一二九.灰色だった地面が萌え出した草に
灰色だった地面が萌え出した草に覆われて緑色に染まった。風に揺れ、陽を照り返す度にちらちらと白く光り、それが幾本もの筋になって風下へと波のように流れて行った。
踏まれた麦の葉が再び立ち上がり、空に向かってぐんぐんと伸びている。冬の間、雪に押さえ付けられていたのが、春になって根を伸ばし、そうして十分に足を踏ん張ってから勢いよく伸び上がろうとしている。
平原の白い点は羊たちだ。彼らはいよいよ平原へと放たれて、青々した草をいっぱいに頬張った。
春告祭を翌日に控えた今、麦踏みは終わり、芋の植え付けも済んで、今は祭りの支度で大わらわである。
春告祭は秋祭りとは違って村人だけの内向きの祭りだ。それでもいくらかの客人は来る。広場はそんな行商人たちの露店がいくつか並んでいる。
その中で、春告祭で振る舞われる料理の仕込みが行われている。大鍋が持ち出され、根菜や山菜が集められて、皮を剥いたり汚れを落としたりと下ごしらえを行う。
料理上手のいる家では干し果物を練り込んだ甘いパンの生地がこねられ、若者や子供たちが川辺に魚を獲りに出かけて行く。老いた山羊や羊が幾頭か潰され、林檎酒の大樽も運ばれていた。
長い冬を無事に乗り越える事ができた感謝と祝いである。食材は秋程豊富ではないが、それでもご馳走が並ぶ。誰もがそれを楽しみにして、冬明けの一仕事に身を粉にするのだ。
力仕事などは若者たちが張り切っている為、ベルグリフとサティは、村娘やおかみさんたちに交じって、根菜の皮を剥いていた。冬の間中土の中で保管されていた芋などは、傷んでいるものも多く、そういったものを取り除きながら、食べられる部分を選り集めるのである。
アンジェリンと仲間たちは山に山菜を採りに行っている。パーシヴァルとカシムは別の所で何かごそごそやっている。ヤクモは釣りに行った。ルシールは村の演奏上手たちと音を合わせて遊んでいる。子供たちはグラハムがまとめて見ているようだ。
芋の皮を剥きながらサティが言った。
「シチューと麦粥だね」
「うん。あとは魚と肉の炙りと甘いパン」
「いいねえ、ご馳走に……行商人さんが色々持って来てくれてるしね」
蒸留酒や隣村ロディナの豚肉、塩漬けの海魚など、普段も中々食べられないものがあるのも嬉しい。尤も、カタクチの塩漬けに面食らった経験のあるベルグリフには、発酵した塩漬けを上手く料理するのは難しいのだが。
それにしても、あの料理下手のサティが手慣れた様子で下ごしらえをするのが何だか面白くて、ベルグリフはついそれを眺めた。鼻歌交じりに芋の皮を剥いていたサティが、気づいたように目を上げて、きょとんと首を傾げる。
「……なに?」
「いや、本当に料理ができるようになったんだなあ、と」
「もう、まだそんな事言って。もう何度わたしのご飯を食べたのさ、あなたは」
「ははは、ごめんごめん。どうも昔の印象が強くて」
「はいはい、早く済ませちゃおうよ。ねえ?」
サティがそう言うと、周りで村娘やおかみさんたちがくすくす笑った。
「そうだそうだ。早く二人を解放してあげないと」
「ベルさんが惚気てるのは見てて楽しいけどね」
「ホントに、あのベルがねえ。わたしゃ未だ信じられないよ」
「サティさん、良い男射止めたよねえ」
「ふふん、そうでしょう? 自慢の旦那様だよ」
サティはいたずら気な笑みを浮かべて、ベルグリフにウインクした。ベルグリフはちょっと頬を赤らめて頭を掻いた。どうにも昔から彼女には敵わない。
芋の下ごしらえが概ね終わりかけた所で、アンジェリンたちが籠に山菜を山盛りにして帰って来た。木や草の新芽、根茎や花のつぼみや茸など、食べられるものは多い。
「ただいま!」
「おかえりー。凄いね、随分張り切ったじゃない」
「ふふん、ご馳走の為……」
「あれ? マリーはどうした?」
「まだ森にいる……絶対モリーユを採って帰るんだって」
「ふーむ……まあ、マリーなら心配ないか」
