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一三〇.朝日が平原を照らすと、朝露に


 朝日が平原を照らすと、朝露に濡れた草がきらきらと光る。そんな中を踏み分けて歩いて行くと、靴やズボンの裾はぐっしょりと濡れた。ベルグリフが大きく息をつくと、白く漂ってゆっくりと消えて行った。


 いつもの見回りに出ていた。

 春告祭の朝だろうと、毎朝の日課の見回りは欠かさない。義務感というよりは、既に日常になってしまっていて、やらない方が気持ちが悪いのである。


「お父さん」


 後ろから来たアンジェリンがベルグリフの手を握った。


「いい天気だね……」

「そうだな。いつもの事ながら、晴れてよかったよ」


 辺りには靄が立ち込め、まだ空は白っぽいが、陽が高くなる程に抜けるような青みを増す。春先の精いっぱいの御馳走は舌を楽しませてくれるが、冬の曇り空に縮こまっていた村人たちにとっては、燦々と注ぐ陽の光こそが何よりの御馳走かも知れない。

 隣に立ったアンジェリンが大きく欠伸をした。ベルグリフはそれを見て微笑む。


「アンジェは、明日には出るんだったか」

「行商人さん次第だけど……多分そうなると思う」


 もう青髪の女行商人とは話をつけていて、春告祭が終わった後に便乗してオルフェンに戻る事になっている。恐らく今回来た行商人たちはまとまって隊商を作って南下するだろう。馬車の数は十分そうだ。

 アンジェリンはベルグリフの腕を抱いた。


「あのね、夏の間仕事して……秋祭り前に帰って来るね」

「はは、前もそんな事を言ってなかったかい?」

「前はエストガルに呼ばれて帰れなかったけど……今度は帰って来るの。それで皆で岩コケモモを採りに行く……」


 最早トルネラに於けるアンジェリンの心残りはそれだけらしい。ベルグリフは笑ってアンジェリンの頭を撫でた。


「そうだな、そうしよう。その頃には……ダンジョンの話ももう少しまとまってくれていると思うよ」

「えへへ、楽しみ……」


 ある意味浮ついた状態になっていたトルネラ村は、ヘルベチカによって良くも悪くも現実に引き戻された。魔獣相手には無類の強さを誇る冒険者が揃っていようとも、ギルドの運営ともなれば話は変わって来る。腕っぷしの強さだけではどうにもならない。

 理解があって協力的な領主がいてくれるのは幸せな事だな、とベルグリフは顎鬚を撫でた。


「……わたし、先に戻ってるね」


 アンジェリンは思い出したように言うと、足早に丘を下って行った。ベルグリフはそれを見送りながら、苦笑交じりに息をついた。


 アンジェリンたちが何か企んでいるらしい事は、何となく窺い知れた。パーシヴァルやカシムもその仲間である事は一目瞭然である。碌な事でないのは確かだが、簡単に気取られてしまう辺り可愛いものだ。まあ、黙って騙されてやるかと思う。


 陽光に照らされた平原から、真っ白な靄が上っている。それらを吹き払うように風が吹いて来て、ベルグリフの髪やマントを揺らした。

 若い頃にトルネラを出る日も、こうやって朝にこの丘に登った事を思い出す。朝靄に陽が射して、濡れた草がきらきらしていた。尤も、季節は秋だったが。

 村の家々の煙突からは煙が筋になって立ち上っている。もうじきに教会で礼拝が始まる。

 ベルグリフは右の義足でとんとんと二回地面を蹴り、それからゆっくりと丘を下って行った。



   ○



 林檎酒の樽を開けると、酒精の交じった甘い香りが漂って来た。

 秋に仕込まれて、冬の間じっくりと寝かされた林檎酒を開けるのは、春告祭の楽しみのひとつだ。同じように作っても、年によって、あるいは樽によって味わいは微妙に違う。上等の味わいのものもあれば、酸味の強いもの、癖のあるものなど様々だ。


