一四八.秋の夜は賑やかだ。村の外の
手直ししてたら遅くなってしまいました。
申し訳ない。
秋の夜は賑やかだ。村の外の平原では虫たちの歌声が夜中響いている。ランプを持って歩いて行くと、その光に向かって大小の羽虫たちが飛んで来て、顔や体に当たる。
夜露が降りていた。草を分けて行くと服が濡れ、ズボンの裾から覗く足首に冷たい。しかし十二歳のアンジェリンはそんな事は気にせずに草むらに分け入って行く。
「アンジェ、走ると危ないよ」
まとわりついて来る虫を手で払いながら、ベルグリフは言った。アンジェリンは振り返ってにへにへと笑った。
「えへへ……」
そのまま今度は駆け足で戻って来て、ベルグリフに飛び付いた。
「お星さま、きれい!」
「そうだなあ……」
ベルグリフは娘の髪の毛を撫でて、それからランプの火を吹き消した。あっという間に暗闇が二人を包んだが、満天の星々の下に黒い山の輪郭が残り、それから近くの草の形がぼんやりと見え始めた。
アンジェリンは目をぱちくりさせながら、ベルグリフの手を握り直した。
「さっきよりきれいに見える……」
「そうだろう? 他の明かりがなくなるとね、お星さまの光は強くなるんだ」
アンジェリンは星を見上げながらも、両手をベルグリフに向かって差し出した。
「抱っこ」
「ん? はは、ほら」
ベルグリフは軽く腰を落とし、抱き付いて来たアンジェリンを抱え上げた。
父娘の背後では、村の賑やかな宴の音が微かに聞こえていた。数日前から隊商が来ている。もうじき秋祭りだ。少しずつ隊商や行商人が集まって、トルネラは祭りのムードに包まれつつある。
娘はもう少しでオルフェンの都に旅立つ。秋祭りの後、最後に発つ隊商と共に行くと話を付けてあるのだ。
胸元に顔をうずめているアンジェリンを見て、ベルグリフは微笑んだ。
「……もうすぐ旅立ちだね、アンジェ」
「うん……」
アンジェリンは顔をうずめたまま、もそもそと身じろぎした。
その頭を優しく撫でてやりながら、ベルグリフは濡れた草の中をゆっくりと歩いた。
「色んなものを見て、色んな人に会えるな」
「うん」
「きっと楽しいぞ。トルネラじゃ見られない風景が見られる筈だ」
「うん」
アンジェリンはそっと顔を上げて、上目遣いでベルグリフを見た。
「でも……今日行商人のおじさんに聞いた」
「ん?」
「都には、悪い人もいっぱいいるって。ずるがしこくて、騙されて悪者にされちゃう事もあるって。気を付けなきゃいけないって」
ベルグリフは苦笑いを浮かべて、アンジェリンの頭をぽんぽんと叩いた。
「そうだな。色んな人がいる。良い人も悪い人も……」
「……わたし、騙されちゃったらどうしよう。悪い人になっちゃったら……」
怯えたように眉をひそめる娘を見て、ベルグリフは小さく笑い、背中をさすってやった。
「大丈夫、そんな事はないさ。アンジェは強い。強くて優しい。そういう冒険者になるってお父さんと約束しただろう?」
「……した」
「それに……」
「それに?」
アンジェリンは不思議そうな顔をしてベルグリフを見上げた。ベルグリフは笑みを浮かべたままアンジェリンを抱え直し、少し強く抱きしめた。
「アンジェがどんな人になっても、仮に世界中の人が敵になったとしても、お父さんは絶対にアンジェの味方だ。何があっても」
「……うん!」
アンジェリンはベルグリフを抱き返した。星がきらきらと輝いている。
○
あれから妙に調子が良かった。しばらく悩まされていた悪夢にも襲われなくなり、怖い怖いと思いながら寝床でまんじりとしているうちに、夢も見ずに朝を迎えているようになった。
