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二十四.何かの吐息のような風だった。生ぬるく、肌にまとわり付く


 何かの吐息のような風だった。生ぬるく、肌にまとわり付くようだ。

 先導する冒険者の後に付いて走る。冒険者は興奮したように走りながらまくし立てた。


「風もねえのに西からこの雲が来たと思ったらよ、あっという間に町の上に広がりやがって、そしたら墓場からアンデッドの大群よ! 何だってんだ、いったい!」

「やはりこの雲が……誰かの仕業なのか……?」


 ベルグリフは首を傾げた。

 往来は逃げ惑う人でいっぱいだった。誰もが慌てふためき墓場と反対方向に走って行く。墓場へと向かう一行はその人々を避けるのに苦労した。


「まずいな、皆パニックになっている」

「うん……これじゃ通れない……」


 中々進めずにやきもきしていると、凛と通る声が響き渡った。


「皆! 慌ててはならんぞお! 落ち着いて兵たちの言う事を聞けい!」


 サーシャが兵士たちを連れて駆けて来た。兵士たちは住人たちの誘導を始める。


「お待たせしまして申し訳ない! 行きましょう!」

「ナイス、サーシャ……行くぞ……」


 人々の混乱が収まりかけた往来を、一行は墓場へと向かった。

 ボルドーの墓場は町の外れにある。北部一の町だけあって、墓場もかなりの広さだ。そこにたくさんのアンデッドがうごめいていた。

 アンデッドは動く死体だ。人間、獣問わず、死骸に魔力が宿る事で魔獣と化す。死んだばかりの死体は人の形を留めているが、古いものは朽ちて腐り、ひどく悪臭を漂わせている。単体での脅威はそれほどではないが、数が増えれば脅威は増す。百単位ともなれば、最早高位ランク冒険者の出番だ。


 それに加えて、実体を持たぬ死霊や、上位種であるハイ・アンデッドも現れているようだ。魔力を通わせた武器や、魔法でなくては滅する事の出来ない魔獣である。

 次々と湧き出る魔獣たちに、冒険者たちは苦戦しているようだった。数が多いのもあるし、腐敗した死体の臭気は直に鼻を突く。集中力が中々持続しない。


「クソッタレが! なんで突然こんなに沸きやがった!」

「知るか! 無駄口叩いてっとやられんぞ!」


 ジリ貧かと思われた時、突如として幾本もの矢が飛んで来て、手近なアンデッドに突き刺さった。アネッサだ。

 矢には何か術式が刻んであるらしい、次々と炸裂し、間近に迫っていたアンデッドが消し飛んだ。敵との距離が一気に空き、冒険者たちは安堵の声を漏らす。

 さらにミリアムの魔法がきらめいた。

 幾何学模様が幾重にも展開し、雷撃が次々と迸る。それは的確にアンデッドを貫き、たちまち黒焦げにした。

 そこにアンジェリンが飛び込んだ。

 滑るような足さばきでアンデッドに近づくや、次々と斬り裂いて行く。実体のない筈の死霊も一撃で真二つにした。何の変哲もない剣では何度も斬らねば死なないアンデッドも、魔力の多くこもった剣ならば一撃で死ぬ。


 次々とアンデッドを屠るその姿を見て、冒険者たちは喝采を上げた。


「すげえ! 流石はSランクのパーティだ!」

「たはは、格がちげえ……」

「バカヤロウ、負けてられるか! ボルドーの冒険者の意地を見せろ!」


 冒険者たちも発奮したらしい、勢いを増して反撃に出た。

 ベルグリフはその様子を少し後ろで見ていた。

 娘の活躍に思わず顔がほころぶ。今見える彼女は甘えん坊のアンジェではなく、Sランク冒険者“黒髪の戦乙女”アンジェリンだ。これならば安心出来る、とベルグリフは思った。

