一二二.大剣の唸り声が、柄を握った手から
大剣の唸り声が、柄を握った手から全身に響いている。腹の底にずしんと来て、腰が据わるような心持だ。
ヴェール一枚隔てたようだった記憶の輪郭がはっきりして、的皪と輝きを増したように思われた。
エルフであるサティはあの頃と変わらなかった。美しく滑らかな銀髪、柔和そうな顔つきなのに、意思の強さをうかがわせる太い眉。だが顔立ちこそ変わっていないのに、なんだか大人びたように見えるのは互いに年を取ったからだろうか。
もっとまじまじと見つめたかったが、今はそう言ってもいられない。目の前の相手に集中しなくてはなるまい。
「ベル君、あのカラスたちは殺さないでね」
サティが言った。ベルグリフは目だけ上にやる。巨大なパセリの枝に二羽のカラスがいて、こちらを見ていた。ベルグリフはフッと口端を緩めた。
「分かった」
「ごめんね。本当はもっと別の事話したいのになあ」
サティがそう言って寂しそうに笑った。ベルグリフは微笑んだ。
「全部終わったら、ゆっくり話をしような」
「あはは、いっぱい聞きたい事があるよ。話したい事も」
ベルグリフは目を細め、周囲の戦いを軽く見やった。
ついさっき、と言っていいくらい前に会ったばかりの聖堂騎士たちの姿がある。
フランソワの後ろにいる男が噂の皇太子だろう。
カシムと向き合っている男はかなりの手練れのようだし、近距離は不得手とはいえアネッサとミリアムを一人で相手取っているメイドもただ者ではない。
皇太子の恰好をした男が小さく笑った。しかし目は笑っていない。
「白馬の王子、というには少し野卑だな。やれやれ、困ったもんだ」
そうしてベルグリフの後ろにこそこそと隠れている小さな影を見て、眉をひそめた。
「おい、マイトレーヤ。どうしてそっちにいるんだ?」
マイトレーヤは「ひっ」と小さく悲鳴を上げたが、思い直したようにベルグリフの陰から顔だけ出して、あかんべえと舌を出した。
「わたしは勝ち馬に乗る。それだけ」
アンジェリンが怪訝な顔をした。
「誰、あなた」
「わたしはマイトレーヤ。“つづれ織りの黒”の異名を持つ偉大なまほ――」
マイトレーヤが言い終わる前に、カシムとシュバイツの魔法がぶつかって大仰な音を立てた。ベンジャミンはやれやれと頭を振った。
「……君には失望したよ。いいさ、まとめて片付けてやろう」
ベンジャミンは目を閉じて何か小さく詠唱を始めた。ドノヴァンが眉をひそめて剣を構えた。
「まったく、お前には驚かされる……だが丁度いい」
「ドノヴァン殿、私とあなた方が争う理由は何もない筈ですが」
「ふん、帝国への反逆者の分際で何を言うか。お前の娘は殿下を偽者呼ばわりして剣を向けた挙句、その浮浪者を本物の殿下だとのたまいおった。処断するには十分だろう?」
ベルグリフは驚いて後ろを見る。アンジェリンとサティの横に、みすぼらしい恰好の男がうずくまっていた。ベルグリフがアンジェリンを見ると、アンジェリンは首肯した。
「この人が本物。ここに捕まってたの」
「そうか……」
思った通り、本物のベンジャミンを殺すわけにはいかなかったのだろう。何とかドノヴァンを説得したいと思うが、この状況ではそうも言っていられないかも知れない。戦うしかないか。
ドノヴァンも中々の腕のようだ。闇雲に切り込んで来るわけではなく、ベルグリフの様子を窺うようにしてじりじりと間合いを測っている。突如として現れた援軍の規模を確かめているようにも思われた。
ベルグリフも油断なくドノヴァンを見据え、一挙手一投足に反応して小さく動いた。
アンジェリンがハッとしたように目を見開いた。
「お父さん! ちょっと行くね!」
アンジェリンは飛ぶように駆けて、ミリアムにナイフを突き立てようとしていたメイドを蹴り飛ばした。ミリアムは青ざめてぶるりと震えた。