そんな事が幾日か続くうちに、もうあの悪夢を見ていた事自体が夢のように思われた。
そんな風だから、不調を理由に帰郷するという名目が立たなくなりそうだったのだが、帰ろうと決めてしまったアンジェリンには、もう帰るという選択肢以外存在しない。調子が良くなったのを良い事に、パーティメンバーを伴って土産物探しに都をうろついた。
それで調子もよくなったから、これはトルネラで冬越しをしなくても済みそうだぞ、という風にまで考えが進んで、ヤクモとルシールにも秋祭り後に帰るという風に確信を持って言う事ができた。
その甲斐あってか、というわけでもないかも知れないが、二人もトルネラに来る事になった。ルシールはともかく、ヤクモは何となく片付かない顔をしていたが。
翌日発つという段取りになって、荷物もまとめ終えて、すっかり気持ちが持ち上がったアンジェリンは自分の部屋ではなく、アネッサとミリアム、マルグリットの家に転がり込んでいた。翌日合流も面倒だとヤクモとルシールまで引っ張り込んでいる。
空になった酒瓶を振って、ヤクモが壁に背をもたせた。
「うーむ、明日出るっちゅうのに、こんなに飲んで平気かの?」
「飲んでから言う事じゃねーぞ」
とマルグリットは相変わらず平然と杯を干している。アネッサはまだ平気そうだが、ミリアムなどは既に目を閉じて左右に揺れていた。ルシールも六弦を抱くようにして舟を漕いでいる。
アンジェリンはにまにま笑って、新しいワインの栓を抜いた。
「大丈夫……そんなに朝早くない」
「そういう問題かのう……まあ、ええが」
ヤクモは苦笑いを浮かべながら煙管を咥えた。アネッサが片付かない表情をして、アンジェリンの差し出したワインを杯で受けた。
「今度は元気過ぎるぞ……何があったんだ?」
「分かんない。でもいいの。元気なのは」
アンジェリンは自分の杯にもなみなみとワインを注いだ。縁から溢れて外を伝って垂れる。マルグリットが変な顔をした。
「元気にしてもなんか変だな。酔ってんのか?」
「酔っとるのは当たり前じゃろ、こんなに飲んどるんじゃから」
「ふうん、そうか。ま、アンジェが変なのは今に始まった事じゃねえけどな」
アンジェリンはワインを一息に飲み干すと、勢いよく杯をテーブルに置いた。
「別に変じゃないぞ……喜びを全身から発しているだけ……」
「それが変だって言ってるんだよ」
「ちょっと極端な気がするぞ」
「アンジェ、もう寝たらどうじゃ?」
「ぐむう」
三人ともそういう事を言うから、アンジェリンは悔しそうに口を尖らした。
別にそんなに変なつもりはないのだが、そんな風に見えるのかしら。だがそう決めつけられると何となく反抗する気持ちが湧くのも事実で、アンジェリンはムスッとしたまま外套を羽織った。
「なんじゃ、何処へ行く」
「散歩!」
それで早足で飛び出した。後ろでは三人が顔を見合わせて肩をすくめていた。
外は夜のひんやりした空気が充満していた。胸いっぱいに吸い込むとすっきりして、成る程確かに随分回っていたみたいだと思う。
散歩だから行く当てはない。荷物もこちらに運び込んでいるから、今更部屋に戻る用事もないし、買い物も済ましているから店を冷やかすのも必要ない。漫然と、住み慣れた都の夜を楽しむように石畳を踏んで行く。
往来は人が行き交っていたが、裏路地に入るとたちまち静かになった。
一人で涼風に当たったせいか、皆で飲んでいた時の浮かれた気持ちが幾分か落ち着いていて、こういう静かな雰囲気が好ましいように思われた。そうなると、成る程確かに変だったかも知れないと思う。
