第八話
どうしよう緊張が収まらない。
水樹家のリビングでウロウロしていた俺はソファに腰を下ろし、ひとまず呼吸を整える。
凛香の個人部屋に繋がる廊下を見つめ、落ち着き無くソワソワしていた。
「……やっぱ言うんじゃなかった……っ!」
いくらなんでも猫耳メイドはおかしい。
凛香も若干引き気味だった気がする。
今頃部屋で『和斗くんって変態ね。この私に猫耳メイドの姿をさせて喜ぶなんて。がっかりだわ』とか言っているかもしれない……!
「あぁ……! やり直したい……時を戻したい」
時を戻そう、で無理かなぁ。
無理だよなぁ。頭を抱えて後悔。
さすがに調子に乗り過ぎた。
期待よりも不安が強い。
「でもなぁ……猫耳メイドは男の夢だもん。ロマンだもん」
猫耳メイドを嫌う男は、この世に存在しないだろう。
仮に居るとしたら、そいつは男をやめている。
性別不明の宇宙人だ。
俺が身悶えしていると、廊下を遮るドアが開かれた。
「お、遅くなってごめんなさい……どうかしら?」
そこに立っていたのは当然だけど凛香。
つい先程までは白と黒のフリフリしたメイド服でしかなかったが、今はバージョンアップされていた。
頭からぴょこんと生えているのは黒い猫耳で、首には小さな鈴が着いた首輪が装着されていた……!
さすがのクール系アイドル水樹凛香も、顔を目一杯に赤くさせている。
というか今日ずっと顔が赤いなぁ。
テレっぱなしだ。
「か、可愛いですよ、凛香さん」
「……どうして、さん付けなのかしら」
なんとなく、と言うしかない。
無性に人を敬いたくなる時があるだろ?
今がその時だ。
「えと、その……私は何をしたらいいかしら?」
目の前まで歩み寄ってきた凛香が首を傾げる。
俺はソファに座りながら両手を組み、同じく首を傾げた。
「何をしたら……いいんでしょうね?」
俺としては好きな女の子が猫耳メイドになってくれただけで十分だった。
それ以上を求めるのは万死に値する。
俺はクール系猫耳メイドさんをジックリと眺め、「ほぅ」と感嘆の息を漏らした。
「は、恥ずかしいわ……っ」
体を縮こまらせて小刻みに震える凛香。
その恥ずかしがる仕草が更に魅力を引き上げていた。
「ありがとうございます、凛香さん……!」
「私は何もしていないのだけれど」
「いや、そこにいるだけで俺は満足……幸せです……!」
生きていて良かったと心の底から思う。
感動に震えていると、俺の隣に凛香が腰を下ろした。
「……凛香?」
「ご主人様……その、頭を撫でても……いいわよ?」
「それは……撫でろという意味でしょうか?」
「……」
頬を赤らめる凛香が俯き、コクリと頷く。
なんだこの生き物、可愛すぎかよ。
注文通り俺は凛香の頭に右手を乗せた。
猫耳カチューシャを飛ばさないように気をつけて、優しくナデナデする。
「ふ、んん……んっ」
気持ちよさそうに目を細めている。
なんか本当に猫みたいだな。
ふとした思いつきで、今度は空いていた左手を凛香の顎下に添えて撫でる。
頭と顎下のダブルナデナデ。
まさに動物扱い。
しかし凛香は、それでも気持ちよさそうに喉を鳴らして体を擦り寄せてきた。
……本当に猫だった。
「ごろごろ……………ご主人様……」
演技なのか素なのか、それはともかく。
とろけるような甘い顔を浮かべる凛香は非常に可愛らしく、俺の理性すらとろとろに溶かしてきた。
今となっては凛香の猫耳がピコピコと動いているようにさえ幻視してしまうほど。
なんだか黒い尻尾すら見えてきたぞ。
凄い、これが人気アイドルの本気だと言うのか……!
もはやメイド要素は皆無だけどなっ!
