った。赤髪の少年は苦笑して、近くの建物の壁にもたれかかった。
○
「はー、それじゃあやっぱりアンジェちゃんが」
「ええ。親を思ってくれるのはいいのですが、いかんせん発想が斜め上に行くようで」
「ふふっ、でも安心しました。やっぱりベルグリフさんはアンジェちゃんの言う通り、良いお父さんなんですね」
「いえいえ、そんなに大したものではありませんよ」
「そんな事ないわ! お父さまはとっても立派よ!」
ベルグリフの横でシャルロッテが言った。
「シャルちゃん、すっかり懐いたわねえ」
カウンターの向こうのユーリはくすくすと笑った。
翌朝目覚めたベルグリフは、まず部屋を掃除した。溜まっている埃を掃いて出し、土産物を確かめて、整頓する。シャルロッテが自分で編んだというマフラーは、そのままベルグリフにプレゼントされた。
そんな風にして午前中を過ごし、昼を過ぎてから過去の冒険者の情報を調べようとギルドに行って、誤解を解く意味もあってユーリと話をしていた。
ユーリ自身は別に元々ベルグリフに含むところはなかったが、アンジェリンがベルグリフの事を話す時の様子から、もしかしたら妄信的になって悪い部分も良いといっている可能性もあるかもな、と危惧していたようである。
「勝手に疑ってごめんなさい、でもベルグリフさんの事、全然知らなかったものですから」
「ははは、それはそうでしょう。物事に対して慎重になるのは冒険者としては必要な資質でしょうから、気になさらないでください」
「ふふ、そう言ってもらえると助かります。わたしの方からも知り合いの誤解を解くようにしておきますね……あら?」
ユーリが目をぱちくりさせた。ベルグリフもつられて振り返る。
軍帽をかぶった筋骨隆々の老人が凄い勢いで詰め寄って来た。満面の笑顔である。
「おお、やっと来やがったな! 赤髪に義足って、お前あれだろ!? “赤鬼”のベルグリフだろ!? がっはっはっは! 会えて嬉しいじゃねえの!!」
手を取られて千切れんばかりに振られ、ベルグリフは困惑した。
しかし、この老人には見覚えがある。自分が見た時はここまで老齢ではなかったが、間違いあるまい。
ベルグリフははにかんで言った。
「こちらこそ光栄ですよ、“撃滅”のチェボルグ殿」
「おお、俺の事を知ってんのかよ!? がっはっは!!」
チェボルグは嬉しそうにベルグリフの腕を握ったままぶんぶんと振った。
かつての自分の憧れだった冒険者がこれだけ近くにいる事は嬉しいけれど、何分力が凄いから関節が痛い。ユーリがはらはらした表情で言った。
「チェボルグさん、あんまり腕を振っちゃ……」
「えっ!? 何!? ユーリ、何か言ったかよ!?」
ベルグリフが苦笑していると、チェボルグの肩を後ろから掴む者があった。
「おいチェボルグ、貴様の馬鹿力でそういう事をするものではないぞ」
「何言ってんだドルトス! “赤鬼”だぞ“赤鬼”!! 興奮するなっつー方が無茶じゃねえの!?」
「いいから離してやれ……やれやれ、この馬鹿が失礼した。吾輩はドルトスともうす。アンジェには色々と世話になって礼の言いようもない。ベルグリフ殿よ、会えて嬉しく思うぞ」
ドルトスはそう言って丁寧に頭を下げた。またしても現れた生きる伝説に、ベルグリフは恐縮して頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ娘が世話になっているようで……“しろがね”のドルトス殿にこうやって会えるとは、光栄の至りです」
「なぁに、今となってはただの年寄りである」
ドルトスはそう言ってからからと笑った。ベルグリフもつられて頬を緩める。
少年時代には雲の上の存在だった二人が、こうやって親しく自分に接してくれる事が何だか嬉しくもあり、現実感がないようでもあった。
