一三八.果てのない飢えと渇きが
果てのない飢えと渇きが続いていた。どれだけ殺しても満たされない。それなのに、本能はひたすらに殺し、食らえと囁き続けた。
この暗がりにひそんでどれくらい経ったのだか分からなかった。いつから、そして、なぜという事すら忘れていた。
体を動かすのすら億劫で、一日中うずくまり、しかし獲物の気配が近づくと鼻面を上げ、ジッとその時を待ち、間抜けな獲物がやって来たところに襲い掛かる。そうして肉の一片、血の一滴に至るまで残さず腹に収めてしまう。
しかし狩りが得意なのではなかった。急所を一撃して仕留めるような技量は持ち合わせていなかった。それでも強靭なこの体に相手の攻撃は通用しなかったし、がむしゃらに襲い掛かっても食い尽くす事ができた。一撃で命を奪われなかった相手が苦痛にむせび泣くのを容赦なく食らった事もある。しかし、心には何の感慨も湧かなかった。
そんな事を何回繰り返したか知れなかった。しかし腹も喉の渇きも一向に満たされなかった。ただ心の中に寂しさばかりが充満していた。
ここは暗かった。風もなく、ただ冷たい闇ばかりが重苦しく溜まっていた。
前に殺した時からどれくらい経ったのか分からなかったが、ふと何かの気配がした。底の厚いブーツが地面を打つ音がした。元気のいい話し声が聞こえた。
そっと身を縮めた。前足を曲げ、後肢をぐんと踏み締める。これで地面を蹴れば、矢のような鋭さで獲物に向かう事ができるのだ。
見えて来た。若い獲物だった。四人連れらしい。先頭を行く少年はしきりに何か話していて、こちらに気付く様子はない。ここに来るあの二本足は、どいつもこいつも弱っちい。
ぐんと足を踏み込んだ。いつものように飛びかかった。まず一匹、と思った。だが、後ろから別の少年が、先頭の少年を押しのけるようにして飛び出して来た。
口の中が血の味でいっぱいになった。
○
アンジェリンが大きく欠伸をすると、それがうつってマルグリットも大口を開けた。アネッサがぷふっと吹き出して笑った。
「口の大きさを競ってるみたいだぞ」
「んー……」
アンジェリンは口をむにゃむにゃとさせてから、薄荷水を一口飲んだ。
「なんか眠そうだね。夜更かしでもしたのー?」
ミリアムが言った。アンジェリンは頷いた。
「お父さんにお手紙書いてたの……でもわたし文章苦手だから書いて捨てて考えて……」
「結局書けたのかよ」とマルグリットが言った。
「まだ途中……」
「なんだそりゃ」
「随分こだわるなあ」
仲間たちは呆れ顔で馬車の縁にもたれた。アンジェリンはいつも手紙が書きたいのだが、いざ書くという段になると、どう言葉をまとめたものかいつも悩んで書き切らない。だからベルグリフに出す手紙も結局いつも簡素なものになっていた。その簡素なものになるまでに何十という書き損じがある。
乗合馬車はがたがたと音を立てて揺れた。頭上に張られた幌が揺れて、微妙に緩んだ幕がばたばた言った。
簡素な舗装をされた道は、幾度も馬車が行き来するうちに轍が刻まれて、あちこちがでこぼこになっている。四つの車輪がそれを踏む度に、銘々から揺れが響いて来て、どうにも落ち着いて腰を下ろしていられない。
アンジェリンは馬車から身を乗り出して地面を眺めた。
「ここ、直さないのかな……」
「どうかな。マリアさんが住んでるって以外は平凡な農村だしな」
「でも魔法使いが結構出入りしてるっていうもんねー。あんなババアに何の用なんだか」
ミリアムが言うと、乗合馬車のお客たちがじろりとそちらを見た。魔法使いが多いらしい。
やがて村が見えて来た。ひなびた小さな農村といった感じで、麦藁や木の皮でふかれた屋根の小屋が立ち並んでいるが、その中で不釣り合いな白い建物があった。その少し奥に小さな木造りの庵がある。そこがマリアの家である。
アンジェリンたちは乗合馬車を降りた。
何ともなしに周囲を見回してみる。石と木で作られた農家が多いけれど、停留所周りには新しい商店ができていた。この村はオルフェンへの農産物の販売が主な収入だが、今では商店を構えられるくらい人が来ているようだ。
