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三十三.ぐたっとしていた。いつもの酒場で


 ぐたっとしていた。

 いつもの酒場である。

 夏だから扉も窓も開け放され、そこから夕暮れの風が縦横に吹き抜けている。

 天井から下がったランプに明かりが灯り、開け放された扉の向こうの軒下にも明かりが灯る。それが店の中に差し込んで影を作った。


 酔漢の影が揺らめく店内でアンジェリンはぼんやりと座っていた。カウンター席だ。

 今日はミリアムとアネッサも一緒ではない。カウンター向こうではマスターが黙々と料理を作り、酒をコップに注いでいる。


 今のところ、お見合い相手は見つかっていない。

 ユーリにしてもロゼッタにしてもマリアにしても反応は芳しくないし、あれから何度か声をかけたけれどはぐらかされてしまった。

 お父さんくらい良い男はいないというのに、とアンジェリンはちょっと機嫌が悪かった。皆、男を見る目がないなあと思った。


「ん」


 酒場のマスターが鴨肉のソテーと冷えたワインを前に置いた。アンジェリンはワインを一口含む。最近、冷蔵魔法庫(フリッジ)を新調したらしく、よく冷えていてうまい。


 そういえば、この酒場のマスターも独り身のようだ。

 あまり喋らないから分からないけれど、ベルグリフと同年代だろう。店で見る限り子供がいるようでもないし、奥さんがいる気配もない。中年男の独り身というのは寂しいものじゃないのだろうか。

