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五十.ギルドマスターの執務室は相変わらず


 ギルドマスターの執務室は相変わらず雑多な書類などが積み重なっていたが、それでも来客用のソファとテーブル周辺は空いている。

 ライオネルに案内されたベルグリフたちは、ソファに腰を下ろした。

 ベルグリフは元々冒険者という事もあって、ギルドマスターの部屋に入るのはやや緊張し、また恐縮した。


「……何だかすみません、ライオネル殿。気を遣っていただいて」

「そんなそんな! アンジェさんもベルグリフさんもオルフェンのギルドの大恩人なんですから、この程度は気を利かせるなんて話じゃありません!」

「いやいや、私は別に何も」

「いえいえいえ、魔王騒動の時もアンジェさんが帰らずに残ってくれたのは、ベルグリフさんの言葉があったからなんですよ。もう、いくら礼を言っても言い尽くせませんよ」

「……私が何を言おうが、頑張ったのはあの子ですよ」


 ベルグリフは頭を掻いた。

 自分の言葉がきっかけになって、アンジェリンがオルフェンを救った。理屈としてはそうなのかも知れないが、実際は別に自分で何をしたという実感もないのだから、何だかむず痒いし、あくまで戦ったのはアンジェリンだ。

 娘を誇らしいとは思えど、自分の誇りなどと自惚れるのは無理だった。


 グラハムに村とミトを任せ、ダンカンとはボルドーで分かれた。

 彼はボルドーから東に向かって行った。山脈沿いの道を辿って、東の連邦を目指すらしい。いずれトルネラで再会する事を約束した。


 それにしても、久しぶりのオルフェンは懐かしい。ほんの数年暮らしただけだが、それでもその後の二十年と同等以上の濃密さがあった。ギルドの建物や、そこへと向かう下町の通りなど、実際に目にすると薄ぼんやりとしていた記憶が形を持って蘇るようだった。


 部屋を見回して、アネッサが首を傾げた。


「今日はドルトスさんもチェボルグさんもいませんね」

「ああ、融資元の貴族さんたちをおど……じゃなくて挨拶に行ってもらってるよ。俺が行くより効果あるからね」

「……なるほど」


 アネッサは納得したように頷いた。

 “しろがね”のドルトスに、“撃滅”のチェボルグか、とベルグリフは少し感動した。

 自分が現役の頃には既にSランク冒険者として雲の上の存在だった二人だ。アンジェリンとも仲がいいというし、オルフェンにいる間に話をする機会があるかも知れない。年甲斐もなく嬉しさで高揚するようだ。

 もじもじしていたシャルロッテが、意を決したように言った。


「あのっ」

「ん? どうしたの?」

「お……お膝に座ってもいい?」


 ベルグリフは面食らったように瞬きして顎鬚を撫でた。まあ、甘えたい年頃なのだろうと思い、「いいよ」と言うと、シャルロッテは嬉しそうに、しかしちょっと恥ずかしそうに膝の上に座った。


「えへへ……あったかい」

「今日も寒いからな……君たちはどうしてここに?」

「あの……えっと」


 シャルロッテが主になって、アネッサとミリアムがそれぞれに言葉を補いながら、事の顛末を説明した。

 ボルドーでの騒動の後の二人の事、ビャクを有していた組織と、ルクレシア教皇庁の浄罪機関の事、それらの襲撃から守るため、アンジェリンがずっと身柄を引き受けていた事、など。


