082.ティー・タイムは事件のあとで-02
アルカス王国ハイドランジア領。
この地は第二遺世界と繋がる大型ゲートの影響で昼夜の寒暖差が大きいため霧が発生しやすく、年間を通して雨量も多いのが特徴だ。
その気候はハイドランジア領を女神の枕いちの茶葉の名産地に押し上げ、異界の行商人の興味を引きつけるのに一役買っている。
「とはいえ、これでは屋外でのパーティーはできませんね」
窓の外の景色は、緑のなだらかな山の織りなす景色のもとに広がる湖の美しい光景……だが、ほとんど霧に覆い隠され、館を囲う塀すらも見えない。
霧の中を忙しく動き回る使用人たちの影。とうとう庭先のテーブルを片づけることにしたようだ。
ヨシノは、霧を吸って貼りついたドレスの胸元に触れた。
ドレスの形が崩れていないか、染みや色落ちを作ってないか心配だ。
この青と紫を基調としたドレスは、ラヒヨ・ハイドランジアが贈ってくれたものだ。
スカートにはハイドランジアの花をあしらった飾りが咲きほこっていて、肩や胸元は不安なほどに肌を晒している。
フロルと並んで着ると失礼に当たるくらいに華やかなドレスだ。
これをフロルやメイドたちに世話を焼かせて着つけてもらったのだが、どうしても胸元が寂しかったために、あるじに強制されて乳房を増量している。
ヨシノは動いて重みを感じるたびに、なんだか自分が酷くうしろめたいことをしているような気がして、頬が熱くなった。
「霧はちっとも晴れないな」
黒髪の青年が言った。
こちらも珍しく普段の燕尾服姿ではなく、フロックコートを身に着けている。
スリジェ家の屋敷を任されているザヒル・クランシリニだ。
「こういう待ちの時間に客を退屈させないように知恵を絞るのは、兄さんの役目だろう?」
ザヒルは、彼とよく似た正装の青年にちくりとやる。
「俺はこのパーティーの主役の一人なんだけどな」
「だからだろう? 屋敷のあるじなら客をもてなせ」
「あるじはラヒヨのほうだ」
「婿入りでも同じことだ。ゲストたちが退屈していらっしゃるぞ」
ハイドランジア家の三女のもとへと婿入りをしたのは、ザヒルの兄“カラズ”だ。今日のザヒルはスリジェ家の使いとしてではなく、花婿の親族として参加している。
「みなさま、大変お待たせしました。広間のほうの支度ができあがりましたわ!」
客間に飛びこんできたのは、本日の主役にしてこの紫陽館のあるじであるラヒヨだ。どこか甘ったるく舌足らずな声に、黒髪と小麦の肌の娘だ。
ずいぶんと子どもっぽい印象を持つが、これでも年齢はフロルよりもひとつ上。
発育不良は、幼いころからの病弱さが原因だという。
ヨシノはラヒヨを見ると思わず目を見開き、再びドレスの胸元へ手をやった。
ラヒヨはさっきまで黄金の婚礼用ドレスを着ていたはずだった。
ところが、臨時会場の仕度から帰ってきた彼女は、ヨシノとまったく同じドレスを身に着けていた。
――困りました。主役と同じドレスを着ているなんて、失礼にもほどがあります。
とはいえ、予備の衣装など持ってきていない。
給仕の服くらいなら借りられそうだが、それはそれで失礼だろうし。
「兄さんも曲がりなりにもクランシリニ家の出だろうに。まだ若いパートナーに常識を伝えるのも伴侶の仕事だろう」
ザヒルがため息をつく。
「何が曲がりなりだ。ラヒヨはお母上が指示をなさったから手伝いに出ていたんだ、俺が口を挟めるはずがないだろう」
「その話ではない。見ろ、ヨシノさんが部屋の隅で居心地が悪そうにしているぞ」
「口うるさい奴め、彼女がどうしたというのだ」
「ヨシノさんがどうしたのではなく、兄さんのかみさんの服のチョイスがだな」
兄弟が喧々とやりはじめた。同室していた客たちは、またかという調子でスルーして、いざ会場へと退室していく。
客には商人が多く、でっぷりと太った人間の男や規格外の大男、獣人のように明らかに異界からの訪問者と見受けられる者もいた。