エルフが森で迷う事はあり得ないし、マルグリットの腕ならば魔獣が出ても撃退できるだろう。精々うまい茸を見つけてくれる事を願うばかりである。
「どうしましょうか。ちょっと洗って来た方がいいですよね?」
籠を持ったアネッサが言った。ベルグリフは頷いた。
「そうだね。洗ってもらって……いくらかは今日の昼餉に使おうか」
「じゃあひとまず全部洗って、それから分ければいいかにゃー。アーネ、行こ」
「うん。ちょっと洗って来ますね」
アネッサとミリアムは籠を持って井戸の方に歩いて行った。アンジェリンはこっちを手伝うと輪の中に交じった。そうして女性ばかりの賑やかな雑談に興じながら、手を動かす。そこに一人だけ髭面の四十男が交じっているのは、妙に可笑しい光景である。
村中のおかみさんと村娘が集まっているから仕事は早いけれど、それでも量が量なので、朝から始めても昼頃までかかる。それから野菜と肉とをじっくり煮込んで一晩置いて、翌日に一日かけて食べるのだ。
鍋に材料を放り込み、その下で火がごうごうと燃え始めた頃、大勢の足音と馬車の転がる音がした。目をやると、ボルドー家の家紋が記されている馬車がやって来るのが見えた。村人たちが領主様だ領主様だと騒いでいる。
「ベルグリフ様!」
馬車が止まるのも待ちきれないという様子で、ヘルベチカが飛び出して来た。
「お姉さま! ちょっと!」
その後ろからセレンが慌てた様子で身を乗り出す。予想外の姉妹の動きに、御者が慌てた様子で馬車を急停止させた。しかしヘルベチカはそんな事には頓着せずベルグリフに駆け寄って、その手を握った。
「まさかこちらにいらっしゃるなんて思いませんでしたわ! 旅に出られていたのでは?」
「はは、実は思ったよりも早く目的を達せられまして。ヘルベチカ殿もご健勝で何よりです」
「ありがとうございます。ああ、アンジェリン様。皆さまもお元気そうで」
「ヘルベチカさん、久しぶり……相変わらずだね」
アンジェリンもにんまり笑ってヘルベチカと握手した。
「お姉さま、無茶をなさらないでください」
セレンが呆れたような表情でやって来た。しかしヘルベチカはひるむ事なく笑顔で振り返った。
「だって会えると思っていなかったんだもの。セレンは嬉しくないの?」
「嬉しくないわけありませんよ。でも動いてる馬車から飛び降りるなんて」
「あら、走っている馬から飛び降りるあなたはどうなの?」
「うぐ……」
セレンは悔しそうに頬を朱に染めた。お転婆なのはボルドーの血のしからしむるところなのであろうか、とベルグリフは微笑み、セレンに会釈した。
「セレン殿もお元気そうで」
「うう……はい、相変わらず振り回されています」
セレンはもじもじと両手の指先を合わせた。アンジェリンがくすくす笑ってセレンの肩を抱いた。
「仲良しで結構……サーシャは?」
「ちい姉さまは別の場所の巡察に行かれてます。春先は何かとバタバタしがちですから、分担して回るのですが」
「それでも全部の村や町を巡るのは難しいですからね。去年はこちらに来れなかったので、今年は何としても、と思いまして!」
ヘルベチカはそう言ってベルグリフの腕を取った。
北部の冬は厳しいものがある。場所によっては冬が終わる前に備蓄が足りなくなり、飢えに苦しむ村などもある。そういった場所が出ないよう、春先はあちこちに足を延ばすようだ。そうして村々の状況を確認し、適切な処置を施す。
それにしたって、領主直々に行くのは珍しい話ではあるのだが、そうやってわざわざ領主が顔を出す事が、ボルドー領でのヘルベチカの驚異的な人望に繋がっているのだろう。
ヘルベチカは嬉しそうに顔をほころばせながらも、周囲を見回してサティに目を留めた。
「そちらのエルフさんは“パラディン”の御関係?」
「いえ、彼女はサティといいまして」
「わたしのお母さん……」
アンジェリンが割り込んだ。ヘルベチカははてと首を傾げる。
「え……それはつまり……」