 礼拝を終え、広場に出ればもう宴会である。

 昨今は作物の収量も安定し、冬場を乗り切る事も難しくなくなって来ているが、かつての時代は冬越えというものは辛く厳しいものであった。

 古老から語り伝えられている開拓時代の昔話などでは、食料が足りずに餓死した者の話も聞く。そんな時には、暖かな春の訪れは本当にありがたいものであった筈だ。

 その頃の喜びとは比べようもないかも知れないが、もちろん今になっても春の到来は喜ばしい。

 村人たちは林檎酒を酌み交わしながら、つつがなく冬を越せた事、暖かな春が今年も来てくれた事を、主神ヴィエナと精霊、祖先の霊たちに感謝した。


「うん、今年のも中々いい出来だ」

「先に味見したやつよりもいいな。強くできてる」

「ヘルベチカ様、こちらをどうぞ」

「ありがとうございます」


 無論、領主の姉妹も宴席に連なり、まだ陽の高いうちからの酒盛りは既に盛り上がっている。

 たき火で炙られている肉や魚が良い匂いを漂わせる中、村の演奏上手たちとルシールが楽器を鳴らした。

 音に合わせて子供たちが跳ね回り、すっかり兄貴分になって、子供たちに引っ張り回されているビャクも一緒になって面倒臭そうに踊っている。

 ルシールの六弦と歌声が一際大きく耳に届くようだった。いつもの北部の音楽に、南部のリズム感の強い音が交じって、何だか新鮮に聞こえた。


「しぇけしぇけべいべ……やくもん、かまん」

「あん? あー……余興な。よしよし」


 林檎酒を傾けていたヤクモが槍を片手に立ち上がった。少し辺りを見回して、子供の遊ぶ小さなボールを見つけて手に取る。それをぽんと宙に放って、槍の石突きの上で器用に受け止めた。


「さあさ、皆様お立ち会い。本業は切った張ったの冒険者なれど、昔日取りし杵柄稼業、槍と毬との出会いと別れ、舞って御覧に入れましょう」


 滑らかな口上の後、傾けた槍の柄をボールが転がって行く。そのまま落ちるかと思われたが、ヤクモは器用に槍を動かすと、まるでボールがひとりでに槍の柄にまとわり付くかのように動いた。

 ぽんと打てばボールは宙に舞い、受け止めると柄の周りを螺旋を描くように転がり、そのままヤクモの腕から肩、首を通って反対側へ、そのまま天秤に担いだ槍の柄へと戻って再びぽんと宙を舞う。

 ボールはそのまま足先で二度三度と蹴り上げられた後、今度は頭の天辺に乗っかり、それからまた宙を舞って今度は石突きの先端に収まる。


 まるで生き物のようなボールの動きと、しなやかに踊るようなヤクモの動きに、村人たちはやんややんやと喝采を送った。

 ヤクモはぺこりと頭を下げると、近くの子供にひょいとボールを投げてよこした。たちまち子供たちが群がり、これは生きているのか何なのかと騒がしく検分している。


「凄い。器用だね、ヤクモさん……」


 隣に腰を下ろして来たヤクモに、アンジェリンは拍手しながら言った。


「なぁに、これくらい大した事じゃないわい」

「いや、ホントに凄いですよ。大道芸もやってたんですか?」


 アネッサが言った。ヤクモは煙管を咥える。


「まあの。駆け出しの、まともに仕事がない頃にな。高位に上がってからも、たまに気分転換の小銭稼ぎにやったりもしておった。それであの犬っころに出くわしたんじゃ」

「ああ」

「なるほどー、そういうきっかけがあったんですねー」


 ミリアムがそう言って笑った。

 思えば東部と南部という、ちぐはぐな組み合わせの二人である。どういうきっかけかタイミングを逃して聞いていなかったが、大道芸つながりとは意外だなとアンジェリンは思った。