「ああありがとアンジェ……死ぬかと思った」
「こいつはわたしが相手する。二人はお父さんの後ろを守って」
「分かった。やっぱり後衛が前衛の相手しちゃ駄目だな」
アネッサが苦笑しながら短刀を腰の鞘に戻して、ミリアムと後ろに下がった。
ベルグリフは剣を構え直した。
「……本当は言葉で解決したいが、そうも言っていられないようですな」
「ふん。あの獅子のような男はいないのか。剣は見事だが、お前如きに遅れは取らんぞ……ファルカ!」
ドノヴァンが怒鳴ると、マルグリットの相手をしていたファルカが戻って来た。アンジェリンに斬られた脇腹の血はもう止まっている。
「いい折だ。奴を殺して剣を破壊しろ。あのエルフは私が引き受けてやる」
そう言って、ドノヴァンはファルカを追って来たマルグリットに向かって行った。
ファルカはベルグリフを見ると目に見えて嬉しそうに剣を構え、次の瞬間には飛びかかって来た。上段からの斬撃である。大剣で受けると、ファルカの剣の魔力とぶつかって、魔力の欠片が火花のように散った。剣が唸り声を上げた。
ベルグリフは怒鳴った。
「サティ! 走れるか!?」
「え、うん!」
「場所が悪い! 殿下を連れて森を出ろ! ミリィ! アーネ! 二人を頼む! マイトレーヤ、みんなと一緒にいろ!」
ベルグリフはそう言うと、大剣を横なぎに振った。ファルカは後ろに跳んでそれをかわす。しかし剣は脇に立つパセリの大木をすんなりと切り倒した。木は音を立てて倒れ、前に来ようとしていたファルカの道を塞ぐ。
「走れ!」
頭上で羽音がした。カラスはサティたちを追いかけるようだ。
サティたちが後ろに駆けて行く気配を感じながら、ベルグリフは道具袋から閃光玉を取り出して放り投げた。それはパセリの枝を斬り払って来たファルカの眼前で弾けて、強烈な光を迸らせた。
「……ッ!」
夜の闇のさなか、不意に目を襲った閃光にファルカの視界は眩み、うろたえて立ち止まった。
その隙を逃さず、ベルグリフは前に跳び出し、剣の腹でファルカの腕を打ち据えた。ファルカは息を絞るような悲鳴を上げて膝を突いた。相当の衝撃の筈だが、それでも剣を取り落とさないのは剣士の意地だろうか。
「悪いがその剣とまともに切り結ぶ気はないんだ。少し眠っていてもらうぞ!」
ベルグリフは体勢を低くし、今度はみぞおちに掌底を叩き込んだ。ファルカの肺から空気が逃げ出し、ぐるりと白目を剥いてうつ伏せに倒れ伏した時、向こうで再び大魔法同士がぶつかって、大きな衝撃がパセリの木々を揺らした。
弾けた魔法の残滓が光の筋になって宙に散らばっている。それらは明滅しながら生き物のように動き回り、やがて溶けるように消えてしまう。
ぶつかり合った魔法の衝撃で舞い散ったパセリの葉の爽やかな匂いが、緊張するべき筈の場に不釣り合いで、カシムは山高帽子を押さえながら笑った。
「へっへっへ、腹が減っちゃうね、どーも」
相対するシュバイツは顔をしかめたまま一定の距離を保ってカシムを見ている。
カシムは指を回した。弾けて切れ切れに舞っていた魔力が渦を巻いて集まって来る。シュバイツがため息交じりに呟いた。
「……面倒な男だ」
「そりゃお互い様だろ」
カシムは指先をシュバイツに向けた。集まった魔力が矛のようになってシュバイツを指向する。
「オイラはお前じゃなくて友達と話がしたいんだけどな」
「そうか」
「結局お前らは何を企んでんの? 世界征服でもするつもり?」
シュバイツは冷笑を浮かべた。
「この世界にそんな価値があると思うか」
「思わなかったね、今までは。けど今はオイラは色んなものが愛おしいのさ。お前らが好き勝手しようってんなら、体張って止めてやろうってくらいにはね」