一緒について来たシャルロッテが、チェボルグたちの勢いに驚いて小さくなって隠れている。
ベルグリフは笑ってシャルロッテの頭をぽんぽんと撫でた。
「大丈夫だよ、ビックリしたかい?」
「なんだなんだ、悪ガキどもが随分懐いてるじゃないの!」
「悪ガキ?」
ベルグリフは怪訝な顔をして、自分の後ろに隠れているシャルロッテと、そのさらに後ろに立つビャクを見た。
ドルトスが笑いながら鬚を撫でた。
「こやつらはチェボルグとライオネルと一度悶着を起こしておってな。別にギルドはもう気にしていないのであるが、どうもチェボルグは苦手らしいのである」
「俺はフレンドリーに接してるじゃねえの! なあベルグリフよ! アンジェはえらい良い子だけどよ! 子育ての秘訣とか教えてくれよ! うちのクソガキどもは俺を邪険にしやがってよ!! 最近はひ孫にもうるさいって言われて俺は悲しいじゃないの!!」
「いや、別に特別な事は何も……」
ドルトスが呆れたように頭を振った。
「チェボルグ、それは貴様がうるさいからであろうよ」
「えっ!? 何!? ドルトス、何か言ったかよ!?」
「自分の耳が遠いからといって怒鳴るなと言っておるのである!」
老兵二人の息の合ったやり取りに、ベルグリフはくすくすと笑った。
こうやって話してみるとどちらも気さくで驕った様子はない。若い時に彼らから感じた威圧感や大きさは、未熟だった自分が抱いていた幻想だったのかも知れないな、と思った。
ふと、ドルトスが申し訳なさそうに眉をひそめた。
「しかし、遥々オルフェンまで来たというのに、アンジェを引き止めておけず申し訳ない。吾輩たちの力不足であった……」
「そうだそうだ、それだよ! ホント悪ぃなベルグリフよ! いっそ大公に喧嘩でも売ろうと思ったんだけどよ! ライオネルの奴が日和りやがってよ!!」
「い、いやいやいや」
ベルグリフは目を白黒させた。
「私は何も気にしておりませんよ。アンジェのした事が認められたという事なんですから」
ドルトスとチェボルグは少しぽかんとしたが、やにわに顔を見合わせて笑った。
「わっはっはっは! 吾輩たちよりも大人であるな!」
「まったくだぜ! アンジェが良い子に育つのも納得じゃないの!! がっはっはっは!」
チェボルグは笑いながらベルグリフの肩に手を置いた。
「ますます気に入ったじゃないの! おい、ちょっと手合わせしてくれよ! “赤鬼”の剣技ってのが気になって仕方ねえ!」
「……はっ?」
「吾輩からもお願いする。アンジェすら跳ねのけるという剣、冥途の土産に見ておきたい」
「や、別に、そんな大層なものでは……」
とベルグリフは恐縮して小さくなったが、心の中で歓迎する気持ちがあるのに驚いた。グラハムから教授された呼吸と、それを活かした剣技を試したいという欲求はずっとあったのだ。
まして、“撃滅”と“しろがね”という最高峰の使い手と手合わせできるのである。剣士としてこれほどの喜びはない。
ベルグリフは少し目を伏せていたが、顔を上げた。
「分かりました。ご期待に沿うものかどうか……」
「がっはっはっは!! よっしゃ、教練場に行くぞ!!」
チェボルグに引っ張られながらベルグリフは苦笑した。急いでついて来るシャルロッテが心配そうに服の裾を掴んだ。
「お父さま、大丈夫……?」
「はは、大丈夫だよ。多分ね」
周りで話を立ち聞きしていて、興味を持ったらしい冒険者たちも付いて来ている。
何だか大事になって来てしまったな、とベルグリフは緊張した。
○
ギルメーニャがにやにや笑いながら言った。
「ほらほら、スカートを持って歩かないとまた裾を踏むよ」
「くぬ……なんて動きづらいんだ、ドレスって……」
部屋を出たアンジェリンは、着慣れないドレスに悪戦苦闘していた。歩く度に裾を踏んづけて転びそうになるのだ。
