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九十九.壁面に沿うようにして下へ


 壁面に沿うようにして下へと続いている石段は、岩を穿ったような所もあり、他から丁度いい石を持って来たような所もあり、とても自然にできたものだとは思えなかった。しかし、こんな所にわざわざ下に降りる階段を作る者が誰なのか見当もつかない。

 幅はかろうじてすれ違う事ができる程度である。一段降りる度に、右の義足が石段を打ってこつこつ音を立てた。


 先頭を行くパーシヴァルが立ち止まって振り向いた。


「いいか、ここからもう少し行くと霧が濃くなる。その時は気を散らすな。きちんと足場を意識しろ。そうでなけりゃ別の場所に飛ばされる」


 マルグリットが首を傾げた。


「別の? なんだそりゃ?」

「強制転移の力を持った霧って事ですか?」


 アネッサが言った。パーシヴァルが頷く。


「それほど強い力じゃねえがな。ただ意識が別の方に向くと危ない。ま、不安なら前の奴の服でも握っておくんだな。おいベル、後ろはどうだ」

「大丈夫だ。この石段からは魔獣は上がって来ないんだな」

「そういやそうだね。何か特殊なものがあるんかね?」


 カシムが言った。パーシヴァルは肩をすくめる。


「そこまでは分からんがな。だが、魔獣はその霧を利用して『穴』から上がって来るんじゃねえかと思う。馬鹿正直に壁をよじ登って来るとは思えんからな」


 成る程、空間転移の力を持った霧ならば、上手く利用すれば好きな場所に移動できるだろう。魔獣の方がそういったものを使いこなしているのかも知れない。『大地のヘソ』の高位ランク魔獣だからこそかも知れないが。

 ふと、マントを小さく引っ張る気配があった。見るとアンジェリンがマントの裾を持っていた。


「これで大丈夫……」

「はは、そうだな」


 ベルグリフは微笑んで、アンジェリンの頭をぽんぽんと撫でた。

 今回はパーシヴァル、カシム、アンジェリンのSランク冒険者三人に、アネッサ、ミリアム、マルグリット、それにベルグリフの七人編成である。随分豪華なパーティもあったもんだとベルグリフは思った。


 ダンカンは腕のある冒険者と立ち合いの予定を入れていたらしく、イシュメールはもう目当ての素材は概ね手に入れたそうで、わざわざ今になって『穴』に潜る必要はないらしい。ヤクモとルシールはくたびれたとかで同行せず、トーヤとモーリンはそもそもが別行動である。


 再び一行が歩を進めて行くと、次第に頭上の光が淡くなり、見上げると空が少しずつ狭くなるように思われた。

 妙に視界がけぶると思えば、霧が立ち込めて来たらしい、ベルグリフは大きく息を吸って、足元の感触を確かめた。


 やがて階段が見えなくなった。ある地点から真っ白な霧の中に入り込んでしまっているのである。

 霧は白いが、光の具合なのか時折七色に光るように思われた。階段はその中へと続き、どれだけ行けばそこに着くのか見当もつかない。


「パーティなんぞ組んで行くのは久しぶりだな……いや、ここじゃ初めてか……?」


 パーシヴァルが呟いて頭を掻いた。一人きりならばどこに飛ばされようが関係ないと考えていたらしかったが、こうやって仲間が多いと気を揉むようだ。

 かつてパーティのリーダーとして他人を引っ張っていた時の感覚を思い出そうとしているのか、パーシヴァルは顔をしかめて自分の頬をぴしゃりと叩いた。


「……よし、行くぞ。仮に飛ばされても慌てるな。それほどひどく遠くまで飛ばされるわけじゃねえからな」

「パーシー」

「なんだ、ベル」

「あんまり気負うなよ。それで気が散って君一人いなくなってたら笑い話だぞ」


 噴き出したマルグリットを筆頭に、女の子たちがけらけらと笑う。パーシヴァルはバツが悪そうに頬を掻いた。


「お前はいつも痛い所を突きやがるな……」

「へっへっへ、ま、飛ばされてもオイラが見つけてやるから安心しなよ」

「飛ばされねえよ、バーカ。大体お前の方が前科持ちだろうが、偉そうな面すんな」

「いや、あれはアンジェのせいだって」

「違うもん……」

「えー、なになに、なにしたのー?」

「カシムさんがもたもたしてたから、一人だけ違う所に……」

「違うって、お前がオイラを追い越して行ったから、気が散っちゃったんだよ」


 何となく皆肩の力が抜けたらしい、少しの笑い話の後、改めて霧の中に入った。外から見れば真っ白で何も見えなかったが、入り込んでみると少し前を歩く者の輪郭は見て取れた。けぶってはいても足元は見えるから、注意すれば歩くのにも支障はない。