カシムが指先を小さく動かした。
鋭い魔力の槍が幾つもシュバイツに襲い掛かった。
だがシュバイツは魔力の壁でそれらを受け止めてしまった。そのまま半透明の壁は膨らんでカシムの方に迫って来る。
カシムはひょいと後ろに跳ぶと、腕を振り上げ、振り下ろした。上の方に溜まっていた魔力の塊が、大金槌のように魔力壁を打った。強烈な振動に、中にいるシュバイツも流石に眉をひそめた。
「どーした、守るだけかあ?」
さらにカシムは両手を地面に付けた。体中の魔力が手を伝って地面に潜り込み、地中をものすごい勢いでシュバイツの方へと向かう。
シュバイツはピクリと反応して、十歩近い距離を一足で飛び退った。さっきまでシュバイツのいた所には、地面から槍のような魔力が突き出していた。
「流石、一筋縄じゃいかないね」
シュバイツは黙ったまま指先を動かした。カシムの両脇の空間が、まるで彼を押しつぶすかのように質量を持って迫って来た。
カシムはハッとして身をかがめて脇へ飛んでそれを避ける。ぶつかり合った空間は少し揺らいだが、すぐに何事もなかったのように元に戻った。
息をつく間もなく、今度は地面が生き物のように波打って、カシムの足を捕まえた。頭上からは何かが覆いかぶさるような気配がする。
「やべっ」
カシムは素早く指先に魔力を集めて早口で詠唱し、足を掴んだ地面に触れた。
「崩壊しろ!」
途端に地面は泥細工のように易々と崩れ、カシムの足を手放した。カシムは後ろに転がるように逃げると、見えない何かがのしかかったように地面がぼこりとへこんだ。
カシムが不機嫌そうに顔をしかめる。隙ができたから慌てて構え直したのだが、シュバイツは向こうに突っ立ったまま手を出して来ない。カシムは舌を打った。
「なーんか、お前遊んでる感じがするなあ。別に本気出せとは言わないけど、やる気がないならどっか行けよ。オイラも暇じゃねーんだ」
「……少しの障害も、また流れを加速させるか」
「あん?」
「いいだろう」
唐突に、シュバイツの右腕が燃え上がった。真っ青な炎である。それが人魂のように次々とシュバイツの周りに浮かび上がり、銘々に動き回って威嚇するように勢いよく燃えた。
カシムは山高帽子をかぶり直した。
「なるほど、“災厄の蒼炎”ってそういう事ね……」
それぞれに浮かんでいた青い火が鎖のように連なったかと思ったら、蛇のように宙をのたくってカシムに向かって来た。触れたパセリの葉が燃え上がり、辺りは青白い光で照らされる。
「おいおい、森林火災でも起こす気かよお」
カシムは身をかわしながら魔力を集中した。
『地を穿つ 空を穿つ 魂を穿つ』
素早く詠唱し、大魔法を放つ。
魔力の牙が炎の蛇に食らいついた。
しかし炎は変幻自在に形を変え、魔力の牙を包み込むようにして燃え盛る。カシムも魔力を注いで対抗するが、炎の勢いが強く、額には汗がにじんだ。悪名高い“災厄の蒼炎”の力は伊達ではないようだ。
決して楽観できる状況ではないのに、カシムの顔には笑みが浮かんだ。強敵と戦うのに心躍るのは冒険者の性だ。
「へへ、オイラを魔法で押すとは流石だぜ……」
魔法で鍔迫り合いながら、カシムはもう片方の手で魔力の槍を準備する。炎の蛇がさらに強く燃え上がった時、カシムは一気にそれを撃ち放った。槍は細く強く、炎の一点を突き抜けてシュバイツへと向かい、そのまま肩に突き刺さった。
「むッ!」
シュバイツは顔をしかめ、少しよろめいた。炎の勢いが弱まる。
ここぞとばかりにカシムは魔力の牙に力を注いだ。巨大な獣の口のようなそれは、炎の蛇を噛み砕く。
「まだまだァ!」
カシムはさらに空中に魔弾を幾つも生成する。しかし通常の魔弾のように丸みがある形ではない。鋭く、矢のようだ。槍ほどの強度も長さもないが、生成に時間がかからない。