 ヤクモは煙を吐き出して、そっとアンジェリンの方に顔を寄せた。


「そんで、おんしらの悪だくみはどうなったんじゃ?」

「悪だくみじゃない……これから」

「ふぅん? しかしのう、結婚式ちゅうても何をするんかいな?」

「パーシーさんとカシムさんは、みんなの前でチュウさせるって言ってる……」

「……しょうもないオヤジどもじゃな」


 ヤクモは苦笑交じりに煙管の灰を落とした。

 もちろん、アンジェリンたちだってベルグリフとサティの結婚を祝うという気持ちは十分にある。しかし同時に、飄々としている二人が照れて困っている所が見たいというのも偽らざる本音である。


 計画といっても、大した事をするわけではない。折を見て二人を前に引っ張り出し、村人皆ではやし立ててお祝いする。ただそれだけの事だ。

 だがそれをする為にこっそりと村人ほぼ全員に話を回したのは真面目というのか阿呆というのか、それはアンジェリンたち本人にも分かっていない。


 いずれにせよ、賑やかな宴席にかこつけて、大いに二人を冷やかしてやり、結果的に二人が夫婦としてもっと親密になってくれれば言う事はない、という考えているのだかガバガバなんだかイマイチはっきりしない計画である。


 ともあれ、タイミングを見計らいつつも、今は素直に祭りを楽しんでおけばいいのだ。

 アンジェリンは林檎酒を舐めながら、何ともなしに広場を見回した。サティは音楽に合わせて跳ねる双子やミトを見ており、ベルグリフは向こうの方でパーシヴァルやカシム、ケリーなどの親父組で何か話していた。

 こんな時にも別々にならないでもいいのに、とアンジェリンは頬を膨らます。


 そこにセレンがやって来た。


「アンジェリン様、こちらよろしいですか?」

「うん、いいよ……」


 セレンはホッとしたような表情でアンジェリンの向かいに腰かけた。ミリアムが林檎酒を入れた酒器を差し出すと、セレンはコップで受けた。


「新村長さんはお疲れですにゃー」

「もう、からかわないでください……でも寝耳に水で、まだちょっと混乱気味です」

「今すぐってわけじゃないんだし、そんなに気にしないでもいいんじゃないか?」


 アネッサが言うと、セレンは苦笑した。


「逆に今すぐという方が勢いがあって楽なような気もします。準備があると……色々考え過ぎてしまいそうで」

「真面目なのはいい事……よしよし」


 アンジェリンは手を伸ばしてセレンの頭を撫でた。セレンはくすぐったそうに目を細めた。満更でもなさそうだ。


「あれ、ヘルベチカさんは?」


 アネッサがそう言って見回す。セレンはハッとして視線を動かした。


「さっきまであちらに……あっ」


 見ると、ヘルベチカはベルグリフの隣でしなだれかかるようにして酒器を差し出している。ベルグリフは苦笑しつつも拒んではいないらしい。パーシヴァルたちはげらげら笑っている。