 冒険者だった頃、こういう共同の討伐依頼を受けた事も何度かあったっけ、と何だか懐かしい気分になる。またこんな場所に立つ事になるとは思っていなかった。


「……感傷に浸っている場合じゃないな」


 ベルグリフは苦笑しながら剣を抜き、前に出た。隙の出来た冒険者に襲い掛かるアンデッドを一刀で切り伏せる。冒険者たちがどよめいた。


「おお……あんた、“赤鬼”の……」

「及ばずながら助太刀しよう」

「助かるぜ、百人力だ!」

「こいつぁ頼もしいや!」


 冒険者たちはさらに勢いづいて武器を振り上げた。そこまで頼もしくもないと思うが、とベルグリフは苦笑した。

 アンジェリンたちの初撃で勢いを削がれたアンデッドたちだったが、まだまだ数の力は健在である、後から後から沸き出て来て、再び勢いを増して来た。

 アンジェリンは臭気に顔をしかめながらも衰えぬ動きでアンデッドを屠り、アネッサとミリアムも矢と魔法で応戦する。サーシャも疾風の如き動きで剣を振るって駆け回った。


 今の体ではあんな風に駆ける事は出来ない。

 ベルグリフは深呼吸した。臭気が鼻を突くが、耐えられないほどではない。この体に合った動きを、と考える。これは実戦稽古だと思うと何だか可笑しい。


 義足を軸にして、ゆらゆらと揺れる。

 アンデッドは力で斬るものではない。飛びかかって来るアンデッドを最小限の動きでかわし、その動きと連動するように剣を振るう。自分の持つ魔力の量は少ないながら、それでも剣と感応し魔力が流れるように。

 驚くほど抵抗なくアンデッドは斬り裂かれて動かなくなった。


「……アンデッド以外にも応用出来る、か?」


 だが呟くと同時に別のアンデッドが迫る。だが肉体が腐敗している分、決して俊敏な動きではない。ベルグリフはそれも難なくかわして斬り裂いた。

 この動きならば体にはあまり負担がかからない。しかしまだ慣れない。気を抜くと隙だらけになりそうだ。


「……考えても無駄だな」


 感覚を研げ。彼は自分に言い聞かせる。そして剣を握り直し、次のアンデッドに向かった。体はともかく、心は昔に戻ったようだ、とベルグリフは笑った。


 Sランクのパーティが参戦した事で、次第に戦況は冒険者の側に傾いていた。アンデッドは少しずつ数を減らしている。しかし、エルモアが要請している筈の結界は未だに起動しない。これが起動すればアンデッドなど瞬く間に駆逐出来るのだが。

 冒険者たちが段々と疲弊し始めた時、エルモアが走って来た。疲れと体の痛みで一端後ろに下がっていたベルグリフの横に来て焦ったように言う。


「まずい事になりました。この雲の影響か、結界が起動しないのです。これではアンデッドを押さえ込めない」

「結界が……? この雲はいったい……」


 ベルグリフは空を見上げた。日が暮れかけて来たからだろう、雲は益々黒く、濁ったようになって空を覆い尽くしている。だが、その黒の中にも濃淡がある。雲の厚さだろうか?

 ふと、ベルグリフはボルドー家の屋敷の方を見た。その上だけ変に雲が分厚く、暗いように思われた。


「確か西……ヘイゼルから?」


 嫌な予感がした。ヘイゼルはボルドー家の方針に異を唱える輩が治める町だ。

 ベルグリフはエルモアに向き直った。


「エルモア殿、冒険者の大半はこちらに?」

「はい、依頼で外に出ている者を除いて、殆どがここに集結している筈です、兵士たちもこちらか、住人の避難した場所におります。ここほどではありませんが、町のあちこちにアンデッドが現れているのです」

「……これは何者かの策謀やも知れません。狙いが他にあるような……」


 エルモアも頷いた。


「確かに不自然ですね……このような事が前触れもなく起こるのは妙だ」

「私はボルドー家の屋敷に向かいます。あの上空だけ妙に雲が濃い。どうにも嫌な予感がします」

「む……確かにそうだ……」


 エルモアは墓場の方をちらりと見た。冒険者たちはくたびれているようだが、アンジェリンたちはまだ最前線で駆け回っている。


「私もご一緒しましょう。こちらはアンジェリン様方とサーシャ様がおられれば心配ありますまい」

「助かります。実はまだ道が不案内でして……」


 ベルグリフは苦笑した。近くで話を聞いていたらしく、協力を申し出た冒険者たち数人も加えて、ベルグリフはボルドーの屋敷へと駆け出した。



  ○



 完全に奇襲だった。屋敷の警備の兵すらも大半を町に出してしまい、手薄になっていたのだ。

 一階は既にアンデッドが徘徊し、外に逃げる事すら出来ない。多勢に無勢とはこの事だ。


 数少ない兵士と共に、アシュクロフトは二階の廊下に陣取っていた。玄関からじりじりと押され、ここまで来てしまったのだ。

 背後の部屋にはヘルベチカとセレンが使用人や少数の護衛たちと共に籠っており、眼前にはアンデッドが押し寄せている。今朝がたアンジェリンに叩きのめされた時の傷は霊薬である程度癒えている。しかし本来は一晩眠って霊薬が体中に行き渡らなければ傷は完治せず、本調子であるとはいえない。