「そうか……大変だったね。よく頑張った」


 ベルグリフは目を細め、感心したように顎鬚をねじった。アンジェリンの成長を嬉しく思い、シャルロッテやビャクの忍耐に同情した。

 シャルロッテは無言で体をよじり、ベルグリフの胸に顔をうずめた。泣き顔を隠すつもりらしい。

 ベルグリフは苦笑しながら、何ともなしに頭を撫でてやった。


「何だかやけに甘えん坊だな、シャルロッテちゃんは……」

「シャルは親の愛に飢えてたみたいですよ、ベルさん」


 ミリアムがいたずら気に笑い、ビャクの方を見た。


「ビャッくんは甘えないでいいのかにゃー?」

「おっさんに甘えて嬉しいわけねえだろ、馬鹿猫が」


 ミリアムはぷうと頬を膨らました。ビャクを指さしてベルグリフを見る。


「ひねくれ者なんですよー。ベルさん、躾けてやって下さい、こいつ」

「……俺がやる事なのかい、それは?」


 誰に尋ねるでもなく言った言葉に、ビャクが不機嫌そうに返した。


「やらなくていい。余計なお世話だ」

「はは、そうだろうな……ビャク君、君は一人でずっとシャルロッテちゃんを守って来たんだろう? 俺みたいな親父が今更言う事は何もないさ」

「……チッ」


 ビャクは眉をひそめてそっぽを向いた。ミリアムとアネッサがにやにや笑った。


「照れてる」

「照れてるな」

「照れてねえ!」


 ビャクは怒鳴った。マルグリットがしかめっ面でビャクの肩を叩いた。


「……なあ、そうつんけんしてもしょうがないぜ?」

「んだよ、テメーは……関係ねえだろう」

「関係あるに決まってんだろ、馬鹿……昔のおれを見てるみたいで恥ずかしくて死にそうだ……頼むからやめてくれよ……」


 マルグリットは真っ赤に上気した顔を両手で覆って俯いた。ベルグリフは思わず吹き出した。

 そういえば、マルグリットも最初はつんけんして他人を寄せ付けないようにしてたっけ、と思った。

 ビャクは舌を打って黙り込んだ。


 アネッサがマルグリットとベルグリフを交互に見て、首を傾げた。


「そういえば、マリーとベルさんはどういう縁があって?」

「そうだよー! なんでそんなに仲良しなのー?」

「しばらく一緒に住んでたからな。仲が良いのは当たり前だろ?」


 赤面から復活したマルグリットは事もなげに言った。その言い方は、とベルグリフは額を手で押さえ、案の定その場にいた者たちはあんぐりと口を開けた。


「ど、ど、ど、同棲? エルフと?」

「ほほー、ベルさんも隅に置けないですにゃー……マリー、ベルさん良い人でしょ?」


 ミリアムはにやにやしながらマルグリットをつついた。マルグリットは首を傾げて頬を掻いた。


「ああ、ベルは良い奴だな。でもそれがどうかしたのか?」

「……マリー、俺と君が二人で暮らしてたと思われてるんだよ」


 ベルグリフに言われ、マルグリットは少し考えたが、やにわに笑い出した。


「あっはははは! 違う違う! 俺とベルはそんなんじゃないって! それに大叔父上がいたし、ダンカンがいたし……それからミトが来ただろ? 賑やかだったぜ」


 アネッサが怪訝な顔をしてベルグリフを見た。


「……ベルさん、いつの間に大家族になってたんですか?」

「まあ、色々あってね……何から話したものやら」


 と言いかけて、ベルグリフはふと思い出した。


「そうそう、嫁探しっていうのは、なんだい? ユーリさんがそんな事を……」


 アネッサとミリアムは顔を見合わせて、困ったように笑った。


「それは、そのう……」

「……ア、アンジェに聞くのがいいと思います」


 二人の反応から、ベルグリフは何となく察した。“赤鬼”の異名の時と似たような斜め上の親孝行だろう。

 ベルグリフは嘆息した。ユーリの言い方から見るに、どうやらベルグリフがアンジェリンに頼んでオルフェンで嫁探しをさせていた、と勘違いしているらしかった。

 自分の独断だなどと一々触れ回るわけはないから仕方がないとはいえ、暴走すると視野が狭くなるのは困ったものだ、とベルグリフは苦笑した。


「困った子だ……迷惑をかけた人に謝らなきゃいかんなあ」

「いやいや、ベルさんは何も悪くないですよ」

「そうそう。それに実際にベルさんが来たならワンチャンありかもー。ベルさん、お嫁さんとか欲しくないんですかー?」


 マルグリットがくすくす笑った。


「無駄だぜ、ベルには心に決めた女がいるんだからな」

「へっ!?」

「マリー……そういうのじゃないって何度も言ってるだろう……」


 ベルグリフは嘆息したが、女の子たちは興味深そうに身を乗り出して来た。


「誰誰誰!? トルネラの人!? あ、もしかして現役時代の時の人とか!?」

「もしそうなら……ベルさん、すごく一途なんですね……」

「いや、だからね……」


 女の子はこういう話が好きだなあ、とベルグリフは頭を掻いた。

 確かに、若い頃はほのかな恋心もあったかも知れないが、もう二十年以上前の話だ。今更彼女とどうこういうつもりは全くない。ただ会って、何も言わずに去った事を謝りたかった。


