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一五二.急に風が冷たくなって


 急に風が冷たくなって、上の方から吹き下ろして来るようになったと思ったら、唐突に幻肢痛が鎌首をもたげて来た。山道を歩いていたベルグリフは驚いて膝を突く。ない筈の右足が焼けるように痛み、いくら義足を握り締めてもどうにもならない。

 額に脂汗が滲んだ。こんなに痛むのは久しぶりだ。心臓の音が大きくなり、顎の骨が痛くなるくらい歯を食いしばった。


 木々の間を縫うように、冷たい風が吹き下ろして来た。風花すら交じっているらしく、肌に冷たくまとわりつく。


「ぐ、う……」


 食いしばった歯の隙間から苦悶の声が漏れた。一秒が一時間にも感じる。風が冷たく吹き荒ぶのに、体は燃えるように熱い。


 やがて痛みが引いた。時間にすれば数十秒の出来事だったが、ベルグリフには数時間にも感ぜられた。

 解放された、というように、詰まっていた息が通るようになった。しかしあまり深くはならず、胸の浅いところで何度も短い呼吸が繰り返された。


「一体何が……」


 ベルグリフは顔を上げた。汗を掻いた分、風が余計に冷たかった。

 頭上の空には雲が立ち込めている。山を越えて北から下って来たらしい。それが冷たい空気を運んで来た。風花は次第に量を増し、もう雪と言っていいくらいになった。


 もう少し上まで行くつもりだったが、これでは無理だ。嫌な予感もするし、ただちに下らねばならない。ベルグリフは籠を背負い直した。


「妙だな……こんなに突然変わる筈が」


 自然の事だから絶対はないが、それでも長年の経験から、この時期に急激に天気が変わる事は異常だと思えた。

 再び真珠色の空を見上げると、ふとその中にぽつんと白いものが浮かんでいるのが見えた。真っ白な髪の毛が風にたなびいている。


「冬の貴婦人……?」


 浮かんでいたのは冬の大精霊だった。彼女が下って来たからか、と一応納得はできた。しかし、初夏に一度現れたのに、こんな短期間に彼女が来るのはおかしい。やはり異常事態かと思う。


 冬の貴婦人は麓を眺めていた。ただ冷たい空気に乗って旅をするだけの彼女が、明らかに何か目的を持ってここに来たらしい事が何となく窺えた。


 村で、あるいは村のすぐそばで何かが起こっている。

 ベルグリフは逸る気持ちを抑えつつ、それでも足を速めて道を下って行った。



  ○



 暑くはない筈なのに、じっとりと汗を掻くような心持だった。確かに死体を確認した筈の顔が、目の前で笑っている。


 アンジェリンは唇を噛んだ。

 まさか死霊魔術だろうか。偽皇太子もそれが得意だったし、シュバイツが使えてもおかしくない。いや、しかし死んだ自分を自分で生き返らせる事など出来るだろうか。そんな馬鹿な話はない。

