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四十七.雨が降っていた。たあたあと地面を叩き


 雨が降っていた。たあたあと地面を叩き、飛沫が舞っている。そこかしこに水たまりができ、往来を行く人々の足も速い。


 赤髪の少年は、張り出した店の軒先で雨が通り過ぎるのを待っていた。

 急の雨で濡れて、前髪からは水が滴り、それを何度も手で拭う。夏だからよかったが、濡れたのに体温で変に温まった服は気持ちが悪い。

 手に持ったカゴには採って来たばかりの薬草が詰まっている。少年はちらとそれを見やり、困ったように嘆息した。もう片方の手の杖を握り直す。


 やがて雨が弱まった。

 完全に止んだわけではないが、水をかぶるという程降っているわけでもない。

 少年はゆっくりした足取りで軒先から出た。慣れない義足が地面につく度に体がぐらつき、杖で支えなくてはならなかった。


 すれ違った同世代の冒険者の一団が、少年を後ろ指で差して笑った。


「万年薬草集めさんだぜ」

「情けねえよな。ああはなりたくねえや」


 少年はグッと唇を噛み、足を速めた。しかし義足だからあまり速度は出ない。

 ふと、聞き慣れた声で名前を呼ばれたので、少年は振り向いた。

 茶色い髪をした少年が駆け寄って来た。赤髪の少年は少し驚いたような顔をしたが、すぐに親し気に微笑んだ。


「久しぶり。元気そうだな」

「うん……君も……」


 と言いかけて、右の義足に目をとめて口をつぐんだ。赤髪の少年はくつくつと笑った。


「変わらず元気にやれてるかい? まあ、君たちなら心配ないだろうが」

「……君はどうなの?」

「俺かい? 俺は見ての通りさ。細々とやれてる」


 茶髪の少年は、口をもぐもぐさせて俯いた。


「オイラ……オイラ、君が戻って来てくれると嬉しいんだけど……きっと、あいつらも喜ぶよ」

「おいおい、俺は足手まといにはなりたくないよ」


 赤髪の少年は苦笑しながら、右の義足で地面を鳴らした。


「この有様じゃ囮にもなれない……君たちはもうBランクになったんだろう? 高位ランクまであと一息じゃないか。俺が足を引っ張っちゃ申し訳ないよ」

「でも……でも、それは……」


 泣きそうな顔の茶髪の少年を、赤髪の少年は優しく撫でた。


「そんな顔するなよ。お互い元気にやれてるならそれでいいじゃないか」

「でも、オイラ……君がいてくれないと……」


 赤髪の少年は困ったように笑い、手に持ったカゴを見せた。


「途中なんだ。ギルドに行かなきゃ」

「う……」


 俯く茶髪の少年の肩を、赤髪の少年はぽんぽんと叩いた。


「じゃあな。元気でやれよ。あいつらにもよろしくな」


 返事を聞く前に、赤髪の少年は踵を返して歩き出した。義足を通じた振動が体に響く度に、ない筈の右足が痛む気がした。

 背後で、茶髪の少年が立ち尽くして自分を見ているのが分かる。杖を握る手に力がこもった。


「……嫉妬してどうする。自分の限界は知った筈だろう」


 言い聞かせるように呟いた。

 茶髪の少年を前にした時に、そして、言葉を交わしてかつてのパーティメンバーたちの顔を思い浮かべた時に、胸の奥底でじくじくと疼くどす黒い感情が不快だった。それを押さえ付けて、嘘みたいな笑顔を張り付けている自分にもうんざりした。


 潮時かも知れない。


 赤髪の少年は、再び強くなり出した雨にも気付かぬ様子で、ギルドに向かって歩いて行った。



  ○



 大きく息を吸ってゆっくりと吐き出すと、白く、質量を持ったように漂って、まるで崩れるのが嫌だと言うように、穏やかな勢いで空中に溶けて行った。

 すっかり朝が寒くなりはじめていた。

 農作業は概ね一段落し、残った細々した事を片付ければいいくらいになった。もう夜には霜が降りるようになって、とうとう冬の一番槍がトルネラに訪れたように思われた。ぼつぼつ雪も降るかも知れない。


