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朝から降り出した雨は、昼休みになっても上がらずに、小さな粒が根気よく地面を濡らし続けていた。
昼休みに体育館で汗まみれになってバスケをする、というような青春の風景とは縁が無い俺は、文化祭の準備が本格的に始まる前に訪れる最大の障害、中間テストの勉強なんて物をしていた。
うちにいるとまず勉強なんぞしないから、せめて学校にいる間にどうにかしようという、ささやかな足掻きだ。
ガリ勉に見られるのがいやで絶対学校では勉強しない、というような根性も無いし、俺がバイトで週末を潰していることは教室の誰もが知っているらしいから、むしろ同情の目で見られたりする。
「休み時間で出来る勉強なんてたかが知れてるんだから、諦めろよ」
「うっせー」
うっかり赤点なんぞ取ってしまうと、バイトの許可が下りなくなってしまうから、これでも必死なわけだ。
国語系の学科は得意だし、詰め込みの記憶でどうにかなる科目は一夜漬けの山掛けでどうにかするにしても、数学や英語は多少積み重ねないと危ない。
弁当をかき込んだあと、4時間目の数学のノートをまとめ、例題を解こうと無い頭を必死で絞っていると、声がかかった。
「晃彦、客だぞ」
視線を上げると友達が立っていて、教室後ろの扉を指していた。そのまま顔ごと目をずらすと、長い黒髪とメガネで似顔絵が描けそうな女子がいて、俺の方をじっと見ていた。
由紀だ。
友達は冷やかすでもなく、すぐに離れていった。たぶん、由紀が生徒会支給のファイルを持っていたからだ。
同じ待ち姿でも、相手が綾華さんなら大騒ぎになるんだろうな、などと思いながら、俺は愛しい数学の問題を泣く泣く捨てて、立ち上がった。
俺が近付いてくるのを見ると、由紀は扉から離れていった。ついてこい、ということか。
廊下の隅、階段近くの窓際に立った由紀は、改めて近くに立った俺を見た。
見た、といっても、視線は合わせてくれない。相変わらず。じゃあどこを見ているかというと、たぶん俺のブレザーの上ボタンあたり。
まあ、体の向きすら俺から離していた頃と比べれば、ここ何日かでずいぶん距離は縮まったものだ。そう思わないと哀しくなる。
「どうかした? 仕事で間違いでもあったっけ?」
できるだけ柔らかく話しかけてみる。妹あたりが聞いたら「おにい、きしょっ」とでもいって逃げ出すような声だ。こういうのを猫なで声っていうのかもしれない。
由紀は無言のまま首を振った。切りそろえた前髪まで揺れているから、結構強い否定だ。
「あんま強く振るとメガネ飛ぶぞ」
思わず憎まれ口が出てしまった。あ、しまった、と俺が思う間もなく、由紀は「そんなわけないじゃない」という目で一瞬俺と視線を合わせ、すぐにまたうつむいた。
やりにくい嬢ちゃんだぜ、まったく。
「今日は特に由紀に振る仕事は無いよ。会計の所に顔出して、新しい備品の購入枠とか打ち合わせるだけだから」
どうせ由紀の用事なんて限られているわけで、先回りしてしまうことにした。
俺がいうと、由紀はうつむいたまま小さくうなずき、それから意を決したように顔を上げた。
いつもは俺と話していても表情がない由紀が、ちょっと固い顔つきで俺を見上げる。
「その打ち合わせ、わたしも同席していいですか?」
「え……うん、まあ、それはいいけど」
面食らってしまった。
由紀が自分の意志を伝えてきたのが初めてだったから。そもそも俺の目を見て話してきたのが初めてだったから。
「どうしてまた」
俺が尋ねると、由紀はまたうつむいてしまった。「よく見るときれいな顔をしている」といわれる由紀の顔を正面から観察するいい機会だったのに、面食らって動揺しているうちにまた顔が見えなくなってしまった。
由紀はちょっと言いよどむ気配を見せてから、かろうじて聞こえる声でぼそぼそと話し始めた。
「わたしも仕事したいんです。いわれる仕事じゃなくて、自分でする仕事。晃彦くんみたいにはできないけど、せっかく任せてもらった仕事だし、一人でどんどん進めていける晃彦くんに感心してるだけじゃなくて、わたしからも仕事に取り組みたいなって思って」
今までの由紀のセリフ全部合わせても足りないんじゃないかってくらいの長ゼリフを口にし終えると、由紀はファイルを抱きしめるようにして大きくひとつ息をした。
「へえ、そりゃすごいね」
俺は間抜けな返事をした。わざわざこんなつまらない仕事を、買ってまでしようという人間がいるとは思わなかったし、由紀がそれを言い出すのはさらに意外だった。しかも、こんな長ゼリフで。
どうにも棒読みに感じられたのは、準備したセリフを一気に語りきったからだろうか、と気付いたのは、その日の授業も終わり、会計担当の生徒会役員と話をした、その後だった。
だからこの時の俺は何も気付いていない。
「一緒に行くのは構わないよ。二人の方がメモし忘れとか少なくて済むだろうし」
うん、と由紀はうなずいている。
「放課後、在庫の表とかまとめたら生徒会室行くからさ、またうちの教室来てよ」
うん、ともうひとつ由紀がうなずく。
「表のコピーは渡すから、メモ係してて。途中で職員室よってコピーしてもらってから行こうか」
さにらうなずく由紀。視線も合わないし、俺に見えるのは由紀のつむじ。もう喋る気はないらしい。
「んじゃあ、そういうことでよろしく」
というと、それが切り上げのサインだと思ったのか、由紀は最後のうなずきを返すと、つつっと二歩後ろに下がって、くるっと踵を返し、てくてくと歩き出してしまった。
俺は置いてけぼり。
去って行く由紀の背中は小さくて、どこか急ぎ足だった。
会うのも嫌なら来なきゃいいのに、と、俺はやけにひがみっぽくそれを見送っていた。