四人で連れ立ってマリアの庵に行った。家の周りもうろうろしているのがいた。魔法使いらしいのもいるが、冒険者のようなのもいる。音に聞こえた“灰色”の大魔導から何か得るものがないかという顔つきをしているが、追い出されたらしいのは様子で分かった。
アンジェリンたちはそんな連中の間を縫って家に近づいた。
「ばあちゃん」
扉越しに呼びかけると「ああん?」と不機嫌そうな声が返って来た。
「アンジェリンだけど……入っていい?」
返事はない。了承の意と見て取ってアンジェリンは扉を開けた。すると埃まみれの空気が外に溢れて来た。マルグリットが目を白黒させる。
「うわ、すご」
「もーっ! こらーっ! 掃除しろって言ってるだろ、このババア!」
ミリアムがそう言って家の中に駆け込んだ。そうして相変わらず着膨れてもこもこのマリアを引っ張って来た。マリアは咳き込みながら家の外に放り出された。
「げほっ、げほっ! 何しやがる! 暴れるんじゃねえ、駄猫が! 埃が舞うだろうが!」
「こりゃ暴れなくても舞うぜ」
マルグリットが「よくここまで溜め込めるなあ」と却って感心したような顔をして小屋の中を見た。埃っぽいが、薬草や香油の匂いが立ち込めている。
実験器具や分厚い書物は埃まみれで、カーテンが引かれて薄暗い。暖炉で火が赤々と燃えている。最近手に取ったらしい書物だけが埃にまみれていないのが分かった。
ミリアムがカーテンを開け、あちこちの窓を開け放つと、外の光が一気に入って来た。
風が吹き抜けて、家の中の埃を巻き上げて外へと運んで行く。陽の光の下では、埃の粒は実に良く見えた。周囲で見ていた連中が何事かと目を丸くした。
ミリアムが箒を片手に部屋の中で大暴れしている間、他三人はマリアを囲んで家の外の木陰に落ち着いた。陽射しは強いけれど木漏れ日は柔らかく、風が吹く度に皆の顔にまだら模様を揺らした。もうすっかり夏の陽気である。
こんな季節に、ベルグリフに麦藁帽子の編み方を教わったなあ、とアンジェリンは思った。
マリアは背中を丸めてひとしきり咳き込むと忌々し気に舌を打った。
「くそ、人がせっかく瞑想してたってのに、どいつもこいつも……」
「ごめんね、ばあちゃん……でもなんか賑やかだね」
アンジェリンはそう言って周囲を見回した。ずっと家の周りにたむろしていた連中が遠目にこちらを窺っている。マリアが鋭い視線で睨み付けると、皆そそくさといなくなった。
「オルフェンの景気が良くなった分、あちこちから馬鹿どもが集まって来てんだよ。くそ、隣にこんなもんが建った時から鬱陶しかったってのに……」
そう言ってマリアは白亜造りの大きな建物を睨んだ。
マリアを慕う魔法学徒が勝手に集まって造られたこの建物は、今では小さな学府の様相を呈し、あちこちから魔法使いが来るようになっている。オルフェンの景気が良くなったので、その人の出入りに拍車がかかっているのだろう。
いっそ庵を変えようかと考えているとマリアはぶつくさ言った。マリアの背中をさすりながらアネッサが苦笑した。
「静かな生活がしたいって言ってここに来たのに、皮肉ですね」
「ホントにな……げほっ」
マリアは口元を押さえ、それからアンジェリンを見た。
「で、何の用だ。遊びに来たのか?」
「そうとも言えるけど……魔王の研究ってどうなってるのかなって思って」
「前にも言った通り判断の材料がねえ。あの溶けた魔王の分析は続けてるが……」
「わたしも魔王なんだけど」
「またその与太話か」
「いや、意外に与太じゃねえかも知れねえぜ?」
マルグリットが横から口を出した。マリアは眉をひそめた。
「揃いも揃ってあたしを担ごうってか?」
「いや、シュバイツが関わってるんですよ」
アネッサが言うと、マリアの目の色が変わった。
「本当か」
「はい。わたしたち、帝都であいつらの一味と戦ったんです」
「……おいアンジェ。テメェ、そんな大事な事をどうしてこの前話さねえんだ」
「忘れてた……」