 まだ太陽も昇っていない早朝の丘の上で、ベルグリフは石の上に腰を下ろして心を静めていた。

 何を見るともなく半眼で遠くに視線をやり、自らの呼吸に意識を落とす。

 冷たい空気がぴりぴりと肌を刺すようだが、次第にそれも気にならなくなり、やがて一呼吸一呼吸がひどく長く感ぜられるようになって来る。

 すると、体内で温かなものが渦を巻くように流動するのがよりはっきりと分かった。肉体と空間の境界が曖昧になって、自分の体が形を変えるように思われた。


 グラハム曰く、事象が移り変わる時、魔力もまたその質と量を増すのだという。

 暁。

 すなわち、夜から朝へと移り変わってく瞬間である。

 宵闇によって大気中の魔力はより密度を増し、太陽の光と共に溶けて行く。その魔力を呼吸法によって体内に取り込む、という鍛錬を、ここのところはずっと行っていた。


 達人ともなれば、一呼吸が無限にも感ぜられるようになるという。

 しかし、ベルグリフはまだそこまでの領域には達していなかった。

 元々、素振りの時に、半分瞑想の如く全身の感覚を意識していた為、感覚自体はかなり早い段階で掴めた。今はそれを深めている最中だが、そうすぐに極められるのであれば世話はない。まだスタート地点に立っただけだ。


 瞑想するベルグリフから少し離れた所では同じようにマルグリットとダンカンが座っているが、こちらは集中しきれないらしく、時折身じろぎしていた。

 また、三人から離れた所ではグラハムが歩いていた。背中にはうとうとしているミトをおぶっている。あやすように揺すると、ミトはむにゃむにゃと何か言った。


 やがて太陽の光が差し込むと、草の葉に降りた霜がきらきらと光った。

 ベルグリフは立ち上がって伸びをした。曖昧だった体と空間の境界線が、瞬く間に元に戻り、朝の冷気に身震いした。


「寒いなあ。戻ろうか」


 マルグリットは待ちきれなかったというように立ち上がった。


「あー……難しいぜ。なあベル、コツとかあるのか?」

「そうだな……早く終われって思わない事かな」

「うぐ……」


 マルグリットは口を結んで頬を染めた。ベルグリフはくつくつ笑った。


 連れ立って丘を降り、村へと戻る。

 ついこの前までは黄金の穂が揺れていた春まき小麦の畑はすっかり収穫が終わって耕され、茶色くなっていた。ここには来春に芋や豆が植えられる。別の畑には秋まき小麦がまかれている。


 もうどの家も目を覚まして、慌ただしく動き回っていた。水音や、包丁がまな板を叩く音がする。

 広場では、行商人や隊商が天幕の布を上げて、品物を並べていた。


 今日は秋祭りだった。

 今年は不意の雨で仕事が数日遅れた為、行商人たちは祭りまで待たされる羽目になっていたが、それはそれで楽しそうだった。村も少し早いお祭りの雰囲気になっており、子供や若者たちはそれを歓迎した。


 何ともなしに周囲を見回しながら歩いていたベルグリフに、ダンカンが近寄って来た。


「早いものですな」

「ああ。あっという間だ……もう冬が来る」


 暦の上では、概ね秋祭りから二週間前後で分厚い雲が北から流れて来て空を覆い、雪と共にトルネラの冬が始まる。不思議とそれは毎年変わりなかった。だからこそ、トルネラの人々は秋祭りまでに仕事を終えようと毎年必死になるのだった。

 ダンカンはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。


「言いづらい故に、こんな時になってしまいましたが……」

「ん?」

「……某もぼつぼつ村を出ようと思うのです」


 ベルグリフはおやと思って首を傾げた。


「そいつは突然だね」

「は……どうもあまりに居心地が良すぎましてな……出発をどうしようかと決めかねておったのですが……まだ立ち会ってみたい人物が幾人かいるもので」

「……冬が来ると出られなくなるからな」

「はい。マリー殿が出ると言った時に某も、と思ったのですが、その時は言い出せず……」

「はは、仕様がないなあ……ハンナはいいのかい?」

「話はついております……某も次の旅を最後にしようか、と」

「へえ……待っていて欲しいとでも言ったのかい?」


 ダンカンははにかんでぼりぼりと頭を掻いた。ベルグリフは微笑んで、ダンカンの肩を叩いた。


「あんまり待たせるなよ?」

「はは、善処致しもうす」


 ダンカンは照れ臭そうに笑った。寂しくなるな、とベルグリフは思った。

 家に戻って、朝食の支度をする。昨夜のシチューの残りを温め、外に出る前にこねておいた生地を伸ばして鉄板で焼く。


 ベルグリフは家の中を見回した。

 思えば、居候が沢山いる賑やかな生活に慣れてしまっていた。

 マルグリットとダンカン。騒がしい二人がいちどきにいなくなってしまうと、家の中がしんかんとしそうだ、と苦笑した。グラハムとミトと自分では静かすぎる。

 ミトが背中に飛び付いてよじ登って来た。満載の芋のカゴよりも軽く、裸足の足がひんやりしている。


「おとさん……」

「おお、足が冷たいなあ、ミト」


 ミトの足先を手で握り、ベルグリフは笑った。ミトはベルグリフの髪の毛に顔をうずめてふがふがと息をした。


「おとさんのにおい……」

「何をやってるんだか……ほら、ご飯にするよ」


 いつもの食卓だが、旅立つ者が二人いると、何となく物悲しい気もする。

 マルグリットは薄焼きパンをシチューに浸けてかじりながら、何だか感慨深そうに目を深めた。


「しばらくこの味ともお別れか……あー、なんかすっげえ長くいた気がする」

「はっはっは、過ぎてしまえばあっという間ですなあ、マリー殿」

「だな。なんか、西の森よりも故郷って感じがするぜ……なあ、ベル」

「ん?」


 ミトの口元を拭っていたベルグリフは、顔を上げた。マルグリットははにかんだ。


「なんか……色々ありがとな。おれ、ここに来てなきゃ苦労してたかも知れねえ……」

「はは、君ならどうにかなってたさ」

「そ、そうかな……? でもやっぱ、こう、冒険者の常識とかさ、そういうのは分からなかったと思うぜ。誰かに騙されたりしてたかも……」

「ふふ、それはそれで勉強になったかもなあ? でも、少なくとも俺は君がいてくれて楽しかったよ、マリー」

「へ、へへ……」


 マルグリットは恥ずかし気に頬を掻いた。そしてぽんと膝を打つ。


「よし! じゃあ、サティってエルフを見つけたら、トルネラに連れて来てやるよ!」

「おいおい……いいよ、別に」

「なに照れてんだよ!」


 マルグリットは笑ってベルグリフを小突いた。ベルグリフは苦笑した。

 グラハムは呆れたように嘆息した。


「調子に乗るなマルグリット……南はこの村とはまるで違う。浮ついた心持では足元をすくわれるぞ」

「わ、分かってるって。ったく、大叔父上は頭が固いぜ……」


 ベルグリフとダンカンは声を上げて笑い、マルグリットは頬を染めて口を尖らした。


 食事を終え、それぞれぶらりと家を出て広場へ向かった。

 既に人が集まり始めていて、ジプシーたちの陽気な音楽が鳴り響く中、若者たちが教会から主神ヴィエナの像を運び出している。

 モーリス神父が落ち着かなげに右往左往して、度々ヒステリックに叫んだ。その度に見物している人々が大きな声で笑った。


 マルグリットはミトの手を引いて歩き回り、行商人が並べる品物を見て目を輝かせている。エルフ領では見ない品物もあるようだ。商人たちはこの若いエルフに驚いているようだった。