だからスカートを持って上げるのだが、上げ過ぎてもいけないらしく、どうにも歩きづらくて仕方がない。その上踵の高い靴を履いているから、足を挫きそうだ。
綺麗な服を着られるのは嬉しくはあったが、普段からこんなものを着ていられない、とアンジェリンは思った。動きやすい冒険者装束に慣れ過ぎているのである。
廊下の角々に衛兵が立っていて、通り過ぎるアンジェリンを横目で見たが、直立したまま動かない。大したものだ、とアンジェリンは感心してしまう。
「あの人たち、立ちっぱなしで疲れないのかな?」
後ろに控えて付いて来るギルメーニャがくすくす笑った。
「ああいう人たちはね、見えないように足から背中にかけて支えを入れているのだよ。それに重心を預けているから、ああやってぴたりと動かずにいられるわけだね」
「……やっぱりそうなんだ」
「ううん、嘘。凄いよね」
アンジェリンは頬を膨らまして足を速め、また転びそうになった。
その時、向かいからやって来た誰かがアンジェリンを抱き留める。
「おおっと……大丈夫かね?」
「す、すみません……」
アンジェリンは顔を上げた。
アッシュブラウンの髪を綺麗に整えた背の高い男だった。歳は二十の半ばから後半といったくらいだ。
口ひげを綺麗に整え、面長で鼻筋が通り、端正な顔立ちをしているが、目つきは鋭く、どこか油断の出来ないような印象があった。
男はにっこり笑ってアンジェリンを元の通り立たせた。
「どちらに行かれるのかな、美しいお嬢さん?」
「うぬ……どこという事も……」
ぶっきらぼうに言いかけたアンジェリンの腰を、ギルメーニャがそれとなくつねった。アンジェリンは慌てて姿勢を正す。ギルメーニャは慇懃に頭を下げた。
「フェルナンド殿下、ご機嫌麗しゅう」
アンジェリンは目を細めた。この優男風の男が大公家の嫡男、フェルナンド・エストガルらしい。アンジェリンもそっと頭を下げた。
フェルナンドは笑ったまま口ひげを撫で、アンジェリンを見た。
「見た事のない顔だ。君のような美しい人なら私が知らない筈はないのだがな。よろしければお名前を聞かせていただけないかな?」
恥ずかしげもなく真っ直ぐな視線を向けて来るフェルナンドにドギマギしながら、アンジェリンはぽそぽそとした口調で答えた。
「……アンジェリン、です」
「ほう!」
フェルナンドは愉快そうに口端を緩めた。
「これは驚いた! こんな可憐なお嬢さんが音に聞こえた魔王殺しの“黒髪の戦乙女”とは!」
そう言うと、フェルナンドは自然な動作でアンジェリンの手を取り、腕を組んだ。
「よろしければエスコート差し上げよう。どちらに行かれるつもりだったのかな?」
「あの、その……さ、散歩に……」
「成る程! 今日は天気もいい。屋敷の中よりも庭に出てみるのがいいだろう。さあ」
そう言って、フェルナンドはアンジェリンと腕を組んだまま歩き出した。振り払う訳にもいかないから、アンジェリンは慌てて一緒に歩き出す。腕を組んで体重をかける相手がいるからか、一人で歩くよりもよほど歩きやすい事にアンジェリンは驚いた。
男の癖に良い匂いがする、とアンジェリンはそっとフェルナンドを見上げてみる。
フェルナンドは何でもない顔をして前を向いていたが、不意にちらと横目でアンジェリンを見て微笑んだ。アンジェリンは慌てて目を逸らした。後ろでギルメーニャが笑いを堪えているのが分かった。
廊下を何度か曲がり、階段を下って、やがて外に出た。
空気は冷たいが、朝に霜が降りるくらいだったせいか、陽光は暖かで寒くはない。
むき出しの肩が気になるが、仕方がない。
アンジェリンは両腕を上げて深呼吸した。暖房魔法の効いていた屋敷の中にいた分、冷たい空気はむしろ胸の中をスッキリさせるようだった。
フェルナンドがくつくつと笑った。
「豪快だな。それも中々魅力的だが」