 話をせがむ少女たちに苦笑しながら、ベルグリフはぽつぽつと話をした。

 村に帰ってからの顛末と、増えた居候たちの話はマルグリットの言を交えながら。そして、自分の過去に向き合う為に、昔の仲間に会うためにオルフェンに来た事。

 ミリアムがほうと嘆声を漏らした。


「色々あったんだねー、ベルさん」

「じゃあ……昔の仲間に会ったら、すぐに帰っちゃうんですか?」


 寂しそうなアネッサの言葉に、ベルグリフは微笑んだ。


「いや、どっちにしてもトルネラの雪解けまでは帰れないからね。冬の間はこっちにいるよ。そうすればアンジェもそのうち帰って来るだろう」


 よもや、トルネラではなくオルフェンで娘を待つ事になるとは思わなかった、とベルグリフは笑った。アネッサとミリアム、シャルロッテは嬉しそうに顔を見合わせた。


「じゃあ、ベルさんの昔の仲間を探すの、手伝いますよ!」

「うん、そうだな。それくらいのお手伝いはさせてください」


 ベルグリフは笑って顎鬚を撫でた。


「ありがとう……助かるよ。彼らもまだオルフェンにいるかは分からないけどね」

「ふーん……まだ冒険者やってるのかなー? 名前はなんていうんですか?」

「名前ね……リーダーはパーシヴァルっていってね、いい剣士だった。エルフの娘はサティっていうんだ。魔法も使ったし、剣の腕もよかった。それからカシム。彼は魔法使いでね、一番年下だったよ」


 言いながら、パーシヴァルとカシムの名を口に出すのも久しぶりだ、とベルグリフは思った。限界を迎えてトルネラに帰ってからしばらくは、彼らの事を思い出す度に心がじくじくと痛んだ。愛おしさと憎さが同居して、あまりに苦しかったのだ。

 だから意図的に口をつぐんでいたし、アンジェリンに昔の話をせがまれた時も、仲間の名前はあえて口にしなかった。過去に向き合うのが怖かったのかも知れない。


 だからサティの事をグラハムに尋ねる時、それがひどく自然にできた事に彼自身も驚いた。だからこそ、自分は過去に向き合わなくてはならないと思うきっかけにもなったのだろう。

 自分の中で何かの区切りが付き、そして次へと向かおうとしているようだ。

 アネッサが腕を組んで唸った。


「パーシヴァル、サティ、カシム……うーん……聞いた事あるような……」

「そうだ! ギルドマスターなら世代がかぶるから、知ってるんじゃないですかー? ねえ、ギルドマスター?」


 とその場の視線がライオネルに集まる。

 話を傍で聞いていたライオネルは、半ば意識が飛びかけていた。


「アンジェさんのお父さんで、剣の師匠で、エルフの“パラディン”グラハムの友達で、エルフの姫君の保護者で……その上、かつてのパーティメンバーがパーシヴァルにサティにカシム……? ベルグリフさん……あなたって人は……」