 加えて、単なるアンデッドだけではなく、強力な上位種も幾匹か混ざっている。臭気が鼻を突き、中々集中できない。対人戦ならば自信があったが、こういった魔獣相手の戦いは冒険者ではないアシュクロフトはやや不慣れだ。兵士たちも次々と倒れ、もう十人も残っていない。


 こんなタイミングでこんな事が起こるとは、とアシュクロフトは唇を噛んだ。自分のくだらない自尊心で揉め事を起こし、この非常時に全力を出せない事を悔やんだ。


「くそ……何がボルドーの家令だ……愚か者め」


 今まで滞りなく領地を発展させてきた自負があり、やや天狗になっていた事は否めない。その結果がこれだ。下手をすれば命よりも大事な主を死なせてしまうかも知れない。

 今朝がたからの失敗といい、今まで自分が持っていた誇りや自尊心が打ち砕かれるような心持である。


 だが、消沈している暇などない。痛む体を奮い立たせ、アシュクロフトは咆哮した。


「命に代えてもここを守れ! ヘルベチカ様、セレン様に一歩たりとも近づけるな!」


 そして自らも前に立って剣を振るう。サーシャに及ばぬながら、鍛錬を続けたその剣技は本調子の体でなくとも苛烈だ。

 しかしアンデッドは中々減らない。前の者が倒れれば、それを乗り越えて次の者が寄せて来る。加えてこの悪臭だ。疲労と集中力切れで動きは鈍り始める。


 隣に立つ兵士が悲鳴を上げた。アンデッドが首元に噛みついている。

 アシュクロフトはアンデッドを斬り払うが、兵士は既に事切れていた。次第に押されている。


「……身の程を弁えなかった報いか」


 アシュクロフトは呟いた。しかし、報いを受けるのは自分だけでいい。せめて主たちは逃がさねば。

 ずれた眼鏡を直し、血路を切り開こうと力を振り絞って斬り込もうとした矢先、不意にアンデッドたちの後方から何か聞こえた。敵の増援という風ではない。アンデッドの断末魔の唸り声と、その肉を斬り裂く音、何かが炸裂する音だ。


「な、なんだ……?」


 次第にその音は近くなった。アシュクロフトの前に迫っていたアンデッドが、背後から斬り裂かれる。赤髪が揺れた。アシュクロフトは呆気に取られた。


「ベ……ベルグリフ、殿……」

「ご無事でしたか、アシュクロフト殿!」


 ベルグリフは安堵したような笑みを浮かべ、大きく息を突いた。

 町中を全力で走って来て、屋敷に飛び込んでからは一心不乱にアンデッドを切り伏せてここまでやって来たのだ。多少の傷は無視して突き進んで来たが、体を痛めている四十男にはちと辛い。