アンジェリンはハッとして腕を下ろした。
「……失礼しました」
「いや、構わない。冒険者に貴族のような礼儀を求めるつもりはないから安心したまえ」
フェルナンドはそう言って微笑んだ。
なるほど、ヴィラールなどとは役者が違い過ぎる、とアンジェリンは納得した。人の心を掴む術を心得ている。
だからこそ、アンジェリンはフェルナンドを少し警戒した。あまり相手のペースに乗せられては不味い。
しかし、貴族の勝手が分からないアンジェリンにはかなり不利な話ではあった。
憮然としているアンジェリンを見て、フェルナンドはくつくつと笑った。
「そう怖がらないでくれたまえ。別に取って食いやしないよ」
「は……」
「しかし、ヴィラールの奴はどうしているのやら……大事なゲストをエスコートもせずに放っておくとはね。出来の悪い弟で辟易するよ」
フェルナンドは庭先に置かれた椅子にアンジェリンを促した。綺麗に整えられた植木のそばにあって、丸いテーブルを囲むようになっている。庭木には紅色の花が咲いていた。微かに甘い匂いが漂っている。
アンジェリンは促されるままに腰を下ろした。隣に座ったフェルナンドは興味深くアンジェリンを眺めた。
「どうだね、貴族の屋敷は? Sランク冒険者ともなれば、招かれる機会も多いかね?」
「いえ……こんなに立派なのは、その、初めてです」
「そうか。ははは、そう言ってもらえると大公家の威信も保たれるというものだな!」
フェルナンドは愉快そうに笑った。笑うと少しリーゼロッテに目元が似ているな、とアンジェリンは思った。
「失礼いたします」
そこになんでもない顔をしたギルメーニャがお茶を運んで来た。ちらとアンジェリンの方を見てウインクする。アンジェリンは小さく笑った。
フェルナンドはお茶のカップを手に取って言った。
「ヴィラールは出来の悪い弟だが、君を招く事にしたのは英断だったな。これほど美しいならば、叙勲の式典も華やぐだろう」
「はあ……」
なんだか褒め殺しにされているような気もするが、美しいとか綺麗とか言われると、そんなつもりはなくても表情が緩んでしまう。アンジェリンはそれを隠すように俯いた。
でも、どうせならお父さんにそう褒めて欲しいとも思った。
そう、こんなドレスを着たわたしをお父さんは見た事はない。
胸とか腰とかは薄いけど、体の線はすらっとしていて悪くない筈だ。
髪の毛だってちょっと洒落た風にしてあるし、きっと見せたらお父さんは驚く。
綺麗だねって褒めてくれるだろうか。成長した事を喜んでくれると嬉しいな。
アンジェリンはそんな事を考えてにへにへと頬を緩めた。
「アンジェリン? アンジェリン、聞いているかね?」
フェルナンドが怪訝な顔をしていた。アンジェリンはハッと顔を上げた。
「は、すみません……」
「ふふ、お疲れのようだね? まあ、お茶を飲みたまえ。これはね、ティルディスから取り寄せた茶葉なのだよ。香りが少し違うのだが、分かるかね?」
「……良い匂い、ですね」
アンジェリンは、部屋で出されたお茶とはまた違った香りのお茶を楽しんだ。何だか、この家では世界中のものが何でも出て来るように思われた。
ふと、そこに人の気配が近づいて来た。
「これはこれは兄上」
声のした方を見ると、ひょろりとした体格の、二十前後くらいといった年齢の男が立っていた。
フェルナンドやヴィラールよりも若干暗い焦げ茶の髪の毛を長く伸ばし、頭の後ろで束ねている。後ろには鎧を着た兵士たちが控えていた。
フェルナンドは薄笑いを浮かべた。
「フランソワか」
「お元気そうですな、兄上。このような所で何をされているのです?」
「舞踏会のメインゲストをエスコートしていたのさ」
フェルナンドはそう言ってアンジェリンの方に視線をやった。アンジェリンはフランソワと呼ばれた男に小さく会釈した。