「ラ、ライオネル殿?」

「はっ……す、すみません」


 ライオネルは慌てて姿勢を正して、こほんと咳払いした。


「ええと、まずパーシヴァルさんですが……彼はSランク冒険者です。“覇王剣”の異名を持っています」


 ベルグリフとマルグリットを除く全員が驚いた。ベルグリフは嬉しそうに顎鬚を撫でる。


「そうかあ……あいつならそれくらいにはなると思っていたが、頑張ったんだな……快活で、頼もしくて、俺たちをぐいぐい引っ張ってくれてた」

「ベルグリフさん、“覇王剣”のパーティメンバーだったんですね……」


 ライオネルが驚きを通り越したというように声を出す。ベルグリフは苦笑した。


「そんな大層な異名が付くよりずっと前ですよ。俺もパーシーもEランクだった時です」


 不意にずきん、と幻覚の右足が痛んだ。ベルグリフはほんの少しだけ表情を歪めたが、すぐに戻った。膝の上のシャルロッテが興奮したようにベルグリフの服を引っ張る。


「“覇王剣”の話なら、わたしも聞いた事あるわ! キトラ山脈のサイクロプスを退治したとか、古城のヴァンパイアの真祖を討伐したとか! すっごく強いんだって!」

「へえ、真祖か。中々やるじゃねーか」


 マルグリットも感心したように腕組みした。

 アネッサとミリアムもパーシヴァルという名前は知らなくとも、“覇王剣”の異名は耳にした事があるらしい。驚いたように顔を見合わせて目を白黒させている。

 ライオネルは目をしばたかせながら、額を掻いた。


「ただ、彼はもう十五年ほど前にオルフェンを出てますね……一時期は帝都にいたようですが、以降の足取りはちょっと……」

「そうですか……や、ありがとうございます」


 ライオネルは申し訳なさそうに頭を下げて続ける。


「それからカシムさんは……彼もSランク冒険者です。元が付きますけどね……それから大魔導に列せられてます。異名は“天蓋砕き”です」


 ミリアムが仰天した。


「て、て、て、“天蓋砕き”! そうか! カシムってどっかで聞いた事あると思ったら……」

「有名なのかい?」

「そりゃ大魔導ですもん! 並列式魔術の公式を新しく作って、術式演算効率を三割は増す事に成功したんですよ!」


 そうは言われてもベルグリフにはチンプンカンプンだが、どうやら凄い事を成し遂げたらしいという事は分かった。


「そうかあ……うん、あいつは本物の天才だったからな……でもいっつも後ろにいて、人見知りする癖に懐っこくて……気配りができるけどいたずらも好きで……」


 ベルグリフは懐かしそうに目を細めた。それを見て、ライオネルは益々申し訳なさそうに口を開いた。


「それで、その……彼は二十年ほど前にはオルフェンから帝都まで出ていまして。そこで『虚空の主』を討伐してSランクに昇格したらしいですね。“天蓋砕き”の異名もそれからです……ただ、彼もある時を境に足取りが……」

「む……そう、ですか」


 ベルグリフは残念そうに頬を掻いた。そう簡単に会えるわけはないと思っていたが、幸先がこれでは少しひるむ。

 ベルグリフは顔を上げた。


「ではサティは……?」

「……同世代でもエルフの冒険者ってのは珍しかったので、俺もサティさんの事は覚えてます。話した事はないんですけど……彼女は最終的にはAランクの冒険者だったみたいですね。ただ……前の二人より早くオルフェンからいなくなってしまったのは確かです。それからは活躍の噂は聞いてません……」

「……三人は同じパーティだったのでは?」

「いえ、俺が彼らを知った時にはもうそれぞれバラバラでした。一緒のパーティだったらしい、という事は噂で聞いた事はありますが……本当だったんですね」


 ベルグリフは嘆息した。どうやら三人ともオルフェンにはいないようだ。意を決してトルネラから出ては来たが、これでは無駄足だったかも知れない。

 ライオネルは心底申し訳なさそうに身を縮込めて俯いた。


「なんか……すみません」

「何をおっしゃいます、ライオネル殿。彼らも生きた人間です。自分の意思でどこにだって行くでしょう。私がトルネラに行ったように、ね」


 ベルグリフは少し寂し気に笑った。

 帝都まで探しに行くのは流石に出来ない。行けば見つかるという保証があるならばともかく、何の当てもないのだ。そんな事をしていたら春が来てしまう。

 ともあれ、会えないにしても彼らが自らの才能を十全に活かして活躍したのは確かなようだ。それを知る事ができただけでもひとまずは良しとしよう、とベルグリフは思った。ただ、彼らがバラバラになってしまった、というのが気にかかった。


「……何があったのかな」


 何にしても、まだ来て一日だ。すっかり諦めるには判断が早い。焦らずに情報を集めながら、ひとまずはアンジェリンとの再会を楽しみにしよう。それだってオルフェンに来た理由としては大きいのだ。

