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一五四.靄の向こうの穴を抜けると、再び


 靄の向こうの穴を抜けると、再び視界が明瞭になった。しかし暗い事に変わりはない。どこまでも暗く、前も後ろもあるか分からない。

 ベルグリフは振り向いた。垂らした毛糸が、途中からふっつりと消えている。


「……行くしかない、か」


 前に進むだけだ。元々そのつもりだったのだ。今更怖気づきはしない。

 不思議と幻肢痛も治まっていた。あの黒い靄がいけなかったのだろうかと思ったが、推測の域を出ない。

 ベルグリフは急ぎ足で、しかし慎重に進んで行った。当てはない。しかしアンジェリンはこの先にいる筈だ。


 どれくらい進んだのか分からなかった。時間の感覚すら希薄になって来るようだった。

 それでも足早に進んで行くと、少し先に人影が見えた。


「アンジェ」


 ベルグリフはそう言って駆け出す。

 しかし近づくと、それはアンジェリンではない事が分かった。ドキリとして、腰の剣に手をやった。白いローブに、目深にかぶったフード。シュバイツだった。グラハムにやられた左腕はないが、血は流れていない。

 シュバイツは足を止めてベルグリフを見た。


「来たか、“赤鬼”」

「……」


 ベルグリフは目を細めていつでも剣が抜けるよう構える。シュバイツはくっくっと笑った。


「そう怯えるな。お前と戦う理由などない」


 さんざんやりたい放題しておいて、随分勝手な言い草だ、とベルグリフは少しムッとしたが、確かにここでシュバイツと戦う意味はない。そもそも勝てる相手ではない。


「あの娘を探しているのだろう」


 シュバイツが言った。ベルグリフはハッとして顔を上げる。


「知っているのか?」

「この先に行った」


 シュバイツは進んでいた方向を顎で示した。ベルグリフは目を細めて遠くを見やる。しかし何も見えない。相変わらず暗い空間が広がっているだけだ。


「一緒に来るか。どうせ俺も同じ方へ行く」

「……何を企んでいる?」

「単に行き先が同じだけだ。来るか? 来ないか?」


 シュバイツはそうとだけ言って、さっさと歩き出した。

 ベルグリフは少し考えていたが、結局確かに行き先は同じだ。不本意だが道連れになる他なかろう。それで少し後ろを付いて行った。

 シュバイツは前を向いたまま口を開いた。


「俺はお前に感謝している。お前がいなければ、俺はここに来る事は出来なかった」

「……ここは一体何なんだ?」

「時空を一つ越えた所だ。かつてソロモンが去った場所」

「ソロモンが……」


 ベルグリフは辺りを見回した。しかし相変わらず何も見えない。口ぶりからして、シュバイツはここに来たかったような節がある。ベルグリフは怪訝な顔をして前を行くシュバイツの背中を見た。


「結局、君の目的は何だったんだい?」

「ここに来る事が一つ。その向こう側を見る事がもう一つ」


 シュバイツは淡々と続けた。


「俺はあの世界に飽き飽きしていた。少し長く生き過ぎたというのもある。魔法の限界も思い知った。何よりも、歴史上最も優れた魔法使いであるソロモンが去って行った場所が気になった。死後ではない。死霊術を散々研究してそれは分かった。そうして時空魔法に辿り着いた。ソロモンが去ったという別の次元に興味が出たわけだ」


 種を明かしてみれば、実に単純だ。前にグラハムが推測した通り、魔法使いの桁外れの好奇心と探求心が発端だったのだ。


「……そんな事の為に」


 ベルグリフが呟くと、シュバイツはふっと笑った。


「そんな事か。確かにお前たちからすればそうかも知れんな。だが、俺からすればお前たちの言う幸せとやらの方が「そんな事」だ。歓喜も幸福も所詮はひと時の感情に過ぎん。後に何も残りはしない」

「好奇心も同じだろう」

「違う。好奇心は別のものを生み出す。魔法はすべて魔法使いの好奇心の結果だ。発展は好奇心が生み出す。幸福は何も作り出さない。尤も、好奇心は呪縛にも似た執着とも言えるが」