「アンジェリン……です」
「ほう、“黒髪の戦乙女”とは君の事か」
フランソワと呼ばれた男は顎に手をやって目を細めた。
「僕はフランソワだ」
「私とヴィラールの弟だよ」
「は……どうも、よろしく……」
これで大公家の三兄弟には全員会ったわけだ、とアンジェリンは少し目を細めた。
フェルナンドがくつくつと笑った。
「そう恐縮しなくてもいい。こいつは勝手に屋敷の警備をしているから、少し人を疑うような顔をするのさ。フランソワ、不審者が侵入してはいないだろうな?」
「さて、どうでしょうな? これだけ人がいるのです。一人二人変なのが混じっていても不思議ではない」
フランソワはそう言ってアンジェリンを見て、口だけで笑った。ギルメーニャが面白そうな顔をしている。
フェルナンドはにやりと笑ってお茶をすすった。
「しかし、昼間から物々しいな。そんなに兵を引き連れてなんのつもりだ?」
「今言った通りです。これだけ人がいてはおかしなのが混じっているかも知れない。警戒して悪い事はありますまい」
「はは、それもそうか。しかしあまり客人たちを脅かすなよ? 父上は褒めてはくれんぞ?」
「兄上こそ、女の尻ばかり追いかけていない事ですな」
兄弟の割に、この二人の間には何かとげとげしい雰囲気があった。
おそらく、フェルナンドとヴィラールの腹違いの兄弟というのがフランソワだろう。
母親が違うという事で、こんな風に何だかいがみ合っているのは嫌な感じだな、とアンジェリンは思った。
フランソワはアンジェリンに目をやって、やや嘲笑するように笑った。
「さて、アンジェリンとやら。招かれたからといってそう調子に乗らない事だ。思わぬ所で足をすくわれるかも知れんぞ?」
「はあ……」
フランソワは自分に良い感情を抱いていないな、とアンジェリンは思った。
だが、これが通常の貴族の態度だ。そう考えれば、まあ我慢できなくもない。
誤魔化すようにお茶をすすっていると、「アンジェ!」と声がして誰かが駆け寄って来た。
「こんな所にいるなんて! 会えて嬉しいわ!」
「リゼ……ロッテ様」
「もう! お友達なんだから、そんなよそよそしくしないでちょうだい!」
駆け寄って来たリーゼロッテは、嬉しそうにアンジェリンの腕に抱き付いた。フェルナンドがくつくつと笑う。
「こらリゼ、そんな風にはしゃぐものではないよ、はしたない」
「あら、フェルナンドお兄様、フランソワお兄様、ごきげんよう!」
リーゼロッテはスカートの裾を持って優雅に一礼した。ギルメーニャを除けば唯一気の許せる相手が来た事で、アンジェリンは少なからず気持ちに余裕ができた。
リーゼロッテはアンジェリンの隣に腰を下ろして、嬉しそうに足をぱたぱたさせた。
「凄いわねアンジェ! きちんとドレスを着たらホントに綺麗だわ!」
「ん……ありがとう、ございます?」
ちらとしかめっ面のフランソワを横目で見てから言い直した。リーゼロッテはむうと頬を膨らました。
「もう! よそよそしくしないでって言ってるのに!」
「リゼ、体裁というものもあるのだよ、聞き分けなさい」
「いーや! フェルナンドお兄様だって、美人には馴れ馴れしい態度をとってもらいたがる癖に!」
「いやはや、これは参ったな」
フェルナンドは苦笑した。そこに、また人影がやって来た。息せき切らした様子でテーブルに手を突く。
「リゼ! 一人で先に行っちゃ困るじゃないか!」
「あら、オジー。わたしが早いんじゃなくて、あなたが遅いのではなくて?」
「やれやれ……ああ、義兄上方、お元気そうで」
オジーと呼ばれた男は襟を正して一礼した。赤みがかった金髪の男だ。歳は十八かそこらだろう。
フランソワがにやりと笑った。
「ああ、お元気さ。残念か、オズワルド?」
「はは、フランソワ様は冗談がきつい……」
