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二十三.ボルドー家の屋敷の


 ボルドー家の屋敷の一室、ベッドの上にボロボロのアシュクロフトが横たわっている。アンジェリンの容赦ない攻撃に為す術もなくやられてしまったのだ。

 しかし勝った筈のアンジェリンはしゅんとして小さくなっていた。その前に顔をしかめたベルグリフが腕組みして立っている。


「アンジェ……お前が強いのは分かった。しかし強い者が自分よりも弱い者を一方的に攻撃する事は、お父さんは正しいとは思わない」

「でも、お父さん……あっちが先に」

「向こうに非があるからといって、こちらがやりたい放題していいという理由にはならないよ。自分の力に溺れるくらいなら、初めから剣など振るわない方がいい」


 ベルグリフは結構本気で怒っているようだった。だからアンジェリンは元より、煽り立てたミリアムやアネッサ、サーシャまでもがしょんぼりしている。ヘルベチカとセレンは顔を見合わせて後ろの方で黙っていた。

 その時、ベッドの上のアシュクロフトが呻きながら体を起こした。


「いや……これは私の失態です……ベルグリフ殿、どうかアンジェリン殿を怒らないでやってください」

「しかしアシュクロフト殿、ボルドー伯領の内務に携わる大事な御身をそのように……」

「なればこそ、私が自制しておればよかったのです……家令の身にありながらくだらない嫉妬心で無用の混乱を起こしてしまいました。ベルグリフ殿、本当に申し訳ない。それに見た目ほどひどくはありません。骨も筋も痛めておりませんので……痛つつ」


 消毒液を含ませた綿を当てられて、アシュクロフトは顔をしかめる。ベルグリフは嘆息した。


「そう言っていただけると助かります……アンジェ、アシュクロフト殿に謝りなさい」

「むう……けど……」

「アンジェリン」

「……ごめんなさい」


 アンジェリンは不承不承といった態ではあるが、ぺこりと頭を下げた。サーシャがおずおずと口を開く。


「その……ベルグリフ殿……此度はわたしの言い出した事でもありますし、そこまでアンジェ殿を怒らないであげてください……」


 アネッサとミリアムも申し訳なさそうに頭を下げる。


「わたしたちも煽り立ててしまって……アシュクロフトさん、すみません」

「アンジェだけのせいじゃないんですよう。ごめんなさい……」

「……良い友達を持ったなあ」


 ベルグリフは苦笑して、アンジェリンの頭を手のひらでぽんぽんと優しく叩いた。ムスッとしていたアンジェリンだったが、それで少し表情が和らいだ様子だった。

 ベルグリフは微笑んで、雰囲気を変える為だろう、わざと明るい口調で言った。


「さて、おかしな雰囲気になってしまいましたな。ヘルベチカ殿、お忙しいでしょう。私どもの事は気にせず、政務に戻られてください」


 ヘルベチカはくすくす笑った。


「お気遣いありがとうございます、そうさせていただきましょう。アッシュ、あとで霊薬を持って来させましょう。しっかり休んで英気を養いなさい。あなたもいい勉強になったでしょう?」

「は、ありがたきお言葉……自分の未熟さを思い知りました」


 アシュクロフトは頭を下げる。ヘルベチカはにこにこ笑いながら、ベッドのそばに椅子を引き出して腰かけた。


「さて……それではアッシュはここから動けないので、ここで話し合う事にしましょう。近々マルタ伯爵がこちらに来られるそうですから」

「なんですと?」


 アシュクロフトが怪訝そうに顔をしかめた。セレンが頷く。


「今朝がた手紙が来たのです。早ければ明日、遅くとも明後日にはこちらに来るとの事」


 話し合いが始まってしまったので、ベルグリフは慌てて部屋の外に出た。余計な事を聞くものではない。


「やれやれ……さあ、どうしようかな。せっかくだから町にでも出てみようか」


 脇に立つアンジェリンにそう言ったのだが、アンジェリンはむくれていて返事をしない。ベルグリフは苦笑してアンジェリンを撫でた。


「そうむくれるなアンジェ……お前だってやり過ぎたって分かってるだろう?」

「……どうせお父さんは、わたしよりあのアッシュとかいう男の方が大事なんでしょ?」

「おいおい、そんな風にひねた考えをしないでくれよ、アンジェがお父さんの為に怒ってくれた事はよく分かってるから……」


 アンジェリンはしばらく黙っていたが、やにわにこちらを向いて両腕を突き出した。


「抱っこしてくれたら許す……」


 ベルグリフは苦笑して、アンジェリンの腰に腕を回して抱え上げた。アンジェリンはベルグリフの髪の毛にまふまふと顔をうずめて満足そうに目を閉じた。サーシャは何故か切なげな表情をしてそれを見ている。