「……恥ずかしながら妻でして」
ベルグリフは照れ臭そうに言った。ヘルベチカは目を点にした。セレンが驚いたように身を乗り出した。
「ベルグリフ様、ご結婚なされたのですか? それはおめでとうございます!」
「ありがとうございます。私もまだイマイチ実感が湧いてはいないのですが……」
不意に腕に重みを感じ、ベルグリフは目をやった。ヘルベチカが怒ったように朱に染まった頬を膨らまし、涙目でジッとその顔を見据えていた。
「ずるい! わたしが忙しくしているうちに他のお相手を見つけてしまうなんて!」
「い、いや、ヘルベチカ殿」
「はーん、ベル君。随分若い子に言い寄られてたわけだねえ。色男」
サティがにやにやしながら背中を小突いた。妙に余裕があるようなのが却って不気味で、ベルグリフは焦ったように振り返る。
「違う違う、俺はそんな風に思った事はなくて」
「そんな! キスまでしたのに! あれは遊びだったのですか!」
「ちょ、ちょっとヘルベチカ殿! あれは頬にしていただいただけで、遊びも何も」
ベルグリフは慌てている。ヘルベチカは怒っている。アンジェリンとサティはにやにやしている。見ている女たちは大笑いしている。
収拾がつかなくなって来たところで、セレンがヘルベチカの首根っこを引っ掴んだ。
「お姉さま、いい加減になさいまし!」
「だってぇ……」
ヘルベチカは駄々をこねるように口を尖らした。セレンが呆れたように嘆息する。
「そんな顔をしても駄目です。そもそも最初から相手にされていなかったではないですか」
「うう……競争相手がいないと思って余裕を持ち過ぎたのが失敗だったのですね……くうぅ」
ヘルベチカは両手で顔を覆った。その肩をアンジェリンが抱いた。
「お母さんは前に話したお父さんの昔の仲間……年季が違うのだ、ふふ」
「……そうでしたか。随分お互いに一途なのですね」
「大丈夫……ヘルベチカさんならすぐに良い男が見つかるよ」
「どうして嬉しそうなんですか、アンジェリン様……ああ、もう」
ヘルベチカは諦めたように大きく息をついて、やれやれと頭を振った。
「確かに、ここで駄々をこねても仕様がありませんね……ベルグリフ様、サティ様、おめでとうございます。お祝い申し上げますわ」
「や、恐縮です」
ベルグリフはホッとしたように頭を下げた。サティはくすくす笑う。
「ふふ、ありがとうございます。しかしベル君に目をつけるとはお目が高いね、領主様」
「ええ、人を見る目だけはあると自負しておりますから」
「でも渡しませんよ」
「ええ、構いませんわ。わざわざ渡していただかなくとも」
「ほほう、中々強気ですねえ」
「ふふ、こう見えても諦めは悪い方ですので」
調子を取り戻して来たらしいヘルベチカと、変わらずに泰然自若としているサティとで、何だか恐ろしい会話をしている。ベルグリフが青くなっていると、パーシヴァルとカシムがやって来た。
「なんだ、賑やかだな。飯は?」
助かった、とベルグリフはホッと表情を緩めながら答えた。
「今作ってる。君たちは何をやってたんだ?」
「そいつは秘密だ」
「後になってのお楽しみさ、へっへっへ……ありゃ、領主のねーちゃんじゃないの」
「カシム様でしたね。ご無沙汰しております」
「なにぃ、領主だと? そこの小娘がか?」
怪訝な顔のパーシヴァルにヘルベチカたちを紹介し、どのみちダンジョンの事で相談しようと思っていたと話すと、パーシヴァルは納得したように頷いた。
「成る程、話にゃ聞いていたが、本当に若いな」
ヘルベチカはにっこり笑って優雅に礼をした。
「どうぞ、お見知りおきを」
「ああ、よろしくな。貴族は嫌いだが、話を聞く限り、あんたは悪いやつじゃなさそうだ」
サティがジトっとした目でパーシヴァルを見た。
「パーシーくぅん、失礼だぞ。年甲斐がないなあ」
「やかましい」
ヘルベチカとセレンはくすくすと笑う。
「構いませんよ。正直な方は好きですから」