 フライパンにバターを落としたマスターに、アンジェリンは話しかけた。


「ねえ」


 マスターは黙ってアンジェリンを見た。


「マスターは結婚してるの?」

「……いや」


 注文ではなかったので、マスターは詰まらなそうにフライパンに向き直った。アンジェリンは構わずに続ける。


「結婚とか考えないの?」

「さてね」


 マスターは溶けたバターに卵を落とし、手早くかき混ぜる。そこに塩とスパイスをひとつまみ落とすと、香ばしい匂いが立ち上った。


「寂しくない?」

「……そんな暇ないね」


 とんとんとフライパンを振って半熟の卵をまとめると、ぽんと皿に盛って小さな鍋からソースをかけた。


「四番テーブル」

「あいよー」


 若い男の店員が皿を受け取って運んだ。マスターは手早くフライパンを洗い、今度はオリーブ油を落としてベーコンと茄子を炒め始めた。

 アンジェリンは考えながらソテーを頬張り、ワインを飲んだ。


「わたしのお父さん、多分マスターと同じくらい。けどやっぱり独身……」

「……嫁さんは死んだのかね」

「ううん。わたしは拾われ子。だから元々いない」

「そうかい」


 後ろの方からだみ声で注文する声がした。マスターはそちらを向いて小さく頷き、コップを手に取って棚の瓶から何か注いで店員に手渡した。


「四番」

「お父さんのお嫁さんを探そうと思って、色んな人に声かけたけど、皆乗り気じゃないの……なんでだろ」


 マスターは黙ったまま、フライパンに酒を回しかけた。もうもうと湯気が立ち上った。そこに潰したトマトとスパイスを加えてひと煮立ちさせる。


「……あたしにはよく分からないけどね。顔も知らない相手じゃ何とも言えないんじゃないのかね」

「……じゃあ、似顔絵とか?」

「それはあんたが決めるんだね」


 煮立ったトマト煮込みを皿に盛り付け、薄焼きパンを添えて店員に手渡した。


「三番」

「へーい」

「似顔絵か……うん、いいかも。ねえマスター。腕の良い絵描きはどこにいるか知ってる……?」

「知らんね。けどあんた、そんなに色々声かけてんのかね?」

「うん。選択肢は多い方がいい……」


 マスターはアンジェリンの方は向かず、棚からチーズとサラミを出して切り分け、皿に盛った。そこにオリーブ油を回しかけ、アンジェリンの隣の席に置く。

 それから腸詰をお湯の中に入れ、下がって来た皿を洗いながら、言った。


「あんまり感心しないね」

「……なんで?」

「選ぶ父親の方はいいかも知れないけどね、断られる女の方の気持ちは考えてんのかね?」


 アンジェリンは顔をしかめた。

 確かにそうかも知れない。一念してお見合いを決め、遥々トルネラまで行ってみたは良いけれど、それでベルグリフに断られる。その悲しみはいかほどのものだろう。

 軽い気持ちでお見合いなどと言っていたけれど、ひと一人の人生を左右するような決め事だ。

 声をかけた三人に優劣を付けるわけではない。だからこそ、誰か一人だけというのがひどく不公平にも思えた。変に互いの関係性を壊してしまうような気もした。


 少し無責任だったろうか、とアンジェリンは暗澹とした気分になった。


「……そうかも」

「ま、あたしのとやかくいう事じゃないけどね……」


 マスターは洗った皿を拭き上げて棚にしまい、腸詰を引き上げて皿に盛り、酢漬けの辛子を添えて向こうのカウンター席に置いた。それからまたフライパンにバターを落とす。

 アンジェリンはワインを一息で飲み干し、財布から硬貨を掴み出してカウンターに置いた。


「マスター、瓶でちょうだい」


 マスターは黙ってワインの瓶を置いてやった。アンジェリンは立て続けに三杯飲んでしまうと、ふうと息を吐いて赤くなった頬を手で支えた。


「けどお母さん欲しい……どうしたらいいの?」

「初めからお見合いじゃ誰だって身構えるんじゃないかね。貴族じゃあるまいし」

「そっか……そうだね」


 それならお見合いなんてわざわざ言わず、トルネラに遊びに行くくらいの感じでいいのではあるまいか。実際に会えば、きっとベルグリフの魅力が分かってもらえる筈だ。そうなればしめたものである。

 アンジェリンはくすくす笑った。マスターが怪訝そうな顔をする。


「なんだい」

「ふふ……マスター、ありがとう。マスターってこんなにおしゃべりしてくれるんだね。知らなかった……」


 言いながら、アンジェリンはまた硬貨を財布からつまみ出してカウンターに置いた。マスターは眉をひそめて、空いた鴨肉のソテーの皿を下げた。


「……ご注文は?」

「オリーブの酢漬けと腸詰。それに生トマト」


 結局夜半近くまでだらだらと飲み続け、店を出た頃には風が涼しくなっていた。

 表の往来はぽつぽつと空いている飲み屋もあるが、多くの家は明かりを落とし、眠りにつこうとしているようだった。


 向かいからそやそやと吹いて来る風が、酒で火照った頬に心地よい。

 アンジェリンは目を細めながらゆっくりした足取りで家路を辿った。石畳の道に月明かりが差して光っている。猫が一匹横切り、その後を追いかけるように別の猫が駆けて行った。


 人通りは少ない。時折酔漢や、見回りの兵士の一隊とすれ違うだけだ。

 彼らはアンジェリンくらいの少女が夜に歩き回っているので呼び止めるが、アンジェリンがSランク冒険者のプレートを見せると納得したように去って行く。


「秋に帰る時は……うーん、でもユーリさんは受付だし、ロゼッタさんは孤児院が忙しそうだし……マリアばあちゃんくらいかな……」


 アンジェリンはまた秋口に帰郷するつもりだった。

 採りたての岩コケモモが食べたいというのもあったし、既にベルグリフに会いたくて仕様がないのだ。しかし、だからといってあまり早く帰ってベルグリフに呆れられるのも嫌だったから、何とか夏の間は我慢した。先の予定が楽しみだと我慢するのにも張り合いがある。


 真っ直ぐ家に帰ろうと思って歩いていたが、月が綺麗ではあるし、夜風が涼しくて気持ちが良いので、少し散歩する事にした。

 トルネラに比べてオルフェンでの生活は目まぐるしく、リズムが早いように思うけれど、こうやってのんびりと散歩するとのんびりした気分になる。酔いが回っているのもふわふわとして良い感じだ。