 そんな事を考えて、春に会ったばかりなのに再会がこんなに楽しみとは、アンジェリンの事を笑えないな、と苦笑した。

 ミリアムが顎に手を当てて、探偵気取りの手つきをしている。


「……分かった。そのサティっていうエルフさんが、ベルさんの想い人だ」

「御名答!」


 とマルグリットが言った。

 たちまち話題が元に戻り、女の子たちの質問攻めにベルグリフは困ったように頬を掻いた。



  ○



「ふあー、すごい!」


 リーゼロッテは感嘆したようにソファに深く体を預けた。もう窓の外はとっぷりと日が暮れて、時折風が窓をかたかた鳴らした。

 魔獣討伐の話や、ダンジョンの攻略の話、今となっては笑い話になるような失敗談など、話はあちこち転がってすっかり盛り上がり、リーゼロッテは随分満足したようだった。

 彼女が一々反応するし、好奇心旺盛に質問して来るから、アンジェリンも楽しくなってつい喋り過ぎたようである、お茶をすするとひどくうまかった。


「アンジェはすごいなあ……女の子なのに、そんなに沢山の事をして来たのね!」

「うん……」

「ふふ、楽しかったわ、ありがとう! ねえ、アンジェ。わたしたち、お友達よね?」


 そう言ってリーゼロッテは身を乗り出した。アンジェリンは口端を緩めた。


「そだね……友達、ね」


 アンジェリンが言うと、リーゼロッテは嬉しそうに手を伸ばしてアンジェリンの手を握った。


「冒険者の友達が欲しかったの! ふふ、嬉しいな……ねえ! わたしの秘密を見せてあげるわ! 来て!」


 少し眠かったが、リーゼロッテの勢いに負けてアンジェリンは立ち上がった。横目でギルメーニャを見る。ギルメーニャはにやりと笑ってウインクした。

 リーゼロッテは部屋の酒棚から蒸留酒の瓶を一本持つと、アンジェリンに外套を着るように言った。アンジェリンは黙って従う。


「とっても寒いの! 気を付けないと風邪引いちゃうわ!」

「……どこに行くの?」

「ふふ、行ってからのお楽しみよ!」


 リーゼロッテに続いて、大きなお屋敷の廊下を上がったり下がったり曲がったりして、裏手の小さな庭に出た。表の庭と違って豪華な装飾や庭木の手入れなどはされていない。使用人たちが主に仕事をする場所のようだ。

 外は風花が舞っていた。暖房魔法(ヒーター)が効いていた室内から突然だから、アンジェリンは思わず身震いする。


 リーゼロッテは庭を横切り、城壁のようにそびえる石の壁の扉を開けた。

 中は古い武器庫だったらしく、奥の方には埃をかぶって手入れされていない古い武器が詰まれており、手前には雑多な荷物があった。要するに倉庫として使われているらしい。


 奥にはまだ道が伸びている。

 小さなトンネルのような道を行き、それから横に入ると石の階段が下へと伸びていた。照明がないらしく真っ暗である。

 リーゼロッテは服の中から首飾りを引き出すと、ちょんちょんと指先でつついた。薄ぼんやりとした光が灯った。黄輝石を利用した携帯照明の魔道具らしい。


 二人連れ立ってゆっくりした足取りで降りて行くと、やがて広い空間が現れて突然明るくなった。壁に松明が燃えており、その光で鉄格子が幾本もぎらぎらと光った。地下牢らしい。

 アンジェリンは、絢爛な屋敷とは全く違う、冷たく暗い地下牢の存在に面食らった。

 しかし、元々が砦を改築して作られた場所だ。地下牢くらいあっても不思議はないのかもな、と思った。


「カシム! カシム!」


 リーゼロッテが小さく、しかし叫ぶように誰かの名前を呼んだ。

 錆の付いた鉄格子の向こうに、痩せた男が仰向けに寝転がっていた。山高帽子を顔の上に乗せている。

 リーゼロッテはむうと口を尖らして、転がっていた小石で鉄格子を叩いた。かんかんと乾いた音が響いた。


「もう! 起きてカシム! お酒持って来たから!」

「……うるさいなあ、お前は」


 カシムと呼ばれた男は、面倒くさそうに体を起こして山高帽をかぶり直した。茶色い髭がぼうぼうとして、髪の毛も長い。


「もう来るなって言っただろ?」

「ふんだ! わたしに命令できるのはお父さまとお母さまだけよ!」

「ありゃりゃ、我儘娘だねえ、まったく……」


 カシムと呼ばれた男はくつくつと笑った。

 アンジェリンはぽかんとしてこの男を眺めた。今は冬の初めだ。外は勿論、地下牢も身震いするほど寒い。リーゼロッテはもちろん、アンジェリンだってドレスの上から防寒着を着ている。それでも寒いくらいだ。