 ベルグリフは広場を回りながら、マルグリットを送ってくれる行商人か隊商をそれとなく探した。

 トルネラに来るような商人たちは悪質な者はいないが、それでもマルグリットはエルフだ。人間ならばつい物怖じしてしまう。

 見知りの者がいればいいが、と思ったが、顔見知り程度では仕様がないか、とも思う。


 そういえば、秋口に帰ると騒いでいたアンジェリンは結局帰って来ない。

 この時期に戻って来ないとなると、もう今年は帰って来ないつもりなのかも知れない。岩コケモモが食べたいと言っていたが、何か仕事が忙しいのだろうか。


 そんな事を考えながら歩いていると、「ベルグリフさん!」と声をかける者があった。

 見ると、去年会った青髪の女行商人が立っていた。彼女はにこにこしながら近寄って来てぺこりと頭を下げた。


「覚えてらっしゃいますかね? 去年、ここで……」

「ええ、覚えていますよ。確か娘が世話になった……」

「はい! アンジェリンさんにはこっちもお世話に……えへへ、よかった! 覚えてもらってて嬉しいです! ベルグリフさんもボルドーではご活躍なさったようですね!」


 青髪の商人は笑いながらベルグリフの手を取った。ベルグリフは苦笑しながらも、親しみを込めて握り返す。


「御存じとは恐れ入ります……活躍などという程の事はしていませんが……あちらで娘の噂などは聞きますか? 秋に帰ると言っていたのですが……」

「おや、そうなのですか? うーん、わたしも去年会ったきりで……すみません」

「ああ、いえいえ、お気になさらず……」


 と言いながら、ベルグリフはふと思い立った。


「秋祭りの後は、どちらまで?」

「ボルドー経由でオルフェンに行きます。こちらの加工品が喜ばれるんです」

「ふむ……つかぬ事を伺いますが、荷馬車には人が乗れる余裕はあるでしょうか?」

「荷馬車ですか? はい、大丈夫ですよ。どちらにしても、遠出の時は護衛の人を雇う事も多いんで、余裕はあるようにしてるんです」


 来る時は隊商に混じって来たからその経費も浮きましたけどね、と女行商人は笑った。


「ベルグリフさん、お出かけする予定でもあるんですか? 貴方ほどの腕の方なら、わたしも喜んでお乗せしますよ」


 女行商人は言った。ヘルベチカの親衛隊相手の立ち回りは、彼女も目にしているのだ。

 ベルグリフは顎鬚を撫でた。


「いえ、私ではないのですが、よければ乗せて行って欲しい者がいるのですよ。剣の腕は私よりも立ちます」

「ええ……」


 ベルグリフよりも腕利き、と聞いて行商人は目を丸くした。


「凄いですねえ……どんな方なんです?」

「ええと……おーい、マリー」


 ベルグリフは周囲を見回して、マルグリットを見つけて手招きした。

 マルグリットはミトの手を引いたままやって来た。もう片方の手には、村の若者から貰ったらしい串焼きの肉を持っている。


「なんだベル。どうした?」

「どうしたじゃないよ。楽しいのは分かるけど、オルフェンまで乗せて行ってくれる人を探さなきゃ駄目じゃないか」

「あ、そうだった……ごめん」

「はは、俺に謝っても仕様がないだろう? それじゃグラハムに怒られるぞ?」

「う、うぐ……」


 青髪の女商人は目を白黒させて、ベルグリフとマルグリットに交互に目をやった。


「エ、エルフ……? え? この人が?」

「あん? 誰だ、あんた?」


 マルグリットは怪訝そうに目を細めて青髪の女商人を見た。行商人はおどおどして、すがるような目つきでベルグリフを見た。ベルグリフは苦笑した。


「マリー、そんな喧嘩を売るような態度を取ってどうする。この人は行商の方だよ」

「行商……あ! もしかして南に行くのか!? 馬車か!?」

「え、あ、はい」

「あ、あのさ、よかったらおれを乗せて行ってくれないか? 剣には自信あるから、護衛になるぜ? な?」

「は、はあ……えっと……」


 女商人は困ったように笑ってベルグリフの方を見た。


「この方がベルグリフさんより腕が立つっていう……?」


 ベルグリフは頷いた。


「言動は少し粗野ですが、悪い娘ではありません。そこらの冒険者を数人雇うよりも、よほど安全なのは保障しますよ」

「そ、そうですか……えっと……分かりました! 出発は二日ばかり先ですけど、いいですか?」

「やった! ありがとう! おれ、マルグリットっていうんだ! よろしくな!」


 マルグリットは嬉しそうに青髪の女行商人の手を取ってぶんぶんと振った。

 相手がエルフだからか、行商人は少しひるんだ様子だったが、マルグリットの邪気のない笑顔を見て、表情を緩めた。ミトが不思議そうな顔をしてそれを見上げている。

 マルグリットは興奮気味に、南の都はどんな所なのかとか、どういう旅になるのかなどという事を尋ねている。女行商人は苦笑しながらも、それに丁寧に答えてやっている。ベルグリフはくつくつと笑った。