アンジェリンはあっけらかんとしている。マリアは呆れたように額に手をやった。マルグリットはけらけら笑っている。
「ともかく、そういう事なら話は別だ。詳しく聞かせろ――いや、家が片付いてからの方がいいな」
家の中ではミリアムがどたどたしている。窓や戸口から舞って来る埃が陽光に照らされてよく見える。
「そういえばマッスル将軍、元気になったよ……」
「チッ、治りやがったのか……げほっ。薬じゃなくて毒を塗りゃよかった」
「将軍って毒で死ぬのか?」とマルグリットが言った。
「……死にそうもねえな」
そんな雑談をしながら待っていると、戸口からミリアムが顔を出した。
「終わった! 汚いな、もーっ! なんでこんなになるまで放っておくんだよ!」
マリアは裾を払いながら面倒臭そうに立ち上がった。
「黙れ馬鹿弟子。ついでだ、茶でも淹れろ」
「ふんだ!」
ミリアムはひょいと家の中に引っ込んだ。アネッサがくすくす笑う。
「なんだかんだ言う事聞きますね、あいつ」
「ふん、ガキの頃はもっと可愛げがあったもんだが……ごほっ、ごほっ!」
「ばあちゃん、新しい弟子とか取らないの……?」
「今更面倒だ。取らなくてもこんなのが勝手に寄って来やがるしな」
マリアはそう言ってまた白亜の建物を睨み、大股で家の中に入って行った。
家の中は相変わらず雑然とはしていたが、出しっぱなしの本が棚に収められ、実験器具が一か所にまとめられ、埃が吹き払われて、幾分か明るくなったように思われた。暖炉の前でミリアムがごそごそと何かやっている。お茶の支度だろう。
マリアは安楽椅子に腰かけて深く息を吐いた。
「……それで、シュバイツの野郎は仕留めたのか?」
「どうかな……カシムさんが相手したから、わたしには分からないけど、死体とかは確認してない」
アンジェリンが言うと、マリアは嘆息した。
「それじゃあ仕留めたとは言えねえな。あたしも昔あいつの討伐隊に加わって……げほっ、確かに殺したと思ったんだが」
「駄目だったのか。不死身なのか?」
マルグリットの言葉に、マリアは目を細めた。
「さて、どうだか。まあ、あいつならそれくらいはやりかねないが……順序立てて話せ。話がとっ散らかる」
それでアネッサが主になって、他のメンバーが適時補足しながら話をした。ベルグリフの旧友を探す為の旅で帝都まで行った事、皇太子が偽者でシュバイツと組んでいた事、サティが戦い続けていた事、サティがかつては実験に携わり、アンジェリンを産み落とした事。
話が一区切りしたところで、マリアは考えるように腕組みして椅子に深く腰掛けた。
「……木を隠すなら森の中に、か。まだ帝都にいやがったとはな」
そう呟いてアンジェリンを見た。
「アンジェ、お前は母親から何も聞かなかったのか? どういう実験で、どういう理屈でお前が産まれたのか」
「聞いてない。あんまり興味なかったし……」
マリアは呆れたようにこうべを垂れた。
「自分の事なのにお前は……聞いたあたしが馬鹿だったよ」
「それに……その話はお母さん、ちょっと辛そうだったから」
「……そうか」
「結局、あいつの目的は何なの……? 世界征服?」
「そんな下らん事は考えねえよ。あいつの欲望は知識欲だけだ」
マリアはそう言って不機嫌そうに小さく咳き込んだ。
「げほっ……結局、偽皇太子も帝都のあれこれも、あいつの実験の為だったってわけだ。昔と何も変わっちゃいねえ。胸糞ワリィ……げほっ、げほっ!」
アネッサがその背中をさすってやりながら、言った。
「シュバイツは元々何の実験をしていたんですか?」
「……初めは死霊術だったと思うがな。帝都の研究機関の頃にも、術式の実験だと盗賊の死体なんかを回して来る事がよくあった。最終的にあいつが討伐されるきっかけも、町一つを死霊の町に変えた事だ。帝都にもその術式を組みかけていた」
「死霊術……」
アンジェリンは腕組みした。皇太子ベンジャミンの偽者も死霊術を得意にしていた。シャルロッテに与えられた力も死霊を操る力だったように思う。悪い奴らはそういう事が好きなのかしらと思った。