一気に十数本生成されたそれらが、一斉にシュバイツへと放たれた。勢いの弱まった炎では、それらを食い止めるには及ばないようだ。
シュバイツは舌を打つと、炎の蛇を消し去った。押していた魔力が消えたせいで、カシムはバランスを崩してたたらを踏む。
蛇を消した代わりに右腕の炎の勢いが増した。
シュバイツはまるでマントのように炎をまとったと思うや、それを振って迫って来た魔法の矢を受け止めた。矢は青い炎に焼かれて魔力に戻り、空中に溶けて消えた。
「見事だ“天蓋砕き”……」
シュバイツは炎に身を隠したまま、さらにそれを燃え上がらせた。周囲に林立する巨大なパセリの木に燃え移り、枝を伝っていよいよ火事になって来た。
辺りは青く照らし出され、目がちかちかする。炎に取り巻かれ、戦いどころではない。
「もう、カシムさん張り切り過ぎ……」
アンジェリンは顔をしかめて、炎の塊になった木々の間を縫って走った。燃えていて熱いのに、照らす光は青いのが何だか気持ちが悪い。
不意に背筋がぞくぞくして、剣を構えた。刀身に小さなナイフが当たった。
アンジェリンはナイフの飛んで来た方を睨むが、何かの影が素早く動いて炎に紛れるばかりだ。
「ええい、さっきからもう」
アネッサとミリアムに代わり、虚ろな目をしたメイドを相手取ったアンジェリンだったが、メイドは相手がアンジェリンだと見て取るや、決して近距離戦を挑もうとはせず、常に一定の距離を保ちながら死角を狙って移動し、暗器を利用した攻撃を加えて来た。熟練の暗殺者を彷彿とさせる見事な身のこなしで、追いかけようにもこの夜の闇に紛れられては、流石のアンジェリンでも攻めきれないほどだ。
周囲に木があるというのも相手に有利に働いている。さらに今は炎が邪魔して身動きが取り辛い。
「真正面なら絶対負けないのに」
アンジェリンはぼやきながら、またしても投擲されて来た細い針を剣で打ち払った。
こんな攻撃を食らう気はまったくしないけれど、防戦一方というのは気に障る。こちらをまともに相手にしようとしない敵は実にやりづらい。
炎はどんどん勢いを増し、パセリ林に沿って燃え広がって行く。
だがこれはチャンスでもある。このまま広い所に出られれば、相手は隠れる場所がない。障害物のないだだっ広い場所での戦いはアンジェリンの望む所である。
「うわっ、と」
今度は頭上から降り注いだ針の雨をかわした。パセリの葉の燃えカスが降って来る。
「ぐむ、枝の上を」
メイドは枝の上を猿の如き動きで移動しているようだった。アンジェリンはスカートであんな所に上ったら丸見えだな、などとのんきな事を考えた。尤もこの状況ではスカートの中身など暗くて見えない。
どうやらあちらは先回りして、こちらを森から出さない算段のようだ。
それならば、とアンジェリンは素早く周囲を見回して、まだ燃えていないパセリの木に足をかけて飛び上がった。低い枝を足場にして一気に上へと昇る。途中でナイフや針が飛んで来たが打ち落とした。
炎の熱気が上がって来て、上の方が熱いくらいだった。しかし見通しは悪くない。メイドの姿も捉えた。
「鬼ごっこは終わりだ……!」
アンジェリンは枝を蹴ってメイドに肉薄する。逃げるかと思われたメイドだったが、意外にも真っ向からアンジェリンの剣を受け止めた。だが正攻法で戦うつもりは微塵もないらしく、受けたと同時に足で枝を思い切り揺らした。
アンジェリンは思わずバランスを崩す。
それを見逃さず、上から短刀が振り下ろされた。
「くぬっ!」
アンジェリンは腕を伸ばしてナイフを持つ手首を掴んで、すんでの所で刺突を避けた。メイドの虚ろな目に自分の姿が映るのが見える。さっきファルカに殴られた所がズキンと痛み、アンジェリンは歯を食いしばった。