「それに君も縛られてしまったわけだ」


 珍しく皮肉気な言葉が口から出た事に、ベルグリフ自身もびっくりした。シュバイツはくっくっと笑った。


「だが、それだけでも限界があった。この空間への道を穿孔する為の強大な事象流は、強い感情がなければ動かない。落差があるほど落ちた時の衝撃が大きいように、エネルギーを生み出すには幸福と愛が必要だった。俺にはどうあがいても不可能だったわけだが、それをお前がやってくれた」

「……そもそも事象流とは何なんだ? どうしてアンジェを利用した?」

「一つずつ説明してやろう。まず、あらゆる事象はつながっている。風が波を起こすように、呼吸をする事が心臓を動かすように、一つの行動が別の現象を起こし、それらが一つの大きな流れとなり、世界は構築されている」


 それはそうだろう、とベルグリフは頷いた。あらゆる物事には原因がある。


「だが、人間には意思がある。いや、人間に限った話ではないな。時空魔法の、特に事象流を研究する一派は「魂」と呼ぶものだ。本来の動物的な生存本能とは別の欲求を魂は持つ。権力、名声、快楽……愛と呼ばれるものもその一つだろう」

「それらが事象の流れを作ると?」

「そうだ。無意識の流れ、すなわち風が波を作るような現象とは違い、魂は目的を持って行動して流れを作る、あるいは干渉する事が出来る。その魂の器が大きなものは英雄と呼ばれた。そういった者は周囲を巻き込む強大な流れを作り出した。戦乱の英雄、建国の英雄、或いは討伐譚の英雄。彼らは強大な事象の中心となった」

「……彼らもこうやって別の時空へ来たとでも?」

「必ずしもそうではない。しかし、そういった例は幾度かあったと聞いている。英雄と持て囃されたが、平時には邪魔とされ殺された者、そういった者の嘆きと絶望は空間を穿孔したという」


 シュバイツは少し言葉を切った。ベルグリフは目を細める。


「それで?」

「時空を穿孔するほどの力は絶望から生まれる。ソロモンがそうであったように、あの世界に居場所がないと思う心、感情の爆発が、事象の流れに渦を巻き起こす。その螺旋の動きは空間を穿孔する。だから俺は最初、世界に混乱を起こそうと思った。オルフェンでバアルを育てていたのはその一環だ。あの娘に阻止されたがな」

「……戦乱から生まれる英雄の絶望、か。しかし」


 なぜアンジェリンだったんだ? とベルグリフは眉をひそめた。もし世界への絶望が鍵になるのであれば、パーシヴァルだってその資格がありそうなものだ。

 納得出来ていない顔のベルグリフがそう言うと、シュバイツは口を開いた。


「“覇王剣”か。確かに奴も英雄の器だろう。しかし大事象には、そこに至るまでの流れが重要だ。“覇王剣”に限らず、お前の仲間たちも英雄の器を持つ者ばかり。しかし、彼らは大事象を起こすには至らなかった。それはそこに至るまでの流れがなかったからだ。あの娘は旅路のうちに彼らの流れもすべて巻き込んだ。それゆえにここまでの大きな事象の流れになったのだ」

「……まるで、芝居のクライマックスを演出するような話だな」

「言い得て妙だな。まさしくその通りだ。だからこそ、俺は疑似人格を使ってお前たちを観察した。出会い、成長、別れ、愛、『悪』との戦い……あらゆる要因があの娘を育て、関わった者たちの流れが合流した。それで確信したわけだ。この娘が大事象流の要だと。だから、その流れを渦にする事にした」

「どうやって……?」

「俺は他人の過去を読み取る事が出来る。尤も、少し触れたくらいでは無理だ。だからイシュメールとしてお前たちと交流を重ね、過去を読み取った。あのエルフ女は俺たちに協力していた時期もある。そして、尤も辛い過去と感情をあの娘に夢として見せた。これを使ってな」


 シュバイツは懐から林檎の枝を出してベルグリフに見せた。ソロモンの鍵と呼ばれるものだ。


「まさしくそれは激流だった。彼女の感情は溢れ、世界に居場所を失った」

「……まさか、サティにアンジェを産ませたのは」

「それは違う」


 シュバイツはきっぱりと言った。


「それは俺にも想定外の出来事だった。無論、その赤ん坊がお前の元に行くなど想像もしていない。しかしその時から事象は一定の方向に流れ始めていたのかも知れん。川の大きな流れが浮かぶ落ち葉を引き寄せるように、あの娘を取り巻く流れは既に定まっていた。そう考えるのが自然だ」