 一方の男はひどく痩せていて、来ている服も長袖のシャツにズボンだけなのに、身震い一つしていない。

 カシムはじろりとアンジェリンの方を見た。


「今日は友達も一緒かい」

「そうよ! 魔王殺しのアンジェリン! Sランク冒険者なのよ!」


 カシムはピクリと眉を動かした。


「へえ……噂の“黒髪の戦乙女”かい?」

「そうよ! アンジェ! この人はカシムっていうの! すっごく強い冒険者だったんだって!」

「昔の話だよ」


 そう言ってカシムはまたごろりと横になった。そうして横目でリーゼロッテを見る。


「あ、酒はそこに置いといてね。寒いからさっさと帰んな」


 リーゼロッテは口を尖らせて、酒瓶を鉄格子の隙間から押し込んだ。それでもカシムは起きようとしない。


「もう、カシムったら!」

「……なんでこんな所に?」


 アンジェリンが尋ねると、カシムはごろりと体勢を変え、飄々とした調子で言った。


「オイラかい? 食い逃げで捕まってね。そん時に暴れたから危ない奴と思われたんだろうね、それからはずっとここさ」

「嘘でしょ? 嘘よねカシム? 大公家の秘密任務で罪人のふりしてここにいるのよね?」

「んなわけないだろ。妄想力のたくましいお馬鹿さんだね、お前は」


 カシムはからから笑って寝転がったまま酒瓶に手を伸ばした。

 リーゼロッテはさっと手を伸ばして酒瓶を取り上げ、あっかんべーと舌を出した。


「意地悪するならあげないわ!」


 カシムは体を起こすと、面倒くさそうに指を振った。すると酒瓶が勝手に動き出し、リーゼロッテの腕の中からするりと抜け出て鉄格子の中に入った。

 カシムはそれを手で受け止めると、栓を抜いて瓶から直接飲んだ。


「へへっ、やっぱしここは良い酒置いてるなあ」

「もう! 意地悪!」


 リーゼロッテは頬を膨らました。


 一方のアンジェリンは少し驚いていた。カシムは魔法使いのようだが、かなりの技量だ。

 ミリアムやマリアからの聞きかじりではあるが、大気中の魔力を操作する魔法は制御がかなり難しいらしい。

 衝撃波として打ち出したり、質量を与えて相手を押し潰したりするだけならば難易度は低いが、細かな操作となるとかなりの熟練の技がいるそうだ。

 瓶のような割れやすいものを壊さずに動かす事ができるのは、魔力操作に相当熟達している証拠である。こんな男が大人しく牢屋に入っている理由が分からない。


 アンジェリンは剣を持って来なかった事を少し後悔したが、今のところカシムから敵意は感じられない。得体の知れない男だが、ひとまず危険はなさそうだ。

 しかし、アンジェリンは一応警戒して、いつでもリーゼロッテを抱えて駆け出せるように体の位置を少し直した。

 カシムが面白そうな顔をして、独り言のように言った。


「そう怖がらなくていいよ。お前と戦っても仕方ないからね」


 ピクリ、とアンジェリンは眉をひそめた。カシムは何でもない顔をして酒を煽っている。


「……出たいって思わないの?」

「別に。出てもする事ないからね」


 カシムは手の甲で口元を拭った。濡れた口ひげが松明に照らされて光る。

 何だか、ひどく悲しみを感じる男だ、とアンジェリンは思った。生きている事さえもどうでもいいと思っているような目だ。飄々と振る舞う中に、そういった捨て鉢さがありありと感ぜられて、アンジェリンは何だか辛かった。


「……なんだい。同情なんかされても嬉しくないぜ?」


 カシムは眉をひそめてそう言った。アンジェリンは目を伏せた。


「同情というか……勿体ないと思う」

「へえ……」


 カシムはまた一口酒を飲んだ。


「勿体ないか。なにが?」

「……さあ? でも勿体ないって思う。あなたを見てると」

「へ、へ、へ」


 カシムはえずくように笑った。目が据わっていた。


「面白い事言うね、お前……でも確かにそうかもね。オイラは随分勿体ない人生を送って来たみたいだ……なあ、お前。友達はいるだろう? 友達は大事にしなよ?」


 リーゼロッテが困惑したように二人を交互に見て、言った。


「何なの? 冒険者にしか分からない話なの……?」

「ん……そういうわけじゃない。行こうか、リゼ。寒くなって来た……」

「そうね……今日はカシムもお話してくれないし、詰まらないわ」


 リーゼロッテはそう言ってアンジェリンの手を握った。


「わ、アンジェの手、とってもひんやりしてる!」

「あなただってそうだよ。行こう、風邪引いちゃう……」

「うん。じゃあね、カシム。また来るからね!」

「ははっ、来るなって言ってるのに」


 アンジェリンは歩きながら肩越しにカシムの方を振り返った。カシムはぼんやりと壁の方を見ていた。松明でできた影が踊るように揺れていた。


やる事が立て込んでて大変なので、週末あたりまで更新をお休みします。

他の小説を探しに行くのも、また一興。

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