身分の低い領民も同様にもてなされており、彼らなりにめいっぱいおめかしをして、子どもも喧嘩する兄弟を指差してくすくす笑うくらいでお行儀がいい。
古ぼけた正装の老夫婦は、茶葉と土のよい香りを漂わせて通りすぎた。
いっぽうでヨシノは、さらに部屋の隅へと追いやられてしまった。
客たちの何人かが、ヨシノと主役のラヒヨと見比べたからだ。
「まあ、ごめんなさいお姉さま! あたし、すっかり忘れていましたわ! 同じドレスを着てしまうなんて!」
ふたつの意味で面食らう。
「お姉さま」だなんて呼ばれたこともないし、このドレスを贈ったのは彼女だ。
「金のドレスは霧でびしょびしょになっちゃって」
ラヒヨが駆け寄り、ヨシノの腕に抱きつく。
「でも、こうしてみたらあたしたちって、姉妹みたい。あら、お姉さまって思ったより胸があるのね?」
ちょっと嫉妬交じり。ヨシノは目を逸らして、「どうも」と言った。
「ラヒヨ、さすがにこれはマズいんじゃないか?」
夫のカラズも今更になって理解したらしい。
「あたしはちゃんと言ったのよ? でも、ママがこれにしろってうるさくて。
領地での催しものには、普段からこのドレスで参加していたから、
領民のみなさまにはこのドレスのほうが分かりやすいでしょうって」
主役とその親が認めていようとも、ほかの目がある。
フルール家のメイドは非常識だと思われるくらいなら、帰ったほうがマシだ。
少し寂しい気もしたが、ちょうどいい口実ともいえる。
「えっと、お祝いの品のお届けも済んだことですし……」
ふいに、ラヒヨの吐息が耳にかかった。
「帰るなんて言わないで、ヨシノさん。お母様ったら、ホントにしつこく言うのよ。返礼品にオマケして、“あの茶器セット”と新品種の試供品を差し上げますから」
――あの茶器セット。
ハイドランジア領の茶葉のコンテストの優勝賞品として贈られる品だ。
それは休憩中に話題にのぼったさいに、雑談に混じるのが苦手なヨシノが饒舌となってメイド仲間を驚かせたほどに憧れる至高の一品。
茶葉農家のみが参加できる由緒ある大会のため、ヨシノには絶対に手に入れられないはずのまぼろしの品であった。
「ね、ダメ? みんなに仲良しなところを見せつけておいたら、ドレスが同じなのも、かえって華になるかもしれないし」
甘え声にして甘い誘い。ヨシノは言った。「しかたありませんね」
「ラヒヨさんは紫陽館のあるじになるのだろう? いつまでもお母上の言いなりは感心しないな」
「だってえ、ザヒルお義兄さまあ」
どろっどろの甘え声だ。
「きみよりは年上だが、法の上では義兄ではなく義弟だ。もっと常識を身につけてくれ。この別館の次は、ハイドランド家の当主の座につく身分なんだぞ」
「もう、お兄さまったら! あなたのセリシール様と同じように扱われても、あたし困っちゃうわ! お兄さまを見ていると、小さいころに死んだ爺やを思い出します」
ふくれっ面をするラヒヨ。
しかし、急に笑顔になって顔の前で手を打ち、ザヒルを引っぱってヨシノの隣へ連れてきて、自分は花婿の横に立った。
「こうしたら、まるで二組のカップルみたい!」
「遊ぶな。ヨシノさんに失礼だ」
「あら、今は同じ従者同士でも、いずれはザヒルお義兄さまのほうが立場は上でなくって? 噂になってますわよ。スリジェ家に仕えることになったのは、婿入りのためなんじゃないかって」
ザヒルは遠慮なく深いため息をついた。
「確かに、先代様たちと父上とのあいだの取り決めではそうだった。だが、先代たちが亡くなった今、私の身の振りかたはセリシール様の一存で決まるのだ」
「じゃ、やっぱりご結婚の可能性も? おふたりも取り決めを知っていたのなら、早く言い出せばいいのに。セリシール様をお嫌いな殿方なんて、いないでしょ?」
「私個人としては、彼女のことは妹のように見ている。