「むう……もっと父上に甘えておけばよかったなあ……」


 ぽつりと呟いた。ミリアムがいたずら気に笑って、サーシャの後ろに回って背中を押した。


「ベルさん、サーシャも抱っこして欲しいみたいですよお?」

「どぇええええ!? ミリィ殿ッ!?」


 顔を真っ赤にするサーシャを見て、ベルグリフははてと首を傾げた。

 アンジェリンはちょっと眉をひそめたが、納得したように一人頷き、ひょいと降りた。


「お父さん分が足りないのだな……いいよ。特別」

「えっ、あのっ……う……い、いいのでしょうか、アンジェ殿?」

「うん……お父さん、サーシャも抱っこ」

「……? まあ、構わないが……失礼しますよ、サーシャ殿」


 ベルグリフは訳が分からないまま、サーシャの腰に腕を回し、同じように抱き上げた。肩に腰かけるような形になる。

 サーシャは「ふおおお!」と興奮したような声を上げた。


「な……懐かしい……!」


 サーシャはベルグリフの頭に手を置いて、目をキラキラ輝かせている。


「まだ幼少の頃……こうやって父上に抱き上げていただいたものです……」

「そ、そうですか……」


 長身のサーシャだからアンジェリンよりも重い。しかし女性に重いと言っては失礼だ、とベルグリフは我慢してしばらくサーシャを持ち上げていたが、筋肉や関節が痛む事もあって、流石に辛くなって降ろした。あまり無理をすると腰に来そうだ。サーシャは目に見えて喜んでいる。


「ありがとうございます師匠!」

「はあ、どういたしまして……その、師匠というのはやめていただけると……」

「ベルさん、この勢いで今度はアーネを肩車!」

「ちょ、わたしはいいんだってば!」


 ミリアムに押し出され、アネッサはわたわたと慌てた。

 ベルグリフは苦笑した。


「ちょっと今は勘弁してくれないか? 腰が……」

「で、ですよね! ほら、ミリィ、無理だから……」

「明日になれば大丈夫だと思うんだ。アーネちゃん、明日でもいいかい?」

「え! あ、う……はい……」


 真っ赤になって俯くアネッサを見て、ミリアムはにやにやと笑った。


「えへへー、なら明日はわたしも抱っこしてもらおーっと」


 それを聞いてアンジェリンが顔をしかめて首を振る。


「ミリィは駄目……重い」

「ちょ、誰がデブだーっ!」


 憤慨するミリアムを見て、その場は笑いに包まれた。



  ○



 豪奢とはいえない屋敷だ。石と木で出来ていて、頑強だが飾り気はない。

 しかしそこに飾られた調度品は高価そうなものばかりで、けれども品があるというのではない、単に値段の高いものが雑多に並べられただけというような、ある種の下賤さが漂っていた。

 その一室で質の良い服に身を包んだ男が一人、不機嫌そうに腰を下ろしていた。

 年の頃は五十を過ぎたくらいだろう。あまり節制や運動をしていないのか、中年太りを悪化させたようなだらしない肉の付き方をしており、口ひげは豊かに生えているが、頭髪は寂しくなっていた。