「へへへ、パーシーよりも若い子の方がよっぽど大人だな、こりゃ」
「お前が言うんじゃねえよ。で、相談には乗ってもらえるんだな?」
「もちろん。しかしダンジョンとはどういう事です? この辺りに新しく発見されたのですか?」
「その辺りも含めてご相談したい事なのですが、村長も含めた方がいいかと……アンジェ、すまんがグラハムを呼んで来てくれるかい? お父さんたちは村長の家に行くから」
「はーい」
「サティ、君は」
「いいよ、わたしはあんまし興味ないし。ここでご飯作ってるから、早めに切り上げて戻っておいで」
「そうか」
いずれにせよいつまでも広場で便便としているわけにもいかない。荷物などは御付きや護衛達に任せ、ベルグリフたちはヘルベチカとセレンを伴って、村長のホフマン宅へと向かった。
庭先で馬の体を洗っていたホフマンは、ヘルベチカたちの姿を見とめるや大慌てで両手を拭いながら頭を下げた。
「これはこれは御領主様……」
「ご無沙汰しております、村長」
ホフマンは恐縮したようにぺこぺこと何度も頭を下げる。青髪の女行商人から来訪を告げられていたとはいえ、目の前にするとやはり緊張するようだ。
いつもするように庭先に椅子やテーブルを引き出して囲んだ。
周囲の生垣に綺麗な花が咲き、風にそよいでかさかさと揺れている。
支度をしているうちに、アンジェリンがグラハムを連れて来た。ミトも一緒である。
冒険者でなくとも、おとぎ話として流布している“パラディン”の冒険譚は子供の頃に聞かされる事が多い。ヘルベチカも、一瞬だけしゃちほこばった様子を見せたが、おかみさんみたいな恰好で子供にまとわりつかれているグラハムを見て、思わず吹き出した。グラハムの方は相変わらずの表情である。赤ん坊を抱いたまま小さく頭を下げた。
「……お初にお目にかかる。グラハムだ」
「ふふっ、こちらこそ。ヘルベチカ・ボルドーと申します」
「お久しぶりです、グラハム様。お元気そうで」
セレンも笑いながら頭を下げる。
「こんな格好で申し訳ない……子供らが離れてくれぬでな」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
雰囲気が和らいだままお茶が出て、少しばかりの雑談の後、ダンジョンの話になった。こうなっては、ミトの事も隠し通せるものではない。ヘルベチカたちを信頼して、その事も打ち明けた。
当然ながら驚いた顔をした二人だったが、彼女たちもベルグリフやアンジェリンの事は信頼しているし、グラハムを始めとした実力者が揃っている事もあって、特にミトの事を追及する気はないようだった。
そこから、前回の旅路で魔石を得て来た事。それを加工してグラハムが特殊な道具を作った事などを説明した。ヘルベチカは口元に手をやって、考えるような顔でミトを見た。ミトはきょとんとした顔でヘルベチカを見返している。
「……では、ミト君の魔力を利用してダンジョンを」
「そういう事になります。前例がありませんから、我々もあまり詳しい話はできないのですが」
「そうでしょうね。中々聞かない話です」
「どうだい、実際のところ。ダンジョンはボルドーにとっても悪い話じゃないと思うけど」
カシムが言った。ヘルベチカはにっこり笑った。
「端的に言って難しいですね」
予想外の言葉に、一同は目を丸くした。アンジェリンが身を乗り出す。
「ヘルベチカさん……お父さんに振られたのがそんなに悔しいの?」
「ちょ、ちょっと! 人が意趣返しに意地悪をしているみたいに言わないでください!」
「違うの……?」
「全然違いますから……こほん」
ヘルベチカは咳ばらいを一つして、周りを見やった。
「まず、そのように便利なものであれば正直なところボルドー近郊に欲しいですわ。ミト君の魔力次第で難易度が調節できる、と考えてもよさそうですから。それに何かあった際にも、大きなギルドが近い方が対応が楽です」