「魔王を人間にしたがっていたのは何故だ?」

「強大な力を持った魂を産み出したかったからだ。ソロモンのホムンクルスは強大な力を持つが、所詮は作りもの、魂を持たないプログラムでしかない。事象の本流となるのは不可能だ」

「だから人間に……」

「そうだ」


 シュバイツは手に持った枝を無造作に投げ捨てた。ベルグリフは怪訝な顔をして枝を見、それからシュバイツを見た。


「……落としたぞ?」

「もう必要ない」


 それで少し会話が途切れた。二人は黙ったまま歩いて行った。

 やがてシュバイツが口を開く。


「怒らないな」

「……俺がか?」

「ああ。イシュメールとしてお前たちと共にいた記憶はある。俺はお前の娘をひどい目に遭わせた張本人だぞ? 随分な子煩悩だと思っていたが、そうでもないのか?」

「怒ってるさ。君を殺せばアンジェが戻って来ると言うなら、刺し違えてでもそうするつもりだ」

「ほう」

「……だが、俺はアンジェを連れ戻しに来た。君を殺しに来たわけじゃない」


 ベルグリフは嘆息した。


「君のして来た事には同意も理解もできない。ただ、皮肉だけど……君がいなければ俺はアンジェに会えなかったわけでもある。サティの苦しみも分かっている筈なのに……自分の勝手さに少し嫌気が差しているよ」


 シュバイツは声を上げて笑った。


「まったく、おかしな奴だ。お前のような奴は珍しい。身を挺して娘を助けに来るのに、その娘を苦しめた原因に怒りをぶつけないとはな」

「……君の目的は、本当にここに来る事だけだったのか?」

「そうだ」

「俺にはその方が余程変な事のように思うよ」


 ふと気づくと、空と地面に境目が出来たように思われた。果てのない地平線が広がって、頭上にはいつの間にか星が瞬いている。だが目を凝らしても、見覚えのある星座の形は一つもなかった。


 やがて遥か向こうに薄ぼんやりとした光が見えるようになって来た。二人はそれを目当てにひたすらに歩を進めた。

 地面は硬くも柔らかくもないが、歩き続ければ疲労は溜まる。少し足がくたびれた頃、段々と光が近づいて来て、光を放っているものの輪郭もうっすらと分かるようになった。


「……木?」


 ベルグリフは目を細めた。

 それは確かに木であった。枝葉を伸び伸びと広げた林檎の木だ。それが木全体から淡い光を放っている。虫食いなどまったくない青々とした葉が沢山茂り、真っ赤な実をたわわにぶら下げている。

 その根元に誰かがいるのが見えた。黒髪だ。アンジェリンだろうか、と思ったが、そうではないらしい。

 シュバイツは迷いのない足取りで木へ歩み寄って行く。ベルグリフは警戒しながらもその後に付いて足を速めた。


 座っていたのは艶のない黒髪を地面に付くくらい伸ばし放題に伸ばした男だった。分厚いローブを着て、木に寄り掛かるようにして根元に腰を下ろしている。片手に持った林檎の実をボールのように放っては受け止めていた。