その一瞬の隙を突いて、メイドはアンジェリンの足を払った。
だがアンジェリンもメイドの手首を放さない。二人はもつれ合うようにして枝から落ちた。
「この!」
アンジェリンはメイドを引っ張って無理矢理自分よりも下にすると、その体を踏みつけて跳んだ。
メイドは背中から地面に落っこちたが、かろうじて受け身を取ったらしく、よろよろと立ち上がった。
何とか勢いを殺して着地したアンジェリンは素早くメイドに近づくと剣を振りかぶった。
「……御慈悲を」
「!」
メイドの目からつつと涙が流れた。哀れを誘うその姿に、アンジェリンは咄嗟に剣を止めた。だがその瞬間、メイドはその表情のまま短刀を突き込んで来た。
「ぐっ!」
身をかわしたが、太ももに一筋の傷が走り鮮血が舞った。
だがアンジェリンはひるむ事なく即座に剣を持ち変えると、今度は容赦なく一閃した。
メイドの首が宙を舞い、首から血が噴き出した。
倒れ込んだメイドの体が動かない事を確認して、アンジェリンは剣を収めた。
「……嫌な相手だった」
おそらく暗殺者としては一級だったであろう。最後の涙はアンジェリンもすっかり騙されてしまった。
突っ立っている場合ではない。アンジェリンは踵を返して、燃え盛る森から出ようと駆け出した。
森の外ではカラスが旋回して、下にいる獲物目掛けて幾度も急降下を繰り返していた。
ベンジャミンを庇うようにしてサティが立ち、アネッサとミリアムはそれぞれに武器を構えてカラスを睨み付けていた。
「くそ、動きが速いな……」
「どうしよー、捕獲系の魔法は不得意なんだよなー」
サティが申し訳なさそうに言った。
「ごめんね二人とも、無茶を言って」
「何言ってるんですか、わたしたちだって操られている子供を殺したくありませんよ」
「そうそう! おーい、暴れてないで戻っておいでよー! うわっと!」
カラスが矢のように降下して来て、ミリアムの脇を通り抜けて行った。二人ともカラスの爪やくちばしがかすって線のような傷を幾つもこしらえている。
サティが怒鳴った。
「ハル! マル! いい加減にしなさい! あなたたちは黙って操られるような弱い子じゃないでしょ!」
カラス二羽は飛びながらぎゃあぎゃあと喚いている。アネッサが舌を打った。
「なんとか……動きさえ止められれば」
「アーネ、トリモチ持って来てないのー?」
「こんな状況になるとは思ってないから……くそ、参ったな」
普段はアネッサの装備の中にある先端にトリモチの付いた矢は、身軽にするためにと宿屋に置いたままだ。ミリアムの雷の魔法ならば命中するだろうが、殺してしまっては意味がない。
アネッサは見返った。
「マイトレーヤ、何とかならないか?」
ベンジャミンの隣で小さくなっていたマイトレーヤは目を細めた。
「……あのカラス、そんなに大事なの?」
「ちょっと、今はそんな事言ってる場合じゃないよお! わあ!」
カラスのくちばしがミリアムの帽子を跳ね飛ばした。アネッサが威嚇の為に矢を放った。カラスはそれをかわして、矢を放って無防備になったアネッサに向かって来た。
「しまっ――」
だがカラスはアネッサをくちばしで突き刺す前に、何か打たれたように体勢を崩し、ぎゃあぎゃあと喚きながら舞い上がった。アネッサが呆気に取られて後ろを見ると、サティが片手を前に出していた。彼女の魔法か何かだったのだろうか。
サティは大きく息を吸って前に出た。
「ごめんね……もう大丈夫。やっつけよう」
「え、でも」
「わたしの我儘であなたたちを傷つけるわけにはいかないよ」
そう言ってサティはカラスを睨んで構える。マイトレーヤが言った。
「……大事じゃないの?」
「……子供みたいなものだけどね。でも仕方ない」
「そう」