「そうでしょうな。初めはそれで考えていたんです」
「ふむ?」
ベルグリフは、最初こそボルドー近郊に造る事を考え、グラハムが旅支度や準備を整えていた事を話した。
「しかし、若者たちがトルネラにダンジョンが欲しいと言い出したのです。経済基盤になるというのも理由の一つですが……若者たちが村を出るよりは、こちらでつなぎ止める何かがあった方がいいと思ったのも事実でして」
「成る程……ふふ、ベルグリフ様やアンジェリン様に憧れた者たちが増えたのですね?」
ベルグリフは苦笑した。
「そう言われると立つ瀬がないのですが……概ねそんなところです。もちろん、村の中でもダンジョンに良い顔をしない者たちもおりますが、表立って反対する者はおりませんので」
「それが怖いのですよ、ベルグリフ様」
ヘルベチカは真面目な顔をしてベルグリフを見た。
「不満というのは蓄積していくものです。表に見えずとも、人の心というのは不意に爆発するもの。今はまだ問題が起こっていないから静かなだけ、という事もあります。ダンジョンは人が出入りするものでしょう。経済基盤としたいのであれば、トルネラの若者だけではなく、外から冒険者が入って来る事は現実的に避けられない話です」
「そりゃそうだ。だがそれが何か問題か?」パーシヴァルが言った。
「例えば、元から交易の要所として人が出入りする場所であれば問題ないでしょう。しかし、トルネラは農村です。ベルグリフ様の噂を聞くまでは、わたしも見落とすほどに小さな、ね」
「えっと、つまり?」
アンジェリンが首を傾げた。ヘルベチカは微笑む。
「人の出入りが少ないという事は、外部から人が来る事を拒む傾向があるのですよ。安定と平穏を求める農村の文化と、変化と刺激を求める冒険者の文化は違います。その違いが問題を引き起こすのは間違いありません」
「ちょっと待ってくれよ。トルネラはそんなに排他的じゃないぜ? オイラたちだってよそもんだけど、ちゃんと受け入れてくれてる」
「それはベルグリフ様のおかげでしょう。カシム様もパーシヴァル様も、ベルグリフ様の旧友であるという前提があります。察するに、トルネラで受け入れられている外部の者は、誰もがベルグリフ様を介してではありませんか?」
ヘルベチカはそう言ってホフマンを見た。ホフマンは目を伏せて頬を掻いた。
「それは、確かにそうですな……カシムやパーシー、サティはもちろん、グラハムさんもダンカンもベルのとりなしがあったし……いや、しかし彼らが良い連中だったからこそで」
「もちろん、そうでしょう。しかし、ダンジョンを造り、ギルドを経営する事になれば、それこそ縁もゆかりもないならず者のような冒険者がやって来る事だってあり得ます。むしろ確定事項でしょうね。ダンジョンに前向きでない者は些細な事も不満として溜め込むでしょう。問題とは言えずとも、村の雰囲気が変わる事自体を不快に思う事だってあります。それだけではない、それを利用して自分が甘い汁をすすろうという者まで呼び込む事になっては、いずれ村が分裂するかも知れません」
「俺やグラハムじいさんが抑えるのじゃ不十分か?」
パーシヴァルがやや不機嫌そうに言った。しかしヘルベチカは泰然としている。
「とても頼もしいですわ。けれどこれは何かを切り伏せて解決する問題ではありません。そもそも一年中、一日中気を張り続けられますか?」
パーシヴァルは黙って目を伏せた。彼も熟練の冒険者だ。強がってできると言うような無鉄砲さはない。
「ちょ、ちょっと待ってよ、ヘルベチカさん……」
アンジェリンが焦ったように口を挟んだ。
「言ってる事、全部分かるよ。大事な事だと思う……でも、まだ推測だけじゃない……そんな風に考えてたら、新しい事なんて何にもできないよ……それに、そうそう悪い人なんか来ないよ。来てもお父さんもおじいちゃんもいるんだし……」
「……わたしもそう油断して、マルタ伯爵の謀反を招いてしまったのですよ」