オズワルドと呼ばれた男は苦笑しながらも、目だけは睨むようにしてフランソワを見返した。
リーゼロッテが相変わらずの調子で言う。
「オジー! こっちがアンジェよ! 凄い冒険者なんだから! アンジェ、こっちはオジーよ。オズワルドっていって、わたしの婚約者なの!」
オズワルドは怪訝な顔をしてアンジェリンを見た。アンジェリンは小さく会釈した。
オズワルドはアンジェリンの容姿に一瞬心を奪われた様子だったが、すぐに不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「君か、僕のリゼにあれこれくだらない話を吹き込んだのは。彼女は貴族なんだぞ? 余計な話をして心を惑わされちゃ困るな」
「はあ、すみません……」
「もう! オジーったら、そんな事言っちゃ嫌よ!」
フェルナンドがくつくつと笑った。
「その程度でリゼの心が離れはしないだろう。婚約者の心をつなぎ止めるのは君の役目だぞ、オズワルド? 逃げられるようでは情けないのは君だ」
「む……それは、そうですが」
「まあ、オズワルドの言う事も一理ある。冒険者風情があまり調子に乗らない事だな」
フランソワが言うと、リーゼロッテが頬を膨らましてテーブルをぺしぺし叩いた。
「ねえ! アンジェは勲章をもらうのよ? お父さまがそれをお認めになったって事じゃない! アンジェを馬鹿にするなら、お父さまを馬鹿にする事だわ! 違って!?」
「ぐむ」
「まあ……確かに」
「ははは、流石はリゼだな。敵わんわ」
腹に一物ある男たちも、リーゼロッテの天真爛漫さには勝てないらしい。アンジェリンはそっと微笑んだ。
それから少し歓談して、集まった人々はそれぞれに散って行った。著しくくたびれたアンジェリンも、ギルメーニャを伴って部屋に戻る。
戻ってソファに腰かけると、体中から力が抜けた。
「曲者ばっかり……恐るべし貴族……」
フェルナンドとフランソワはもちろん、オズワルドすら裏がありそうな雰囲気だ。互いにけん制するようなやり取りは、傍で聞いていても緊張する。
ヴィラールなぞ相手にもならない。蚊帳の外に置かれている事に、何だか同情心すら湧くようだった。
「お疲れ様。下手に喋らずにやり過ごしたのは良い判断だったよ。ま、ヤバそうなのはこれであらかた顔合わせできたかな、ふふふ」
ギルメーニャは棚からワインを出してグラスに注ぎ、アンジェリンの前に置いた。アンジェリンは一息で飲んでしまうと、大きく息をついた。
「……あとは大公本人と、皇太子様、かな?」
「そういう事。ま、何もないに越した事はないけどね。舞踏会さえ乗り切れれば、あとは大公家の内部がごたごたしようと、わたしたちの知った事じゃないよ」
「ん……そうだね」
ワインを飲むと少し落ち着いた。歩きづらい服と靴とで、体が変な風に疲れている。アンジェリンは顔をしかめ、ドレスの裾をつまんだ。
「舞踏会って事は……踊るんだよね? この恰好で?」
「そうだよ。今のアンジェは相当可愛いからね。きっと貴族様方からダンスのお誘いをいっぱい受けるだろうね、ふふふ」
アンジェリンはうんざりしたようにソファに体を預けた。
「何という苦行……ワインもう一杯ちょうだい」
ギルメーニャはにやにやしながらグラスにワインを注いでやった。アンジェリンはまた一息で飲み干して目を伏せる。ベルグリフの姿が頭に浮かんだ。嘆息した。
「……お父さんに会いたいよう」
「さて、人心地ついたかな? 礼儀作法の特訓を始めようかね」
アンジェリンは顔をしかめた。
「……明日から本気出すんじゃ、駄目?」
「だーめ。本番は明日だからね。せめてずっこけないで歩けるくらいにはならなきゃ」
「ぐぬ……」
アンジェリンはしばらく黙って座っていたが、やがて諦めたように立ち上がった。