ミリアムがカップにお茶を注ぎ足した。
「けどオババ、シュバイツは死霊術を極めたいと思ってたわけじゃないでしょー?」
「だろうな。それもあいつの目的の為の道具に過ぎないだろうよ」
「目的って何なんだ?」
「ごほっ、ごほっ! あたしが知るか。まあ、ソロモンの関連の事だろうとは思うが」
「ソロモンか……」
度々出て来るこの名前に、アンジェリンは色々な思いを抱いていた。
魔王というのはソロモンの作ったホムンクルスの事だという。サティやビャクの話から考えるに、アンジェリンも魔王だ。すると、その大元はソロモンにある。男らしいから、厳密な意味での父親はソロモンという事になるだろう。
しかし、そんな風には微塵も思えなかった。父親、というとベルグリフ以外考えられない。かつて心を悩ませた本当の親という悩みも、今となってはちっともアンジェリンを煩わせなかった。
「ソロモンか……そういえば変な話聞いたんだけど」
「変な話?」
「うん。偽皇太子に聞いた話……」
アンジェリンはベンジャミンの偽物と顔を突き合わして話した時の事を説明した。ソロモンはかつて人間たちの為にヴィエナと協力して旧神たちと戦った事。その後、人間に絶望して大陸を征服した事。
「じゃあ、ソロモンって良い奴だったのか?」
マルグリットが言った。アネッサが首を振る。
「いや、最終的には大陸を力で征服してるんだし、良い奴とは言えないんじゃないか」
「ホントなのかにゃー。サティさんの話があるから、旧神っていうのがいるのは分かるけど……」
「……ややこしくなって来たな。シュバイツがソロモンの事で何かしているのは間違いねえ。だが、それと奴のしている実験とがどうも結びつかん。あいつが今更力を手に入れたいと思う筈はねえ。それにやり方が回りくどすぎる」
マリアはお茶を一口すすった。
「しかし妙だ。魔王を産ませる実験があった事は分かったが……アンジェ、なんでお前は人間なんだ? 母親はエルフで間違いないんだろ?」
「うん……でもわたしに聞かれても分かんない」
「……チッ、こいつはトルネラに行くしかねえか……」
マリアがぽつりと呟くと、たちまちアンジェリンは目を輝かして身を乗り出した。
「来る? いいよ、行こう、ばあちゃん……! 今度秋口に帰るから、その時一緒に」
「冗談だ馬鹿! この歳で長距離移動なんざ面倒でやれるか!」
「大丈夫、わたしが面倒見る……」
「やかましい! くそ、迂闊な事を呟くんじゃなかった……」
マリアは肩を掴んで来るアンジェリンを面倒臭そうに押し戻した。三人はくすくす笑っている。
○
代官屋敷は広場に面した所に建てられる予定だ。既に基礎の石が積まれ、木の骨組みが日に日に組み上がって行く。製材所では日夜鋸や斧の音が響き、トルネラは今までにない賑やかさだ。
冒険者ギルドの予定地は、村の入り口にほど近い辺りである。
あまり村の中心地に荒くれ者を集めるのは如何なものか、と主張する人たちもいて、そういう連中の意見も汲んでこうなった。実際、ダンジョンとの兼ね合いも考えると、村の入り口付近は悪くない立地である。
こちらも既に基礎石が組まれ、材木が集められて積まれていた。製材されたばかりの木の爽やかな匂いが漂っている。
何にしても、新しい事を始めるというのはワクワクするものだ。若者たちは言わずもがな、年寄りたちも何となく浮き立ったような雰囲気である。
それでも、日々の仕事は変わりなくこなさねばならない。
羊の毛刈りが一段落して、刈った麦の処理も概ね終わった。共同の仕事が忙しい間に畑では草がぐんぐん伸びているから、毎日草取りをする。夏の食卓は色とりどりの夏野菜で豊かに彩られるが、その彩りを得る為には丁寧に畑の手入れをしなくてはならなかった。
外で皆が仕事をしている最中、ベルグリフは朝から新居のテーブルに座って書類を見ていた。
この前、ボルドーのギルドマスターであるエルモアが来た時、参考になるだろうと様々な資料を持って来てくれたのだ。依頼の申請と受理の用紙があり、古くなった冒険者の名簿があり、かなり昔のものだが、帳簿まであった。