 黒髪の男は顔を上げて近づいて来る二人の方を見た。まだ若い。眠たそうな目をしているが、その奥の眼光は鋭かった。


「おや……嫌に客の多い日だ」

「ソロモンか。この先には何がある?」


 シュバイツが言った。

 ベルグリフは驚いてシュバイツを見る。

 黒髪の男は怪訝そうな顔をした。


「んん? 僕を知ってるのか。誰だお前は?」

「シュバイツ。魔法使いだ」


 ソロモンは放り投げた林檎をぱんと受け止めて、面白そうな顔をした。


「ははん、魔法使い。下で見るものがなくなってここに来たってトコだな」

「分かるのならば話が早い」

「期待して来て悪いけど、ここには何にもありゃしないよ」

「ほう」

「信じてない顔だな」

「ここには、という事はもっと先がある筈だ」

「ちぇ、嫌な奴だ。僕の嫌いなタイプだな」


 ソロモンはそう言って、林檎に息を吐きかけてローブの袖で拭き始めた。


「本当に先を見たいか? ここみたいに整った世界じゃないよ?」

「構わん」

「物好きめ。好きにしろ」


 ソロモンはぱちんと指を鳴らした。

 ベルグリフはハッとして剣の柄に手をやった。シュバイツの右腕がまるで土塊のようにぼろりと崩れた。

 シュバイツは一瞬驚いたようだったが、すぐに笑い始めた。


「これはいい! まだ知らないものが見られる!」

「……昔の僕並みの馬鹿だ」


 ソロモンが呆れたように呟いた。

 シュバイツはベルグリフの方を見た。ローブの下から覗いた顔は、確かにイシュメールのものだった。


「さらばだ“赤鬼”。もう二度と会う事もあるまい」

「――ッ! おい!」


 ベルグリフは思わず手を伸ばした。しかしシュバイツの体はぼろぼろと崩れて粉々になり、それも細かく宙に霧散して消え去った。後にはシュバイツの笑い声だけが木霊のように残っていたが、やがて小さくなり、消えた。


 しん、とした。ベルグリフは呆気に取られて立ち尽くしていた。

 ソロモンは磨いた林檎を脇に置き、また新しい林檎を手に持って磨いている。それから目だけベルグリフの方にやった。


「で、お前は?」

「……ベルグリフといいます」


 ソロモンはおやという顔をベルグリフに向けた。


「こっちは礼儀正しいな。そんな離れてないでもっとこっちにおいでよ」


 ベルグリフはそろそろと近づいた。

 何だか現実味がなかった。目の前の若者が、かつて魔王を生み出し、大陸の頂点に立ち、最後は時空の彼方に消えた異端の大魔導だという。それとなく腰の剣の柄に手を置いていたが、ソロモンから敵意は感じられなかった。

 ソロモンは磨き終えて光る林檎を見て満足げに頷いた。


「お前の友達は行っちゃったよ。形のない狂気の世界にね。色彩も音も感情も何もかもが肉体と同じように迫って来るんだぜ? 気がおかしくなるよ」

「……彼は友達ではありませんよ。言うなれば敵同士、だったんですが」

「敵同士? それが何で仲良く一緒に歩いて来たのさ」

「私は娘を探しに来たんです。彼とは進む方向が同じだっただけで」

「娘?」

「見ていませんか。あなたと同じ黒髪で」

「来たよ。通り過ぎて行った。でもありゃ僕の子供だ。お前の娘じゃないだろ」


 ソロモンはそう言って林檎を放り投げた。


「あの子らには可哀想な事をしたな。置き去りにして……今どうしてるか知ってる?」

「暴れています。あなたがここに去った後は、あなたが作り出したものを殆ど破壊したと聞いていますが」

「……そっか」


 ソロモンは林檎を受け止めて息をついた。


「それからどうなった? 世界は滅びた、わけじゃなさそうだな。お前が来たんだもの」

「彼らは主神ヴィエナに祝福を受けた勇者に討伐されたそうです」


 尤もその後も完全に破壊はされてはいないが、とベルグリフが言うと、ソロモンは懐かしそうに目を細めた。


「ああ、懐かしい名前だ……そうか。結局あの子が全部収めてくれたんだな。主神か。旧神の奴らはあの子以外は全部倒したからな」

「……?」


 話が呑み込めないベルグリフの前で、ソロモンは独り言のようにぶつぶつと呟いた。


「良い子だった。人間が好きで、戦いが嫌いだった。僕はあの子に笑っていて欲しかっただけなんだがなあ……どこで間違っちゃったんだろ」

「……あなたは大陸を力で支配したのでは?」

「そうさ。でもその前に人間を支配していた旧神どもを退治した。そりゃ喜ばれたよ。あの頃の人間たちは奴隷も同然だった。旧神の気分次第で虫みたいに殺されたし、ボードゲームみたいな感じで戦争をさせられてた。あの子だけは違ったけどね」


 ソロモンは林檎を向こうに放り投げた。林檎は地面を何回か跳ね、少し転がって止まった。


「人間が喜ぶと、あの子も嬉しそうだった。だから僕は色々頑張ったさ。でも便利になって来ると、皆どんどん調子に乗り出した。些細な事でいがみ合って、戦争まで始めやがった。あの子は悲しそうでね、何度も止めさせようとあちこちの王だの将軍だのを説得してた。でも駄目だった。僕はがっかりしたよ。何の為に旧神どもを倒したのか分からなくなった」