 時折声をかけ合いながら、危なげなく石段を降りて行く。

 霧のせいなのか、他の何かのせいか、少し石が湿って来たように思われた。義足の先端が危うく滑りかけるようで、ベルグリフはより一層注意して歩いた。

 滑りやすいのは他の連中も同じようで、アンジェリンは手をマントからベルグリフの腕に移し、反対側にはミリアムもいそいそと寄り添って、危ない時には体重をかけた。

 そんな風だから余計に転ばないように気を遣う。自分が転んでは二人も巻き添えだ。


「パーシー、どうだ? まだかかりそうか?」


 前に向かって言うと、霧の向こうから返事があった。


「そろそろ出る筈だが……おいマリー、気を付けろ。転ぶなよ」

「転ばねーよ! お前こそ飛ばされんじゃねーぞ、パーシー!」

「ははっ、口の減らねえ奴だ……」


 パーシヴァルの愉快そうな笑い声が聞こえた。アンジェリンがぎゅうと腕を持つ手に力を込めた。


「気が散ってない……?」

「どうだかな。まあ、大丈夫だろう」

「ベルさん、そこ窪んでますよー」


 杖で少し先の石段を突っついていたらしいミリアムが言った。


 そうこうしているうちに霧を抜けた。抜けてしまうと途端に視界が明瞭で、しかし陽の光はちっとも射していないから、辺りは妙に薄暗い。

 来た方を見返ってみると、霧はまるで灰色のふわふわした天井のように、頭上の一定の位置に平らになっていた。


 霧を抜けてしまえば、石段はもう終わりかけていた。

 少し先の地面に、火を灯したランプを持ったパーシヴァルが立っている。ベルグリフは目を走らせて、仲間が誰も欠けていないのを確認した。


「うん、大丈夫だな……」


 緊張が少し解け、降り立った先で息をついた。マントや髪の毛がしっとりと湿り気を帯びているような気がする。髪の毛が跳ね散らかるのか、ミリアムが顔をしかめて癖っ毛に手櫛を入れた。

 パーシヴァルが満足そうに頷く。


「問題なく来れたな。さて、大甲冑蟲の群生地までは歩いて一時間ってところだ。はぐれる事はねえだろうが、魔獣はどこから出るか分からん。気を抜くなよ……何笑ってやがる」