「お姉さま!」


 セレンが焦ったように立ち上がって、そちらに駆けて行った。

 ヤクモがくつくつと笑った。


「ありゃ寝取る気満々じゃのう。勝ちの目はなさそうなのに、めげないお人じゃ」

「おのれ、お父さんが優しいのにかこつけて……許さんぞヘルベチカさん!」


 猛然と立ち上がろうとしたアンジェリンを、アネッサとミリアムが押し留めた。


「許さんぞ、って何をする気なんだよ、座ってろ」

「セレンに任せとけばいいって。アンジェが出るとややこしくなるから我慢我慢ー」

「だって……」


 不満そうなアンジェリンを見て、ヤクモが笑った。


「そうカリカリせんでもよかろう。それに、恋敵がいた方が燃え上がる思いもあるものよ」

「おお、経験者は語る、ってやつですかにゃー?」


 ミリアムがにやにやしながら言うと、ヤクモは面食らったように目を白黒させて、ぷいとそっぽを向いた。


「……儂の事はどうでもよかろう」

「あれれ、もしかして図星だった?」

「ヤクモさんもそういう甘酸っぱいエピソードとかあるんですか?」

「聞きたい……」


 詰め寄って来る三人娘に、ヤクモは苦々しい顔をしながら煙を吹きかけた。三人はわあわあと言って手で煙を払う。


「やかましいわい、野次馬どもが……大体、おんしらの方が儂よりも若いじゃろうが。そっちこそ浮いた話の一つや二つあろうが。ええ?」


 三人は顔を見合わせた。


「……ない」

「ないな……」

「ないね……」

「……お、おう」


 三人とも何となく悲しげである。

 一応危機感はあったのか、とヤクモは笑っていいのか何なのか、片付かない表情で煙管の灰を落とした。


 両手に三つずつ串焼きを持ったマルグリットがやって来て、不思議そうな顔をして首を傾げた。


「何やってんだ、お前ら」



  ○



 セレンに引っぺがされたヘルベチカだったが、それでもベルグリフの近くに陣取って一歩も引かぬように思われた。


「別に取って食おうというのではありませんもの。さ、ベルグリフ様もう一献」

「は」

「お姉さま、そんな風に無分別な事をしては」

「あら、お酌するだけで無分別だなんて」

「あの、ヘルベチカ殿。いくら迫られても私は」

「迫るだなんて人聞きの悪い。親愛の情を表すのはご迷惑?」


 にこやかにそう言われては、どうにも突っぱねられないのがベルグリフという男だ。まして相手がヘルベチカであれば尚更である。


 ベルグリフはちらとサティの方を見た。遠くでグラハムと一緒に子供の相手をしている。ベルグリフの方を見もしない。余裕綽々といった様子で、もしかして俺は彼女に試されているのではあるまいか、と変に邪推してしまう。

 カシムが空のコップをひらひらと振りながら笑った。


「めげないねーちゃんだねえ、へっへっへ。オイラにもお酌してよ」

「ええ、喜んで。パーシヴァル様もいかがですか?」

「領主のお酌とは豪儀なもんだな。しかし肝が据わってんな。女にしとくのが勿体ねえ」

「ふふ、父にもよく言われましたわ。でもわたし、女でよかったと心底思っておりますのよ」


 そう言ってヘルベチカはベルグリフにウインクした。ベルグリフは困ったように頭を掻いた。誤魔化すように笑うくらいしかできない。一回り以上も下の女性にすっかり手玉に取られているような気分である。

 ケリーがからからと笑った。


「まったく、ベルがこうなってる光景を見るとはよ」

「色男は辛いよねえ、へへへ」

「何言ってるんだ、まったく……」


 ベルグリフはちらとヘルベチカを見た。にこにこ笑ってジッとこちらを見返している。

 こういう時にきっぱりと言える性格ならよかったのだが、とベルグリフは額に手をやった。いざそう決めてみても、面と向かってはどうにも言うのが憚られてしまう。必要な事であるとはいえ、相手を悲しませるという事に気が引けるのである。

 仕官の勧誘に来た頃のヘルベチカは容易にあしらえたけれど、それから今までの間に彼女も一皮むけたというか、小娘のような雰囲気から、無邪気さをあえて武器に使えるくらいのしたたかさを醸すようになって来たように思う。そんな相手は、子供をあしらうようにはできない。ベルグリフには一番苦手な相手だ。