 だがそんな荒唐無稽な話でなければ、目の前の事が説明出来ない。それでも納得など出来そうもなかった。


 分からない。ただ剣を構えて睨む事しか出来ない。他の三人も同じらしい。

 目の前に立っているのはイシュメールだ。眼鏡はかけていないが、少なくとも見知ったイシュメールの顔だ。

 しかしそれはシュバイツだったと確認した。使う魔法も然り、マリアの言然りだ。

 それなのに、自分でとどめを刺した筈の相手は、嘲笑ではない親し気な笑みを浮かべてこちらを見ている。


「……どういう事だ?」


 アンジェリンは言った。シュバイツは肩をすくめた。相変わらず笑顔だ。


「見たものだけが事実だろう」

「だったらお前は死んだ筈だ!」


 怒鳴った。混乱する心を無理矢理に押さえつけるような心持だった。シュバイツは手に持った林檎の枝の先をアンジェリンたちに向けた。


「焦るな」


 前に出かけていたマルグリットが動きを止める。魔法で止められたわけではないようだ。マルグリットの額にも汗がにじんでいる。そっとアンジェリンに囁いた。


「……やばいぞ。オルフェンで戦った時より嫌な感じがする」

「うん……油断しちゃ駄目」


 アンジェリンも剣を構え直す。しかし隙がない。その上プレッシャーがのしかかって来る。まるでグラハムでも相手にしたかのような重圧感だ。

 北側から冷たい風が吹き下ろして来た。風花交じりで、肌に刺すように冷たい。空はどんよりと曇って、陽の光がすっかり遮られてしまった。


「……ずっと、わたしたちを騙してたの?」


 アンジェリンは口を開いた。シュバイツは笑ったまま、もう片方の手で自分の頬を撫でた。


「この顔か。こいつ自身は騙してなどいなかっただろう」

「……? 意味が分からない。出鱈目言ったって無駄」

「あのエルフに聞いていないのか? 疑似人格の事を」

「知らない」


 シュバイツはくっくっと笑った。


「あの女は思ったよりもお前を信用していないのかも知れないな」

「そんな事ない!」


 歯噛みした。疑心暗鬼を誘おうったってそうはいかない。アンジェリンは剣の切っ先をシュバイツに向けた。


「……こんな所まで来て、今度こそやっつけてやる。ここは皆いるんだぞ。パーシーさんもカシムさんも、おじいちゃんも。お父さんだっている。逃げられないぞ」

「元より逃げるつもりなどない。それが目的だった」


 シュバイツはそう言って、林檎の枝を軽く揺らした。

 さっきから、あの枝を見ていると胸の奥が苦しくなって来る。もう何か魔法を使われているのだろうか。ただ立っているだけなのに、息が荒くなって来るような心持だ。そのせいか感情まで荒々しくなって来るような気がする。


「俺に裏切られるのは辛かったか?」


 シュバイツが言った。アンジェリンは眉をひそめる。


「裏切りじゃない……騙された。お前に」

「そうか。そうかも知れん。しかし、お前にそんな事を言う資格があるか?」

「なんだと……ッ! わたしが誰を騙したって言うんだ!」


 声を荒らげるアンジェリンを、アネッサが制した。


「落ち着けアンジェ。向こうのペースに乗るな」

「そうだよ。それに、あんなおかしな気配を振り撒いてたら、もうじき」


 ミリアムが杖を構えながら囁いた。

 果たして誰かが駆けて来る音が聞こえて来た。


「おいおい、どういう事だ?」


 パーシヴァルが怪訝な顔をして横に立った。見るとカシムにグラハム、サティもいる。ビャクまで一緒だ。


「アンジェ、平気?」とサティが言った。

「お母さん……ごめん。シュバイツ、死んでなかった」

「うん、大丈夫だよ」


 サティは微笑んでアンジェリンの背中を軽く叩いた。ビャクが憎々し気な顔をしてシュバイツを睨み付けた。


「あの野郎……!」


 シュバイツはにっこりと親し気な顔で笑った。


「事象は集束しつつある、が。“赤鬼”はどうした?」

「イシュメール。てめえ、死んだって聞いたぞ」


 パーシヴァルがじろりとシュバイツを睨み付けた。


「イシュメールなどという男は初めから存在しない」


 シュバイツは素っ気なく言った。

 カシムが困ったような顔をして山高帽子をかぶり直した。


「じゃ、やっぱシュバイツってわけか……お前、なんか雰囲気変わったなあ。帝都で戦った時よりやばい感じだぜ」


 グラハムの聖剣が今までになく凶暴な唸り声を上げている。それを握るグラハムも厳しい表情のままシュバイツを見据えて動かない。


 Sランク冒険者をこれだけ前にしても、シュバイツは顔色一つ変えていない。

 こちらの実力を知らないわけはないだろう。だからこそ不気味であり、また、アンジェリンたちを容易に動かさないだけの奇妙な威圧感があった。

 アンジェリンはそっとサティに言った。


「お母さん……あいつが言ってたけど、疑似人格って?」

「疑似人格……そっか、多分それで死んだふりをしたんだね」


 疑似人格の魔法は、多くの場合死をトリガーにして偽の体を分解し、本来の姿に戻る。

 しかし魔法である以上術式次第でそれは制御できる。死の瞬間ではなく、例えば死から数時間後であるとか、埋葬されてから、すなわち死体の周囲の空間の広さなどを設定しておけば、そのようなタイミングで元の姿に復活出来るという。