何だか色んな人が気にかけてくれているのは有難くもあり、また肩に乗るものが着々と重くなって行くようにも思えて、ベルグリフは何となく気が落ち着かなかった。
ひとしきり資料に目を通し、実際の運営の事を考えながら、少し体を動かそうと外に出た。慣れない事をした後は、し慣れた事をするのに限る。
いいお天気で、初夏の陽射しが容赦なく降り注ぎ、木々や草の葉の緑が濃い。ロープに吊るされた洗濯物が風にはためいている。風には草の匂いが乗っていた。
数度地面を蹴って義足の具合を確かめ、それから裏手の畑に回った。
春先に新しくした柵に、もう草の蔓が絡まり始めている。蔓は柔らかく、花のつぼみらしいのが付いていた。確か、シャルロッテが春に行商人から種を買ったのを、柵の下にまいたと言っていたので、それが順調に育っているのだろう。
苗の根元に麦藁を敷いていたシャルロッテとミトが顔を上げて手を振った。
「おとうさまー」
「お仕事、終わった?」
「ああ、少し体を動かそうと思って……でも二人が頑張ってるから、お父さんの出る幕はなさそうだな」
ベルグリフがいたずら気に言うと、二人は顔を見合わせてくすくす笑った。
「サティ――お母さんはどうした?」
「ビャクとハルとマルと一緒にビルベリーを摘みに行ったわ。午後はジャムを作るんですって!」
ビルベリーは灌木に付く野生の果物だ。小さな実は甘酸っぱくておいしい。栽培はされていないが、わざわざ栽培するまでもないくらいあちこちに生えている。岩コケモモと違って、村の周辺でも採れるから、村の甘味としては馴染み深いものだ。
シャルロッテとミトと一緒に麦藁を敷き、苗の葉に付いた虫を取ったり、伸びた草を抜いたりしていると、やがて陽が高くなって、ますます暑くなって来た。
額に浮いた汗を手の甲で拭い、畑全体を見回す。
「綺麗になったな。少し休もうか」
「うん」
「はー、今日も暑いわ」
シャルロッテは麦藁帽子をかぶり直す。それからベルグリフを見た。
「帽子の作り方、教えてくれるのよね、お父さま」
「ああ。麦藁も手に入ったからね」
麦藁を使った加工品は幾つかある。夏にかぶる麦藁帽子もその一つだ。
アンジェリンが小さかった時、編み方を教えてやったっけなとベルグリフは懐かしい気分になった。最初に作ったのは不格好な出来だったが、それでも自慢げにかぶっていた。その風景は今でも鮮明に思い出せる。
庭先に向かうと水音がするので見ると、井戸の所にサティたちがもう帰って来ていて、取って来たらしいビルベリーを洗っていた。シャルロッテとミトが目を輝かせて駆け寄った。
「お帰りなさい!」
「わあ、たくさん」
サティは顔を上げて微笑んだ。
「採り過ぎちゃったよ。ほら、食べていいよー」
ビルベリーが籠に山盛りになっている。洗われて濡れたそれらは陽の光を照り返して宝石のように光っている。既に口の周りを紫色にしている双子に交じって、シャルロッテとミトもそれを口に運んで「おいしい」と笑っている。
「よくこんなにあったね」
「ビャクが見つけてくれたんだよ。ね?」
サティがそう言って目をやると、ビャクはぷいと目を逸らした。ベルグリフは感心して髭を撫でた。
「やるな。いつの間にそんなスキルを身に付けたんだ?」
「知るか、そんなもん……」
ビャクは目を逸らしたままビルベリーをタライの水に浸けて掻き回している。褒められるのが照れ臭いらしいのがありありと分かって、ベルグリフは思わず笑ってしまった。
子供たちがやるやると張り切っているので、ビルベリーはそちらに任せて、ベルグリフたちは先に家に入った。
昼食の支度をしなくてはならない。
暖炉の火を上げて、油を引いた鍋で刻んだ干し肉と麦を炒める。お湯を入れてぐつぐつと煮立たせた所に賽の目に切った芋や根菜を入れて煮込み、塩や香草で味付けする。
鍋に蓋をして、火を少し弱めてふうと息をつく。これからの季節は料理をするにも暑い。
ベルグリフが汗を拭いながら見ると、パン生地をこね終えたらしいサティが、ぼんやりと視線を宙に泳がせていた。