建物に挟まれた狭い夜空に半月が浮かんでいる。それが明かりを投げかけて、街灯もないのに足元は明るい。アンジェリンは鼻歌交じりに軽い足取りで歩いて行った。
またしばらくこの町ともお別れだ。トルネラから帰って来れば、もっと長い旅に出る。そんな風に思うと、こんな時間も貴重なように思う。
石畳の石を一つ飛びにぽんぽんと踏んで行く。
都に来たばかり、まだ十二歳の娘だった頃も、こんな風に石の上を歩いた。
来たのは冬だった。トルネラでは冬といえば家に籠っているのが普通だったのが、オルフェンでは道に雪が積もっても、誰かが掃除して歩く事ができる。同じ北国であっても、随分環境が違うと驚いたものだ。
当てもなく歩いているうちに、段々と高台の方に来ていたらしい。突然開けた場所に出た。
もう夜中に近い時間だから、アンジェリンの他には誰もいない。見通しのいい小さな空き地になっていて、風が抜けて行く。
歩哨の兵士もいないし、浮浪者もいないようだ。静かで、自分の呼吸の音がはっきりと聞こえるようだ。
家々の屋根に白い月明かりが照り返しているのが見えた。その向こうに広々とした平原が広がり、遠くにはうっすらと山の稜線が広がって、その上に押し潰したような雲がたなびいてかぶさっていた。
ひんやりする空気も相まって、アンジェリンは何だか透き通ったような気分でそれを眺めた。とても遠くまで見通す事ができるようだった。
北の方に目をやった。あの方向に故郷があって、自分が今こうしている間に、家族もトルネラで過ごしている。それを思うと不思議だった。
鼻がむず痒くなって、大きなあくびが出た。そろそろ戻ろうかと思った。
不意に、背後から奇妙な気配を感じた。酔いの回っていた筈の頭が瞬時に冴え渡り、アンジェリンは振り向いて身構え、目を見開いた。
「な、お前……!」
白いローブを着た男が立っていた。
帝都で相対した姿だ。フードを目深にかぶっているから顔は影になって見えないが、間違いない。“災厄の蒼炎”シュバイツだった。
しまった、剣がない。
アンジェリンは咄嗟にベルトの短剣に手をやった。
「動くな」
シュバイツが言った。冷たい声だ。アンジェリンは様子を窺うようにジッと相手を見据えたまま、ぴたりと動きを止めた。
宿敵のあまりに唐突な出現に頭が追い付かない。しかし混乱している場合ではない。
「……何の用だ」
「何の用だと?」
シュバイツの口元が笑ったように見えた。
「帝都であれだけ暴れておいて、心当たりがないとでも言うのか?」
「……復讐? それでわざわざここまで……」
言いかけたアンジェリンの足元が不意に光った。アンジェリンは目を見開いて素早く飛び上がる。足元に魔法陣が広がり、青い火柱が噴き上がった。髪の先がちりちりと音を立てて縮れた。
「そういう事なら……容赦しない!」
アンジェリンは着地すると同時に地面を蹴り、シュバイツに飛びかかった。シュバイツは素早く胸元に手を当てた。すると姿が揺らめき、アンジェリンの短剣は空振りした。空間転移だ。
「な!」
背後に現れたシュバイツが、手の先はアンジェリンに向けたまま体の前で腕を交差させた。青白い光が瞬いたと思うや、同じ色の閃光が迸った。アンジェリンは地面を転がるようにして身をかわす。それでも腕や頬に切り傷が走り、鮮血が滲んだ。
それでもアンジェリンはまた短剣を構えてシュバイツへと向かう。
だがアンジェリンが近づくと、転移魔法だろうか、シュバイツは姿を消し、アンジェリンの背後へと瞬く間に移動する。
シュバイツは淡々とアンジェリンを攻撃した。アンジェリンが体勢を立て直す暇を与えずに次々に閃光を放ち、空中には幾つもの魔法陣が浮かび上がって炎や雷を放った。