「自分の死んだ後だから、ギャンブルに近い部分もあるけど……あいつは上手くやったって事だね。相変わらず抜け目のない……」


 サティはそう言いかけて、ふとシュバイツの右手に目を留めて息を呑んだ。


「なんで……なんでそれを持ってるの」

「……お母さん?」


 アンジェリンはちらとサティを見た。蒼白になっている。

 シュバイツはくっくっと笑って、手に持った林檎の枝を軽く振った。


「お前如きに破壊できたと思ったか?」

「砕いて、魔力も全部放出させた筈……確かに枯らした筈!」

「甘いな。ソロモンの力はお前などの手に余る。いっそ利用してやればよかったのに……出来なかったのだろう? 呑まれそうになって」


 サティはくっと唇を噛んでシュバイツを睨み付けた。カシムが目を細めた。


「もしかして、君が言ってたソロモンの鍵って、あれ?」

「……うん」

「え、嘘……本物?」


 アンジェリンは息を呑んだ。まさかあれがソロモンの鍵だなどとは思いもしなかった。オルフェンで実際に手に取って間近で見もしたのに。

 サティが悔しそうに呟いた。


「ごめん、アンジェ。きちんとわたしが話を出来ていれば……」

「お母さんのせいじゃないよ」

「ふん、俺たち相手に平然としてんのはあれがあるせいか」


 パーシヴァルは剣先をシュバイツに向けた。


「一々する事が回りくどいんだよ。テメエの目的は何なんだ?」

「今に分かる」

「ふん、喋るつもりはないか。だが、お前を倒せば全部終わりだ。のこのこ出て来やがって、後悔させてやるよ」


 シュバイツはふっと笑うと、林檎の枝を一振りした。途端に空間が歪む程の衝撃波が向かって来た。

 パーシヴァルは目を剥いて前に出、剣で真正面から受け止めた。パーシヴァルの剣気と衝撃波とがぶつかり合い、それが周囲に弾けて烈風となり吹き荒れる。


「小手調べか? 舐めやがって!」


 烈風をものともせず、パーシヴァルは剣を構えたまま前に駆けた。シュバイツはまた枝を振った。


「フロウラス」


 すると、シュバイツの影からずるりと人型の黒いものが起き上り、パーシヴァルの剣を受け止めた。

 顔の部分にぎょろりと二つの目が開いた。上半身は人間の形だが、腰から下は四足の獣の形をしている。しかも上半身も腕が四本あった。


 影法師は二本の手でパーシヴァルの剣を受け止めたまま、残りの腕をパーシヴァルに振り下ろした。

 パーシヴァルは強引に剣を引いてそれをかわすと、距離を取った。


「魔王か……?」


 剣を構え直したパーシヴァルの頭上を越えて、砂色の立体魔法陣が流星のようにシュバイツ目掛けて降り注いだ。しかし影法師が腕を振ってそれらを打ち払ってしまう。


 ビャクががくりと膝を突いた。息が荒く、苦しそうだ。それでいて目だけはぎらぎらと光っている。

 立体魔法陣が幾つも浮かび上がった。髪の毛が所々黒く染まっている。アンジェリンは慌ててビャクの肩を抱いた。


「ビャッくん、無理しちゃ駄目……」

「くそ……なんだ、おかしい……出て来るな……!」

「ボティス」


 シュバイツがまた枝を振った。新しい影法師が立ち上がる。蛇のように長い体をうねらせている。


「邪魔くせえ!」


 パーシヴァルが再び前に飛び出す。蛇の影法師が迎え撃った。激烈にパーシヴァルとやり合う。ソロモンの鍵の力なのか、影法師の力はかなり増しているようで、パーシヴァルをして互角に打ち合うに留めるだけの実力があるようだ。


「カイム」


 シュバイツがそう言って、ビャクに枝を向けた。


「ぐ――ッ!?」


 ビャクが苦し気にうずくまった。髪の毛が真っ黒に染まって行く。浮かんでいた砂色の立体魔法陣が溶けるように消えて行き、服の袖が破れ、手が獣のもののように変わった。鋭い爪先はまるで鳥の鉤爪だ。腕や顔には毛とも羽ともつかぬ黒いものが生えている。