これにはアンジェリンもベルグリフも二の句を継げずに口ごもった。
確かにヘルベチカは意地悪で言っているのではない。自分が味わった苦い経験を元に、トルネラの事を考えて言ってくれているのだ。だから強硬に反論しようとも思えなかった。
一同が困ったように顔を見合わせているのを見て、ヘルベチカはくすくす笑った。そうしてぱんと手を打ち鳴らす。
「さあ、問題点を理解していただいたところで、建設的な話に参りましょうか」
「……はっ?」
これには一同、また別の意味で目を丸くした。アンジェリンがおずおずと口を開いた。
「……ヘルベチカさん、反対じゃないの?」
「難しい、とは言いましたよ? 誰が反対なんて言ったのです?」
ヘルベチカはそう言っていたずら気に笑った。カシムが降参したように両手を上げた。
「こりゃ参った。流石は領主様だよ、オイラたちじゃ敵わんね」
「……ダンジョン経営ともなれば、剣の腕よりも政治の才覚ってわけか。お手上げだ」
パーシヴァルもそう言って苦笑いを浮かべた。アンジェリンが口を尖らしてヘルベチカを見、それからセレンの方も見た。
「……気付いてたの?」
セレンはくすくすと笑いながら頷いた。
「お姉さまの目が輝いてましたからね。乗り気なのは間違いないかな、と」
だから口を挟まずに黙っていたのか、とベルグリフは頭を掻いた。今回はこの姉妹に完全に一本取られたようだ。
セレンと同じように何となく事情を察して黙っていたらしい様子のグラハムが、口を開いた。
「……そなたたちは、村人たちの不満がベルやその周辺に向く事を懸念しておられるのか」
「ふふ、そうです。村長や若者たちも関わっているとはいえ、言い方は悪いですが、ダンジョンの話も中心は殆ど外から来た方々ばかりで固められています。いざ問題が起きれば、よそ者という分かりやすい記号に不満が向くのは想像に難くありません」
「いや、我々は……や、そんな事は言えませんな」
何か言いかけたホフマンだったが、諦めたように口をつぐんだ。現にかつてベルグリフを邪険にしたという過去がある分、絶対にそんな事はないというのが憚られるらしい。
ベルグリフがホフマンの肩を叩く。
「あんたが気にする事ないさ、村長」
「……色々言いましたが、わたしはトルネラは他の村とは違うと思っているのですよ。だから、もしかしたらわたしの懸念は半分も当たらないかも知れない。しかし、物事に絶対はありませんから」
ヘルベチカは言った。ベルグリフは頷く。
「それが領主としての務めでしょう。当然の事です」
「そうだよ。ミトの騒動の時だって、どいつもこいつも助けようって言ってくれたじゃんか。何とかなるって」
カシムがそう言ってからから笑った。パーシヴァルが身を乗り出す。
「それで領主様よ、具体的にはどうすればいいと思う?」
「現状では、村での話し合いでダンジョンが決まったという事になっているのでしょう? それはつまり、言い出しっぺが責任を負わされるという事。それがベルグリフ様だというのが、わたしには不安なのですよ」
「……言い出しっぺはパーシーさんだけど」
アンジェリンが言うと、パーシヴァルは目を逸らした。ヘルベチカがふふっと笑う。
「ともかく、責任を負う立場はベルグリフ様なのでしょう? その上に誰かがいれば……そう、例えばボルドー家から直接とか」
ベルグリフは合点が入ったように頷いた。
「なるほど……村主導という形ではなく、領主であるボルドー家直々の管理という形にするわけですか」
「そうです。それでも完全に不満を取り除くのは難しいでしょうけれど……」
ヘルベチカはそう言ってお茶をすする。セレンが後を引き取るように言った。
「自分たちで言うのも何ですが、ボルドー家の威光というものも馬鹿にできませんからね。不満が爆発して大問題に発展する、という可能性は抑えられるのではないかと」