「それで、大陸を支配した……?」

「ああ。七十二も強力な子供がいたんだ。簡単だったよ。その後も楽ちんさ。逆らう者は力で押さえ付けた。誰も僕と子供たちには敵わなかったからね。それなのに、逆らう奴は後を絶たなかった……ま、全部殺したさ。だから戦争も起こらなかったし、人間同士で殺し合う事なんかなかった筈だ。僕が殺したのは反逆する悪人ばかり。でもあの子は笑ってくれなかった。段々すれ違って、分かってくれないあの子にイラついたよ。僕はあの子の為にやったのに!」


 ソロモンは両手で頭を掻きむしった。髪の毛がばさばさと乱れる。


「いつしか人間たちは僕を敵視した。旧神から解放してやったのに! あの子も僕の元を去って行った。子供たちだけは僕の味方だったが、当たり前だ! 僕が僕自身を慕うように術式を組んで生み出したんだから。所詮は作り物、まがい物だ! 結局誰も僕を理解してくれなかった。それで、僕はもう全部がどうでもよくなったんだよ。そうしてここに逃げた。それっきりさ」


 ソロモンは熱に浮かされたようにまくし立てると、ベルグリフを見た。瞳に狂気の色が宿っていた。


「なあ、どう思う? 僕はどうすればよかったと思う? 僕は間違っていたのか?」

「……もう分かっているのではないですか?」


 ベルグリフは静かに言った。

 ソロモンはびくりと硬直した。ジッとベルグリフを見つめる。ベルグリフは動じる事なくそれを見返した。

 段々とソロモンの瞳から狂気の色が薄れ、やがて肩を落として目を伏せた。


「……そう、だな。本当は分かっているのに、分かりたくなかったんだ。分かってしまうのが怖かった……」


 ソロモンは膝を抱いて黙ってしまった。ベルグリフは周囲を見回して、言った。


「ここに来たという娘は、どこに?」

「……見つけて、どうするんだ? 確かに人間になっていたけど、半分は僕が作った時の状態に戻ってたぜ。連れ帰れると思ってるのか?」


 ベルグリフは黙ったままジッとソロモンを見た。ソロモンは居心地悪そうに口をもぐもぐさせた。


「……あの子が娘だって言ったな? 育てたのか?」

「ええ。小さな時から」

「大事か?」

「何にも代えがたい宝物です」

「……僕が作ったホムンクルスなのは間違いないぞ? まがい物の魂だ。それでもか?」

「あの子はまがい物なんかじゃない」


 ベルグリフはソロモンを睨み付けた。


「俺の娘、アンジェリンだ」


 ソロモンは俯いていたが、やがて腕を上げ、そっと一方向を指さした。


「……行けよ。あっちだ」

「ありがとう」


 ベルグリフはマントを翻した。

 数歩歩いた所で、後ろからソロモンの声がした。


「なあ」


 振り向くと、ソロモンがもじもじした様子でベルグリフを見ていた。


「……親は、子供の幸せを願うもんだよな?」

「少なくとも、私はそう思っています」

「……そうか」


 ソロモンはそう言うと、木に寄り掛かって目を閉じた。


「アンジェリン、か……良い名前だ」


 ベルグリフは小さく会釈して踵を返した。

 空には星が瞬いている。早足で歩いて行った。次第にソロモンと林檎の木は遠くなり、やがて光も見えなくなった。

 気が付くと、空に真っ黒な雲がかかり始めていた。微かに生ぬるい風が吹いて来て頬を撫でた。

 向かう先に黒い靄が立ち込めている。息をひそめていた幻肢痛がずきずきと疼き始める。


「アンジェ……」


 ベルグリフは呟いた。近づくほどに、ない筈の右足の痛みは増して行く。

 それでも歩みを止めずに進んで行った。靄が体を包む。



  ○



 アンジェリンはうずくまり、頭を抱えていた。怯えて縮こまる小さな子供のような格好だ。その手足はもう影法師のように黒くなり、その黒が這い上がるようにして顔の方まで侵食して来ていた。