「ビャッくん!?」

「がぁアアあァああアあ!!」


 ビャクは唸り声を上げて、アンジェリンに飛びかかった。アンジェリンは慌てて剣で受け止める。


「やめろ、この馬鹿!」


 アンジェリンの後ろからマルグリットが飛び出して来て、ビャクを蹴り飛ばした。ビャクはすっ飛んで行ったが、受け身を取って獣のように四つん這いになる。


「ぐう、う……やメ、ろ、出て――があアァああぁアッ!」


 ソロモンの鍵によって魔王の魂が呼び起こされたのだろうか。ビャクは必死に抵抗しているらしいが、それでも体が言う事を聞かないらしい、再び爪を振りかざして襲い掛かって来た。


「この馬鹿はおれが止めとく! シュバイツを何とかしろ!」


 マルグリットが怒鳴り、剣を構えてビャクを迎え撃った。

 風花は雪に変わっていた。冷たい風が渦を巻くように吹き荒れていた。


 サティがとんと地面を蹴った。


「アンジェ、右から!」

「分かった!」


 アンジェリンも即座に動く。

 サティは左側、アンジェリンは右側で、シュバイツを挟むように陣取った。目だけで合図して同時に地面を蹴る。


「エリゴール」


 シュバイツがまた枝を振った。今度は鎧を着た騎士のような形の影法師が立ち上がって来た。そうして四つ腕の影がサティの見えない剣を受け止め、鎧の影法師がアンジェリンの剣を受け止めた。サティが舌を打つ。


「くっ、いつの間にこんなに……」

「! お母さん、下がって!」


 影法師と数合やり合ったアンジェリンは叫ぶと同時に飛び退った。サティもすぐに後ろに下がる。

 シュバイツの頭上でミリアムの『雷帝』が轟き、一筋の雷が落ちて来る。しかしシュバイツは枝を頭上に掲げて一振りした。雷はシュバイツに到達する前に掻き消えた。

 しかし間髪を入れずにカシムの魔法が飛んで来る。らせん状に渦を巻き、破城槍のような鋭さで一直線にシュバイツに向かった。『ハルト・ランガの槍』だ。


「流石だ」


 シュバイツは口でそう言いながらも、枝を前に出す。Sランク魔獣をも貫く筈の大魔法は、枝を貫く事なくその中に吸い込まれて消えてしまった。

 そうしてさっとそのままシュバイツは枝を振る。魔法に隠れて幾本も飛んで来ていた矢の先端にぽんと花が咲いたと思うや、柔らかくシュバイツの体に当たった。無論傷つける事などない。