 しかし、だからといってヘルベチカになびこうというつもりは一切ない。彼女の事はもちろん好きだが、それは親愛の情であって、恋愛だの夫婦だのといった類のものではない。

 だからきっちりしたいのだが、できない。

 歯がゆい気持ちでコップの林檎酒を干すと、ヘルベチカがすぐにお代わりを注いだ。もう何杯目だか分からなくなって来た。


「ふふ、良い飲みっぷりですね。ささ、もう一杯……」

「お姉さま、いい加減になさいまし。ほら、ベルグリフ様ばかりではなく、他の皆さんとも交流しないと」

「ああ、ちょっとセレン。分かったから、引っ張らないで!」


 いよいよ業を煮やしたと思しき様子のセレンに、ヘルベチカは引っ張られて行った。

 助かったような心持でベルグリフは息をつき、にやにやしている友人たちをジトッと睨んだ。


「……友達甲斐がないな、君たちは」

「お前の問題だろうが、甘えんな。嫁がいる癖に若い娘にでれでれしやがって」

「してないよ……してるように見えた?」

「そりゃもう。顔真っ赤だし」


 とカシムが言った。パーシヴァルがにやにやしながら顎を撫でた。


「赤鬼が赤くなってるってわけか」

「いや、これは酒のせい……ああ、まいった」


 ベルグリフは嘆息して、また林檎酒を含んだ。どうにも喉が渇いて仕様がない。

 ケリーが目を細めてコップの中の林檎酒を揺らした。


「ま、昔っから優しい奴だからな、お前は……だがよ、こういうのは早めにはっきりさせとかないと、ヘルベチカ様が余計に可哀想だぞ。変に期待を持たせちゃいかん」

「分かってるよ……駄目だなあ、俺は……」


 喉が渇く。またコップが空になった。


「そうやってすぐに気落ちするんじゃねえよ、情けねえな。ダンカンとハンナを見習え」


 手酌で林檎酒を注ぐベルグリフの背中をパーシヴァルが叩いた。手元が揺れて、林檎酒がこぼれる。

 手に垂れた林檎酒を舐めながら、ベルグリフは向こうに目をやった。踊る人々の輪に交じって、ダンカンとハンナの姿が見えた。踊り慣れていないらしいダンカンが、ハンナに手を取られてひょこひょこと可笑しなステップを踏んでいる。


「……よかったよな。あの二人は」

「他人事じゃないでしょ、ベル。君もサティと踊って来ればいいんだよ」

「いや、俺は踊りは……」

「何言ってんだ、よくアンジェに引っ張られて踊ってたじゃねえか」


 そう言ってケリーが笑う。ベルグリフは頭を掻いた。喉が渇く。


 飲み食いして、からかわれて、そんなこんなで時間は過ぎて行く。次第に陽が高くなり、高くなった陽は西に傾いて、少しずつ赤みを増した。

 喉の渇きに任せていつもより早いペースで、かつ多く林檎酒を飲んだベルグリフは、珍しく酔ったような気分だった。

 無論、前後不覚になる程ではない。しかし少し気持ちがふはふはして、何となく地に足が付いていないような気がした。


「カシム……水……」

「なんだい、君にしちゃ珍しい感じだね」


 カシムがやや呆れたような様子で、コップに水を入れて差し出した。酒豪の彼は顔色一つ変えていない。同じく酒に強いパーシヴァルが面白そうな顔で言った。


「しかし却って好都合か。おいベル、ちょっと来い。カシム、サティ連れて来い」

「よし来た」

「え……なに?」


 パーシヴァルに促されて立ち上がったベルグリフは首を傾げた。

 鈍くなった頭で考えるに、そういえばこの二人とアンジェリンとで何か企んでいたような気配がある。

 引っ張られて行くと、周囲の村人たちも何だか盛り上がっている様子である。待ってました、という声まで聞こえるから、どうやら自分たち以外のほぼ全員がグルになっているらしい。