 ベルグリフの背後で魔法が炸裂した。エルモアが手から魔弾を放ってアンデッドや死霊を消し飛ばす。

 アシュクロフトの方を見返って、エルモアも微笑んだ。


「アシュクロフト様、ご無事でしたか? ヘルベチカ様は……」

「……う、後ろの部屋に……しかし、お二人とも、何故……」


 ベルグリフは息を整えながら苦笑した。


「嫌な予感がしたのですよ。半分は勘でしたが……ご無事で何よりです」


 微笑むベルグリフを見て、アシュクロフトの目には涙が滲んで来た。

 安堵から来るものだったのか、不甲斐なさから来るものだったのか、それは彼自身にも判然としない。

 ただ、それがひどく照れ臭く、アシュクロフトは嗚咽して俯いた。ベルグリフはその肩を優しく叩く。


「さあ、泣いている暇はありませんぞ。はやく屋敷を出なくては」

「――――ッ! そうですな!」


 アシュクロフトは扉を開き、ヘルベチカたちを呼んだ。


「ヘルベチカ様、セレン様! 敵が減りました! 脱出しましょう!」


 こんな時にも落ち着いた表情のヘルベチカはこくりと頷いた。セレンは少し怯えた様子だったが、ベルグリフとエルモアの姿を見て、安心したように表情を緩ませた。


 残ったアンデッドを始末しながら屋敷を出る。一線を退いたとはいえ、エルモアは流石に元AAランクの冒険者であるし、一緒に来た冒険者たちも魔獣退治は専門家だ、兵士たちよりも慣れた手つきでアンデッドを退けた。ベルグリフも痛む体を酷使して剣を振るった。

 外はもう日が暮れかけており、雲が分厚いのもあって闇が深い。エルモアが小さな光球を手から出して照明にした。

 ヘルベチカとセレンを囲むようにして、一行は足早に進む。周囲を警戒しながら、ベルグリフはエルモアに話しかけた。


「ひとまず冒険者や兵士たちと合流するのが安全でしょうな」

「ええ。墓場の方の戦いが終わっていればいいのですが……しかしベルグリフ様、辛そうですが大丈夫ですか?」


 ベルグリフは苦笑した。


「恥ずかしながら、少し前から体を痛めておりましてな……少し張り切り過ぎました」

「なんと……」


 エルモアは申し訳なさそうに顔を歪めた。


「そうとは露知らず……無理をさせてしまいました」

「はは、こんな状況で一人安穏としているわけにもいきますまい。お気になされるな」


 泰然と笑うベルグリフに、アシュクロフトがおずおずと話しかけた。


「……私も体を痛めていたのに、満足に働けなかった……ベルグリフ殿、あなたは大した人だ。改めて今朝がたの無礼をお詫びさせてください」

「何をおっしゃる。貴殿があそこで食い止めていてくださったから我々も間に合ったのです。アシュクロフト殿、貴殿は実に立派に働かれた。誇ってよい事です」

「……敵わないな……本当に」


 アシュクロフトは恥ずかしそうに俯いて頬を掻いた。不意に、その頭に手が伸びて来て髪の毛をくしゃと揉んだ。ヘルベチカが微笑んでいる。


「ベルグリフ様の言う通りです。あなたはよくやりました」

「……勿体なきお言葉」


 また涙ぐむアシュクロフトを見て、セレンがくすくす笑った。


「何だか泣き虫になったわね、アッシュ」


 アシュクロフトはひどく赤面し、誤魔化すように眼鏡に手をやった。



  ○



 墓場の奥の方で、何か大きな魔力の気配が膨れ上がっていた。

 前に出て来たアンデッドの数はすっかり減り、大勢は決したように思われた。しかし、アンジェリンは嫌な予感をひしひしと覚えていた。

 お父さんはどこだろう、と見回す。少し前までは後ろの方で戦っていたのを見た。同じ場所で戦えていたのがひどく嬉しかったが、今は姿が見えない。後ろに下がっているのだろうか?


 あっ、と誰かが叫んだ。頭上を指さしている。その場の誰もが空を見上げた。

 空を覆っていた黒雲が地上の一点に収束して行く。墓場の奥の方だ。生ぬるい風が吹き、まるで何かが呼吸しているようである。

 アンジェリンは目を細めた。知っている感覚だ。前に相対した事のあるような。……


 雲が収束するに従って、夕暮れの空が現れた。

 地上の方が薄赤に染まり、そこから天頂に向かうにつれて紫、群青とグラデーションになる。星も幾つかきらめいているようだ。

 その美しい空の下に、禍々しい何かが立っていた。まるで影法師だ。夕闇をかき集めて何かの形にしたような、そんな具合である。

 だが、その形は一定せず、まるで粘性魔獣(スライム)のようにぐにぐにと形を変えた。

 ちりちりと、肌に刺すような魔力が辺りに漂った。アンジェリンは肩を回して深呼吸した。


「……また魔王? けど……」


 前に戦ったものとは少し違う気がする。形も雰囲気も似ている。しかし、何処か作り物のようだ。

 アンジェリンの脇にアネッサとミリアムが立った。


「妙な気配だな……あの黒い塊か?」

「何、あれ。すっごく嫌な感じ」

「……多分、魔王……かな?」


 アンジェリンの言葉に二人はギョッとして影法師を見やった。

 影法師は形を変えながら、辺りを伺うようにゆっくりと動いた。丸い胴体のような部分から触手のようにうごめく手足が幾本も伸び、さながら蜘蛛のように這いずる。

 その丸い胴体が横に裂けたと思ったら、歯と舌が見えた。


『あ……が……か、える……おう、ち……』


 途端、その口の中から影のような魔獣が幾匹も這い出して来た。死霊の一種、ダークウォーカーだ。影のようなその姿は宵闇に紛れて見づらい。冒険者たちはどよめいた。アンジェリンが大声を出した。