 マルタ伯爵。ボルドー西の町、ヘイゼルの領主である。


 マルタ伯はグラスのワインを一口で飲み、乱暴にテーブルの上に置き、口ひげに付いたワインを舐めた。


「ふむ、Sランク冒険者か……魔王殺しの噂はわしも聞いておる」


 彼の向かいにはファー帽子をかぶったアルビノの少女が座っていた。少女は汚物をみるような目で伯爵を見たまま、むっつりと押し黙っている。

 その後ろに控えるフードの少年が言った。


「なら計画を後に延ばせ。ボルドー家に加えてあいつまで敵に回すのは無茶だ」

「ふむ……ソロモンとやらの力も大した事はないな」


 少女の眉がピクリと動くが、それを制するように少年が言った。


「挑発しても無駄だ。失敗すればあんたの首も飛ぶ。奴らさえいなければ計画通りに事は進む。ここは耐えろ」


 あくまで冷静な態度を崩さぬ少年に、マルタ伯は冷たく笑った。


「一流の策士気取りか小僧……だが忠告は忠告として受け取っておこう」


 マルタ伯爵はグラスにワインを注いだ。


「わしはこの後ボルドーに向かう。夜には辿り着くようにな」

「おい、計画は後に伸ばせと言っただろう」

「伸ばす? 伸ばしてどうするのだ。そのSランク冒険者とやらがボルドーを去るまで待てと? 小僧、不確定の要素に期待して身を潜め続ける苦しみが貴様に分かるか? 権力から遠ざけられ、こんな北部のド田舎に何年も押し込められる苦しみが!」


 伯爵はグラスを持った手をテーブルの上にごつんと乱暴に置いた。ワインが跳ねてこぼれる。その澱んだ目は野心と恨みでギラギラと燃えていた。


「何年も耐えて来た……今日という日を待ちに待ってな……前ボルドー伯は手ごわい相手だった……しかし奴も病には勝てなかった。娘どもも才覚はあろう……しかし所詮は女よ。潔癖が過ぎる。公都の魑魅魍魎共に比べれば物の数ではない……」


 マルタ伯爵は、ボルドー領内の反ボルドー家派を数年かけてまとめ続けていた。

 ボルドー伯は元々地方豪族であった事もあり、領民をおもんばかる穏やかな政治は領民からは絶大な支持を集めていたが、中央から流れる貴族的思考にどっぷりと浸かった一部の貴族たちは反感を持っていた。


 中央出の貴族たちは、地方出身のボルドー家を田舎者と侮っている節もある。

 サーシャが貴族でありながら冒険者をしているのも、姉妹たちが領地を回り、時には農民と汗を流す事も、中央出身の貴族たちからすれば卑しい行為なのだ。


 そんな風にボルドー家に反感を抱く貴族たちを密かに抱き込み続けて数年、圧倒的とはいわぬまでも、日和見派を抱き込める状況になれば、実権を握れるところまで来た。あとは現当主を亡き者にする事が出来れば。……

 公都から追い出された身とはいえ、マルタ伯爵もそこで権力争いに明け暮れた人間なのである。そして、敗北したにも関わらず爵位もそのままに、地方に左遷される程度で済ます事が出来る程度の手腕は持っている。


「貴族と下賤の輩は違う。あのような事を続けていれば領民どもは増長し、いずれ身分の差など些細なものだと言い始めるだろう。そうなってしまえば公国はおろか、帝国も維持できなくなる。貴族は貴族らしき高貴さを身に付けてこそ貴族なのだ。それが分からぬ小娘どもめ……いいか、計画通りに今日だ……今夜だ!」


 マルタ伯爵はワインを一息で飲み干した。酔っているのだろうか。しかし、前から相対する度に、この男はどこか気がふれたように振る舞った。権力への渇望が過ぎて、少しおかしくなりかけているのかも知れない。

 少年はうんざりしたように嘆息した。


「あんたの哲学はどうでもいい……だが、利害が一致する以上協力してもらわねえと困る」

「案ずるな。貴様らは自分のすべき事をすればよい。わしを誰だと思っている……貴族は貴族らしくあってこそなのだ。富と権力……そなたならば分かるだろう? ソロモンの聖女よ」


 少女はその問いかけには答えず、不機嫌そうに立ち上がってつかつかと部屋を出て行った。少年も後に続く。マルタ伯爵はくつくつと不気味に笑った。


 少女は早足で歩きながら、吐き捨てるように言った。


「相変わらず下賤な男だわ。権力の亡者ね。ルクレシアのクソ坊主どもを思い出すわ」

「……あんたも似たようなもんだろう」

「あんなのと一緒にしないで! 権力は然るべき者が持つべきなのよ! あの豚にその資格があるわけないでしょ!」


 少女は眉を吊り上げて振り返り、少年に殴りかかった。しかし少年は簡単に少女の拳を受け止めてしまう。少女はぎっと歯を食いしばった。そうして再びいらだたし気に歩き出す。