 訳も分からずに押し出されると、同じように連れて来られたらしいサティがきょろきょろと辺りを見回していた。


「サティ」

「あ、ベル君。なにこれ、どういう事?」

「いや、俺にも何が何だか……」


 二人して首を傾げていると、ハルとマルの双子とミトがシャルロッテに連れられてやって来た。


「サティ、しゃがんで」

「早く早く」

「んん?」


 言われるがままにサティがしゃがむと、その首に大きな花輪がかけられ、さらに頭に花冠がかぶせられた。春の花々は華やかに彼女を彩り、子供たちは満足そうに頷いている。


「かわいい!」

「にあう」

「みんなで作ったんだよ。ね」

「手分けしてお花を摘んで来たの! お母さま、よく似合ってるわ」

「あはは、ありがと……」


 サティはちょっと照れ臭そうに頬を染めて、花冠に手をやった。

 ぽかんとしているベルグリフの背中を、パーシヴァルが叩いた。


「どうだ、感想は」

「え? あ、いや、よく似合うと思う」

「そうかそうか。おい神父さんよ、頼んだぜ」


 何だか神妙な顔をしたモーリス神父が出て来たので、ベルグリフは面食らった。


「おほん……ベルさん、サティさん、この度はおめでとうございます。主神の祝福のあらん事を」

「は……あ、ありがとう……な、なに?」

「いえ、パーシーさんやアンジェさんが、きちんとお二人の結婚式をするべきだとおっしゃいまして、成る程その通りだな、と」


 そういう事か、とベルグリフは額に手をやった。サティも困ったように笑っている。


「い、今更かー……ちょっと恥ずかしいな、あはは」

「お、サティの照れ顔とは珍しいねえ、へっへっへ」


 カシムが煽るように言うと、サティは唇を尖らした。


「あなたたちはもー……いつまでも子供なんだから」

「お母さん、観念して……そして祝福されて……」


 音もなく現れたアンジェリンが、サティの腕を取った。


「アンジェまで……分かった分かった。いいかね、ベル君?」

「あ、ああ……」


 結婚式、といっても大した事をするわけではない。大抵の場合は教会に行き、主神ヴィエナの前で互いの愛を誓って祝福を受けるのである。要するに夫婦としての宣誓をするのであって、細かな作法が決められているわけではない。

 だから二人もそれに乗っ取って、神父の前に並んで立った。


「えっと……ベル君はわたしの旦那様、って事でいいんだよね?」

「うん……君は俺の妻という事になるね」


 モーリス神父が咳払いした。


「では二人は互いを夫婦と認め、愛し合う事を主神に誓いますか」

「はい……」

「誓います」

「本当ですか?」


 騒然としかけた中、凛とした声がした。

 見ると、ヘルベチカが口を尖らして立っている。アンジェリンが顔をしかめる。


「ヘルベチカさん……」

「お姉さま、この期に及んで」


 しかしヘルベチカは毅然とした態度でアンジェリンもセレンも突っぱねた。


「いいえ、ここは言わせていただきます。お二人が仲良しなのは見ていても分かります。お似合いだとも思いますわ。けれど、そんな風に互いに妙な遠慮があるように見せられては、わたしだって引くに引けないじゃないですか!」


 ヘルベチカは怒ったようにサティに詰め寄った。サティは目を白黒させる。


「え……ごめん、なさい? え? 怒られてるの、わたしたち?」

「はい、怒ってます。どうせなら諦めがつくようにしてくださいませ! そんな周りに流されたから一緒になった、みたいな風じゃ納得いきません! そんなんじゃ奪いますよ! 本気で!」


 周りを囲む観衆は、面白くなって来たぞと互いに囁き合った。これは予想外だな、とパーシヴァルとカシムは顔を見合わせている。アンジェリンたちもどうしていいのか分からずおろおろしている様子だ。

 ベルグリフはしばらく考えるように目を伏せていたが、やがて口を開いた。


「……確かに、ヘルベチカ殿の言う通りだな。俺は流されてた」

「え……お、お父さん?」


 アンジェリンが不安そうにベルグリフを見た。本当は、好き合ってなんかいないのだろうか。そんな思いに心臓が高鳴って、思わず胸を押さえる。


 だが、ベルグリフはサティの方を真っ直ぐに見た。


「サティ、好きだ。いや……多分、ずっと好きだった。昔から。俺は朴念仁で、人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍感だけど……それでも確かに君が好きなんだ。ハルとマルがいるからじゃない。アンジェがいるからというわけでもなしに……俺は君が君だから、俺の隣にいて欲しいと思ってる。俺の嫁さんになってくれるか?」