 道に沿って街燈が並んでいる。中の炎が朱色の光を放って道を照らしている。

 とんとんと地面を踏んで行くと、前の横丁に人影が入って行った。アンジェリンは怪訝な顔をしてそっと後を付けた。


 少年と少女の二人連れだった。どちらも白髪だ。少年は十五歳くらい。少女は十歳そこそこである。

 シャルロッテにビャク。ボルドーで敵対した二人だった。


 アンジェリンは気配を消し、音もなく背後から近づくと、「おい」と声をかけた。

 振り向いたビャクの首元を掴んで壁に押し付けた。


「動くな。大声を出したら斬る……」


 悲鳴を上げかけたシャルロッテは慌てて口を両手で押さえた。アンジェリンはビャクの方をぎろりと睨み付けた。


「お前ら、なんでこんな所にいる……?」

「……さあな」


 アンジェリンは無言でビャクの腹に膝を食らわした。ビャクは苦し気にうめき声を上げる。


「お前らがボルドーでやった事、わたしは許しちゃいないんだぞ……」

「げほっ……だったらどうする? 殺すか?」

「……その方が世の中の為、かな?」


 そう言って、アンジェリンは剣の柄に手をやった。

 その手に柔らかいものがすがり付いた。見るとシャルロッテが必死の形相で腕に抱き付いていた。


「お、お願いします! ビャクを殺さないで!」

「……離せよ。子供だからって容赦しないぞ……?」

「お願いします! 謝ります! 許してもらえるなら何でもします! だから命だけは助けて下さい!」

「……離せ」


 アンジェリンは、ぼろぼろと涙をこぼすシャルロッテに顔をしかめ、乱暴に彼女を振り払った。

 シャルロッテは尻もちを突いた。鞄からばらばらと硬貨がこぼれて散らばった。アンジェリンはふんと鼻を鳴らした。


「金持ちだな。荒稼ぎして夜逃げか……?」

「……そいつは返す為に持ち歩いてんだよ」


 呟くように言ったビャクを、アンジェリンは睨んだ。


「……なんだって?」

「そりゃ、インチキで金稼ぎもした。けどな、ボルドーでテメエに負けてからはもう止めたんだ。札を売りつけた家に金を返して回ってんだよ」

「……信じると思ってる?」

「思っちゃいねえよ。けどそいつの名誉の為に言っただけだ」


 アンジェリンは足にすがり付いて来たシャルロッテを見た。よく見れば服は随分汚れて、裾はほつれかけている。ビャクにしたって恰好はみすぼらしい。

 アンジェリンは急に馬鹿馬鹿しくなってビャクから手を離した。


「許すわけじゃないけど……無抵抗の奴を殺すのは気分が悪い」

「ありがとうございます! ふえぇえーん!」


 シャルロッテは足にすがり付いたまま泣きじゃくった。ビャクは喉元を押さえて顔をしかめながらアンジェリンを見た。


「細い癖になんつう馬鹿力だよ……」

「うるさい……」


 アンジェリンはシャルロッテを立たせるとハンカチを押し付けた。


「いつまで泣いてるんだ……わたしが悪いみたいじゃないか」

「ふえ……ご、ごえんなさぁい……」


 シャルロッテはハンカチで涙を拭った。アンジェリンは嘆息して、ビャクを睨み付けた。


「お前には聞きたい事が沢山ある……わたしの事を知っているような口ぶりだったし」


 ビャクは顔をしかめた。


「……()()()()()答えられねえ」

「なんだと? どういう事」


 言いかけたアンジェリンは、急に殺気を感じて剣を抜き放った。

 横丁の奥の暗がりからナイフが飛んで来た。アンジェリンはシャルロッテを抱き寄せると剣でそれを打ち払う。ツンと鼻につく臭いがする。


「……毒? 嫌だな」


 ナイフはアンジェリンを狙っている風ではなかった。

 アンジェリンはビャクの方を見た。


「……お前ら、どれだけ恨みを買ってるんだ?」

「余計なお世話だ……」


 ビャクは腕を振った。置いてあったゴミ箱や樽が壊れる音がして、暗がりの中から数人が飛び出して来た。同じ服を着て仮面を付けている。シャルロッテの顔が恐怖に引きつった。


