5.死出の旅
ヨダカのその表情を一言で表すとしたら何だろう。
声に含まれているのは怯えであったし、迷いでもあった。
頑なに愛した人々の後を追おうと誓ったのであろうその気高い心が、わたしの縋り憑きを前に揺れているのが分かった。
彼女は迷っている。本当は迷っている。
苦しく、切なくなるほどに、その想いが伝わってくる。
死は恐ろしく無慈悲なもの。カケスが目の前で死んだあの日から、わたしはその想いを更に強くした。
血で染まるライチョウの刃。
あの刃がもたらす脅威は今も薄れたりはしない。
だから、わたしには分かる。むしろ、この方が理解しやすい。
ヨダカは、本当は死を恐れている。全てを忘れ、楽になりたいと思っている。沢山の迷いが爪や牙となって、猛獣のように彼女の心を貪っているのだ。
それなら尚更、わたしはこの人を諦められない。
それでもヨダカは、震えながらわたしに言うのだ。
「恐ろしい」
今までに聞いたことがない程、その声は震えていた。
「歌鳥の魅力も、人間の欲望も恐ろしくて嫌になる」
「ヨダカ……」
「あなたは時に天使のように純粋だけれど、時に悪魔のように残酷でもあるわ。カナリア。私はあなたを手放さなければいけない。そうしなければならないはずなのに……」
泣いている。ヨダカが泣いている。
その涙は見えなかった。強く抱きしめられているから、全く見えなかった。ただ、耳の後ろからは嗚咽が聞こえ、項あたりに生温かい雫が零れたのを感じて、わたしは茫然とその雰囲気を味わわされていた。
「お願い、カナリア……」
泣きながらヨダカは言った。
「私を見捨てて、未来を掴んで」
「出来ない」
出来るわけがない。
こんなに泣いている人を放って、自分だけ未来を掴み取るなんてこと、出来るわけがない。それはわたしの願いではない。そんな状況で幸せになんてなれるわけがない。
「本当は死にたくないんでしょう?」
泣き続けるヨダカにわたしは言った。
「じゃあ、生きればいいじゃない。あなたのお兄さんだって、カケスだって、そう願っているはずだよ?」
「――だとしても」
震える声でヨダカは言う。
「私の結末は私が決める。没落したこの屋敷にいつまでも縋る気はないの。この先に私の望んだ未来はない」
「酷いよ。わたしからは未来を奪ったくせに」
意地悪だったかもしれないけれど、そう叫ばずにはいられなかった。
これまで培ってきた価値観の全てを強制的に捻じ曲げてしまったのは、他ならぬヨダカその人だ。ずっと歌鳥以外には捧げられないと信じてきた誓いの唄をこの人になら捧げてもいいと思わせておいて、どうしてこんなにもあっさりと手放そうとしてくるのだろう。
それも、こんなに震えながら。
「わたしはヨダカと生きていきたいの」
どうしたら、この人に分かってもらえるのだろう。
さぐりながら、わたしはヨダカの心の扉を何度も叩いた。
「あなたが死んだら、わたし、生きていけない。わたしにとって誓いの唄を捧げるっていうのはね――」
もう、耐えられなかった。
これ以上、感情を抑え続けるのは無理な事だった。
「心から愛しているっていう意味なのよ!」
思えばわたしはこれまでずっと自分の本当の気持ちを言葉として表したりしなかった。
「ヨダカ、愛しているわ。わたしを一人にしないで」
それはカケスとヨダカの関係を知ったせいでもあった。
二人に自分の気持ちを悟られるのすら怖かったし、それによって二人とわたしの間に横たわる絶望的なほどの価値観の違いを思い知らされるのが恐ろしくて仕方なかったからだ。
それは変わる事はないだろうと思っていたし、だからこそ心が抉られるほどの苦しみに悶え続けてきたのだ。だから、ヨダカに対してこんなにもはっきりとした言葉をぶつける日が来るなんて、全く想いもしなかった。
わたしは飽く迄も、ヨダカを主人と認め、従いたいという体で誓いの唄を捧げようとしてきた。
心が変わり、真実の愛を求めるのを諦めたのだと思わせようと努力してきた。
どうしてもそうしたかったのは、ヨダカに知られたくなかったからだ。
知られるのが怖かったからだ。
彼女はわたしの事を獣としか見ていない。獣相手を人間のように愛する事なんて出来ない。どんなに綺麗事を並べても、獣相手に永遠の愛を誓うなんて出来ないだろう。
そう思うからこそ、わたしは述べたくなかった。
世の中のどのくらいの歌鳥が奴隷となっているかわたしは知らない。
歌鳥と歌鳥でない者の混血児の存在が証明するのは、世界の何処かで人間の欲望のはけ口となってしまっている歌鳥が存在するという事だろう。
それは決して愛なんかではない。
愛ではなくただの欲望。汚らわしい欲望。
「カナリア……」
驚きを存分に含んだその声が、とても怖かった。
わたしを抱きしめるその力はとっくに失われ、わたしの方が縋っていなければ離れてしまいそうなくらいだった。
「あなた……」
恐い。
ヨダカの内面の揺らぎ。そこに発生する感情の種類。わたしに対する印象の変化と、その結果生じるだろう態度。
全てが恐くて吐き気がしてきた。
苦しくも、恐ろしくも、口に出してしまった言葉は消せない。
わたしは黙ってヨダカの言葉の続きを待った。
もう彼女は泣いていない。震えてはいたけれど、その震えも段々と収まってきていた。代わりに生まれるのはこれまでと同じ、圧倒的な雰囲気。わたしがずっと寄りかかり続けてしまっていた、強さ。
「――いけない」
その強さを含んだ声で、ヨダカは堂々とわたしを拒んだ。
「それは駄目よ、カナリア」
はっきりとした断りが、わたしの視界に靄を生んだ。