「光魔法! 照明を出して!」


 その声に我に返ったかのように、魔法使いたちが各々で詠唱し、光球を打ち上げる。暗くなっていた墓場が光に照らし出され、ダークウォーカーたちの動きが鈍った。

 サーシャが剣を振り上げ叫んだ。


「好機! 攻め立てるぞ!」


 冒険者たちは鬨の声を上げ、武器を構えて前面に押す。


「アーネ、ミリィ、雑魚は任せた……」


 返事を聞く前にアンジェリンは地面を蹴る。鈍い動きのダークウォーカーの間をすり抜けるように駆け、影法師に肉薄した。

 剣を振るう。触手のような腕は難なく切り落とされて、地面に落ちるや蒸発するように黒い煙になって消える。アンジェリンは怪訝そうに目を細めた。


「手ごたえがない……なんだこれは……」


 だが、不意に横から衝撃が来る。別の腕が鞭のようにしなって、アンジェリンの横腹を打った。

 吹き飛ばされるが、回転して着地する。衝撃はすごかったが痛みはない。脇腹をさするが、特に傷になった様子もなかった。


「ハリボテ……?」


 アンジェリンを囲むように腕が幾本も伸びて襲い来る。腕というよりは触手だ。ぐねぐねと幾本も胴体から伸びている。速い。

 しかし対応出来ない程ではない。アンジェリンは身をかがめて剣を振るい、触手を次々と斬り裂いた。だが霞を斬るようで何だか変だ。からかわれているような気持ちになる。


「舐めやがって……!」


 触手を粗方切り落としたアンジェリンは剣を振り上げると、影法師の丸い胴体に思い切り振り下ろした。剣はやはり難なく胴体を斬り裂く。だが、同時に炸裂するかの如く胴体が黒い霧になってアンジェリンを包み込んだ。


「げほっ……!」


 鼻や口からそれを吸い込んだ途端、既に癒えた筈の肩の傷が痛み出した。毒か? とアンジェリンは咄嗟に後ろへと飛ぼうと足に力を込める。

 だが、霧が突如として質量を持ったかの如く邪魔をして体が動かない。アンジェリンはその場に押さえ込まれるように膝を付いた。


 頭の中に妙な声が響く。


『オマエモオナジダオマエモオナジダオマエモオナジダ』

「かっ……は……っ!」


 息が苦しい。胸に手を当て、ぜえぜえと肩で息をする。その度に黒い霧が少しずつ吸い込まれる。

 脂汗が額ににじむ。肩の傷は焼け付くように痛み、血も滲んで来たようだ。


「何だっていうんだ……ッ!」


 アンジェリンは力を振り絞って身をよじり、力を込めて何とか霧の中から飛び出した。足がもつれて受け身も取れない。肩から地面に倒れ込む。


「アンジェ!」

「なになに、どうしちゃったの!」


 アネッサとミリアムが駆け寄って来る。だが、霧は再び集まって影法師となり、触手を鞭のように振るって二人を阻む。他の触手は倒れたアンジェリンの足や腕を掴んだ。


『カエロウカエロウカエロウ』

「うるっ……さい!」


 力づくで剣を振るい、触手を斬り裂く。だがその数はどんどん増え、アンジェリンの体中に巻き付いた。一本一本が生きているかのように体の上でうごめく様に、アンジェリンの肌は泡立った。頭の中には妙な声が響く。