トルネラは良くも悪くも気質が古いところがある。開拓者の子孫としての矜持もあるけれど、自分たちを田舎者だと自認している分、領主を始めとした貴族階級に対しては従順だ。そのボルドー家直々ともなれば、自分を納得させるのもしやすいのだろう。ボルドーは既に領主と冒険者ギルドとの連携ができている。トルネラでもそうするのは難しい話ではあるまい。
「しかしそうなると……ボルドー本領から誰かが来なくてはならないのでは?」
ベルグリフが言うと、ヘルベチカは待ってましたと言うように胸を張って手を当てた。
「もちろん、その通りです。そこでわたしが直々にトルネラに居を移してですね」
「お姉さま!? 何をおっしゃっているのですか!」
「あら、駄目かしら? 本領にはアッシュもいるし」
「駄目に決まってるでしょう。領主が本領を離れては差し障りがあるに決まっているではないですか。誰か別の者を任命していただかないと」
「そう。それならセレン、あなたがなさい」
「……えっ!?」
「あなたもそろそろ村か町の一つを治めて経験を積む頃だと思っていたの。トルネラならベルグリフ様もおられるし、預けるのも安心だわ」
「えっ、えっ、そんな事急に……」
「セレンなら大歓迎だよ……」
アンジェリンが嬉しそうにセレンの肩を抱いた。セレンはもじもじしている。
「それは……もちろんそういう時が来る事は考えていましたけれど……で、でも現村長のホフマン様がおられるのですし、わたしのような若輩が……」
「いやいやいや、セレン様に来ていただけるなら、私なんぞはもう……」
「で、でも……」
しばらく考えていたベルグリフが口を開いた。
「では、ひとまずホフマンが村長のままで、セレン殿には村長補佐という形で入っていただくのはいかがでしょう?」
「そうね、それが波風が立たなさそうでいいわ。セレン、それでも嫌?」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……」
「それならいいじゃないの。別にずっとトルネラにいろというわけじゃないの。ここは新しい形を模索しているのだから、あなたが力になってあげなさい。やり遂げれば、あなたにもいい経験になる筈よ」
セレンは目を伏せて嘆息した。
「……分かりました。でもすぐには無理ですよ? 諸々の準備がありますし」
「それはもちろん。それに、ダンジョンだってすぐには動かせないでしょう。ねえ、ベルグリフ様?」
ベルグリフは苦笑交じりに頷いた。
「我々もそういった事に関しては素人ですから……体制作りをしない事にはまだ稼働するのは難しいかと」
「ね? 大丈夫、わたしもちょくちょく様子を見に来てあげるから」
「……ヘルベチカさん、それが目的じゃないの?」
警戒するようなアンジェリンの言葉に、ヘルベチカはぺろりと舌を出した。パーシヴァルが声を上げて笑う。
「こいつはいい。冒険者上がりばっかりよりはよほど心強いぜ」
「ま、これで焦る必要がなくなったって事だね。セレンちゃーん、よろしく頼むよー」
カシムがにやにや笑って山高帽子を指先でくるくる回した。ホフマンがホッとしたような顔をする。
「では、この話はひとまず大丈夫って事ですな。ヘルベチカ様、明日は村の春告祭なんです。是非参加して行ってください」
「ありがとうございます、喜んで」
何だかまた凄い事になって来たな、とベルグリフは思いながら、少し冷めたお茶を口に運んだ。グラハムも満足そうに微笑んでおり、ミトはよく分かっていないような顔をして、皆の顔を順番に見ている。
アンジェリンがにまにましながらベルグリフの腕に抱き付いた。
「セレンが村長! 凄いね……」
「そうだな」
元はといえば、アンジェリンがセレンを助けた事からつながった縁である。巡り巡ってこんな事になるとは、とベルグリフは笑い、さて、昼飯にしようと皆を伴って広場へと戻った。
陽は高く、いいお天気である。
6月15日に書籍五巻が出ます。コミカライズの十一話も更新されています。
詳しくは活動報告にどうぞ。