 ベルグリフはそう言って、そっと手を差し出した。


「あ、あう……」


 サティは白い肌を耳まで真っ赤にして口をもごもごさせていたが、やがて小さく頷き、差し出された手を握りしめた。


「わたしも……好き、だよ。ベル君……よろしく、お願いします……」


 沈黙があった。皆、息をするのが憚られるようだった。

 ちゃらん、と六弦の音が鳴った。ルシールが歌うように言った。


「おめでと、べいべ」


 途端に、爆発するような歓声が響き渡った。


「おぉい! ベル! お前、意外に情熱的じゃねえか!!」

「ちくしょー、今日は飲むぞコノヤロー!」

「もう飲んでるじゃねえか」

「ベルさん、おめでとう!」

「サティさん、よかったね!」

「二人ともおめでとう!」

「おめでとー!」

「幸せになれよ、こんちくしょー!」


 押し寄せた村人たちにもみくちゃにされ、ベルグリフは苦笑した。サティは頬を染めたまま、けらけらと笑っている。子供たちが花を振り撒いて、また賑やかに演奏が始まった。


 それを眺めていたヘルベチカはにこりと微笑んで、すっと踵を返した。初めは穏やかに、しかし段々と足取りが早くなった。人ごみから離れるほどに微笑みが段々と崩れて、目から涙がぼろぼろこぼれた。


「……うぅ、負けたぁ……」


 べそべそと涙を拭いながら鼻をすする。


「おう、領主様か。大丈夫か?」

「へへ、振られちゃったねえ……残念残念」


 ヘルベチカが逃げた先には、同じように人ごみから逃げて来たらしいパーシヴァルとカシムが腰を下ろしていた。面白くなさそうな、面白くなくもなさそうな曖昧な顔をしている。

 ヘルベチカはすんすんと鼻をすすりながら、指先で涙を拭った。


「……ベルグリフ様とサティ様には過去という強い絆がおありですものね」

「だが礼を言うよ。あんたのおかげでベルも吹っ切れやがった」

「けどなんか負けた気分だなあ。オイラたちの方がしてやられた感じがあるね」

「仕方がねえよ。ま、ベルが思った以上に男らしかったって事だ」

「ヘルベチカさん!」


 声がした。見ると、アンジェリンとセレンが駆けて来た。


「あの……あのね」

「いえ、いいんですよアンジェリン様。ああでもしないと、わたし、自分を納得させられなくて」


 ヘルベチカはそう言って微笑んだ。欲しいものは何でも手に入れて来た。それだけの力も才覚も彼女にはあった。だからこそ、手に入らなかった事が余計に悲しかった。


「お姉さま……」

「もうセレン、そんな顔しないで頂戴。道化役は笑われてこそなんだから」

「強い姉ちゃんだな。まあ、飲め飲め。こういう時は強い酒に限る」


 なみなみと蒸留酒の注がれたコップを受け取ったヘルベチカは、鬱憤を晴らすようにそれを一息で飲み干した。そうして小さくむせ返りながらも、やにわに一歩踏み出して、カシムとパーシヴァルの腕をがっちりと捕まえた。


「お……? おい?」

「……これは祝い酒です。ヤケ酒ではありません」

「や、ヘルベチカさん? おーい?」


 ひらひらと手を振るカシムを、ヘルベチカはぎろりと睨んだ。目が据わっている。


「今日はとことん付き合っていただきますわよ。あなた方の企てでわたしは失恋する羽目になったんですからね!」

「……それはやっぱりヤケ酒じゃ」

「は?」

「い、いや、何でもない……」


 年若の女領主の眼光に、中年のSランク冒険者二人は何も言えなくなった。ヘルベチカはふんと鼻を鳴らして、アンジェリンをしっかと見据えた。


「アンジェリンさん! もちろんあなたもですよ! セレン、あなたもコップを持って」

「お、お姉さま、落ち着いて」

「いいから飲みなさい、命令です。アンジェリンさん、酒瓶!」


 アンジェリンはくすくす笑って酒瓶を取った。


「喜んでお供しますぞ、領主様……」

「よろしい! ほら、何をぼさっとしているんですか! パーシヴァル様、カシム様、飲みなさい! わたしの言う事が聞けないのですか!」

「は、はい」

「いただきます」


 オヤジ二人、恐縮したように盃を差し出した。


「あれ、あっちで何か始まってる!」

「みんなして何処行ったのかと思ったら」

「何やってんだよ、おれたちも混ぜろー」


 目敏くやって来たマルグリットやミリアム、アネッサたちも交えて、場がたちまち盛り上がり始めた。

 結婚式の熱気に当てられて、まだまだ祭りは続く。



  ○



 陽が暮れかけていた。広場はまだ宴会が続いている。大鍋のシチューや麦粥はなくなりつつあるが、人々は祭りの尻尾にしがみ付くようにして、まだまだ家に引き上げようとはしない。