しかしアンジェリンも尋常の使い手ではない。並みの者ならば致命傷になり得る攻撃を恐るべき体の動きで無理矢理にかわし、すべてかすり傷程度にとどめていた。
それでも防戦一方の感は否めない。
「くそ……」
アンジェリンは舌を打った。せめて剣があればもっとまともに戦えるのだが。
距離を取って息をつくアンジェリンを見ながら、シュバイツはわずかに口元を緩めた。
「手を抜いているわけではないが……流石に良い腕をしている」
「嘘つけ、遊んでる癖に……」
アンジェリンはシュバイツを睨み付ける。
防御に徹していればそうそう負ける気はしないが、最後には結局攻め切られてしまうだろう。本来剣士の間合いで魔法使いが相手であれば、剣士の方が圧倒的に有利だ。しかしシュバイツ相手ではそういうわけにもいかない。
空間転移は非常に厄介である。それにもかかわらず、すぐに自分を殺さない。手を抜いているにしても、何だか変な気がするが、恐らくはそうなのだろう。そうでなければ説明がつかない。
短剣を構えながら、じりじりと距離を計った。
「……お前は何を企んでるの? 魔王を人間にして……」
シュバイツはくっくっと笑った。
「何が可笑しい……」
「自分が魔王だと知って恐ろしくなったか?」
アンジェリンは唇を噛んだ。
「怖くなんかない……そんな事わたしには関係ない」
「本当にそう思っているのか?」
「うるさい!」
アンジェリンは地面を蹴った。たちまちシュバイツに肉薄して短剣を振るうが、シュバイツは少し後ろへ転移し、事もなげに攻撃をかわした。ローブの下の口元が嘲笑するように緩んでいる。
「ムキになるのは図星を突かれた証拠か」
「そんな事ない……!」
怖くなどない。アンジェリンは本気でそう思っている。
しかしシュバイツの奇妙に人を見透かしたような言い方が、アンジェリンの癪に障った。だからつい語気荒く言い返す。それが却って図星を突いているように思われて、余計に腹立たしかった。少し酒を飲み過ぎたから、感情が昂りやすくなっているのだろうか。
鋭い目線でシュバイツを睨み付ける。
「お前のせいで、お母さんもシャルもビャッくんも苦しんだんだ。許さないぞ」
シュバイツはふんと鼻を鳴らしてローブの裾を払い、両手をアンジェリンに向けた。
「俺が憎いか? 殺したいか? 殺してみるがいい」
「……! この!」
アンジェリンは短剣を構えて駆けた。大きく弧を描くように回り込んで、シュバイツの死角を狙う。
だがアンジェリンが間合いを詰める前に、シュバイツは閃光を放ち、種々の魔法陣を展開させてアンジェリンを近づけなかった。猛攻だ。それなのに、シュバイツの方もアンジェリンを攻め切れない。手を抜かれているように思われて、それが余計にアンジェリンをイライラさせた。
シュバイツは軽薄な笑みを口元に浮かべた。
「こんなものか“黒髪の戦乙女”は。仲間がいなければ何もできないのだな」
「く……」
アンジェリンは短剣を構え直したが、思いとどまった。
さっきから妙な違和感がある。帝都で相対したシュバイツはこんな風に相手を嘲笑うような感じだったろうか。あの時は常に無表情で口数少なく、鋭く刺すような雰囲気があった。しかし今は明らかにアンジェリンを挑発しているようだ。
帝都の時と今と、どちらが素なのかは分からないが、彼を知る者たちの話では、冷酷で抜け目ない男だという事だ。すると、今のシュバイツが素であるという風には思いづらい。
もしこれが演技だとすれば、何かしら目的があって自分を挑発している筈だ。乗るわけにはいかない。そもそもこのまま戦っていても勝ち目はない。
アンジェリンはぶるぶると頭を振った。