「ご主人様……もっと撫でてほしい、にゃー」
「――――っ!」
死んだ。俺が。
あまりの可愛らしさに悶絶死。
すでに心理的な一線を超えたらしく、凛香は猫のように頭をスリスリと俺の胸に擦り付けてきた。
しかも「にゃー、にゃー」言いながら、である。
……やばいな。
部屋が暑い。猛烈に暑い。
頭の中が茹でっている。
まともな思考ができなくなってきた。
「ご主人様……好き、大好き……」
マーキングするかのように体を擦り付けてくる。
凛香の匂いだろうか。
花みたいな甘い匂いが、ふんわりと漂ってくる。
そしてメイド服越しに女の子特有の柔らかくて温かい体さえ感じ取れた。
凛香の頭と顎下をとにかく撫で続ける。
撫でれば撫でるほど「にゃーん、にゃー」と甘える声が聞こえてくるのだ。
ついには俺の右手が凛香のお腹に伸びてナデナデを始める。
すると仕返しとばかりに凛香も俺の左手をペロッと舐めてきた。
…………。
明らかにお互いの理性が緩くなっている。
この雰囲気から発せられる熱気が俺たちの思考力を奪っていた。
このまま行くとヤバい。
脳内に残る僅かな理性が警告している。
だが俺は自分を止めることができず、凛香をソファに押し倒そうとした刹那――――。
ピロロン! ピロロン!
「…………」
テーブルに置いていた俺のスマホから着信音が鳴った。
「えーと……」
「出たほうがいいんじゃないかしら。緊急かもしれないし……」
お互いの視線を交わし逡巡するもスマホを取ることに決定。
俺はスマホを手に取り相手を確認する。
胡桃坂さんだった。
こんな時になんだろう。
頭の中が急速に冷えていくのを感じながら、通話に出る。
「もしもし、カズくん? 今どんな感じ?」
「……なにが?」
「ついさっき香澄さんに教えてもらったんだけど、凛ちゃんの家にお泊りしてるんでしょ?」
「う、うん」
香澄さんと胡桃坂さんは仲が良いのだろうか。
まあ女性の世界だと噂は広がるのが早いというし、こういった情報の伝達も早いのかもしれない。
「どう? 楽しく遊んでる?」
「……そうっすね」
「カズくん?」
楽しく、という表現で正解なのか分からなかった。
胡桃坂さんの電話がなければ、にゃんにゃんコースに突入していたかもしれない。
「ごめんね急に電話しちゃって。二人が仲良くしているか心配になっちゃって……」
ある意味めっちゃ仲が良かったデス。
「でもね、凛ちゃんって意外と甘えん坊さんな一面もあるから、あまり驚かないであげてね」
知ってます。にゃんにゃん鳴いていました。
「あ、もしかして邪魔しちゃったかな? 今、結構良い雰囲気だったりする? だったら本当にごめんね」
何とも言い難い……。
最高のタイミングだったとも言えるし、最悪のタイミングだったとも言える。
「じゃあねカズくん。凛ちゃんと沢山仲良くしてねっ」
そうして短い電話が終わった。
多分、自分の電話が何かしらの妨害をしてしまったことに気がついたのだろう。
胡桃坂さんは空気を読んだみたいだ。
「えーと……」
スマホをテーブルに置き、俺は凛香に目をやる。
残念(?)なことに、この通話の間に凛香は平常心を取り戻したらしい。
顔にキリッとした感じのクールさが戻っている。
「ごめんなさい和斗くん……。私、空気に流されて変なことになっていたわ」
「あ、あぁ……うん。俺も……ごめん」
先程までのピンク色な熱気は消し飛んでいた。
何とも言えない微妙な気まずさが俺たちを包み込む。
「そ、その……汗かいちゃったわね、私たち」
「た、確かに」
「お風呂……準備してくるわ」
「了解です」
ソファから立ち上がった凛香は、どこか逃げるようにしてリビングから去って行く。
この空間に残されたのは、変な熱の余韻と冷めきった空気感。
いたたまれない気持ちだ……!
「お風呂か……」
少し思うところがあり、ボソっと呟く。
まさか人気アイドルの家でお風呂に入る日が来るなんてな。
こういう時の定番展開と言えば……女の子が風呂に乱入してくる、だろう。
「凛香ならマジでやりそうだなぁ」
想像しただけで下がったはずの体温が再び上がってくる。
このお泊りデート……波乱に満ちていそうだ。