 腹を押さえてくくくと笑っていたカシムが顔を上げた。


「いやあ、昔はそういう風に言って、いざ探索始まったらサティと二人でばんばん突っ込んでベルが青くなってたなあって思ってさ。ねえ、ベル?」

「ああ、そうだな。探索前は気を付けろだの気を抜くなだの言うけど、いざ入るとよそ見はするわ無茶はするわ……」

「あーあー、うるせえ。若気の至りだ、忘れろ」


 パーシヴァルは面倒臭そうに、しかし少し頬を染めて手をひらひら振った。アンジェリンがにまにま笑いながら胸を張った。


「わたしはそういう事ない……ね?」

「ん? あー、そうだな。アンジェが無茶して突っ込むって事はなかったな」


 アネッサが言った。ミリアムも頷く。マルグリットが意外そうな顔をした。


「そうなのか? アンジェはガンガン突っ込んで行きそうな感じするけどなあ」

「わたしはお父さんの娘だぞ。慎重で無茶をしないのは当然」


 そう言って、どうだという顔でパーシヴァルを見た。パーシヴァルは小さく笑って手を伸ばし、わしわしとアンジェリンの頭を撫でた。


「いい子だ。ベルの教え、大事にしろよ」

「ん、んむ……」


 茶化されるつもりでいたらしいのが予想外に褒められて、アンジェリンは少し頬を染めて俯いた。マルグリットがにやにやしながら、その肩を小突いた。


「なーに照れてんだよ」

「……うるさい」


 アネッサとミリアムも顔を見合わせてくすくす笑っている。

 ベルグリフは大剣を引き抜いた。剣は淡い光を放って小さく唸った。


「さて……パーシー、どういう編成で行くか?」

「先頭は俺が行く。殿はベル、お前の仕事だ。中衛はカシム、アーネとミリィは俺たちの援護。アンジェとマリーは前に出つつも、後衛組を守るように左右を見とけ」


 てきぱきと指示を出すパーシヴァルに、ベルグリフは感心して顎鬚を撫でた。


「流石だな。ちゃんとリーダーしてるじゃないか」

「お前に呆れられるわけにゃいかねえからな」


 パーシヴァルはそう言うと前を向いた。

 かつて自分たちを引っ張って行ってくれていた姿がダブるようで、ベルグリフは何ともなしに嬉しくなり、思わず口端を緩めた。



  ○



 前にここに来た時とは、何となく空気が違うな、とアンジェリンは思った。パーシヴァルとのピリピリした緊張感がないのもあるし、何よりもベルグリフが一緒にいる。周囲は高位ランク魔獣の巣窟であって、気を抜けないのは確かなのだが、それを加味しても心には随分余裕があった。

 少し前を行くパーシヴァルの背中は大きい。初めて会った時の怪物のような雰囲気はすっかりなりを潜め、今では頼りになる人といった具合だ。

 それでも、こうやってダンジョンを行く時の彼からは、周囲を威圧するような空気が漂っていた。それは魔獣にも感ぜられるもののようで、歩き出してから少し経ったけれど、魔獣が襲って来る気配はない。遠巻きにこちらを窺っているだけだ。


 隣を歩くマルグリットが退屈そうに頭の後ろで手を組んだ。


「なんも来ねえな」

「まあ、向こうもわざわざ勝てない勝負はしたがらない、と思う……」

「詰まんねえ、と思うけど、冒険者としては無駄な戦いはない方がいいんだよな」

「うん」


 冒険者は冒険してはいけない。何だか変だなと思う。

 けれど、冒険を続ける為には死の危険を出来る限り回避するのは当然の事なのである。命のスリルを感じる事だけが冒険というわけではない。

 危険には飛び込むが、命を守るための最大限の努力をする。そういう者だけが、一流の冒険者として生き残る事ができる。

 この『大地のヘソ』に集まる冒険者たちはそんな人ばかりなのだ、と考えると何だか不思議な感じがする。大陸中から集まって来るというから、人種も装いも様々だ。

 しかし、その誰もが駆け出しの頃があり、潜って来た修羅場があり、英雄譚がある。パーシヴァル然り、カシム然りだ。


 自分はまだまだ若い。色々な経験をして来たとは思うけれど、それでも二十年と四十年では違う。

 自分が四十を過ぎた時、そこにはどんな物語があるのだろう。想像したけれど、できなかった。


 しばらく進んで行くと、左手の方の緩やかな丘陵が次第にせり上がって、急峻な崖になって来た。

 行く手には尖った細長い岩が、まるで柱のように幾本も立ち並んで、ずっと上の方に漂う霧の向こうに突き刺さっている。見通しの良かった今までの場所とは少し環境が変わって来たように思う。


 パーシヴァルが足を止め、懐から匂い袋を取り出した。


「ごほっ……もう少しだ。ここを過ぎれば小一時間で目的地に着く」


 ベルグリフが前を見据えたまま言った。


「柱の陰に何かいるな」

「分かるか。見通しが悪いからな、奇襲に警戒しろ。崖の上にも気を配れ」


 アンジェリンは腰の剣の位置を正した。先ほどよりも魔獣の気配が濃密になっているように感ぜられた。視線があり、ぴりぴりした殺気があった。パーシヴァルが目を細める。


子鬼(ゴブリン)の群れだな。待ち構えていやがる」

「子鬼? Dランク魔獣の?」


 アネッサが拍子抜けしたように言った。

 子鬼(ゴブリン)は亜人種の魔獣である。単体での戦闘力は大した事がないが、簡単な道具を扱うだけの知能と群れを成す習性がある為、Dランクに位置づけられている。パーシヴァルはにやりと笑った。


「ここの子鬼(ゴブリン)は外の連中とは違って知能が段違いだ。人間並みとは言わんが、それに近いくらいのものはある。連携、待ち伏せ、罠、飛び道具、そんなものを使って来る。子鬼と思って油断すると痛い目を見るぞ」


 人間が魔獣を抑えていられるのは、その知能が人間よりも劣っているからだと言われている。魔獣の身体能力に人間の知能があれば、人間では太刀打ちできない。ここにいる子鬼(ゴブリン)はそういった類のもののようだ。

