第九話
案内された場所は屋上の踊り場だった。人気が少なく会話が聞かれにくい場所だ。ここなら目立つこともないだろう。
「あ、カズくんだ! 久しぶり!」
こちらに気づいた胡桃坂さんが、階段の低い位置からピョンっと飛び降りた。
その際にスカートがふわりと舞い上がり――俺は素早く顔を背ける。見てしまうことへの罪悪感があった。
「ん? どうしたのカズくん?」
「な、なんでもないっす」
「そっか。わざわざ来てくれてありがとね、カズくん!」
嬉しそうに顔を綻ばせた胡桃坂さんが、勢いよく俺の両手を握りしめてきた。や、柔らかい……っ。握手券なしで幸福を味わってしまった。胡桃坂さんのファンに知られたら俺は袋叩きにされるかもしれない。
「これで私の役目は終わりかな~」
「うんっ、ありがとね琴音ちゃん!」
琴音と呼ばれた女子は立ち去ろうとするが、思い直したように立ち止まる。そして俺を上から下までジロジロ眺め、納得したように頷いて胡桃坂さんに向き直った。
「あ~。そこの彼、誠実で優しい男子かもね」
「うん知ってるよ?」
当たり前と言わんばかりの反応をする胡桃坂さん。全く面識がなかったのに謎の信頼感がある。俺としては嬉しさよりも困惑。いっそ恐怖を感じた。身に覚えのない信頼は逆に勘弁してほしい……。
「んー、なるほどねぇ」
琴音という女子は、まるで値踏みするかのような視線を俺に向けてくる。
居心地の悪さを感じていると、琴音さんはウンウンと満足そうに頷いてから階段を降りて姿を消した。
「な、なんだったんだ?」
「なんだろうね。琴音ちゃんは理由もなく意味深な言動をするから、あまり気にしなくていいかも」
よく分からないけど胡桃坂さんがそう言うなら忘れよう。
……それはそれとして。
「えーと、胡桃坂さん……?」
未だに握りしめられた両手を見下ろし、俺は困惑アピールをしてみせる。
嬉しさよりも恥ずかしさが凌駕していた。
「あっ、ごめんね! つい……」
頬をポッと赤らめて一歩下がる胡桃坂さん。
多分だけど俺も似たような表情になっているだろう。
「……それで、胡桃坂さんの用事ってなに?」
「あ、うん。えとね……カズくんに頼み事があるの」
「頼み事?」
なんだろう。ネトゲ廃人の俺がアイドルのお願いを叶えられるとは思えない。
もし握手券付きのCDを百枚買えとか言われたらどうしよう……。
不安を感じながら胡桃坂さんの発言を待つ。すると想定外のお願いをされた。
「凛ちゃんと……もっと仲良くなってください!」
そう言った胡桃坂さんは、シュバッと元気よく頭を下げた。
「仲良くって……。俺と水樹さんは、ネトゲのフレンドにしては結構仲が良いと思うんだけど」
「そうじゃないの。ゲーム友達としてではなくて、もっとリアルで歩み寄ってほしいの」
「そんなこと言われてもな……」
俺も出来ることなら日常的に水樹さんと会話をしたい。
けど、それはマズイだろ。
「もちろん私たちはアイドルだから、特定の男の子と親しげにしていると、ちょーとだけ騒がれちゃうんだけど……」
「ちょっとじゃすまないと思う。だから俺と水樹さんは話し合って、学校では話さないように決めたんだ」
「なるほどね。だから最近の凛ちゃんは、楽しそうだけど寂しそうでもあるんだね」
「……?」
楽しそうで寂しそう? よく分からない表現だな。
首を傾げていると、胡桃坂さんは優しい表情を浮かべて提案してくる。
「カズくんの方から凛ちゃんに歩み寄ってあげられないかな? そうしたら凛ちゃんは凄く喜ぶと思うの」
「できることなら、そうしたいけどさ……。人前で仲良く会話していたら、学校や世間で噂にならないか?」
「それなら……皆にはバレないように、内緒で仲良くしようよ!」
「えぇ……」
名案とばかりに目を輝かせる胡桃坂さん。
謎の猛プッシュをされて戸惑いを隠しきれない。
「それともカズくんは凛ちゃんのことが嫌いなの?」
「いやそんなことはないけど……」
「お願いします! 凛ちゃんと仲良くしてください!」
胡桃坂さんが必死に頼み込んでくる。
そんな彼女を見て、俺は素朴な疑問をぶつけることにした。
「……どうして胡桃坂さんは俺と水樹さんに仲良くなってほしいんだ?」
アイドルという立場からしたらリスクが高いだろう。
なんなら手切れ金を俺に渡して『凛ちゃんに近づくな!』くらいは言ってもいいんじゃないか?
