2.孤独
感情的になった翌日、わたしは一人ぼっちで気まずさに耐えていた。
ヨダカが戻って来るのはまだ先の事だ。彼女が不在である今、わたしに寄り添ってくれるような人はカケスしかいない。そのカケスに当たり散らしてしまった事を、今さらながら後悔していた。
叶えて貰えるはずもない事を要求して感情的になる。
そんなわたしに昨日までのように接してくれるとはどうしても思えなかった。
時間が巻き戻せるのならば巻き戻したい。謝る機会が与えられるなら、土下座だって厭わない。そんな思いを込めて、わたしはカケスの訪れを待った。
ヨダカが帰って来るのはまだずっと先。
そんな中でカケスにまで嫌われてしまったら、わたしは何を支えに過ごせばいいのだろう。本当に、本当にわたしは馬鹿だった。
結局その日は憂鬱のまま過ごす事となった。
いつもなら食事を運ぶのはカケスだったはずなのに、その日だけは朝も昼も夕も、コマが運んできたからだ。
コマは必要最低限の事しか言わない。わたしに対して表面的な関係しか築かないことを嫌になるほど示している。そうしているのはわざとで、その理由は保身のためだと誰も聞いていない夜間にこっそり教えてくれたのはヨダカだった。
歌鳥の血を引かぬ人間ならば、誰だって一度は歌鳥を手懐けてみたいと思うものらしい。彼らが求めるのはわたし達の唄の力で、そつがない調教して自由にその力を利用するのはいつの時代もごく一握りの人間だけだ。
けれど、古き時代より存在する幾つかの伝承では、歌鳥の心を捕えた身分の低い人間がその唄の力でなり上がり、名声を得るという内容が語られる。生まれながらの地位を約束されなかった者の中には、その伝承の主人公になりたがる者もいる。また、そんな願望を嗅ぎつけ、尾ヒレをつけて吹聴し、他者を蹴落とす様な人間もいる。
カケスがわたしに親しげに接して他の僕妾から睨まれるのもそのせいだ。
もっとも、この屋敷の頂点であるヨダカがカケスを特別視していることも嫉妬を買う原因ではあるけれど、屋敷を追われれば居場所を失う僕妾にとって、よからぬ噂というものは身を滅ぼしかねない毒となるのだ。
それは、妾のすべてを束ねるほどのコマであっても同じ事であるらしく、わざとわたしと距離を取ることで他者の付け込む隙を与えないようにしているのだ。
当り前の事だけれど、そんな事情などわたしにとっては知った事ではない。
会話すらしてくれないコマでは駄目なのだ。ヨダカがいない以上、世話をしてくれるのはカケスでないと嫌だった。
もちろん、我がままだという事は理解しているつもりだ。
わたしが感情的にならなければ、こんな思いをせずに済んだかもしれない。そう分かっているからこそ、わたしは怖かった。このままずっとカケスが姿を見せてくれなかったらと想像すると、苦しくて吐き気が込み上げてきた。
だから、カケスが現れなかった理由が、単に他の用事に狩りだされていただけなのだと分かった時、わたしは泣きだしそうになった。
次の日、カケスはいつもの通りわたしに食事を運び、戯れに頭を撫でてくれた。
感情的になった事をすっかり反省して落ち込んでいたわたしは、主人に屈服した飼い犬のように素直に頭を垂れ、撫でられる感触をただ味わった。
ひょっとすると近い未来、彼女の地位はわたしよりも高くなるかもしれない。
正式に結ばれることはないだろうヨダカとカケスだけれど、それでも、カケスがヨダカの愛人となるというのならば、しがない愛玩動物でしかないわたしよりも偉いのは考えるまでもなかった。
今までのようにヨダカにだけではなく、カケスにも侍る未来が頭を過ぎる。
少しでも気を抜けば、はっきりと掴めない感情の渦がわたしの体内で蠢き、弱りきった涙腺から涙を流させようと意地の悪さをちらつかせる。
とても苦しくて、とても切なかった。
それでも、わたしは必死に耐えてカケスの他意も無い純粋な愛撫を受け入れ、そして勇気をだして口を開いた。
「一昨日は御免なさい……」
ぽつりと呟くと、カケスの手の動きがやや止まった。その温もりだけは今もじわじわとわたしの頭に伝わってくる。芯を冷やさぬように温められているその感触に浸り、わたしは返答を待たずに続けた。
「感情的になってしまって、無理なことを言って御免なさい」
「カナリア様……」
そこでやっと見上げてみれば、カケスの憐れみの籠った目がわたしを捉えていた。その目とぶつかった途端、わたしは遂に意地悪な感情の渦に屈してしまった。
「カケスに嫌われたらどうしようって、ずっと怖かった。ヨダカ以外でわたしと話してくれる人なんてカケスくらいなのに」
鳥かごの向こうからこちらを見つめているカケスの表情が、涙で歪んできちんと捉えられなかった。けれど、こちらに向けられている感情は決して厳しいものではなくて、有難いことにその事ばかりがわたしを安堵させてくれた。
涙の止まらない感覚と、頭を撫でられる感覚に挟まれて、わたしはまるで生みの親に慰められる幼子のような気持ちになっていた。
なんて優しい人なのだろう。
ヨダカとは違った意味で、わたしはカケスという人間に惹かれていた。
そんなわたしを覗きながらも、カケスは優しく微笑むばかりだ。
「嫌われる、だなんてそんな。あたしはカナリア様を嫌ったりなんかしませんよ」
そう言うに留め、彼女は温かな手でわたしの頬をそっと覆った。
それだけで十分だった。十分過ぎるほど、有難かった。
同時に、やはり切なかった。
カケスがわたしの味方である限り、ヨダカとの間を邪魔しようだなんて思えない。わたしとヨダカでは築けないものを、カケスとヨダカは築けるのだから。それに、どんなに思い悩んだって、わたしは歌鳥でない人に誓いの唄を捧げる度胸もないのだ。
少しずつ自分の感情を噛み砕き、じわりじわりと吸収していく。
どうにもならない自分の立場を悲観するのではなく、少しだけでもいいからその何処かにある幸せを見つけ出し、抱えようとその時にやっと思うことができた。