『オナジダオナジダオナジダカエロウカエロウカエロウ』


 自分が自分ではなくなるようだった。

 ゾッとする恐怖感が這い上がって来て、アンジェリンは当惑し、知らぬうちに涙を目に滲ませた。


「やだ……こんなの……!」

「アンジェどのーッ!」


 その時サーシャが剣を振るって飛び込んで来た。一刀でまとめて触手を斬り払い、アンジェリンを抱え上げる。頭の中の声が止んだ。しかし体は痺れたように動かない。

 アンジェリンは大きく息を突き、悔しそうに呻いた。


「ごめんサーシャ……不甲斐なし……」

「アンジェ殿……くそ、なんという魔獣だ……」


 サーシャはアンジェリンを背中におぶり、後ろに下がる。

 Sランク冒険者が敗退したのを見て、冒険者たちがどよめいた。目に見えて狼狽し動きが鈍る。影法師の胴体には再び口が開き、ダークウォーカーが次々と這い出て来た。


 形勢が一気に傾いてしまったように思われた。

 影法師はぞわぞわと幾本もの触手を揺らめかせ、ゆっくりと前進して来る。ダークウォーカーも数を増し、冒険者たちはじりじりと後退した。


 その時、急に脈動するかの如く空気が揺れた。冒険者たちは驚いて辺りを見回す。

 彼らの間を通り抜けて、十歳程の少女が一人歩み出た。白い長髪に赤黒い瞳だ。


「おい! 危ねえぞ! 戻れ!」


 少女は冒険者たちの前で振り返ると、親し気な笑みを浮かべた。


「御心配なく!」


 同時にダークウォーカーが飛びかかって来る。冒険者たちは息を飲んだ。咄嗟に飛び出そうとする者もあった。

 だが、少女は動ずることなく右手を掲げた。飛びかかって来たダークウォーカーはまるで弾かれたように吹き飛ぶ。


「導師ソロモンの奇跡! ご照覧あれ!」


 瞬間、少女の体から恐るべき魔力の奔流が起こり、影法師の方へ向かう。

 魔力は影法師を中心に渦を巻き、次第に勢いを増した。

 それに従って、影法師の体はほどけ、黒い霧になって渦に巻かれ、上空へと舞い上がったと思うや、やがて溶けるように消え去った。気付けば、ダークウォーカー初め魔獣たちの姿もない。


 冒険者たちは呆気に取られた。

 何だこれは。奇跡か何かか? と誰もが夢でも見ていたような心持になっていた。

 少女はくるりと振り返り、にこやかに笑って両手を広げた。


「さあ、皆さん、危険は去りましたよ!」

「な……何者なんだ、あんた……」


 誰からともなく出た問いに、少女はにっこり笑って答えた。


「シャルロッテと申します! 世界を救いたいが為に方々を旅している者です!」


 同時に蹄の音と甲冑の音がした。冒険者たちが馬上の太った人物を見て困惑したような声を上げる。


「マ、マルタ伯爵?」

「なんでこんな所にいやがるんだ……」


 マルタ伯爵は冷ややかな視線で冒険者たちを一瞥し、サーシャに目を留めた。サーシャの方へ馬を進め、無礼というくらい慇懃な態度で頭を下げる。


「これはこれはサーシャ様。随分苦戦なされたご様子で」

「マルタ伯爵……なにゆえこちらに?」


 マルタ伯爵はくつくつと笑った。


「丁度昼過ぎ、西から妙な雲が流れて来ましてな。丁度滞在なされていたシャルロッテ様の言によれば、魔力を含んでおり危険だと。妙な胸騒ぎがしましたので、急遽兵を連れてこちらに駆け付けた次第です、いや、間に合ってよかった」


 口ぶりは丁寧だが、馬上から見下ろす事を止めようともしない。分かっていてやっているな、とサーシャは唇を噛んだ。マルタ伯爵は続ける。


「どうやら死霊系の魔獣だったようですが、結界はどうなされたので?」

「……なぜか結界が起動しなかったのです」

「ほう! それは不運な! それゆえに粒ぞろいの冒険者たちが揃っても劣勢になったのですな! いやはや、わしらが間に合わなければどうなっていた事か……肝心な時に対応が後手に回るとは、ボルドー家の皆様はよほど政務にお疲れのようですなア」


 皮肉めいた言い回しに、サーシャは悔しそうに俯いた。無礼者と叱責して追い返したかったが、彼らが影法師の魔獣を撃退したのは確かだ。居丈高な態度を取ってはボルドー家の威信に関わる。