 広場の真ん中で歓声が上がった。主神の像が無事に台に乗せられたようだ。

 ジプシーたちの音楽がより大きくなり、あちこちで人々がステップを踏んでいる。

 からからと音をさせて、村長のホフマンが馬を引いて来た。絢爛に飾り付けた馬具を付け、引いている荷車には秋の収穫物を沢山乗せている。

 この馬はアンジェリンが帰郷した際に置いて行ったものだが、ベルグリフでは持て余すので、ホフマンの所にくれてやった。今ではホフマンの畑で活躍している。


 荷車の収穫物や花で、子供たちが神像の周りを飾り付けた。ジプシーたちの音楽がより大きくなり、あちこちで人々が楽し気に手を取り合い、緩やかな輪を描くようにして踊っている。


 そういえば、去年はここにヘルベチカがやって来たのだった。何だか一年がひどく早いように感ずる。

 日々は繰り返しのようだったが、なんだか沢山の出来事が詰まっているようだ。

 春にはアンジェリンたちが帰郷して来たし、それからはボルドーに行ったし、戻ったらダンカンがいて、グラハムとマルグリットが現れ、森に異変が起きてミトが……とベルグリフは様々な事を思い出した。


「色々あったな……」


 ベルグリフは義足で地面をこんこんと蹴った。太陽はぐんぐん上っており、朝降りた霜が溶けて濡れていたのが、今はもうすっかり乾いている。


 話しているマルグリットからミトを預かり、ベルグリフはぶらぶらと広場をうろついた。林檎酒が振る舞われ、陽気な話し声が響く。ふと見ると、端の方でダンカンとハンナが隣り合って座り、何事か楽し気に話し合っていた。

 ベルグリフは苦笑した。あんなに仲がいいなら、わざわざもう一度旅に出る事もあるまいに、と思った。

 しかし、ダンカンはダンカンなりに次のステップに向けて自分の中でけじめをつけようとしているだとも思われ、余計な事は言わないようにしようと自分を戒めた。


 かつて旅をした時の事を思い出す。

 冒険者として、依頼の為にあちこちの村や町、ダンジョンを巡った。仲間たちと話をし、荷物を運び、時に襲い来る魔獣や野獣、盗賊などと戦った。役割があり、失敗と成功があり、毎日が輝いていたように思う。


 ミトがつないだ手を引っ張った。


「おとさん、じいじ」

「ん」


 広場の隅の方にグラハムが静かに座っていた。木陰で、目立たない。ベルグリフはミトを連れて傍まで行った。グラハムは顔を上げた。


「賑やかだな」

「はは、毎年こんなもんさ」


 ミトがグラハムに飛び付いてよじ登り、肩に乗った。


「じいじ、たかい……」

「……うむ」


 ベルグリフはグラハムの隣に腰を下ろし、祭りの様子を眺めた。もう見慣れた光景だ。だからこそ愛おしさも感じる。

 しかし、何か物足りなさがあるのも確かだった。まるで、村に帰って来たばかりの、まだ冒険者への未練を持っていた頃のような気分だ。

 冒険への憧憬だろうか? いや、違う。過去への思いだ。何もかも投げ出してしまった過去の自分にけじめをつけなくてはいけない、と思い始めたのだ。だから今になって、こんな風に変に昔の事ばかり思い出してしまう。前を向く為には、後ろを振り返っていてはいけない。