 ベルグリフはこっそりと広場を抜け出して、村の外に出ていた。

 春になったとはいえ、夕暮れ時の風はまだひんやりと冷たく、首筋を撫でられないようにマントの襟を口元まで持ち上げて風を防いだ。


 若草が風に揺れて音を立てている。風の音なのか草の音なのか、それは分からない。

 高い西の山の向こうに太陽が隠れ、村は影の中に入っていた。山の稜線がくっきりとして、青い山肌はシルエットになって上からかぶさって来るように思われた。


 ベルグリフは丘の上まで上って腰を下ろし、大きく息をついた。

 飲み過ぎた頭に涼風が心地よい。何だか恐ろしく慌ただしい一日だったような気がする。


「……正気じゃなかった」


 何だか物凄く恥ずかしい事を言ったような気がして、ベルグリフは赤面した。酒も多分に入っていたとはいえ、あんなに大勢の前で何をやっているんだ、と腹の底がきゅうと握られるような気分だった。それもあって、みんなの前から逃げ出したくなったのだ。

 ふと、さくさくと草を踏み分けて来る音がした。


「ふふ、一人で何やってるの?」


 風に銀髪をなびかせて、サティがやって来た。もう花の首飾りも花冠も外している。ベルグリフは取り繕うように微笑んだ。


「ちょっと酔い覚ましにね」

「あはは、結構飲んだものね……よっと」


 サティはベルグリフの横に腰を下ろした。彼女の銀髪と白い服は、夕闇の中ではぼんやりと浮かび上がるように見えた。

 サティは膝を抱き、その上に口元をうずめるようにして体を縮こめた。


「陽が暮れるとまだまだ寒いねえ、やっぱり」

「ここは風が抜けるからな。余計に寒いんだと思う」


 ベルグリフはふうと息をついて、もそもそと体勢を整えた。


「昔、オルフェンに旅立つ時も、この丘の上に上った。村がよく見えるからね」

「そっか……確かに、よく見えるね」


 明かりの灯り始めた村の広場で、たき火の煙がもくもくと立ち上っている。


「……ふふ」


 くすくすと笑うサティに、ベルグリフははてと首を傾げた。


「どうしたの」

「いやあ、中々情熱的な告白をしてくれたなあ、と思って」


 ベルグリフは顔に血が上るのを感じて、思わず両手で顔を覆った。サティは笑いながらベルグリフの頭を撫でる。


「なに照れてるの。もう言っちゃった事なんだから」

「そうなんだけど……どうしてあんな……」


 両手に顔をうずめたままのベルグリフに、サティはちょっと寂しそうに口を尖らした。


「じゃあ……言って後悔した? それともその場限りの出任せだったの?」

「そんなわけないだろう……そりゃ酒の勢いはあったけど、全部本当だから恥ずかしいんじゃないか……それもあんな大勢の前で……うう」


 サティは口をもごもごさせると、そっとベルグリフの方に体を寄せた。


「……わたしも思い出しちゃったよ。確かに恥ずかしいね」

「うん……」


 しばらくどちらも黙っていた。

 サティは黙ったままより強くベルグリフに体重をかけた。ベルグリフは肩と腕にサティの体温を感じた。そっと腕を動かし、肩を抱く。寒さのせいか、それとも何か別のものか、小さく震えているように思われた。

 腕に力を込めて抱き寄せると、サティは恥ずかしそうに顔をベルグリフの方に向けた。白い肌が上気して赤く染まっているのが、薄暗い中でもはっきりと分かった。


 互いの顔が近づく。唇の柔らかな感触と甘い匂い。サティのエメラルド色の瞳に、自分の姿が映るようだった。サティが照れ臭そうに笑った。


「ふふ、お酒臭い……」

「……お互いさまだ」


 遠くからは祭りの喧騒が微かに風に乗って響いて来た。

 互いに背中に手を回した。


 夕闇が降りる。二つの影が一つになる。


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