 アネッサが歯噛みした。


「なんて奴だ……」

「とんでもない奴にとんでもないもんが渡っちゃったもんだね」


 カシムが困ったように肩をすくめた。

 しかしまだ、とそれぞれが攻撃の準備をしかけた時、グラハムの声がした。


「下がれ」


 重厚で、叫んだわけでもないのに腹の底に響くようだった。アンジェリンとサティは勿論、蛇の影法師とやりあっていたパーシヴァルも即座に後ろに引く。

 グラハムが大剣を振りかざして一歩踏み出した。シュバイツの顔色が変わった。


「来るか、“パラディン”」


 三体の影法師がシュバイツを守るように前に立ちはだかる。聖剣は凄まじい唸り声を上げた。

 グラハムは踏み込むと同時に大剣を振り下ろした。剣から光の奔流が衝撃波となって迸った。爆発するようだった。それは影法師を飲み込み、まとめて粉々に打ち砕いた。


 マルグリットとやり合っていたビャクの動きが止まる。がくんと膝を突いて、うつ伏せに倒れた。爪や羽毛が消え去って行く。


「見事だ」


 シュバイツの声がした。影法師は三体とも消え去ったが、彼は無事だったようだ。しかし左腕が肩の所からなくなっている。避けきれたわけではなさそうだった。

 グラハムは聖剣にもたれた。息が上がっている。一振りに全力を込めたようだった。

 アンジェリンが即座に飛び出した。


「今度こそ……とどめッ!」


 アンジェリンの剣が突き出された。シュバイツは小さく体を動かす。剣は肩を深々と貫いた。心臓を狙ったのに、とアンジェリンは舌を打つ。


「待っていた」


 シュバイツが言った。

 アンジェリンはハッとして後ろに下がろうとした。

 しかしそれより前に枝の先端がアンジェリンの胸を軽く突いた。


 とくん、と心臓が鳴った。


「え、あ……」


 力が抜けた。ずるりと剣を抜いて、ふらふらとよろめいて一歩二歩後ろに下がる。シュバイツは冷たい目でアンジェリンを見据えていた。


「アンジェ?」

「おい、どうした?」


 パーシヴァルとカシムの声がした。アンジェリンは振り向いた。持っていた剣が手からするりと抜け、地面に落ちた。


「あ、ああ……」

「アンジェ!? しっかり!」


 サティが駆け寄って来る。

 閉ざされていた何かが開かれたようだった。しばらく苦しめられた悪夢。忘れていた筈のそれが、濁流のようにアンジェリンの頭の中を埋め尽くす。


 すべてを諦めていたカシムの目。

 憎しみとやるせなさに覆われていた血まみれのパーシヴァルの姿。

 絶望に嘆いていたサティの背中。

 それが目の前の現実の彼らと重なる。

 そして、もっと奥に秘められていた記憶、それがありありとアンジェリンの胸中に浮かび上がった。


 不意にパーシヴァルが目を見開いた。カシムも驚いたように身を乗り出した。サティも足を止めて驚愕に口をぱくぱくさせている。

 アンジェリンの足元の影が質感を持って浮かび上がっていた。それは確かに四足の獣の姿だった。隆々とした体躯の狼のように見えた。それがアンジェリンを包むようにして揺れていた。


「わたし……わたし……」


 アンジェリンは口の中に血の味を感じた。目から涙が溢れて来た。サティがぜえぜえと息をしながら胸元に手を当てる。


「まさか、そんな……」

「嘘だろ……」

「な、なんだよ! どうしたんだよ!」


 状況が呑み込めていないらしいマルグリットが慌てたように言った。

 パーシヴァルが険しい顔をして口を開いた。


「忘れもしねえ……あの魔獣だ。あの狼みたいな影法師が……ベルの足を奪ったんだ」

「え……?」

「そんな……嘘でしょう!? アンジェがその魔獣だって言うんですか!?」


 ミリアムとアネッサがアンジェリンとパーシヴァルとを交互に見た。


「……信じたくないけど、本当だよ」


 カシムがそう言って山高帽子を傾けた。パーシヴァルが頭を掻きむしる。


「馬鹿な、馬鹿な……ッ! それじゃあ俺は、どうすればッ――!」

「アンジェリンなどという人間はいなかった」


 シュバイツが冷たい声で言い放った。アンジェリンは振り向く。


「違う……わたしは、わたしは確かに……」

「足を奪い、過酷な運命を与えておいて、まんまと愛だけせしめようとしても無駄だ。お前は彼らを騙していた。とんだ裏切り者だ」

「違う、わたしはッ――!」

「アンジェ!」


 ハッとした。声のした方を見た。

 降り荒ぶ雪の向こうに、赤髪がなびいているのが見えた。ベルグリフが走って来ている。しかし苦しそうだ。右足を庇うような足取りから、きっと幻肢痛が襲って来ているのだろう。