駄目だ。怒りに目を曇らせちゃ。お父さんの言う事を思い出せ。
口の中で反芻するように小さく呟く。
「勝ち目のない相手に出会った時はすぐに逃げる……すぐに逃げられない場合は退路を確保しつつ相手の動きを……」
「何をぶつぶつ言っている」
青白い閃光が走った。アンジェリンはハッとして身をかわす。しかしその閃光は槍のようにアンジェリンの右肩を貫いた。焼けるような痛みが広がり、血で服が湿るのが分かる。
「――ッ!」
大丈夫、骨はやられていない。
アンジェリンはそれだけを一瞬で判断し、後から襲って来た閃光や魔法をすべて避ける。右腕を動かしてみた。かなり痛いが、腕が上がらないほどではない。短剣を握り直し、体勢を低く整えてシュバイツを見据えた。
幾度もの修羅場を経験しているアンジェリンは冷静だった。特にベルグリフの事を思い出したとあれば、感情や恐怖に呑まれる事などない。
アンジェリンの様子が変わったのを感じ取ったのか、シュバイツの口元から笑みが消えていた。帝都で相対した時のような、冷たく、冷酷な雰囲気を発している。
対照的にアンジェリンはにやりと笑った。
「……わたしを殺す気になった?」
「お前こそ、俺を殺せるか?」
シュバイツの周りに幾つも魔法陣が浮かび上がった。魔力が風を起こして吹き荒れる。
アンジェリンは両目をしっかと開いてシュバイツを見ていた。全身から闘気を発し、隙あらば飛びかかろうという威圧感をかぶせる。だからシュバイツも今まで以上に緊張感を持って佇んでいるように見えた。
魔法陣とそこから出る魔法は目くらましだ、と今までの戦いで察していた。シュバイツの本領はあの青白い閃光である。魔弾よりも速く、鋭利に体を貫いて来る。心臓や頭を一突きにされては命がない。
魔法陣が光ったと同時に炎と風、雷が襲って来た。アンジェリンは小さく身をかわす。派手なそれらに隠れるようにして、ぴかりと青白い光が走った。
「!」
跳んだ。体勢を低くして深く踏み込んだ分、通常の体勢よりも遠くまで行ける。さっきまでアンジェリンのいた場所を閃光が貫いた。
「……なに!?」
シュバイツが彼には珍しく慌てたように声を上げた。反撃に打って出るかと思われたアンジェリンが、ぱっと後ろへ跳んだと思うや踵を返し、脱兎の如く逃げ出したのだ。あっという間に路地の方に駆け込み、角を曲がって姿を消す。
「おのれ!」
背後にシュバイツの怒声を聞きながら、アンジェリンは走った。上手く行った。初めから反撃するつもりはなかったのだ。
勿論ここで仕留められればベストだろうが、短剣しかない状況で勝てるなどと甘い考えは持たない。ましてあんな開けた場所では勝ち目などない。もし得物がこれで勝てるとすれば、地形や周囲のものを活用して奇襲をかけるしかないだろう。
「……でもな」
やはり愛用の剣が恋しい。あれが手の内にあるだけで安心感が違うというのに。
そんな風に考えると、東で新しい剣を手に入れるなどというのは変な話だろうか。でもベルグリフだって愛用の剣とグラハムの剣とを上手く使い分けていた。自分だってやれるだろう。二刀流という新しい境地を開拓してもいい。
切羽詰まっている癖に、妙にほのぼのした事を考えていると、路地の出口が揺らめいて白いローブが現れた。シュバイツが空間転移で回り込んで来たらしい。こちらに向けられた手が青白く光っている。
「やば」
アンジェリンは地面を蹴って跳び上がった。建物の壁を蹴って、さらに反対の建物の壁へと跳ぶ。そのまま屋上まで上がる心づもりだ。
「跳ぶのは悪手だ」
シュバイツが冷酷に言って、アンジェリンに手を向けた。光が強くなる。