そして、慈愛の使いが伴侶と結びあうのは、同盟や策略ではなく、
まさしく深い愛でなければならないと考える。
私は、彼女が私と縁を結ばずとも、厄介払いなさらないのであれば、
この身が老いて朽ち果てるまで、我があるじとその伴侶のために尽くすとこころに決めている」
ザヒル・クランシリニは早口だった。
この言葉がどのくらい彼の真意を反映しているのかは分からないが、フロルに報告すべき情報だろう。
それから、普段はセリシールから使いっぱしりにしか見られていない彼の覚悟に、ヨシノはこっそりと小さな拍手で賞賛を贈っておいた。
「深い愛ですって。ねえ、カラズ。あたしたちのあいだにも、愛はあるかしら?」
ラヒヨが問う。砂糖ではなく、茶葉を噛んだような声色で。
しかし夫は窓の外を見ていたらしく、「ん、そうだな」と気の抜けた返事をした。
――フロルお嬢さまの話していたとおりなんですね。
ハイドランジア卿には三人の娘がいたが、三人とも身体が弱く病気がちで、次女オルテンシアは生まれて間もなく病死しており、長女アルクビヨンも、つい数ヶ月前に、縁談がまとまった矢先に湖へ転落して、あっけなくその生涯を終えてしまっていた。
世継ぎがラヒヨだけとなり、当初は他家へ嫁ぐ予定でフルール邸で修業をしていた彼女が呼び戻され、婿を取ることとなったのだ。
「本物のカレシと別れさせられたうえに、嫁入りは破談、そうかと思ったらお姉さまの後釜だなんて」
褐色の娘は吐き捨て、白い歯を剥く。
フロル・フルールが言っていた。ハイドランジアの悲劇、ですわ~!
ラヒヨの結婚相手であるカラズは、ハイドランジア家の使用人のひとりであり、アルクビヨンと結婚するはずだった男なのだ。
配偶者に死なれてその姉妹兄弟を迎える話など、珍しくもない。
しかし、それは政略上の結婚の場合の話だ。
カラズとアルクビヨンのあいだには、霧よりも濃く、湖よりも深い愛情が芽生えていたのである。
――おふたりの愛の結晶。
肉体の交わりは、逆算すると婚約前。愛が先走ったとも、アルクビヨンが既成事実を作るための力技だったとも言われている。
悲しいことに、その子はこの世に生を受けることはなかった。
しかも、流れ出た子の身体にはいくつも欠けた部分があったという。
ゆえに流れたのか、あるいは流れたことをある種の幸福とみなすべきか。
だが、子を宿した母には、そのような議論や慰めは無意味だろう。
アルクビヨンは湖に落ちて死んだ。湖に落ちて死んだ。
最愛のカラズを残して、湖に落ちて死んだのだ……。
「あなた、あたしのことなんて、ちっとも考えてないんでしょ?」
ラヒヨは夫に噛みつきながらも、ヨシノの腕にすがった。
その腕からは、いつものように力強く抱きこむわけでも、男相手に柔らかに押しつけるわけでもない、凍りついたかのように固い感触が伝わってきていた。
「考えているさ。きみがどうしてもそのドレスを着たいというのなら、アクセサリーで差をつけておいたらいいだろう。ちょうどこの場に身につけるのにふさわしい品があったはずだろう?」
カラズはそう言うと、先に部屋を出ていってしまった。
ザヒルも「客人たちを待たせ過ぎるべきではない」と続く。
「……あれだって、あなたがお姉さまに贈ったものじゃないの」
ヨシノは憐れな娘の腕を振りほどき、代わりにその細い肩を抱いてやった。
落ちこんだあるじにしてやるように、優しく。
「行きましょう、ラヒヨさん」
彼女は答えなかったが、野良ネコが初めて誰かにするように身を預けてきた。
――フロルお嬢さま、ここにはあなたの好物が詰まっているようですよ。
こころの中であるじに報告し、部屋をあとにする。
誰も映さなくなった窓は霧のカーテンに重ねて、雨粒が叩く音を奏で始めていた。
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