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一〇九.ほんの数瞬がひどく長く感ぜられた。互いに


 ほんの数瞬がひどく長く感ぜられた。互いに息を呑むようにして見つめ合っただけなのだが、その間にアンジェリンの頭の中では色々の事が稲妻のように通り過ぎた。


「サティさん?」


 アンジェリンの言葉が音として耳に届く前に、エルフの女は焦ったように立ち上がった。しかし足がふらつくらしい、危うげなバランスを、足を踏ん張って何とか取った。


「あなたたちは……? どうしてこんな所に……早く逃げないと」

「いや、ひどい怪我じゃないですか! 無理しないで!」


 トーヤが慌ててエルフに駆け寄る。エルフの右肩、そして脇腹から血が溢れているらしかった。白磁のような美しい頬にも切り傷が走り、そこから血が流れている。アンジェリンもハッとして腰のポーチに手をやった。


「待って……薬が……」

「駄目だよ! わたしなんかに構わないで早く」


 エルフは言葉の途中で、焦ったように振り向いた。険しい表情をして身構える。


「く……追いつかれた……」


 空間が再び水面のように波立ったと思ったら、黒いコートを着た中年の男が現れた。うねりのある白髪混じりの茶髪をひっつめて束ね、右目から頬にかけて古傷が走っている。

 黒いコートの男は剣を前に突き出した。先端の欠けた長いカットラスである。


「直接ベンジャミンの首を狙いに来るとは見上げた根性だ。だがぬかったな。たった一人で何とかなると思ったか」

「はは、流石にしつこいね……わたしはあなたに用はないんだけどな」

「私もお前に用などない」

「もう、それなら見逃してよ」

「雇われた以上、お前を捕らえるのが私の仕事だ」

「へえ……あのベンジャミンは本物じゃないのに?」

「些細な事だ。む……?」


 エルフの女を庇うようにして前に出たアンジェリンを見て、男は怪訝そうに目を細めた。


「お前は……」

「誰だか知らないけど、動けない人を攻撃するのはカッコ悪い」


 剣を抜いたアンジェリンを見て、男はにやりと口端を吊り上げた。


「そうか、お前がそうか。面白い」

「ふん……トーヤ、その人お願い……トーヤ?」


 返事がないので変に思って目をやると、トーヤは床に膝を突いていた。驚愕に目を見開き、胸に手を当てている。脂汗が垂れ、ひどく苦しそうだ。


「なんで……どうして、お前が……」

「どうしたの……?」


 アンジェリンは困惑して、トーヤの肩に手を置いた。呼吸で肩が上下している。荒い。黒いコートの男が何やら変な、考えるような顔をした。


「何故ここにいる? お前は死んだ筈ではなかったか」

「そうだ……お前が殺したからな」

「……? ああ、そうか。お前、出来損ないの方か」


 その言葉に、トーヤは怒りに顔を歪めた。地面を蹴った。腰の剣を抜き放ち、男に斬りかかる。アンジェリンが目を剥くほどの技量だったが、男は事もなげにその剣を受け止めて押し返した。冷たい視線でトーヤを射抜く。