「……ベル」


 グラハムが言った。ベルグリフは首を傾げた。


「どうした、グラハム?」

「何か悩む事があるようだな……」


 ベルグリフはギョッと目を見開き、それから困ったように髭を撫でた。


「……参ったな。お見通しか」

「……よければ聞こう、友よ。私で助けになるならば、だが」

「ありがとう……」


 ベルグリフは少し考えて、言葉を選ぶようにゆっくりと、ぽつりぽつりと話をした。



  ○



 寝転がっていた帽子の男はゆっくりと上体を起こすと、大きく欠伸をした。薄い肉の下で、骨がぽきぽきと音を立てた。地下牢は陽が射さないから、昼も夜もないらしかった。しんしんと冷たい空気が充満している。しかし男の服は薄く、裸足である。それでも身震い一つしない。

 男は髭を撫でるように引っ張った。退屈そうだった。


「……嫌な夢だ」


 ぽつりと呟いて、足を延ばして天井を見る。松明の炎が、ちろちろと動く生き物のような影を作っている。肩を回すとやはりぱきぱき鳴った。

 黙っていると、上からのものらしい喧騒が微かに聞こえる。近々舞踏会が開催されるのだそうだ。大勢の来賓が招待され、きらびやかな空間で、美しく着飾った人々が行ったり来たりする。


 反吐が出そうだ、と男は呟いた。

 華やかに着飾る連中も、その中身はまっ黒だ、と男は嘲笑した。冒険者の方がよほどマシだと思った。


 昔の夢を見る事を期待して眠ったのに、彼に訪れたのは悪夢だった。そんな筈はないのに、血の臭いが鼻の奥につんと刺さるような気がした。

 輝きの日々の後、必死になってつかみ取った強者の地位は、彼に戦いの日々を呼び込むばかりだった。精神は疲弊し、厭世観は増し、男は冷笑的になっていった。


 力さえあれば、仲間たちと過ごしたあの日々を取り戻せると思ったのに。


「行きつく先がここか……はあ……」


 男は膝を抱いて嘆息した。

 ぽっかり空いた心の穴を埋めるために、色々な事に手を出してはみたが、今となっては、何もかもがどうでもいいような気分だった。それでも、何かしていなくてはひどい虚無感に襲われた。

 そんな中で、まだ下位ランクだった頃の思い出だけが、記憶の中で的皪と輝いていた。いっそ死んでしまおうかという気持ちになる時も、いつもその思い出が引き留めてくれた。


「オイラたちは、君に何をしてやればよかったのかなあ、ベル……」


 男は転がった蒸留酒の瓶を取り上げたが、どれも中身が入っていなかった。放り投げると、向こうの壁にぶつかって、音を立てて割れた。

 男は詰まらなそうに指を立てて、割れた瓶の方に向けた。

 すると、割れた瓶の欠片が次々と宙に浮かび上がり、かちかちと組み合わさった。瓶は元の形に戻る。

 しかし、男がついと指を下ろすと、空中で元の破片にばらけて、再び床に落ちた。


「……一度割れちゃったらさ。組み合わせても仕方ないんだよな……」


 男は山高帽をかぶり直した。


 その時、軽い小さな足音がした。

 鉄格子の向こうに人影が現れた。焦げ茶色の髪をした、十二、三歳程度の少女である。染み一つない綺麗なドレスに身を包んでいる。冷たい石ばかりの地下牢には、ひどく似つかわしくない格好だ。

 帽子の男は呆れたような顔をした。


「また来たんかい……見つかったら大事だぜ?」

「忙しいから、誰もこんな所来やしないわ。お屋敷は舞踏会の準備でばたばた。うるさいったらありゃしない」


 鈴の音のような声だった。上品で、穢れを知らないようだった。

 男は嘆息した。


「婚約者と一緒にいればいいじゃないか。ここは寒いぜ?」

「あなたの方が寒そうじゃない! そんなに薄着で!」

「オイラは特別さ。お前は風邪引くよ?」

「ちょっとなら平気よ。気分転換だって必要ですもの。ね、またお話を聞かせてちょうだい。龍のいるダンジョンに行った話がいいわ」

「……酒一本持って来たら話してやるよ」


 少女はさっと立ち上がって、スカートの裾を抓んでぱたぱたと階段の方に向かって駆け、思い出したように振り向いた。


「すぐ持って来るからね! 寝ちゃ駄目よ!」


 そうして階段を上がって行った。

 帽子の男は面倒臭そうに仰向けに転がり、山高帽子を顔の上に乗せた。


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