「どいつもこいつも屑ばっかり! 変えてやるんだから……こんな世界!」

「好きにしろ……だが暴走して失敗するんじゃねえぞ」

「誰に口を利いてるのよ!」


 少女はそのまま中庭に出る。傾き出した陽光が燦々と降り注いで、そこいらは明るい。濡れた地面からモヤが立ち、木立の葉はきらきらと輝いている。

 少女は右手を上げた。

 中指に指輪がはめられている。獣や悪霊を象ったかのようなおどろおどろしい装飾が施されており、小さな黒い宝石がはまっていた。


『疎まれし者の王国! 放浪者の追い風! 彼の者は我らを邪悪と呼ぶ! 閉ざされし宵の門より帳が降りる! 何と厳しい道のりかッ!』


 咆哮するかの如く紡がれた少女の詠唱と共に、彼女を中心に恐るべき魔力の奔流が巻き起こった。この小さな少女の体には常人の数十倍の魔力が宿っているようだ。

 渦巻く魔力は掲げられた右手の指輪へと収束し、不意に静かになったと思うや、指輪の黒い宝石から濁った黒雲が立ち上り、塊となって空へと舞い上がった。

 それはたちまち空を覆い尽くすや、東に向かって流れて行く。

 少女はフンと鼻を鳴らした。


「サミジナの指輪……この力さえあれば……ふふ、ふ……」


 少年は腕組みして顔をしかめながら、ぽつりと呟いた。


「……所詮利用されるだけ、か」



  ○



 ボルドーの町は賑やかである。雨上がりの水たまりが青空を映して、その上を大勢の人が行き交っている。

 山菜や野菜を売りに来ている農民、南の地の商人たち、路上で演奏する旅のジプシー、荷車を引く丁稚奉公人、連れ立って駆けて行く子供たち。


 屋敷を出たベルグリフたちは、サーシャの案内で昼食を取り、往来を歩いていた。仕事は大丈夫なのかと尋ねたが、ああいった難しい話にはサーシャは関与しないそうだ。下手に参加しても分からないし、無駄に場を混乱させる、というのは本人の弁である。

 それでいいのかとベルグリフは苦笑したが、考えてみれば、自分の分を弁えているといえばそうだし、それだけヘルベチカとセレンを信頼しているという事でもある。自分はその分野では役に立たないとカラッと割り切れる気風の良さは彼女の魅力の一つなのだろう。


 少女たちはベルグリフの一歩先をきゃあきゃあとはしゃぎながら歩いている。二日酔いは落ち着いたようだ。昨晩一緒に飲み明かしたせいだろう、サーシャもすっかり打ち解けて仲良しだ。


「ねえねえ、サーシャ。お菓子の美味しいお店とかあるのー?」

「ありますよ! ボルドーは麦がよく育ちますから、焼き菓子が美味しいのです」

「おおー、いいねいいねー、ねえ、そこに行ってみようよー」


 アネッサがにやにやしながらミリアムの肩に手を置いた。


「……さっき重いって言われて不貞腐れてたのは誰だっけ?」

「うるさーい! それとこれとは話が別!」

「いやいや、ミリィ殿はそのもっちりした感じが可愛いと思いますよ! 是非ともそのままのあなたでいていただきたい!」

「だああ、サーシャまで! うわーんアンジェ、皆がいじめるよう」

「おお、よしよし……さあ、お菓子屋に行こう……ミリィをもっと肥えさせるのだ」

「な、何を言うかーっ!」

「ふふふ、冗談……わたしも甘いもの食べたい。いいよね、お父さん?」

「ああ、構わないよ」


 蚊帳の外のような有様のベルグリフだが、どの道保護者のようなものだから気にしていない。少女たちが楽しんでいるならばそれで十分である。

 トルネラではあまり食べられない甘味を堪能し、サーシャの提案で冒険者ギルドへと向かった。是非ともギルドマスターに紹介したい、との事である。

 また過剰に評価されるのか、とベルグリフは少し及び腰だったが、上手く断る理由が見つからない。結局一緒になってギルドへ行った。


 ここも石造りの頑丈そうな建物であった。ボルドーは新しい建物は木造が多いが、古い建物は石造りばかりだ。頑丈で、長く持つように作られたのだろう。

 ギルドの中は活気に溢れていた。老若男女の冒険者たちが出入りし、あちこちで談笑の声が響いている。

 懐かしいな、とベルグリフは思った。かつては自分もこの渦中にいた。トルネラでの静かな生活に慣れた今でも、ほんの二年ばかりの冒険者生活は鮮烈な体験として記憶に残っている。