「浅い。何の進歩もないな。恰好ばかり真似て、どういうつもりだ? そんな事をしても奴は戻っては来んぞ」

「ふざけるなッ! 母さんが……母さんがどんな気持ちでいたと思ってる!」


 期せずして戦いが始まってしまった。しかしトーヤは頭に血がのぼっているのかやや動きが荒い。

 加勢しなくては、とアンジェリンは足を動かしかけたが、エルフの怪我も深い。手当てをしなくてはならないか、と逡巡した時、背後に別の気配を感じて咄嗟に振り返った。

 白いローブを着た男が立っていた。フードを目深にかぶっていて顔は見えないが、友好的でないのは明らかである。

 アンジェリンはエルフの女を庇うようにして、ローブの男を睨みつけた。エルフの女が呻いた。


「シュバイツ……」

「え……こいつが?」


 シャルロッテをたぶらかし、魔王を始めとした種々の実験を行っている魔法使い。黒幕と言って差支えない人物だ。まさかここで出くわす事になろうとは。


 目の前にはシュバイツ。背後には黒いコートの男がトーヤと戦っている。

 前後を挟まれて逃げ場はない。カシムたちが騒ぎに気付いて出て来てくれればいいのだが、とアンジェリンは剣を握り直した。

 その時、エルフの女が小さく囁いた。


「少しだけ……時間を稼げる?」

「……倒しちゃうかも知れないけど、いい?」

「ふふっ! そりゃ大歓迎!」


 エルフの女が笑った。綺麗な笑顔だった。

 アンジェリンは改めてシュバイツの方を見た。シュバイツは何をするでもなく突っ立っている。こちらを観察しているようにも見える。一見隙だらけだが、マリアと互角にやり合う技量の持ち主だ、油断はできない。

 前に踏み込もうとしたその時、後ろから魔力の奔流を感じたと思ったら、トーヤの怒鳴り声が聞こえた。


『獣の影より 暗がりより 骸をすべし王は 蠅山の頂上に鎮座まします!』

「えっ」


 こんな狭い通路で大魔法だと、とアンジェリンは流石に仰天して足を止めた。

 魔力が膨れ上がったと思うや、何やら質量を持った巨大なものが現れたらしい。肉が腐ったような、嫌な臭いが漂って来た。エルフの女が呟いた。


「なんとまあ……暗黒魔法?」


 一般に外法と称される魔術群の類を暗黒魔法と呼称する。高い威力を持つが、使用する事で精神や肉体が蝕まれるものが多い。そんなものを扱えるなんて、トーヤは何なのだ? とアンジェリンはシュバイツから目を離さないながらも、頭の中はやや混乱した。


 シュバイツは動かない。何か魔法を準備している様子もない。ただ突っ立ったままだ。

 何となくじれったいが、この状況で動かないのが却って怪しいように思われ、アンジェリンも一度足を止めてから、再び踏み出すタイミングを計れなかった。


「半端だな。つまらん」


 背後から声が聞こえた。魔力が弾け、烈風となって吹いて来た。アンジェリンの三つ編みが揺れる。トーヤの召喚した何かが吹き飛ばされたのだろうか。

 それから小さな苦痛の声。トーヤだ。やられたのか? とアンジェリンは軽い焦燥を覚える。


 その時、ぐいと服を後ろから引かれた。


「寄って!」


 エルフの女に抱き寄せられたと思うや、目の前の風景が擦り硝子を隔てたようにぼやけた。シュバイツの白いローブが溶けるように消えた。


 標的が消えた事で、“処刑人”ヘクターは剣を鞘に収めた。


「大魔法の破裂で妨害魔法が揺らいだか。この分では、マイトレーヤはしくじったようだな」

「だから警戒しろと言った。所詮は魔獣か」


 怪訝な顔をして、歩いて来たシュバイツに声をかける。


「どういうつもりだシュバイツ。うまうまと逃げられおって、何を遊んでいる」

「まだ足りん。時期尚早だ」

「なんだと?」

「……あのトーヤとかいう若造、お前とはどういう関係だ?」


 ヘクターの問いには答えず、シュバイツは逆に聞き返した。ヘクターは顔をしかめながらも答えた。


「……出来損ないだ」

「お前のか」

「東で罪人を狩っていた頃のな。あれの兄はそれなりだったが、甘さ故に死んだ」

「優秀な兄に不出来な弟というわけか」

「弟ではない」


 ヘクターはそう言って口をつぐんだ。

 シュバイツは黙ったまま手を振った。

 二人の姿が陽炎のように揺れて消え去った。



  ○



 湯気の立つ甘いお茶を、マイトレーヤはうまそうにすすって息をついた。パーシヴァルが呆れたように壁にもたれかかる。


「あっさり鞍替えしやがって、ゲンキンな奴だなお前は。信用されねえぞ、それじゃ」

「別に信用して欲しいとは思ってない。命が一番大事」

「ふん、魔獣らしいといえばらしいか」


 マイトレーヤは口を尖らして、コップをテーブルに置いた。


「何を聞きたいの?」

「エルフはどれくらい前から狙われているんだい? きっかけがあるんだろう?」

「わたしが雇われた時には、もうエルフは狙われてた。というより、エルフの結界対策としてわたしが雇われたの」

「三年もかかったのか」

「そう。でもそれはわたしが無能だったんじゃない。エルフが足取りを掴ませなかったから」


 わたしの魔法は対象の魔力をポータルにするからまず相手の魔力を云々というマイトレーヤの長講が始まりかけたのを、パーシヴァルが小突いて止めた。ベルグリフは顎鬚を捻じる。