 胸を押さえた。心臓が激しく打つ。


 物陰に身をひそめていた。

 獲物の気配が近づいた。騒がしい話し声。四人組の足音。

 枯草色の髪の毛が見える。その後ろの赤髪も。


 ――わたしが、あの足を奪った。


 後ろ足を踏ん張る。飛びかかって、命を奪う。

 肉を食らい、血をすする。その為に。


 ――あの右足を食いちぎった時の、生温かい血の味。うまかった。


 飛び出した。洞窟の生ぬるい空気が顔を撫でて行く。

 牙を剥き、口を開ける。


 ――違う。おいしくなんかない。


 驚いた顔が見えた。反応しきれないようだった。

 それでいい。大人しく殺されればいい。

 大人しく食われればそれでいい。


 ――うまかった。もっと食いたかった。


 後ろから誰かが飛び出して来た。一番前のを押しのけて。

 だからそいつに食らいついた。

 右足にかじりついて、思い切り口を閉じる。牙が肉を裂く。


 ――そんな事ない。わたしはそんな事思わない。


 口いっぱいに血の味がする。うまい。


 ――もっと殺したい。殺して、食べたい。


 赤髪は身をよじって抵抗した。頭を押さえられた。

 だがそんなもので止められない。

 唸り声を上げ、強引に頭を動かして、足を食いちぎった。うまい。

 血の味が満ちる。


 ――違う。食べたくない。そんな事は望んでない。


 血が溢れる。もう一口。

 こいつを食い尽くしてもまだ三匹もいる。なんて嬉しいんだろう。

 しかし、赤髪が何か巻物を開いた。四人の姿は薄くなって、掻き消えた。

 口の中に血がいっぱい。鼻の奥には臭いがこびりついている。

 うまい。でも物足りない。


 ――ああ、でも。否定しても事実は事実だ。


「……わたしが、全部の原因だったんだ」


 カシムが悪事に手を染めたのも、パーシヴァルが自らを傷つけるように戦いに身を投じ続けたのも、サティが悲しみと絶望を繰り返したのも。自分がベルグリフの足を奪い去ったからだ。

 そしてベルグリフも、足を失ってどれだけ苦しかっただろう。口の中の血の味が、鼻の奥に抜けるその臭いが、記憶を鮮明に思い起こさせた。


「ぅうあ……あぁあああぁぁああ!!」


 アンジェリンは膝を突いて、両手で顔を覆った。

 どの面下げてベルグリフに会えるだろう。お父さんなんて呼べるだろう。そんな資格、自分にはない。


 アンジェリンを包む影法師が膨れ上がった。

 地鳴りのような音が響いて来る。竜巻のように風が巻き上がった。背後に見えていた空間が捻じれた。影法師がアンジェリンの背後で渦を巻く。渦の中心が少しずつ広がり、その奥に真っ暗な空間が見えた。

 アンジェリンとして生きた楽しい日々を思い出す度に、仲間たちや家族たちと過ごした温かな思い出が浮かぶ度に、却ってその罪悪感は増した。自分ばかりが幸せになっていたような気がした。


 ここにはいられない。いない方がいい。自分なんて、消えてなくなればいい。


 髪の毛がのたうつ蛇のように暴れた。

 三つ編みがほどける。前髪に付けていた髪飾りがぽろりと落ちた。


「ごめんなさい……」


 広がって来た漆黒の空間は、アンジェリンを飲み込んだ。アネッサが悲痛な声を上げた。


「アンジェ!」

「な、なに、あれ……」


 ミリアムが震えながら言う。


「事象流による空間の穿孔」


 シュバイツが呟いた。


「長い過去から流れて来た事象の流れは、ここで合流した。礼を言うぞ」

「テメエッ!」


 マルグリットが剣を構えて疾走する。しかし到達する前に、シュバイツも漆黒の空間へと消えて行った。流石にあれに飛び込むだけの勢いはなかったらしい、マルグリットは足を止めた。


「なんでだよ……なんでだよッ!」


 マルグリットは地面を殴りつけた。

 義足を引きずるようにしてベルグリフがやって来た。


「……何があった?」

「ベル君……」


 サティが涙でぐしゃぐしゃになった顔でベルグリフを見た。

 パーシヴァルは力なく地面に腰を下ろして俯いている。カシムは帽子を目深にかぶって腕組みしていた。ビャクはぐったりと地面に突っ伏して、荒く息をしている。

 アネッサはぼろぼろと涙をこぼしている。


「ベルざぁん……」


 ミリアムが泣きじゃくりながらベルグリフに抱き付いた。


「アンジェが……アンジェがぁ……!」

「……グラハム」

「……すまぬ。力不足だった」


 グラハムは震える手の平を見つめていた。全力の一撃でシュバイツを仕留められなかった事を悔いているようだった。


 ベルグリフは顔を上げた。まだあの空間は開いている。漆黒の闇が渦を巻いている。

 雪は少し弱まったようだ。


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