「浄罪機関……!」

「……? 何だそれ?」


 言いながら、剣を抜いてかかって来る襲撃者たちをアンジェリンは迎え撃った。

 襲撃者たちは恐ろしく軽い身のこなしで、建物の壁を走るようにしてアンジェリンたちを囲み込んだ。

 アンジェリンは剣を構えながらビャクにシャルロッテを押しつけた。


「こいつらは何……? 知ってるの? なんで狙われてる?」

「は、はい。こいつらはルクレシア教皇庁の……」


 シャルロッテが言い終わる前に白刃が幾つも迫った。鋭く、確実に急所を狙っている。その身のこなしは高位ランクの冒険者に匹敵する。


 しかしアンジェリンは尋常の使い手ではない。急所を狙うと分かっていれば返って対処は容易である。

 剣を払って一人を蹴り飛ばし、一人のこめかみを剣の柄で殴った。仮面が飛ぶ。下から現れたのは若い男だったが、目は虚ろで狂気的だった。


「……なんだ? 人形みたいな……」

「油断するな」


 上で音がした。上から迫っていた襲撃者がビャクの魔法で吹き飛んだ。アンジェリンはビャクの方を睨む。


「油断なんかしてない……分かってた」

「フン……こいつらは魔法と薬で自我がねえ。死ぬまで襲って来るぜ」

「……えげつな」


 アンジェリンは血を流しながらも、怪我をする前と同じ動きで向かって来る襲撃者を見て顔をしかめた。こういうのは大嫌いだ。

 不意に、周囲を淡い光が照らし出した。ビャクが立体魔法陣を可視化させたのだ。

 と同時にどちゃっ、と嫌な音がした。見ると、襲撃者が地面に潰れていた。魔法陣に押しつぶされたようだ。


「……やだなあ」


 けれど、正気でない相手に話し合いは通用しない。死ぬまで襲ってくるとなれば殺すほかあるまい。

 アンジェリンはほんの少しの迷いを振り捨て、肉薄して来た襲撃者の首を飛ばした。


 サーシャすら追い込むビャクと、アンジェリンの二人相手では、襲撃者たちもひとたまりもなかったらしい、ほんの少しの戦闘の後、辺りは静かな死の気配に包まれた。

 アンジェリンは剣に付いた血を拭って顔をしかめる。


「ああ……やっぱり人殺しは気分が悪い」


 すっかり酔いも醒めてしまった。せっかくいい気分で飲んだ後だったのに、と嘆息する。それからビャクとシャルロッテの方を見て顎で示した。


「おいで。事情は知らないけど、わたしも聞きたい事がある」


 ビャクはシャルロッテの方を見た。シャルロッテは小さく頷いた。


「はい……お願い、します」


 シャルロッテは震えていた。こうやって見ればただの幼い娘にしか見えない。

 こんな小娘がアンデッドを使ってボルドーを騒がせたのか、とアンジェリンは思う。きっと、後ろに何か妙な連中が付いているに違いない。


 早足で町を抜けて、下宿の部屋に戻った。小さな部屋だが、三人入った所で手狭になるというほどではない。

 アンジェリンはカーテンを閉め、扉に鍵をかけた。


「座って」


 もじもじしていたシャルロッテはおずおずと椅子に腰かける。ビャクはその後ろに立ったままだ。

 アンジェリンは薬缶に水を入れて焔石の焜炉に乗せる。この石は並べ方次第で強烈に熱を発する。それを利用した焜炉は高価だが、アンジェリンはわざわざ買い込んで部屋に置いていた。


 上着を脱ぎ、シャルロッテの向かいに腰を下ろした。

 まじまじと見る。白く綺麗な筈の髪の毛はばさばさして枝毛が目立ち、服は薄汚れている。


「……浄罪機関ってなんなの?」

「……異端者や、教皇庁に立てつく者たちを秘密裏に処理する、ルクレシア教皇庁の裏組織です」

「ふうん……なんでそんなのに狙われてるの?」


 シャルロッテは迷っている様子だったが、やがて決心したように身の上話を始めた。

 生まれはルクレシアの枢機卿の家だった事。権力争いに巻き込まれ、アルビノが原因で異端認定された事。両親が身を挺して逃がしてくれた事。それから放浪の事と、ソロモンを復活させようとしている者たちとの出会いと、ボルドーでの暗躍、敗れた後の遍歴など。

 話すうちにシャルロッテはすっかり消沈して俯いた。


「もうやめようって思ったの……ヴィエナ教は嫌いだけど、お父さまもお母さまも復讐じゃ喜ばないだろうって……でも浄罪機関に目を付けられたんじゃ、もう……」


 アンジェリンは沸いたお湯で花茶を淹れながら眉をひそめた。


「その話じゃ、協力してた奴らからしても裏切り者。教皇庁から見ても反逆者。どう足掻いても狙われるじゃないか……」

「うう……」


 シャルロッテは泣きそうな顔を両手で覆った。アンジェリンは嘆息して花茶を彼女の前に置いた。


「飲んで。落ち着くから」


 それからビャクの方を見て言った。


「お前らを野放しには出来ないし、聞きたい事だって沢山あるから、どこかで消されても困る。今夜は取りあえず泊まって」

「……そこまで信用していいのか? 寝首をかくかも知れねえぞ?」

「わたしがお前ごときに負けると思ってるのか。いいから大人しくしてろ」


 ビャクは眉をひそめたが何も言わなかった。

 了承の意と取ったアンジェリンは、テーブル越しにシャルロッテを撫でた。


「せっかくの綺麗な髪が台無し……明日お風呂に連れて行ってあげる」

「え……でも……」

「別にまだ許したわけじゃない。でも、だからこそボルドーに連れて行ってちゃんと謝らせる。いい? それまではわたしが守ってあげる」

「は、はい!」


 シャルロッテはひどく安心したように表情を綻ばせた。その顔はただの無邪気な十歳の少女であった。


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