「ソロモンの鍵か……どうしてエルフはそんなものを持っているのかな」

「……元々はベンジャミンとシュバイツが手に入れかけたもの。けど、それをエルフが横からかすめ取った。エルフはずっとベンジャミンたちの邪魔をし続けていたから」


 マイトレーヤ曰く、詳細は知らされていないが、皇太子ベンジャミンと“災厄の蒼炎”シュバイツは、ソロモンと魔王に関する研究を随分長い事行っていたらしい。その過程で、ベルグリフたちもビャクから聞いた、魔王を人間にする実験も行われていたようだ。子を産ませるという実験の内容ゆえに、被験者は様々な種族の女性だったようである。

 どういうきっかけかは分からないが、エルフは帝都付近に幾つかある秘密の実験施設を度々襲撃し、その被験者や実験体を助け出して行ったらしい。その為、現在はその実験は行われていないようだ。


「そのエルフもかつては被験者の一人だった、とわたしは思う」


 マイトレーヤはそう言ってまたお茶をすすった。パーシヴァルが難しい顔をして口元に手をやった。


「えげつねえな。だが筋は通ってる」

「被験者だったからこそ、皇太子たちの陰謀の重大さを理解して阻止し続けている、というわけか……」


 何となくやるせない気持ちでベルグリフは目を伏せた。それはひどく心細い戦いである事だろう。


「なあ、ベルよ。もし、そのエルフがサティだったとしたら……」

「ああ。下手すれば皇太子と一戦交える可能性もある、って事だな」

「可能性じゃない。確実にそうなる。その覚悟はある? 皇太子が敵という事はローデシア帝国が敵。あなたたちがいくら強くても、帝国を丸ごと敵に回せば、まず勝てない」


 ベルグリフは目を細めて顎鬚を撫でた。


「……皇帝陛下も同じ考えなのかな?」


 マイトレーヤは首を傾げた。


「それは知らない。でも少なくとも皇太子は実験やシュバイツの事は公にはしてない」

「当然だろうな。魔王の絡む人体実験なんざ、表沙汰になりゃ大騒ぎだ」

「そこを……上手く利用できないだろうか。帝国じゃなくて、皇太子個人とだけ敵対する形になるならば、少なくとも手も足も出せない状況ではなくなる。彼らだって後ろめたい事をしているという自覚はあるだろうから、上手く立ち回れば帝国を後ろ盾にさせずに済むかも知れない」

