3.忠誠心
それから数日後、ヨダカは帰ってきた。
「ただいま」
久々に聞く甘い声が耳をくすぐった時、わたしは一体どんな表情を浮かべたのだろう。鳥かご越しに目を合わせると、ヨダカは無言のままわたしの頭を撫でてくれた。
その感触がもたらした心地よさを言葉に表すのはとても難しい。
かつてわたしはヨダカに支配されていくのが悔しくて仕方なかった。わたしの方がヨダカの心を支配してしまいたいとすら思ったはずだった。けれど、今やプライドも何処かへ消え去ってしまっていた。
失恋のような喪失感に沈んでいたことををすっかり忘れてしまうくらい、ヨダカの帰宅が嬉しくてしょうがなかった。
恍惚とするわたしを覗きこむと、ヨダカはにっこりと笑った。
「変わりはないようね。長く会えなくて寂しかったわ」
心の隅々までも奪われている人に、そんな表情で、そんな事を言われて、嬉しくないはずがない。わたしはヨダカの美しい顔を存分に見つめながら、囁くような声でそっと彼女へと告げた。
「おかえりなさい、ヨダカ。無事に帰ってきてくれて、とても嬉しい」
わたしの言葉を受けて、ヨダカの目が怪しく細められた。
嘘偽りのないわたしの言葉をどう受け止めただろうか。少しはわたしの気持ちも分かってくれているのだろうか。ああでも、そうであったとしても、ヨダカの抱くカケスへの想いはちっとも変わることがないのだろう事は考えなくても分かるので、どう足掻いてもわたしが傷つくだけだ。
それでも、ヨダカは多くを語らず、ひとしきりわたしの姿を見つめると、やがて無駄のない美しい動作で立ち上がった。
「着替えてくる。私が居なかった時の事は、後でゆっくりお話しましょう」
そうして、数日間失われていたわたしの日常が戻ってきた。
昼も夜もヨダカに侍り続けるこれを日常と違和感なく言える日が来るなんてかつては思いもしなかったけれど、今はすっかりそうなのだから仕方ない。そんな変化よりもわたしは、ヨダカが無事に帰って来てくれた事が嬉しくてたまらなかった。
――だからこそ、だからこそ……。
ヨダカが帰ってきてからは、カケスの訪れる機会もめっきり減った。それでも、留守中のわたしの世話に問題がなかった事を判断してか、わたしに関する雑用ではたびたびカケスが借りだされていた
別にコマに不満があったわけではない。
コマは妾の頭であるから、わたしの世話などと言う雑用がなくとも忙しくて仕方のない身分なのだ。カケスは妾の中でも大した地位ではなかったようだけれど、他ならぬ女主人の命令には誰も歯向かえず、表向きはカケスに対する不満の声等漏れたりはしなかった。
それはいい。
カケスの優しい心が無意味に傷つけられるところは見たくない。裏でも悪く言われていないようにと願っているくらいだ。
けれど、ヨダカとカケスのやり取りを今まで以上に目撃するようになって、どうしてもわたしは心の内にて炎がくすぶっているような感覚に悶えるようになってしまったのだ。
この二人が思いを寄せ合っている事は、屋敷の誰もが知っているのだろう。
日に日に妾達によるカケスへの嫌がらせも減り、時折、さらりと噂が流される程度に収まったのも、きっとヨダカとカケスの関係が深いものになったからに違いない。
誰もがヨダカの機嫌を損ねまいと必死なのだ。
そんな絶対的主より指輪を貰う予定となった女と噂されれば、誰だってカケスに強く出られるわけがない。
「カナリア、歌ってちょうだい」
青空の美しい日の昼下がり、これまでと同じようにわたしはヨダカと二人きりで個室に籠っていた。これまでと同じ、唄を歌う為の部屋。わたしにとっては椅子に座ったヨダカに向かって、守護の唄を歌う為だけの部屋だ。
ここにいるのはわたしとヨダカだけ。
薄暗い部屋に窓辺より射しこむ日光が、ヨダカの美しい容姿を照らしつけている。その姿はまさに幽玄な森林に住まう精霊の女王のようで、息を飲んでしまうほど神秘的だ。その姿で見つめられているだけで、契りを結んでしまいそうになる。
わたしはそっと目を逸らし、ヨダカを出来るだけ見ないようにして歌いだした。
これが誓いの唄だったら、作法はだいぶ変わって来る。
誓う相手の前で跪き、その手を握って目を見つめ、魂を捧げるほどの気持ちを込めて歌わなくてはならないのだ。
ヨダカを前にそんな事をする光景はどんなに美しいだろう。
思いがけずそんな想像が膨らみ、わたしはついつい唄に詰まってしまった。ふと音楽が止められたことにヨダカが不審がる。そんな眼差しを受けて、わたしは慌てて冷静になって続きを歌った。
いけない。
ヨダカに誓ってはいけないのだ。
どんなに心が惹かれていても、彼女に誓ってしまうということは、わたし自身の信念を曲げることだ。
恋に身を滅ぼしてはいけない。
それは、歌鳥が常に気を配ることであるらしい。間違った相手に唄を捧げることがないように、契りを結ぶ相手と対等であることこそ、歌鳥の幸せであるのだとわたしは聞かされて育ったのだ。
そう、だから、ヨダカと契りを結んではいけない。
口約束しか出来ない彼女を信用しきってはいけない。
けれど、頭に嫌というほど叩き込まなくては、間違ってしまいそうだった。そして、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、悲しくなってしまうのはどうしてだろう。意味が分からないし、分かりたいのかも分からない。
どうしてわたしはヨダカに恋なんてしてしまったのだろう。
そんな思いばかりが揺れ動き、歌う声に力が入らない。
くらくらとする視界の中で、わたしはどうにか歌詞の続きを唱えた。
「カナリア?」
ついに、わたしは唄の途中で名前を呼ばれた。
唄を辞め、女主人の表情を窺うと、夜の世界を現したかのようなその双眸が、わたしの顔を心配そうに見つめていた。
「具合でも悪いの? 今日はもういいわ」
「――いいえ、そういうわけでは……」
慌てて言ったものの、とっくにヨダカは立ち上がっており、わたしの言い分を深く訊ねるわけでもなく手を伸ばしてきた。
そして仕方なく、わたしはそれに従った。