 しかし、パーシヴァル曰く、そんな連中でもこの『穴』におけるヒエラルキーでは下位に当たるらしい。亜人種である分だけ、身体能力が獣型の魔獣よりも劣るせいだろうか。


「……負ける気しない」


 アンジェリンはふんと鼻を鳴らして剣の柄に手をやった。要するに数の多い盗賊を相手にするようなものだ。子鬼だからと侮りさえしなければ、万に一つも負けはあるまい。


「行くぞ」


 パーシヴァルがさっと剣を振ると同時に、カシムの魔弾が飛んだ。柱の陰や暗がりからギイギイと妙な悲鳴が上がった。


 誰からとなく剣士三人、踏み込んで前へと駆ける。

 ベルグリフは後ろにいる。見ていてくれる、と思うだけでアンジェリンは余計な力が抜けるような気がした。


 柱の陰から出て来たふらつく影を一刀両断する。やや背が低いものの、硬い筋肉をまとった子鬼(ゴブリン)が悲鳴を上げて倒れ伏した。

 その後からわらわらと幾匹もの子鬼が現れた。意匠や素材がばらばらの鎧を着、手に手に武器を持っている。

 隣ではマルグリットがまとめて三体を斬り払う。

 パーシヴァルは既に数歩先へと踏み込んで、その背後には数体の死骸が転がっていた。


 暗がりに飛び込むと目が慣れて、かなりの数の子鬼がいる事が分かった。

 彼らはこちらの速攻に一瞬浮足立った様子だったが、流石に『大地のヘソ』で生き残っている魔獣である、体勢を整えて鬨の声を上げた。統率された部隊のように、槍を持った数体がこちらを囲むように槍を突き出し、その後ろで弓矢が構えられる。

 アンジェリンたちは前に出かけた足を突っ張り、防御の姿勢を取る。


 その時、後ろから魔弾と矢が飛んで来て、子鬼の射手たちを貫いた。

 援護の矢が飛ばなかった事で、槍を持った子鬼たちの動きが一瞬止まる。その頭上で雷鳴がとどろき、稲妻が落ちて、子鬼の粗雑な鎧ごと丸焦げにした。


「止まるな! 蹴散らすぞ!」


 それらを薙ぎ払うようにしてパーシヴァルが剣を振るい、さらに前へと押す。足取りに迷いがない。勢いに任せて突き進む、というよりは、背後の事は完全に仲間を信頼して任せている、といった様子だ。

 お父さんがいるからかな、とアンジェリンは無意識に口端を緩め、剣の柄を握り直してパーシヴァルの後を追った。木立のように並ぶ石柱を縫うようにして走る。


 その時後ろからベルグリフが怒鳴った。


「パーシー! 右の崖だ!」


 ハッとして見やった。急峻な崖の上から、狼の背に乗った子鬼(ゴブリン)の一隊が、まるで岩が転がって来るような勢いで下って来ていた。前に気を取られて、言われるまで気が付かなかった。

 パーシヴァルが横目でちらりと崖の方を見た。


「アンジェ、マリー、崖から距離取れ! カシム!」

「あいよっ」


 魔力の奔流が巻き起こった。子鬼の騎兵隊が崖を降りきる前に、カシムの魔法が飛んだ。魔法は少し先、彼らの進行方向の足場を砕いた。騎兵隊はバランスを崩して転倒する。

 急な坂で転倒すれば命取りである。子鬼と狼とは一塊になってまともに地面に落っこちた。自らの武器や鎧で致命傷を負った者もあり、苦痛のうめき声が巻き起こった。


 同時に背後で爆発のような音が聞こえた。アンジェリンが振り向くと、ベルグリフがグラハムの剣を抜き放っていた。衝撃波が、いつの間にか後ろに回り込んでいたらしい子鬼(ゴブリン)たちを吹き飛ばした。

 パーシヴァルが叫んだ。


「ベル、後ろはそれだけか?」

「ひとまずはな! だが場所が悪すぎるぞ!」


 林立する石柱の間隔は狭くなって来ている。確かに、剣を振るうには少し邪魔だ。


「どうするのパーシーさん? 一旦戻る……?」

「いや、相手の数も減った。もう頭が出て来る筈だ。そいつを潰せば他は逃げる」


 パーシヴァルはそう言って剣を構えて前を見た。マルグリットが目を細める。


「おい、なんか変なのが来たぞ!」


 それは子鬼(ゴブリン)ではあったが、背丈は人間のそれと大差なかった。むしろアンジェリンよりも背が高く大柄である。そして、見るからに質の良い鎧を身に纏い、手にはかなりの業物らしい剣と盾が握られている。一見してとても子鬼とは思えない容姿であった。