 昨晩に宿の酒場にいた冒険者たちがいるらしく、歓声が上がってたちまち人に囲まれた。


「おお! Sランク冒険者様のお出ましだ!」

「魔王討伐の話を聞かせてくれよ!」

「俺は“赤鬼”に聞きたい! どうやったらSランク冒険者なんか育てられるんだ?」

「なあ、どうしてトルネラなんかに籠ってるんだよ」

「勿体ねえなあ! サーシャ様が師匠って言うくらいなら、ボルドーのギルドじゃあっという間にトップだぜ?」


 怒涛の質問攻めを苦笑いであしらいながら、サーシャの後に付いて受付の後ろの扉に入った。冒険者たちはわあわあと騒いでいるが、受付嬢が押し留めている。

 階段を上がりながら、ベルグリフは嘆息した。


「参ったな……名前負けだ」

「? 何かおっしゃいましたか、師匠?」

「いえ、独り言です……あとサーシャ殿、師匠というのは」

「ギルドマスター! こちらにおられますか!」


 階段を上がった先の部屋の扉を、サーシャが勢いよく開く。中には書斎らしき広い部屋があった。

 手前には、来客用だろう、六人掛けのテーブルとソファが置かれていて、奥には仕事用の机がある。その上には数々の書類が整然と積まれていた。


 机の向こうに老人が座っていた。

 六十前後というところだろうか。長い白髪を後ろで束ね、顔の彫りは深いが、瞳の色は歳を経た者特有の憂いを湛え、ひどく優しげだ。

 サーシャはつかつかと前に行き、机に手を突いた。


「お仕事中に失礼しますギルドマスター。是非とも紹介したい方々がおられまして!」


 ギルドマスターはにっこりと微笑んだ。


「ええ、皆が噂しておりますよサーシャ様。“黒髪の戦乙女”アンジェリン様とそのパーティメンバーのお二人。それに“赤鬼”のベルグリフ様がいらしていると」


 サーシャは自慢げに笑うと、脇に避けてベルグリフたちを紹介した。


「こちらが“黒髪の戦乙女”ことアンジェリン殿です。それからそのパーティメンバーのアネッサ殿とミリアム殿。こちらは前から話している“赤鬼”のベルグリフ殿です。皆さん、こちらがボルドーのギルドマスター、エルモア殿です」


 サーシャに紹介され、各々が頭を下げて挨拶する。ギルドマスターはゆっくりと立ち上がって慇懃に頭を下げた。


「エルモアと申します。才無きながらボルドーの冒険者ギルドを取り仕切らせていただいております。以後お見知りおきを」

「ご丁寧に痛み入ります。仕事中に乱入いたしまして……」

「いえいえ、元より大した仕事もございませんので」


 エルモアは相変わらずの柔らかな笑みを浮かべ、来客用のソファに五人を促した。

 腰を下ろしながら、アンジェリンが言った。


「エルモアさん、立派……オルフェンのギルドマスターとは大違い」

「おいおい、そう言ってやるなよ……」


 そう言いながらアネッサもくすくす笑っている。確かに、オルフェンのギルドマスターの部屋はあまり綺麗ではなかったし、ライオネルには威厳の欠片もない。だが、ここは整っているし、何よりギルドマスターに威厳がある。

 エルモアは笑いながら薄荷水の瓶を棚から出した。


「ライオネル様は頑張っていらっしゃると思いますよ。魔王に端を発する魔獣の大量発生の際はよくお一人で対応されたと思います。ボルドーからも援軍を出せればよかったのですが、このギルドには現在Sランク冒険者がおりませんで……」


 グラスに注がれた薄荷水を飲んで、アンジェリンは言った。


「エルモアさんは何ランクだったの……?」

「私はAAランクでした。冒険者としての才能は打ち止めでしたが、こういった事務仕事は不思議と性に合っておりましてね、もうこの職を拝して二十年になります」

「ふうん……うちのギルドマスターが言うには、ギルドマスターって無能向けの閑職らしいけど……そうなの?」

「こらアンジェ、失礼だろう」


 ベルグリフは慌ててアンジェリンを嗜める。しかしエルモアは全く気にした様子もなく愉快そうに笑った。


「ええ、ええ、そうでしょうな。現在はどこのギルドもギルドマスターは閑職です。中央ギルドとその地のギルドの間に立ち、双方の小言を受け流せればそれでいい。しかしボルドーのギルドだけは少し事情が違いましてな」