大げさな発想だろうけど、アイドルと男の問題はそれくらい敏感に扱っていいと思う。
このご時世だと、とくに。
「そ、それはそのー……。私の方からは言えないといいますか、言っちゃいけないといいますか……」
ばつが悪そうに俺から視線を逸らすと、胡桃坂さんは体をモジモジさせた。
「ひょっとして水樹さんに何か頼まれたとか?」
「違うよ! 凛ちゃんは何も言ってない! 私が勝手にしてるだけだから!」
「あ、そうなんだ……」
凄い勢いで否定された。少し焦る。
「私ね、凛ちゃんにもっと幸せになってほしいの。今まで大変なことが沢山あったから……」
「……」
学生アイドルとしての意味じゃない。
もっと別の意味で大変という言葉を使っている気がした。
「凛ちゃんにはね、アイドルとしても、一人の女の子としても幸せになってほしいの。どちらか一方を諦めてほしくないって思う」
「なるほど……」
事情は全く分からない。
しかし胡桃坂さんの真剣さが痛いほど胸に伝わってきた。
「凛ちゃんとリアルでも仲良くしてくれる?」
「まあ、うん……。俺も水樹さんと今以上に仲良くなれたらな、って思ってるし……」
「ほんとうに? よかったぁ」
胡桃坂さんが安堵のため息を漏らす。
本気で水樹さんのことを大切に思っているんだな。
「それで仲良くなるって、俺は具体的にどうしたらいいんだ?」
「えーと……。まずは呼び方を変えてみるとかかな?」
「呼び方?」
「うん。実は凛ちゃんね、カズくんから他人行儀で呼ばれるのが嫌みたいなの」
「え? そうなの?」
「うん。だからカズくんも凛香って呼んであげて」
「マジで? ちょっと、それは……」
めちゃめちゃハードル高い。橘と斎藤にも言ったが、俺にそんな勇気は微塵もないのだ。
ネトゲ廃人を舐めないでほしい。俺たちが勇者になれるのは仮想世界だけだ。
「やっぱり緊張する?」
「うん。する」
しないわけがない。考えただけでも心臓がバクバクだ。
「なら次の土曜日がチャンスだね。最初はゲームの世界から名前呼びを始めて、それからリアルでも慣れていけばいいんじゃないかな」
「慣れるかなぁ……?」
リンと呼ぶのと、凛香と呼ぶのでは大違いだ。
意味合いが変わってくる。
「私がそれとなくフォローするから、頑張って凛ちゃんを名前で呼んであげて!」
「……分かった」
やや強気な口調で言ってくる胡桃坂さんに、俺は押し切られる形で頷いてしまう。
このゴリ押しの姿勢は水樹さんに似ているな。
「ありがとうカズくん! さすがだね!」
「……胡桃坂さんって、思ったより我が強いな……」
俺に要求されたのは、水樹さんとリアルで仲の良い友達になること。
ネトゲという共通の趣味があることだし、さほど難しくないと信じたい。
「というわけでカズくん。私と連絡先を交換してくださいっ」
「え、いいのか?」
「もちろんだよ! 凛ちゃんとカズくんをくっつけ――――じゃなくて、二人が仲良くなるための作戦を話し合う必要があるでしょ? だからお互いの連絡先を知っていたほうが便利だと思うの。当たり前だけど凛ちゃんに知られるわけにはいかないし」
「まあ、そうだな……」
この密会を水樹さんに知られたら間違いなく怒られるだろう。
胡桃坂さんの立場を守るためにも内緒にする必要がある。
「早速交換しよっか」
促されたのでスマホを取り出す。何事もなく連絡先の交換を終えた。
「よし、これでオッケーだね!」
これで俺のスマホには人気アイドル二人の連絡先が登録されたことになる。
……このスマホ、世界で一番価値があるかもしれない。
「凛ちゃんとカズくんの仲良し大作戦、決行だよ!」
「……お、おお?」
なんだろうな、これ。外堀を埋められているような感覚だ。
俺が何かを考える前に、無理やり胡桃坂さんに事を進められた気がする。
ただ、今よりも水樹さんと仲良くなれるなら嬉しい。
問題は周囲にバレることだが……。
幸い、俺たちにはリアルから切り離された共通の世界が存在する。
よほどのヘマをしない限り大丈夫だろう。
□
その日の夕方。家でネトゲをしていると水樹さんから電話がかかってきた。
「……?」
電話とは珍しいなと思いつつ、採掘を中断してスマホを取る。
「もしもし」
「和斗くんね? いきなり電話をしてごめんなさい」
「いや、構わないよ」
スマホからは水樹さんの声とは別に、慌ただしい女子たちの声が薄っすらと聞こえてきた。声質的にアイドルっぽい。水樹さんは練習の合間に電話をかけてきたのか?
「もうすぐ休憩が終わるから、あまり長く話せないのだけれど……。どうしても和斗くんに尋ねたいことが一つだけあったの」
「なに?」
特に深く考えず尋ねる。
……それが間違いだった。
水樹さんは、いつもの冷たさとは違う低い声音で質問をしてきた。
「――――今日の昼休み、あの女と何をしていたの?」