 周囲では嵐のようにごうごうと風が吹き荒れ、黒い靄が渦を巻くようにして彼女を取り巻いていた。


「うぅううぅ……」


 ――お前のせいだ。お前がいなければ、誰も苦しまずに済んだ。


 そんな声が、ずっと頭の中で叫び続けていた。パーシヴァルが、カシムが、サティが、そしてベルグリフが、自分を指さして責めているように感じた。


「お父さんは……お父さんはそんな事言わない……」


 自分でも無意識に口からこぼれる。しかしそれが耳に入るや、心の中では別の声が叫び出す。


 ――何がお父さんだ。足を奪って、本来あるべき未来を奪った癖に。


 そして、何食わぬ顔で娘面して潜り込んでいた癖に。

 まるでカッコウの托卵だ。寄生して、育ててもらい、何食わぬ顔で愛を奪う。カッコウは卵を落とすが、自分はベルグリフの未来を奪っていた。


 もし冒険者を続けていられたら、きっとあの四人は幸せだったろう。名のある冒険者としての人生が待っていた筈だ。

 カシムは厭世観に捉われて悪事に手を染める事もなく、パーシヴァルは憎しみに溺れて戦い続ける事もなく、サティは悲しい別れを繰り返さずに済んだだろう。ベルグリフだって、その方が良かったに決まっている。


 アンジェリンは歯を食いしばった。自分を責め立てる声は止む事なく頭の中に響いている。

 かつてボルドーで影法師と戦った時、頭の中に響いた声もした。


 ――オマエモオナジダ!


「嫌だ……嫌だよう……」


 ぼろぼろと涙がこぼれる。助けて欲しかった。しかし助けを求める資格などないと思った。


 どうして、生まれて来てしまったんだろう。

 どうして、幸せなど求めてしまったのだろう。


 いよいよ、顔全体が影法師と同じになった。影法師が服を着ているといった風だ。目も鼻も口も分からない。それなのに、目のあった場所からは涙がこぼれている。


 早く魔王になってしまえ。そうして全部忘れてしまえ。


 自分にそう言い聞かせるのに、そんなのは嫌だと嘆く自分もいる。自分を責め立てる声、呼ぶような声も響いている。おかしくなりそうだ。


「ううぅう……」


 うめき声が漏れた。もう自分の声ではないようだった。

 頭がぼんやりとして来る。アンジェリンとして過ごした温かな日々の思い出が、次々と浮かんで来ては、溶けるように消えて行く。


 ああ、これで忘れられる。


 安堵した。ようやくアンジェリンじゃなくなれる。それなのに、助けを求めて嘆き続ける心が邪魔をする。だがそれも時間の問題だ。思い出と同じで、やがて溶けて消えるに決まっている。

 あと少し。


「アンジェ」


 風の音の向こうからベルグリフの声が聞こえた。

 心臓が跳ね上がった。幻聴ではない。確かに耳に届く声だ。

 顔を上げた。吹き荒ぶ風の向こうに、人影が見えた。


 ――どうして?


 静まりかけていた心が再び波立って暴れ出す。どうしてこんな所まで来たの? どうして忘れさせてくれないの?

 ざわつく心を押さえるようにアンジェリンは立ち上がった。


「アンジェ、そこにいるのか?」


 ――来ないで!


 叫んだ。しかし声が出た、というよりは空間そのものが振動したようだった。

 それでも、風の向こうの人影は一歩ずつ歩み寄って来た。アンジェリンはよろめきながら後ろに下がる。今すぐにでも駆け寄ってすがり付きたいのに、逃げたい。


「……帰っておいで。お前の居場所はこんな暗い所じゃないだろう?」


 よろよろとした足取りで逃げる。


 ――わたしにそんな資格なんかない!


 叫んだ。


 ――だからもう放っておいて!