「……あれ、子鬼(ゴブリン)だよね? 大鬼(オーガ)じゃないよね?」

「ああ。子鬼の変異種だろう。ここでくたばった冒険者の装備を身につけたってところだな。さて……若いののお手並み拝見と行こうか」


 パーシヴァルはそう言っていたずら気に笑うと、向かって来た子鬼をなで斬りにした。

 アンジェリンはマルグリットと顔を見合わせた。


「どうする……?」

「早い者勝ちだな!」


 マルグリットが脱兎の勢いで飛び出した。アンジェリンは一歩遅れてそれに続く。

 まだ周囲は子鬼たちが取り巻いているが、後ろから飛んで来る魔法や矢、それにパーシヴァルに阻まれて近づいて来られないらしい。


 瞬く間に肉薄したマルグリットが細剣を突き出した。アンジェリンの目から見ても見事な一撃である。好敵手という事で張り合ってはいるが、アンジェリンも心の内ではマルグリットの実力は認めている。


 細剣は鎧の継ぎ目を捉えたかのように見えた。

 しかし子鬼の剣士は軽く身をよじって、鎧の表面で細剣を受け流すようにしてかわしてしまった。マルグリットは口端を吊り上げる。


「ははっ、こうじゃなくちゃ面白くねえ!」

「マリー、邪魔」


 マルグリットを飛び越すようにアンジェリンは跳躍した。その勢いで剣を振り降ろそうとするが、子鬼の剣士は素早く身を引いて、盾で身を隠しつつ突きの体勢を取った。アンジェリンは咄嗟に盾を足場にして子鬼を飛び越えた。


「ふぅん……やるね」

「なんだよ、斬れねえじゃねえか。ダセェぞアンジェ」


 子鬼を挟んで向き合うマルグリットがからかうように言った。アンジェリンはふんと鼻を鳴らした。


「小手調べ……」


 アンジェリンは剣を構えて飛びかかった。反対側からはマルグリットも斬りかかって来る。子鬼(ゴブリン)の剣士はアンジェリンの側に剣を向け、マルグリットの方には盾を向け、一歩も引かずに迎え撃つつもりらしかった。


 剣を避けて腕を狙ったつもりだったが、子鬼の剣士は小手を返してアンジェリンの剣を受け止め、反対から来たマルグリットの細剣も盾で受けた。

 剣が打ち合わされた瞬間、相手の剣の刀身に刻まれた模様が淡く光った。そして異様な衝撃が刀身、柄を伝って腕を痺れさせ、アンジェリンは危うく剣を取り落しかけた。


「なに……?」


 相手は受けただけで打ち返したわけではない。刀身に刻まれた魔術式が、相手に伝わる筈だった衝撃を跳ね返して来たのだろうか。

 力尽きたとはいえ、この『穴』で戦う事の出来るほどの冒険者の遺品だ。業物の剣に相違あるまい。


「マリー、剣に注意……」

「盾にもだぜ。衝撃が跳ね返って来やがる」


 マルグリットが顔をしかめて手をひらひらと振った。

 変に打ち合うとこちらが追い込まれそうだ。相手の剣技はそれほどでもないが、こちらの攻撃の威力が戻って来るのは面倒臭い。


 上手く隙を突いて首を跳ね飛ばせれば済むのだが、とアンジェリンが目を細めて様子を窺っていると、後ろからベルグリフの声が聞こえた。


「アンジェ、引けっ! 後ろに来い!」


 アンジェリンはハッとして周囲を見回した。子鬼(ゴブリン)の群れを相手にしていた筈のパーシヴァルは既に後方に引き返しかけている。ベルグリフの声に即座に反応したといった様子である。