アンジェリンは咄嗟に建物の窓にあった植木鉢を手に取って投げつけた。
植木鉢は途中で閃光に撃ち抜かれて粉々になったが、その破片がばらばらとシュバイツに降り注ぎ、それが少しだけ彼の動きを止めた。
その間にアンジェリンは建物の屋根に上がり、屋根瓦をかちゃかちゃいわせながら疾走した。
月明かりが満遍なく降り注いでいる。影が瓦に沿うようにくねくねと曲がって伸びている。
アンジェリンは屋根から屋根へと飛び移りながら走っていた。
「どうしよ……皆と合流しないとだけど……」
盛大に飲み会をやってしまったからなあ、とアンジェリンは眉根を寄せた。肩の傷が痛む。
少し先に白いローブが揺れた。
アンジェリンは舌を打つ。空間転移はずるい。閃光が来る前に青白い光が輝くから、タイミングが計れるのだけが救いか。
シュバイツの手元が光るのと同時に、アンジェリンは屋根から飛び降りた。
上手く勢いを殺しながら着地し、周囲の様子を窺う。大通りに出たようだ。順調とはいえないが、着実にアネッサたちの家の方には近づいている。
上から降って来たアンジェリンに、酔漢らしいのが驚いて目を白黒させている。
「ごめんね!」
アンジェリンは周囲に気を配りながら、しかし速度だけは緩めずに夜の町を駆けて行く。
冷たい空気が胸の中をちくちくと刺した。この辺りは人通りもある。もう夜中にかかっているから少なくはあるが、それでも誰もいないわけではない。
シュバイツはどうするだろう。あまり派手な動きを好まないようだが、一般人を巻き添えにするだろうか。
本気でアンジェリンを殺すつもりならば巻き添えなど厭わないだろうが、どうして今になって突然仕掛けて来たのか、という疑念が渦巻いた。単なる復讐、という割にはやり方が雑過ぎる。
だが余計な事を考えている場合ではない。疑問に気を取られていると本当に殺されてしまう。
大嫌いな相手だが実力は本物だ。仲間たちに協力してもらって、剣も手に取って、と考えていると、向かいから「あ!」という声がした。見ると、アネッサたちがルシールを先頭に、こちらに向かって来るのが見えた。
「みんな!」
「おー、アンジェ、全然帰って来ないから捜しに」
マルグリットが言い終わる前に、アンジェリンはマルグリットに飛び付いて大声を出した。
「剣! わたしの剣持ってない!?」
「はあ? 何だよ何が……うわ、アンジェお前ボロボロじゃねーか! 血まで!」
「話は後! シュバイツが来た!」
その言葉に、仲間たちは目を見開いた。それでも各自に携えていた得物を握り直して、即座に周囲に気を配る。
寝ぼけ眼のミリアムが杖を構えながらぶるぶると頭を振った。
「シュバイツぅ……? シュバイツ!? 嘘でしょ、なんで!?」
「わたしが知るもんか……気を付けて」
「いかん、来るぞ!」
全員がヤクモの視線の先を見る。白いローブが往来の明かりに照らされていた。
「避けて!」
アンジェリンはそう叫んで、ミリアムを抱いて横に跳んだ。ミリアムは「ひゃー」と声を上げる。散開した後を青白い閃光が幾つも突き刺さった。
ヤクモが槍を構えながら嫌そうに目を細める。
「厄日じゃ……」
「しゃららら、べいべ」
ルシールが六弦をじゃらんと鳴らす。アネッサが舌を打つ。
「くそ、弓なんか持って来てないぞ……こんな時に限って」
いつもは得物を肌身離さず持っているのだが、今夜は宴会の気の緩みと自宅という安心感から、部屋に置いたままのようだ。
それでも、武器以外の用途としても使うミリアムの杖や、他人の家に置いたままは嫌らしいヤクモの槍、酔っていないマルグリットの剣などはある。