マイトレーヤは立ち上がって両手を軽く開いた。魔力が渦を巻いて風のように服の裾を揺らす。
「地面に落としてくれれば捕まえられる。後で依頼料頂戴ね」
「もっと早くやる気出してくれよ! ミリィ! やれるな!」
「まかせろー!」
ミリアムは杖を振って、威力の低い魔弾を幾つも打ち出した。カラスたちはこの反撃に面食らい、慌てて回避する。
「よし!」
それを見たアネッサは矢じりを折ると、代わりに先端に布を巻きつけて素早くつがえ、放った。
矢はカラスが魔弾をかわした先に飛んで行き、その羽の付け根をしたたかに打ち据えた。カラスはぎゃっと悲鳴を上げ、もんどりうって地面に落ちる。すると、影がぐにゃりと伸びて鎖のようにカラスを絡め取った。
続いてもう一羽も同じように地に落ち、どちらのカラスも自らの影に拘束されて動けなくなっていた。
サティが呆気に取られて目をしばたかせた。
「はは……流石はアンジェのパーティメンバーだね……ありがとう!」
「へへ、サティさんにそう言ってもらえるのは光栄ですよ」
「えへへー、ベルさんの仲間に褒めてもらえるってだけで嬉しいもんね。これでこっちは一件落着かにゃー?」
ミリアムは帽子を頭に乗せて辺りを見回した。森を燃やす青い炎が辺りを照らしている。
まだどこからか剣戟の音が聞こえて来る。まだ燃えている森の裾辺りでひゅんひゅんと空気を斬る鋭い音を響かせているのは細剣だ。それが先細りの騎士剣を一方的に攻め立てて圧倒している。
防戦一方のドノヴァンに対して、マルグリットは余裕の表情で笑みさえ浮かべていた。
「おらおら、どーした。腰が引けてんぞ、おっさん」
「くっ、おのれ……」
ドノヴァンは乱暴にマルグリットの細剣を打ち払い反撃に出たが、マルグリットは涼しい顔をしてそれを避けて前に出ると、ドノヴァンの腹を蹴り飛ばした。ドノヴァンは後ろに数歩下がり、腹を押さえて歯を食いしばった。
「詰まんねえな。あの兎の方がよっぽど強かったぜ」
「野卑な……これが高貴な種族だというのか」
おとぎ話でよく聞かれる清廉なエルフの印象とは正反対の性格のマルグリットに、ドノヴァンも眉をひそめていた。しかし、周囲で燃え盛る青い炎に照らされるその容姿は、凛として美しい。
だがそれ以上に強すぎる。聖堂騎士として長く経験を積み、決して弱くはない筈のドノヴァンがほとんど手も足も出ない。
マルグリットは細剣を軽く振って、地面をとんとんと蹴った。周囲を見回し、着実に燃え広がる青い炎を見て眉をひそめる。
「ぼつぼつ終わりにしようぜ。これで焼け死んだら間抜けだしな」
「舐めた口を……ッ!」
その時、ドノヴァンの後ろから何かゾッとするような気配がした。マルグリットはもちろん、ドノヴァンも驚いたようにそちらを見る。
そこには黒い衣をまとった妙な者が立っていた。確かに人の形をしてはいるが、およそ生者の持つ命の気配というものはまったくない。代わりというように、肌に刺すような死の気配が全身から発され、見るだけで気分が悪くなるようだった。
黒い衣の怪物は、顔に当たる部分にある二つの赤い目でマルグリットを見た。ドノヴァンの方は見もしない。
「ノ、ノロイか……? いや、しかしこれは……」
「ははっ、聖堂騎士ってヴィエナ教だっけ? 物騒なもん連れてんだな」
マルグリットは本能的に粟立つ肌を誤魔化すように陽気な口調で言った。ドノヴァンは舌を打った。
「……これが私に味方するというならばそれも主神の御心に相違ない」
「随分都合のいい神様なんだな。お前、案外信仰心ないだろ」
マルグリットはそう言って剣を構えた。
黒い衣の怪物は、地の底から響くようなうめき声を上げ、マルグリットに跳びかかった。衣の下からしなびた長い腕が伸びて来て、捻じれた爪の手がマルグリットの細剣を引っ掴んだ。