「ふーむ……」


 パーシヴァルは腕組みして唸った。


「そうなればそうだろうが……その方法が思いつかねえぞ」

「俺だってそうさ。まだ情報がなさすぎる。そもそもエルフがサティかどうかも分からないんだし」


 マイトレーヤは不思議そうな顔をして、ベッドの上で膝を抱いた。


「そうまでして会いたい? そのサティってエルフ」

「ああ。その為にここまで来たからね」

「……人間って変」

「はっ、人間に紛れて暮らすなら、それくらい理解できるようにしとけ」


 パーシヴァルがそう言ってマイトレーヤを小突いた。マイトレーヤは「うぐ」と小さく呻いた。


「さて、どうするかね。こいつの魔法は役に立たんし、手がかりも今のところないが」

「……あの帝国兵たちが無事に戻ったならこちらはもう警戒されているだろうし、アンジェたちが何か得てくれているのを期待するしかないか……もしくは」


 ベルグリフはマイトレーヤを見た。マイトレーヤははてと首を傾げた。


「なに?」

「フィンデールにはもう手がかりがないとすれば……彼女に頼んで帝都に転移させてもらうかだ」


 今までの話からして、エルフの活動拠点は元々帝都にあったらしい事はうかがい知れた。フィンデールで待っている時間が惜しいように思われる。


「どうかな? マイトレーヤ、君の魔法は帝都まで行けるかい?」

「もちろん。ちょっと時間がかかるけど……」


 マイトレーヤは乗り気な様子で立ち上がった。パーシヴァルがぼりぼりと頭を掻いた。


「おいおい正気か? 転移魔法なんぞ使わせたら一人だけ別の場所に行くに決まってるぞ。そもそも俺たちを無事に転移させる保証なんぞねえ」

「そうかな? 君はまだ皇太子の味方をするかい?」


 マイトレーヤは慌てたように首を横に振った。


「しない」

「口でならいくらでも言える。大体、俺が睨んでんだから頷くわけねえだろうが」

「そ、それだけじゃない。言ったでしょ、これだけ情報を漏らしちゃったんだから、今更戻ってもわたしに居場所なんかない……」

「さて、どうだか? 結局お前は計画の根幹だの何だのは知らないじゃねえか。逆に俺たちの情報を向こうに持って行けばお釣りが来るぜ」

「そんな事しない……シュバイツたちは裏切りは許さない。わたしがあなたたちの情報を持って帰ったって褒めてくれない。ひどい目に遭うだけ」

「ともかくベル、俺はまだこいつを信用しきれん。お前の案とはいえこれは乗れねえな」

「……リーダーは君だからな、俺は従うさ」


 パーシヴァルが単なる意地悪で言っているのではない事は明白だ。言葉の端々から、ベルグリフを危険に遭わせまいとする意思を感じた。

 それが過去のトラウマから来るものなのか、それともリーダーとしての責務を感じているからなのか、いずれにしても若い頃に比べて随分慎重になったな、と思わず笑みがこぼれた。パーシヴァルが唇を尖らせる。


「……なんだよ」

「いや、君も大人になったのかな、とね」

「何言ってやがんだ。ともかく、カシムたちが戻るのを待とうぜ」


 パーシヴァルはそう言って椅子に腰を下ろした。

 マイトレーヤは少ししゅんとして、またベッドに腰かけた。詰まらなそうに足をぶらぶらさせる。ベルグリフは苦笑した。


「……お茶、もう一杯飲むかい?」

「飲む……」



  ○



 気が付くと、不思議なセピア色の光の溢れる場所に立っていた。小ぢんまりとした家が建っており、淡い燐光が虫のように漂っては消える。周囲は森に囲まれているらしかった。


 一瞬呆けたアンジェリンだったが、これは転移魔法だと気づいて慌てて後ろを振り向いた。

 魔法を使ったらしいエルフの女は息を切らして地面にへたり込み、その傍らにはトーヤが膝を突いて苦しそうに俯いていた。

 エルフは周囲を見回して、ホッと表情を緩めて独り言ちた。


「……なんとか、戻れた、かな。はあ、一念してもこのザマとは情けないなあ……ヘクターとシュバイツの二人相手は流石にきつかったか……」


 それからアンジェリンを見て微笑んだ。


「ありがとう、おかげで死なずに済んだよ。いたた……」

「喋っちゃ駄目。今手当てするから……トーヤ、平気?」

「……俺は大丈夫」


 トーヤは向こうを向いたままだが、自分で傷の手当てをしているらしい、ごそごそと衣擦れの音が聞こえた。アンジェリンはふうと息をついて、腰のポーチから薬の小瓶と包帯を取り出す。