「下がってな! おれが仕留めてやるよ!」
マルグリットが細剣を振りかざして、素早い身のこなしで前に出た。
だがシュバイツはたちまち魔法陣を展開させ、疾風のように近づいて来るマルグリットを足止めした。炎や雷が通り沿いの店の軒先に当たり、青白い閃光があちこちに迸って、地面や建物の壁を傷つけた。何事かと遠巻きに見ていた野次馬たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「ヤクモさん、それ貸して」
「おう、使え」
ヤクモが副装備として腰に差している刀を受け取り、アンジェリンも前に出た。マルグリットと二人がかりでシュバイツに向かうが、シュバイツは前以上に烈しく魔法を展開して、二人を寄せ付けなかった。
「うー、あれだけ高威力の魔法連発して、なんで大丈夫なんだよう」
ミリアムが呟いた。並みの魔法使いならば、とうに魔力が枯渇している。
魔法使い二人を魔法から守りながら、ヤクモが怒鳴った。
「ルシール! 儂が防いどる間に何とかせい! 長く持たんぞ!」
「ちょい待ち。とぅー、とぅるる」
鼻歌交じりに六弦を鳴らしていたルシールは、ああでもないこうでもない、という様子で何か試していたが、やがて決めたように頷いた。歌うように詠唱を始める。
『星の瞬き 銀河のうねり 音は最初に 力は後に がらぽんがらぽん お眠りなさい』
六弦の音が不思議な響きを持って大きくなった。増幅された音波が空気を揺らす。それがルシールを中心に広がって行くと、シュバイツの魔法陣が輝きを失って、魔法の威力が削がれて来た。
ミリアムが目をぱちくりさせる。
「魔法を抑える大魔法? ひゃー、ルシールこんな事できたんだ」
「うぐ……べりべり強いぜ、べいべ」
ルシールは額に脂汗をにじませながら六弦をかき鳴らした。シュバイツの魔法を完全に抑え込むのは難しいようだ。
しかし間を掻い潜るだけの余裕ができた。アンジェリンは刀を構えて叫ぶ。
「一気に仕掛ける! 合わせて! マリー!」
そして地面を蹴った。マルグリットも反対方向からシュバイツへと向かう。ヤクモも槍を構えて前へと駆けて来た。
ミリアムが杖を掲げた。
『天に黄道 光の粒連なり ひとつの粒は波を起こし 地に揺らめく陽炎に落つ』
アネッサがナイフを引き抜いて、シュバイツの頭上に放った。轟く雷雲から雷がナイフ目掛けて落ちて来る。目が眩む程の稲光にシュバイツの動きが止まる。
「はああああああ!」
アンジェリンは刀を振り抜いた。前に伸ばしていたシュバイツの手を肘から切断する。マルグリットの細剣は脇腹を貫いていた。
シュバイツは口から血を垂らし、それでも尚アンジェリンの方に残った腕を向ける。
「――ッ!」
アンジェリンは身を翻した。青白い閃光が太ももを掠った。同時にヤクモの槍がシュバイツの胸を貫く。
「とどめ……ッ!」
アンジェリンは刀を反して上へと斬り上げた。刃が喉笛を斬り裂いた。シュバイツは血を撒き散らしながら仰向けに倒れた。
青白い光も魔法陣も消え去り、再び夜の闇とよそよそしい静けさ、月明かりが戻って来た。
アンジェリンは肩で息をしながら、がくんと膝を突いた。ひゅうひゅうと変な呼吸の音が聞こえる。それもやがて聞こえなくなった。
「……勝った?」
「ああ、そのようじゃが……」
ヤクモが変な顔をしてシュバイツを見下ろしていた。マルグリットも困惑したように棒立ちになっている。アンジェリンは首を傾げて立ち上がった。
フードがめくれて、ずっと見えなかった顔が見えた。
アンジェリンは思わず息を呑んだ。
「え……イシュメール、さん? なんで?」