 いつの間にか後衛組は随分後ろにいた。

 アンジェリンは素早く地面を蹴って、疾風如き勢いで後方に駆けた。一瞬遅れてマルグリットが続く。


 崖の方で地鳴りがした。見ると、さっき騎兵隊を撃退した時にできた傷がさらに崩れ始めたらしい、大小の岩が雪崩落ちて来た。

 それらは崖下の子鬼たちを押し潰し、二人が引いた事で勝ちと思ったらしい子鬼の剣士さえも飲み込んだ。

 子鬼の剣士は咄嗟に盾を構えて受け流そうとしたが、次々と襲い来る岩には何の抵抗にもならなかったらしい、しばらくは剣を握りしめていた岩の隙間から覗いた腕が、やがて力なくだらりと垂れた。

 剣が地面に落ちて音を立てる。

 残った子鬼(ゴブリン)たちが、波が引くように姿を消した。


 何だか気の毒だなとアンジェリンは思った。どうせなら強者と戦って死にたかっただろうに、岩雪崩で死んでしまうとは。

 カシムが頬を掻いた。


「あれ、オイラがさっき付けた傷?」

「ああ。危ういバランスで崩れずに残っていたのが、ちょっとした振動で崩れたみたいだ」


 ベルグリフは周囲を見回しながら大剣を鞘に収めた。パーシヴァルがその鞘の上からベルグリフの背中を叩いた。


「観察眼は鈍ってねえみたいだな。あれに気付くとは流石だ」

「まったく、無茶ばっかりして……俺が気付かなかったらどうするつもりだったんだい」

「お前なら気付く。そういうもんだ。なあ、カシム?」

「うん。ベルなら気付く。そういうもんだね」

「あんまり変に期待しないでくれよ、俺は現役じゃないんだから……」


 苦笑するベルグリフの肩を、パーシヴァルは乱暴に叩いて笑った。


「さて、行くか。あと少しだ」


 一行は再び歩きはじめる。周囲に魔獣の気配がないせいか、何となく肩の力が抜けた行軍である。先頭のパーシヴァルと並んで、ベルグリフとカシムが何か話しながら歩いている。

 アンジェリンはアネッサとミリアムに並んで話しかけた。


「後ろはどんな風だったの?」

「真後ろはベルさんが受け持ってくれて、わたしらはアンジェたちの援護に回ってたよ。丁度前衛三人に一人ずつ付けたし。けど、その合間合間にもベルさんが指示出してくれて、すごく戦いやすかった」

「ねー。ここに来る時の戦いでもそうだったけど、ちゃんと全体を見てくれる人がいると自分の周囲に集中できるし、安心だよねー」


 ミリアムがそう言ってくすくす笑った。

 自分たちが前で戦っている時も、ベルグリフたちが万全にサポートしてくれていたのだ、と思うとアンジェリンは嬉しくなった。

 確かに目立たない仕事だ。戦いが終わってしまえば、何をやっていたのか言い出さなければ埋もれてしまうだろう。しかしあるとないとでは雲泥の差だ。


「にしても、パーシーさんもカシムさんも嬉しそうですにゃー。なんかベルさんも活き活きしてるし、仲良しなんだね、ホントに」

「だな。再会できて本当によかった……」

「友達か。いいなあ」


 マルグリットが頭の後ろで手を組んで呟いた。ミリアムが笑ってその肩を小突く。


「なに言ってんの、マリーにはわたしたちがいるでしょー?」

「んお……そ、そうだな! へへ……」


 マルグリットは嬉しそうに笑って頬を掻いた。


 アンジェリンはそれに微笑ましさを覚えながら、前を見た。父とその友人の背中が見える。


 再会できて、仲直り出来てよかった。

 その筈なのに、アンジェリンの胸の中に、妙にもやもやしたものが渦を巻いていた。あんな風に笑うベルグリフは見た事がない。

 娘として、ずっと一緒に暮らして来て、ベルグリフの事は何でも知っているつもりだった。自分の知らない父の姿などないと思っていた。

 しかし、今こうやって目の前で昔の仲間たちと楽し気に話す父の姿は、自分の記憶にもないものだった。


 一緒に旅をして、背中を預け合った。自分は全幅の信頼を寄せているし、ベルグリフだって信頼してくれている。

 それでも、ベルグリフたち三人の間にある信頼感は、自分とベルグリフの間にあるものとは違うように感ぜられた。それが自分にないのが、何だか悔しいような羨ましいような、片付かない気分である。


 そんなものが胸の奥の方でじくじくと疼き、首尾よく大甲冑蟲の抜け殻を手に入れられた後も、アンジェリンは奇妙な思いで胸が締め付けられるような気がした。


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