 言い返さないサーシャを見て、マルタ伯爵は詰まらなそうに鼻を鳴らした。


「ともあれ、ご無事で何よりですサーシャ様。ヘルベチカ様もご無事ならばいいのですが」

「……姉上は屋敷におります。ここよりは安全かと」

「ほう、さようですか」


 何が面白いのか、ニヤニヤと笑うマルタ伯をサーシャは睨み付けた。しかしちっとも臆した様子はない。却ってその視線を愉悦と感じているようでもあった。

 その時、サーシャに背負われたままだったアンジェリンが、ぼそりと呟いた。


「遅れて来たのに偉そうに……なんだこの豚は」


 耳聡く聞きつけたらしいマルタ伯爵の顔から笑みが消えた。


「何だと……小娘、貴様今何と言った!」

「遅れて来ていいとこ取りだけする奴は冒険者じゃ最低……つまりお前は最低」


 歯に衣着せぬアンジェリンの物言いに、マルタ伯爵はたちまち顔を紅潮させ、歯を食いしばって震えた。

 だが、マルタ伯爵が何か言おうとした時、サーシャがパッと表情を明るくして叫んだ。


「姉上! セレン!」


 マルタ伯爵がギョッとしたように振り返る。まるで死人でも見るかのように目を見開いた。ヘルベチカがセレンやアシュクロフト、ベルグリフたちを伴ってこちらにやって来た。

 ヘルベチカは相変わらずの微笑みを湛えてマルタ伯爵に会釈した。


「卿、遠路遥々の援軍、感謝いたします。ボルドー伯としてお礼を申し上げますわ」

「む、む……ど、どうという事もございません」


 ヘルベチカは笑みさえ浮かべていたものの、目はちっとも笑っておらず、まるで刺すような視線でマルタ伯爵を見ていた。マルタ伯爵は動揺したように視線を泳がせる。

 そこにアシュクロフトが前に出た。


「伯爵、仮にもあなたほどのお方が仕える御方の前で下馬しないのは如何なものでしょう?」


 マルタ伯爵はハッとしたように慌てて馬を降りて頭を下げた。

 ヘルベチカは少しだけ微笑んだが、すぐにマルタ伯爵など眼中にない、というように周囲の兵たちに言った。


「今夜はまだ何が起こるか分かりません。住人たちはこのまま避難させておきます。皆さんには無理を頼みますが、交代で夜警を。冒険者の皆さん、本当にお疲れ様でした。まずは体を休めて下さい」


 冒険者たちはそれで安心したようで、やれやれと力を抜いてギルドの方へ去って行く。ヘルベチカはマルタ伯爵たちの方に向き直った。


「卿、こんな状況ですので大したおもてなしも出来ませんが、遊びに来られたわけでもないでしょう? せっかく兵を率いて来てくださったのです、夜警の手伝いをお願いいたします」


 マルタ伯爵は悔し気に首肯すると、馬に飛び乗り足早に去って行った。シャルロッテは慌ててその後を走って追いかける。

 ヘルベチカは嘆息した。


「……わたしが死ななかったのが、彼にとって誤算だったようですね」

「しかしお姉さま、証拠は何もありません。慎重に動かなくては」

「分かっていますよセレン……さあ、屋敷を片付けなくてはね」


 それぞれがそれぞれの役割を果たすべく動いている。

 ベルグリフは気が抜けてやって来た痛みに顔をしかめ、にぶい動きで歩き回りながらアンジェリンたちを探した。

 そして、サーシャに背負われてくたっとしているアンジェリンを見つけて仰天し、痛みも疲弊も忘れて脱兎の如く駆け寄った。


「アンジェ! どうした! 何があった! 大丈夫か! 怪我したのか!?」


 大慌てのベルグリフを見て、アンジェリンはくすりと笑った。


「平気……でも力がでにゃい……おんぶして」

「そうか……よかった……ほら、おいで」


 ベルグリフはサーシャから引き受けて、アンジェリンをおぶった。アンジェリンは満足そうにベルグリフにぎゅうと抱き付いた。そして、あの黒い霧に包まれた時の妙な感覚を思い出して顔をしかめた。


「……違う。わたしはわたし……」


 首を振って嫌な考えを吹き飛ばす。今はこの大きな背中に安心してもたれていればいい。

 ホッとしたせいか、そっと忍び寄って来た睡魔に逆らわず、いつの間にかアンジェリンは寝息を立てていた。


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