「どうした? 疲れたかい?」
「え? ああ、いや、そうじゃないけど」
サティは小さく頭を振って、両手で頬をぱしんと叩いた。それから小さく笑う。
「……楽しいね。わたし、ここに来てからすごく幸せだよ」
「何よりだ。それなら俺も嬉しいよ」
ベルグリフが言うと、サティは微笑んで、それからまた考えるように目を伏せてしまった。
ここのところ、サティはこうやって何か考えているらしい表情をよくする。どうかしたかと尋ねても、何となく言葉を濁してしまう。悪い事を考えている筈はないという信頼はあるけれど、少しばかり心配だ。
「……あんまり一人で抱え込むなよ。俺が言うのも何だが」
「ふふ、そうだね……ありがと」
サティは大きく息をついて、勢いよく立ち上がった。
「よし、包み焼も作っちゃおう。ベル君、スキレット取って」
「ん、これでいい?」
「えっと、そっちの大きいの」
そんな事をしていたらパーシヴァルが帰って来た。
「おう、飯か。だがベル、ちょっと来い。ボルドーに行ってた連中が戻って来た。建物の相談がしてえとよ」
「ああ、そうか。サティ、任せていいかい?」
「もちろん。行ってらっしゃい」
毛刈りが終わったタイミングで、先週あたりからケリーやバーンズ、トルネラの大工たちが連れ立って、ボルドーまで出かけていたのである。ギルドの建物を視察したいというのもあったし、それに伴う商売の事など、色々と勉強したい事が多かったようだ。土産話はさぞ多かろう。
連れ立ってギルド予定地に行きながら、ベルグリフはパーシヴァルに話しかけた。
「なあ、パーシー」
「あん?」
「サティが何か助けを求めて来たら……手を貸してくれるか?」
パーシヴァルは大声で笑った。
「当たり前だろう。水臭え事を言うんじゃねえよ」
「はは、そうだな……サティもまだ抱えているものがあるんだろうな」
「……魔王の事だろうな」
ベルグリフは頷いた。双子を始め、ビャクやミトといった、魔王を宿す子供たちの事を解決するには、シュバイツやその組織と最もかかわりがあるサティの話は重要だ。
しかし、帝都でのシュバイツとの戦いは、サティにとって大きなトラウマである。大事な事だとは分かっていても、ベルグリフは自分からわざわざ聞き出そうという風には思っていなかった。
パーシヴァルは歩きながら考えるように顎を撫でた。
「まだ気持ちに整理が付かねえんだろうよ。俺らがほじくるより、あいつから言い出すのを待った方がいい。カシムもそう思ってる」
どうやら元パーティメンバーたちは、それとなくサティの様子を察しているらしかった。ベルグリフは笑ってパーシヴァルの背中を叩いた。
「それでこそリーダーだ」
「何言ってんだ、負けんじゃねえぞ、旦那」
ギルド予定地にはもう人が沢山集まっている。近づくとケリーが手を振った。
「来たなギルドマスター!」
「気が早いぞそれは……」
「何言ってんだ! いやあ、流石ボルドーはでかい町だな、おい! 色々と参考になったぜ」
ケリーはすっかり張り切っている。元々トルネラでもやり手の豪農として様々な事に手を出している彼にとって、今回の大事業は高揚する事ばかりのようだ。バーンズが見取り図らしい紙を広げた。
「色々話聞いて来てさ、建物のデザインなんだけど……」
と言いかけたところで別の誰かが口を挟んだ。
「宿屋とかどうなってんの? ギルドが紹介したりもするんだろ?」
「店とか併設すんのか? 酒場も一緒だと楽そうな感じするけどよ」
「いや、それは気が早いってば。まだ始まってもいないんだから」
「ともかくまずは建物だ。箱がなけりゃ外から来た連中を迎えられねえ」
「だから今その話をしようとしてるんだって。ごちゃごちゃ口出しすんなよ!」
話の腰を折られたバーンズが苛立たし気に言うと、「なんだとコノヤロウ」と他の連中も熱気を帯びて来て、余計に喧々囂々として来た。誰もがこの話に自分なりの考えやこだわりがあるらしい。
これは昼食までに終わりそうもないな、とベルグリフは苦笑した。