「この、キモいんだよ!」
マルグリットは力任せに剣を振り抜いた。
しかし手は切り裂けず、怪物は地を這うようにしてマルグリットへと向かって来る。
マルグリットは素早く体を捻って怪物に細剣を突き込んだ。しかし手ごたえがない。それだけでなく、刀身に何か絡みついて来るような嫌な感じがして、慌てて剣を引く。
「くそ、やりづれえ……」
青い火に照らされた怪物を見る。人の形をしているとはいえ、急所が同じとは限らない。むしろどこに剣を突き込んでも逆に危ないように思われた。
魔王すら屠って来たマルグリットであるが、この黒衣の怪物はそれとも違う妙な歪さを感じさせ、どうにも手を出す事をためらわせた。
怪物の陰からドノヴァンが斬りかかって来た。
マルグリットは危なげなく受け止めるが、同時に怪物の方もかかって来る。武器らしい武器を持っていないのに、その手に触れられる事を想像すると肌が粟立った。
手をかわし、ドノヴァンを押し返し、後ろへ距離を取ってマルグリットは息をつく。ドノヴァンは凶悪な笑みを浮かべて剣を構え直した。まるで怪物の力が体に乗り移っているようだった。
「……仲良しじゃねえか。暗黒騎士に名前変えたらどうだよ」
「その減らず口、すぐに叩けなくしてくれるわ!」
またしてもドノヴァンと怪物は同時にかかって来る。仮にドノヴァンが二人ならば余裕で相手できるマルグリットだが、黒衣の怪物が厄介だ。あちらに集中するとドノヴァンの剣すら危ないように思う。
加えて火の手がより勢いを増している。このまま膠着状態を続けてはそちらの危険も高まって来るだろう。
マルグリットは一瞬迷ったが、くるりと踵を返して駆け出した。ドノヴァンが目を見開く。
「逃げるか! この臆病者が!」
「へん、ここで意地張って戦うとベルと大叔父上に怒られるからな!」
マルグリットはあかんべえと舌を出してそのまま森の外へと向かって駆けた。
ばちばちと音を立てて燃えるパセリの木々を縫って行くと、唐突に景色が開ける。月の光が遠い海に反射して、白く凪いでいた。
仲間たちと合流しようかと周囲を見回していると、森の方からドノヴァンが飛び出して来た。
「逃がさんぞ……!」
そのままマルグリットに斬りかかって来る。マルグリットはそれを受け止めて、素早く周囲を確認した。あの黒衣の怪物は見当たらない。マルグリットは一気に攻勢に出た。ドノヴァンは泡を食って防御に回る。
数合打ち合った後、鍔迫り合いになった。
体勢の整っていないドノヴァンは、マルグリットに押されて背を逸らした。
「お、おのれぇ……!」
「あの化け物さえいなきゃ、お前なんか怖くねえんだ。今のうちに片付けてやるよ!」
「ふざけるな! 貴様のような下賤なエルフに!」
その時ベルグリフの怒鳴り声が聞こえた。
「マリー! 避けろ!」
マルグリットはハッとして後ろに跳んだ。
ドノヴァンの目が見開かれ、視線が下へと移った。その腹から剣が生えていた。
ドノヴァンは口をぱくぱくさせ、次いで吐血した。
「がッ……な、なにが……」
がくんと膝を突き、ドノヴァンは後ろを見返った。
ファルカが立っていた。相変わらずの無表情で、ドノヴァンの背中に剣を貫き通している。
「ファ、ルカ、貴様……」
ずるりと剣が引き抜かれ、ファルカは邪魔だとばかりにドノヴァンを蹴って傍らにどかした。
「な、仲間割れか……?」
呆気にとられたマルグリットだったが、突然脇腹に痛みを感じた。驚いて手をやるとべっとりと血が付いている。見ると脇腹が裂かれて血が溢れていた。
そうか、ファルカはドノヴァンを殺そうとしたわけではなく、ドノヴァンごと自分を貫こうとしたのか、と今になって理解が追い付いた。
何だか足に力が入らず、マルグリットはかくんと膝を突いた。