 懇願にも似た叫びだった。人影は足を止めた。しかしもう随分近くにいた。ベルグリフはアンジェリンを見つめていた。

 赤髪が揺れている。アンジェリンを見る目はあくまで優しげだ。それがアンジェリンには余計に辛く、胸を貫かれるようだった。


 全部分かったのに、全部自分が原因なのに、どうしてそんな風な目でわたしを見る事が出来るんだろう、と思った。涙が溢れて来て止まらない。


 ――お願い。帰って。


 アンジェリンは両手で顔を覆った。


 ――皆、わたしのせいで傷ついた。愛される資格なんかない。ただ辛いだけ。わたしなんか……生まれて来なければよかった。


 ベルグリフはそっと口を開いた。


「なあ、アンジェ」


 アンジェリンはびくりと体を震わせる。


「まだお前が小さかった時、一緒に夜の散歩に行ったね。お月様が綺麗で、夜露がきらきら光ってた。お前は早足で先に行って、夜露でズボンの裾がびっしょり濡れてた」


 アンジェリンは胸を押さえた。溶けて消えた筈の思い出が、またはっきりと浮かび上がって来た。


「夜中に目を覚まして……一緒に温かい山羊乳を飲んだ時もあったな」


 ベルグリフはそっと足を前に出した。一歩、近づく。


「怖い夢を見たって言ってたな。一人ぼっちで、真っ暗で、怖かったって」


 お父さんはどこにも行かないよ、と記憶の中のベルグリフが微笑む。アンジェリンは耳を押さえるようにして膝を突いた。


 ――やめて、やめて。


「お前がオルフェンに旅立つ前、お父さんは約束した。世界中の人が敵になっても、お父さんは絶対にお前の味方だって」


 ――やめて!


「アンジェ……生まれて来てくれてありがとう。お父さんの所に来てくれて」


 ベルグリフがもう目の前にいた。そっと両腕を広げている。


「帰っておいで」


 アンジェリンは身悶えした。父親を求める心と、拒絶する心とが激しくぶつかり合った。息が詰まる。苦しい。


 ――嫌だ、嫌だ! 来るな!


 突き飛ばそうと、両手を前に出した。しかし自らの意思に反して、影法師になったそれは、槍のように細く鋭く先端を尖らせていた。

 ずぶり、と生温かい感触がした。右手の先がベルグリフの脇腹を貫いていた。


 ――あ、あ、あ……。


 ずるりと腕を抜いた。血がべっとり付いている。がくがくと膝が震える。また傷つけてしまった。自分を責める心の声が一層高まり、頭の中を覆い尽くす。

 やっぱり、やっぱり、やっぱりわたしは駄目だ。駄目なんだ。この人と一緒にいる資格なんかないんだ。


 だが、そっと背中を大きな手がさすった。響いていた声がたちまち小さくなる。驚いて顔を上げた。

 ベルグリフは微笑んでいた。苦し気な表情など一切なかった。


「大丈夫だ、アンジェ。もう大丈夫」


 そっと抱き寄せられて、頭を撫でられる。ごつごつした手の平だ。鍬と剣とを握り続け、幾度も自分を抱き上げてくれた、大好きな手だ。


 ――あ、あああ、ああ。


 ぼろり、とアンジェリンの顔から黒いものが剥がれた。白い肌が覗く。それを皮切りに、体を覆っていた影が吹き払われて行く。


「あああああああ……」


 涙が溢れて来る。

 ベルグリフはアンジェリンを抱きしめて、愛おし気な手つきで髪の毛を撫でた。


「……辛かったな。よく帰って来た」

「ああ、ああ……」


 胸の中は温かかった。物心つく前から親しみ続けて来た温もりだ。体中から力が抜ける。


「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……」

「いいんだよ、アンジェ。いいんだ」

「許して、くれるの……?」

「最初から許してる。何もかも」

「わたし……わたし……」


 ここにいてもいいの?


「当たり前じゃないか。お前は、お父さんの娘なんだから」


 ベルグリフはアンジェリンの髪の毛を梳くように撫でた。


「うっく……ぐすっ」


 アンジェリンは鼻をすすった。

 お父さんはお父さんだったんだ。今までも、これからも。

 顔を上げる。ベルグリフはそっと頬に手を当ててくれた。


「そんな顔は似合わないぞ?」

「――ッ!」


 アンジェリンは涙でくしゃくしゃになった顔で、無理矢理に笑顔を作った。

 何と言えばいいだろう?

 そうだ。帰って来たら、こう言いたかった。

 ずっと、言いたかった。


「ただいま……お父さん!」


 ベルグリフはにっこりと笑った。


「おかえり、アンジェリン」


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