第九話
「和斗くんの体から、私以外の女の匂いがする……」
「えっ!」
翌日。旧校舎で凛香と過ごしていると、不意にそんなことを言われた。椅子から立ち上がった凛香が、重い迫力を醸しながらこちらに歩み寄ってくる。俺も立ち上がり、すぐ目の前に来た凛香と目を合わせた。
「すんすん……やっぱりそうね。この匂い……奈々?」
「なんて嗅覚だ……!」
俺の胸に顔を近づけて鼻を鳴らす凛香に驚愕を隠し切れない。
もはや人間を超えているのではないか?
「どうして和斗くんから奈々の匂いがするのかしら」
「それは……えっと」
「まさか浮気? 私の親友と……浮気?」
「違う! 全く違う! すぐ浮気と結びつけないでください!」
「ええ、確かに奈々は可愛い女の子だわ……それでも、まさか私の親友と……そんな…………うぅ…………っ。和斗くん、私のこと好きって言ってくれたのに」
心底悲しそうに目を潤ませ、凛香は絶望した色を顔に浮かべる。今すぐにでも卒倒しそうな雰囲気があった。
「違うから話を聞いて!?」
「…………ふふ」
「え?」
「分かっているわ。どうせこけそうになった奈々を支えたとか、そんなところでしょ」
ケロッと平常運転に戻った凛香が、正解を口にする。さっきの雰囲気は……?
戸惑っている俺を見て、凛香は少し自慢げに語る。
「つい最近、演技のお仕事をもらったのよ。それで和斗くんを驚かせようと思って、ちょっと試しに悲しんでみたのよ」
「そ、そうだったのか……俺は本気だと思ってた」
「まさか。私は和斗くんを信頼している……。よりにもよって奈々に手は出さないでしょう」
「もちろんだ……!」
「でも奈々を抱きしめたことには変わらないわね」
「え――――!」
目を鋭くさせ、不満そうに唇を尖らせる。そこはかとない怒りがそこに渦巻いていた。
「それも演技だったり……しませんか?」
「しないわ。これは演技ではなく、本気よ」
「あー……」
「妻の私ですら、まだ抱きしめてもらったことがないのに……」
言われてみればそうだった。残念さと悔しさが入り混じった負のオーラを発する凛香を見て、何がまずかったのかを改めて理解する。
「和斗くん。は……ハグを……要求するわ」
そう言って両腕を広げた凛香の顔は、リンゴのように真っ赤に染まっていた。さきほど食した弁当の中に、うさぎを模したリンゴが入っていたことを思い出す。
「握手は奈々が先にして、ハグまで奈々が先にするなんて……。妻は私よ? 和斗くん」
「妻じゃなくて恋人――――」
「そんな建前はどうでもいいの。私の本来の結びつきは夫婦よ。そして夫婦なのに、和斗くんは妻の親友と身体接触をすませている…………ええ、これは大問題よ。速やかに私を抱きしめて」
早口でそう言い切った凛香は「んっ」と促すように短く唸った。しかし恥ずかしいのか、目を固く閉じている。頬の赤みも先ほどより増していた。そんなに恥ずかしがるくせに夫婦として振る舞おうとするなんてな……。
俺は緊張感を抑えるべく、一度深く呼吸をする。
こう改まって好きな人を抱きしめるのは途方もない緊張を感じた。
思い返せば、リアル初デートの日から凛香とは手を繋いでいない。
キスをしようとしたのも一度だけだ。人間、その場の熱量が過ぎれば、再び同じような熱量を抱くのは難しいらしい。
「和斗くん……ハグぅ……」
「……っ!」
子供のようにねだる声を聞かされ、ついに限界に達する。
ドキドキしながらも俺は、そっと包み込むように凛香を抱きしめた。胸の中に温もりが広がっていく。制服越しに柔らかい体の感触が伝わり、俺の背中に回された二本の細腕がギュッと締めつけてくるのも分かった。
「ふっ……んっ……これが夫の温もり……和斗くん……」
「お、思ったより……恥ずかしい……!」
「な、何を言うのかしら……夫婦が抱きしめ合うのは当然のことよ……な、何も恥ずかしがる必要なんてないわ……!」
「声、震えてますが?」
「――――ッ」
俺に指摘された凛香は、ハッとしたように口を閉ざした。分かりやすい反応。顔を見えないが、さぞ真っ赤になっていることだろう。
「すぅ、はぁ、すぅ……これが夫の匂い……和斗くん人形では味わえない至福ね」
凛香は俺の胸に鼻を押し付けると、変態行為構わず自分の欲望をさらけ出す。
これが世間から認められるクール系アイドルの実態ということか……。
☆
やはり凛香先輩とも抱きしめ合う関係にありましたね……。
ドア窓から覗いていた私は、決定的場面を目にしたことで目的を達成した。旧校舎を後にし、外廊下を歩きながら思考を巡らせる。
もはや一刻の猶予もない。計画を練る必要があった。
和斗とかいう男から、尊敬する先輩たちを救う計画を!