 その時、ぱたぱたと小さな足音が聞こえたと思ったら、少し離れた所で止まった。

 目をやると、黒い髪の毛をしたそっくりな子供が二人、ビックリしたような顔をして突っ立っていた。


「知らない人」

「知らない人だ」

「サティのお友だちかな?」

「かな?」


 サティ。そう言った。


 アンジェリンは心臓が激しく打つのを感じながら、エルフの女の方に目をやった。エルフらしい少女のような容貌だが、どことなく老獪な雰囲気も感じさせる。

 美しい顔立ちに、絹のような銀髪が揺れているが、しかし眉だけは野暮ったく太い。話に聞いていた特徴だ。

 おずおずと、しかしはっきりと耳に届くように言った。


「やっぱり……サティさん、なんだね?」

「あなたは……?」


 アンジェリンは深呼吸した。


「わたしはアンジェリン。ベルグリフの娘」


 エルフの双眸が驚愕の光を宿した。


「ベルグリフって……赤髪の?」

「そう。右足が義足の」


 アンジェリンが頷くと、エルフ――サティは動揺した様子で、しかし真っ直ぐにアンジェリンを見つめた。


「ベル君……生きてたんだ。しかも娘まで……」

「カシムさんもパーシーさんも一緒だよ。みんなで会いに来たんだよ、サティさん」

「な……」


 見開かれた目から涙があふれた。サティは慌てたように俯き、手の平で顔を覆った。


「なんで……なんで……」

「サティさん」


 アンジェリンは膝を突いてサティの背中に手をやった。長い髪の毛は乱れてはいるが柔らかく艶やかだ。血にまみれているのに、綺麗な人だなと場違いな事を思った。


 落ち着くのを待とうかと思ったが、不意にサティはそのままうつ伏せに倒れてしまった。アンジェリンは仰天する。しかし考えてみれば当然である。まだ傷の処置は何もしていない。