 サーシャが身を乗り出した。


「ボルドーのギルドは昔から領主とのつながりがあるのです。中央の血統書付きの貴族たちは基本的に冒険者を蔑みますが、ボルドー家は元々地方豪族。冒険者に親近感を覚えるところもありまして」

「そう。それゆえにここのギルドは町の防衛などにも一役買っているのです。通常、領主は冒険者ギルドに依頼を出す事を嫌います。金がかかるという事もありますし、貴族の面子というものもあるのでしょうな」

「くだらない事です」


 とサーシャが眉をひそめる。エルモアは微笑んだ。


「しかしボルドー家の方々は違った。初めから冒険者ギルド側ときちんと契約を交わし、兵士たちとも提携して相互に協力し合いながら魔獣や異変に対応するように制度を整えられたのです。それゆえに半ば部隊長のような立場でもありましてな、中央ギルドのやり方が流用できない分、ギルドマスターとしての仕事は他よりも多いのですが、とてもやり甲斐がありますよ。有難い事です」


 ベルグリフは感心した。かつて自分が冒険者だった頃は、町の兵士と冒険者というものは仲が悪いのが普通だったのだ。

 それが、ここでは共に仕事をするという。今ではボルドー家の当主の妹であるサーシャまでも冒険者として在籍しているのだ、昔よりもその結びつきは強くなっているだろう。

 だが、同時にこれは貴族には評判がよくないだろう、とも思う。

 古くからボルドー家とつながりのある地方出身の貴族ならばともかく、中央から移って来た貴族には、下賤と蔑む冒険者との繋がりを深めるなど、耐えがたい事だ。それが今回の街道整備の妨げの一因なのだろう、とベルグリフは眉をひそめた。どうにも貴族の世界というものは分からない。


 歓談していると、ふと、窓の外が暗くなった。照明も何もない部屋の中も暗くなる。

 エルモアはおやと首を傾げて立ち上がり、窓のそばに行った。日が暮れたのかと思いきや、空を分厚い黒雲が覆っている。


「おかしいですね、さっきまではあんなに晴れていたのに……」


 ミリアムが顔をしかめて足早にエルモアの横に行った。外を眺め、怪訝そうに目を細める。


「……変だよ、これ。凄く歪んだ魔力を感じるよ」


 アンジェリンもピクリと眉を動かした。


「ちくちくする……嫌な感じ……」


 その時、部屋に冒険者が一人駆け込んで来た。


「ギルドマスター! 大変だ! 墓場からアンデッドが大量発生してやがる!」

「なんですと? どういう事だ……」


 エルモアは眉をひそめ、冒険者に歩み寄った。


「数はどれほどです」

「百は下らねえ。手の空いてる連中で食い止めてるが、次々出て来てキリがねえんだ」

「分かりました、兵士たちも動かしてもらいましょう。サーシャ様」

「相分かった! すぐに手を回しましょう! 失礼!」


 サーシャは疾風の如く駆け出して行った。アンジェリンたちも立ち上がる。


「手伝う……」

「おお、なんと……よろしいのですか?」

「オルフェンに戻る前のウォーミングアップに丁度いい……」

「感覚を取り戻さないとな。帰ってなまってたんじゃ笑われる」

「久しぶりに暴れるぞー」


 冒険者装束でこそないが、遊びに出ていても自分の得物だけはいつも携えている。冒険者の癖だ。エルモアは安心したように微笑んだ。


「実に頼もしい事です……私は教会に行って結界を張るようお願いしてきます。墓場を頼んでよろしいですか?」

「任せて……」


 アンジェリンはベルグリフを見た。


「お父さんも……ね?」

「……そうだな」


 足手まといにならなければいいが、と思ったが口には出さなかった。戦いの場に出る以上言い訳は無用である。最善を尽くすだけだ。

 アンジェリンは父親と共に戦えるのが嬉しいらしい、目に見えて張り切っている。


 外は暗い。また雨でも降り出しそうだ。


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