「サティ!」

「どうしたの?」


 黒髪の双子が大慌てで駆け寄って来た。それでもやや怖がったように少し離れた所で立ち止まって、アンジェリンを窺い見た。警戒するような視線だ。

 アンジェリンは焦って包帯を手に取った。不安そうな双子を見て、やや口ごもりながら言う。


「怪我してるから……手当てするから」

「君たちはここの家の子? この人は知り合いかい?」


 いつの間にか手当てを終えていたらしいトーヤが現れて、慎重な手つきでサティを抱き上げた。問いかけられた双子は動揺しながらも頷いている。

 アンジェリンは驚いて目をしばたかせた。


「トーヤ、怪我は……」

「俺は大丈夫。手当てするにもここじゃ駄目だ、家にベッドがあるだろうから借りよう」

「う、うん」


 トーヤは迷いのない足取りで家の中に入って行く。双子が顔を見合わせて、その後を追っかけた。アンジェリンも後に続く。


 家の中は薄暗かったが、こざっぱりと整頓されていて、陰気な雰囲気はなかった。むしろ静謐で心が休まるような雰囲気であった。

 トーヤはサティを寝床に横たえると、慣れた手つきでさっさと服を脱がしにかかった。

 一瞬呆けたアンジェリンだったが、慌てて駆け寄ってそれを制する。


「わたしがやるから……」

「え? あ、そっか、ごめん。水汲んで来るよ」


 トーヤは慌てたように引き下がった。緊急時とはいえ女の服を脱がすのに何の躊躇もないなんて大した男だなあ、とアンジェリンは感心するやら呆れるやら。


 ともかく、それで引き受けて手当てをする。

 東方風の前合わせの服は脱がせるにも楽だった。

 ゆったりした服の上からでは分からなかった想像以上に豊かな胸の双丘に、女ながら思わず赤面した。だがそんな場合ではない。


 血にまみれているから着替えも用意しなくてはならないだろう。そう思っていると、水を汲んで来たトーヤが後ろで双子にそう言って着替えの場所を聞いているのが聞こえた。

 血を流し過ぎたのか、顔色はやや悪い。

 傷の周りの固まりかけた血を濡れた手ぬぐいで拭くと、サティがうめき声を上げ、うっすらと目を開けた。


「うぐぅ……いてて……」

「起きちゃ駄目。手当てしてるから」

「……はー」


 サティは起こしかけた上体を再び横たえた。

 傷を洗い、薬を塗りながら、アンジェリンはその顔をちらりと窺った。天井を見つめたまま、サティが呟いた。


「アンジェリンちゃん、だよね。不思議。まさかベル君の娘が助けてくれるなんて」

「……お父さん、サティさんに会いたがってたよ」

「あはは、そっか……パーシー君とカシム君も一緒なんだって?」

「うん……包帯巻くから、ちょっと」

「ふふ、ありがと」


 ゆっくりと起きたサティの腹に包帯を巻いて行く。サティはそんなアンジェリンを優しい目で見つめた。


「……あんまりベル君に似てないね。お母さんは?」

「わたしは拾われっ子なの。お父さんが森で拾ってくれたから……」

「へえ……そうなの」

「いっぱい聞いたよ、サティさんの話」

「あはは、どうせ碌でもない事ばっかりでしょう? 料理もできないガサツで乱暴な女だって。特にパーシー君とカシム君はお調子者なんだから」

「そ、そんな事ないよ……」


 アンジェリンは口をもごもごさせながら、モーリンから分けてもらって小瓶に移していた霊薬を手渡した。

 サティはおやという顔をする。


「霊薬? エルフが作ったみたいな匂いがするね……わたしのじゃなさそうだけど」

「あのね、エルフの友達もいるんだよ。三人も。グラハムおじいちゃんとマリーはお父さんが先に友達になったの」

「グラハムおじいちゃん……ってもしかして“パラディン”? 凄いなあ、それは。ベル君ってば、娘は育ててるし“パラディン”と友達になってるし、わたしたちの知らない所で何やってたのよ、もー」


 サティは笑って霊薬を飲み干した。そうして口元を拭いながら少し遠い目をする。


「……喧嘩別れだったんだ。ベル君が大怪我して、いなくなって、パーシー君といつも言い合いになって、カシム君はおろおろしてて……ふふ、三人とも仲直りしてくれたんだね」

「うん、聞いた。パーシーさん、サティさんに沢山ひどい事言ったって……」

「言われたよおー、もう、あの馬鹿ったら柄にもなく思い詰めちゃって」


 サティはけらけら笑いながら再び寝床に転がった。


「……でも一番馬鹿なのはベル君だよ。全部一人で背負い込んじゃってさ……ホントに…………ばか」


 閉じた目から涙がこぼれた、と思ったら寝息が聞こえた。早速霊薬が効いて来たらしい。

 アンジェリンはホッとした心持で肩の力を抜き、サティに布団をかけてやった。


 あまりに色んな事が起こり過ぎて、頭の中は台風が来たようだった。

 ベルグリフたちの事を伝えたいという気持ちばかりが逸って、サティがここで何をしているのだとか、そんな事は何も聞けていない。言いたい事も多いし、聞きたい事もあまりにも多い。


「寝た?」


 離れて見守っていたらしいトーヤがやって来た。黒髪の双子も焦ったように駆けて来てベッドにかじり付く。


「サティ、だいじょうぶ?」

「ねてるの?」


 アンジェリンは頷いて、双子の頭を撫でた。何となくミトに似ているなと思った。双子はくりくりした目でアンジェリンを見上げた。


「おねえちゃん、だれ?」

「サティのお友だち?」

「うーん、そう、だね……わたしはアンジェリン。あなたたちは?」


 双子は顔を見合わせてから、再びアンジェリンを見た。


「わたしマル」

「わたしハル」

「マルとハルだね……よろしくね」


 アンジェリンが手を差し出すと、双子は照れ臭そうにはにかんで、差し出された手を握った。トーヤが安堵の息をついた。


「よかった……ごめんねアンジェさん、俺、暴走しちゃって……」

「いい。結果的に助かったし……でも、どうしたの? あの黒い服の人、知ってるの?」

「……まあ、ね。色々あってさ。その人、捜してたエルフさんでしょ? よかったね、見つかって」


 トーヤは誤魔化すように苦笑して肩をすくめた。服には袈裟に斬られたらしい傷跡があった。下に血のうっすらにじんだ包帯が見えた。それほど深い怪我ではなさそうだが、これだけ本式に斬られるとは穏やかな関係ではないだろう。

 あまり踏み込まれたくない事なのだろうか、とアンジェリンは追及するのはよした。自分の混乱も治まっていないのに、人の複雑な内情に踏み込んでもきちんと受け答えできるか分からない。


 サティの穏やかな寝息を聞いて安心したのか、マルとハルの双子はもじもじしながらアンジェリンの手を引いた。


「あのね、お話ししたいな。おにわ、行こ?」

「アンジェリンたち、お外からきたんでしょ?」

「お外? まあ、外……なのかな?」


 アンジェリンはトーヤの方を見た。トーヤは笑って頷いた。


「ここは俺が見てるから行って来たら? ここ、どうも普通じゃないみたいだし」


 確かに、家の外は不思議な光で満ちていて、明るいのに色彩に乏しいような気がする。今はサティを起こすわけにもいかないし、双子から話を聞いてもよさそうだ。難しい話はできなさそうだが、それでも全く無駄にはなるまい。


 アンジェリンは双子に手を引かれて庭に出た。


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