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055.お姉さまと呼ばないで!-01

 雨音。あの日からずっと降り続いている……。

 屋敷に忍びこむ雨の香りは、家具や着物の中までも染め上げております。


 哀惜(あいせき)時雨(しぐ)れる会場は、わたくしにとっては誇らしく、温かな気持ちを胸に呼び起こすものでございました。


 関係世界数十七、総参列者一万名弱。

 彼らはみな、父母の歩んだ道にて寄り添い、手を取り合った人たちなのです。

 普段は水と油の神殿関係者も駆けつけ、ミノリ様からもお言葉を賜りました。


 女神の恩寵深き者への最後の褒美として、お声が掛かることは通例です。

 ですが今回は、史上初のできごとがございました。

 御神の悼辞(とうじ)が、眷属以外の、枕元にない者の耳にまで聞こえたのです。

 ミノリ様いわく、これができたのはわたくしとミノリ様のつながりが深くなり、封印が緩み始めてきたゆえ、とのことです。


 先に逝ったのは父アモンドでした。

 もともと危ぶまれてはいましたが、容態が急変し、昇天の瞬間はお独りでした。

 おいたわしきお父様……。

 蝕まれた身体はとても世間には見せられない様相でしたが、肉体の死がこころを暴くのでしょうか、元気だったころは厳しかったはずの彼は、すっかりわたくしの心配ばかりするようになっていたのが印象深かったです。

 床を並べた母が笑ってしまうほどに……。

 他家より婿入りをして、母と二人三脚でやってきた彼の人生は、きっと先多きものだったかと存じます。


 母チエリは、知人たちに囲まれて父から三日遅れで発ちました。

 父が去ると同時に、雪に水を掛けたかのごとく生気を失い、日をまたぐことなく衰えをみせはじめました。

 チエリのいのちを支えていたのは、アモンドへの愛情だったのでしょう。

 しかし母もまた最期には、はっきりと正気を取り戻し、わたくしへスリジェ家のすべてを託し、そしてそのわたくしを友人たちへと託しました。


 おふたりともまだ四十代の早すぎる逝去でした。


 不思議なものでございます。

 巻き戻しの中で何度も想像し、覚悟をしていた父母の死。

 いまわのきわにすら一滴の落涙もなく、葬儀では多忙を極め悲しむ隙もなく、今更になってこの日記帳のページにインクのにじみを作っております。


 しかし、哀れをとどめるつもりはございません。


 わたくしは歩き続けます。

 スリジェ慈愛の使命は、道なかば。

 援助の実りを見届ける目を開き、新たに助けを求むる声を聞き逃さぬよう耳を澄まし続けなければなりません。


 悲しみもあるでしょう。未熟さゆえのあやまちもあるでしょう。

 それでもわたくしは、すべての世界の幸せという、見果てぬ夢を諦めません。


 さようなら。お父様、お母様。



 ……と、記すものの、この記述にはいくつかの虚偽が含まれていた。



 セリシールは、ミノリ神へ父母へ願いの行使を断念することを告げたときこそは気丈だったが、そこから先は両親の部屋を出るたびに袖で目尻をぬぐっていたし、繰り返し聞いたはずの遺言でもすがりつき涙していた。

 巻き戻しを繰り返していた両親が、じつはそれに気づいていたことを打ち明けられたときには、声をあげて泣いた。

 禁忌への(ゆる)しに至っては、泣き声が屋敷を揺らしたほどだ。


 母の看取りの集まりと国葬にて粛然と振る舞えていたのにも、仕掛けがある。


 盟友フロル・フルールに頼み、感情を破壊しておいてもらったのだ。

 両親の送りの場面でこのような手を打つのは、下種に思われるかもしれない。

 しかし、セリシールはスリジェの総領娘であり、国葬の日には当主だったのだ。


 国葬はただ悼むためだけのものではなく、各世界に支援を撒く名家の新たな代表を世間に知らしめるためのものでもあり、ここで侮られることは末代までの恥であり、小娘の個人的感情など、まっさきに殺されるべきものなのだ。


 フロルがカードでおこなった感情破壊は、母の死の直前から国葬を経て、それから一週間経った今も効力が続いている。


 セリスは日記を綴り続ける。

 彼女は巻き戻すかのように、何度もこのひと月のことを書き直していた。

 初めこそはただの事実の羅列と記録に過ぎないものだったが、次第に想いが宿り、さっきはようやくページに染みを作れた。


 そろそろ、感傷に浸れる頃合いだろう。

 思い出されるは、父母と過ごした時間。


 母の得意だった料理や、好んで口ずさんでいた歌。

 忘れていたはずの子守歌も、いつか誰かに聞かせようと誓った。

 彼女は母であると同時に、芸事や芸術の師でもあった。

 彼女は多くを教えたがり、時に「女としての領域」をも深掘りして娘を恥じらわせたが、今思えばもっと真剣に聞いておくべきだった。


 父からは、言葉と実行にてスリジェ家の誇りを教えられた。

 彼は本来なら正当な代表者としてチエリがすべきことを、さらに先代、舅より叩きこまれ、優しい当主に代わって次代にへ受け継ぐ役を買って出ていた。

 ときには、家名の重みで頬を殴られている気にもなったが、セリスは今や、その看板に悠然と腰かけている。

 煙を疎んで恨みがましく思っていた煙草も今や愛おしく、吸えもしないのに飾ってある。

 顔を合わすとしかめっ面が多いのに、壁の向こうからはやたらと「セリスちゃん」と聞こえてきた落差も、いつの間にか羞恥から母性のようなものにすり替わっていたことに気づいた。

 自分は母のほうに似ていると漠然と考えていたが、振り返れば日記の習慣も、食事の好みも父譲りだということに気づいた。

 いつか命日に「おはぎ」を供え、川魚のおつくりと米の酒を試そうと決める。


 悔やまれるのは、父母との思い出の種類の少なさだ。

 多忙なため遠方に足が延ばせず、暮らしの中で築いた思い出ばかりで、国外や界外を遊びで眺めた経験に乏しい。

 最新は眷属としての仕事を学ばせるための異界での奉仕活動で、最古の記憶はゆいいつ、父が海釣りのため領地の外へ出たのに付き添った幼き日。

 死期が近づいてからは、屋敷に閉じこめてしまったようで申しわけない。

 父は親しんだ渓流を恋しがり、母は芸術サロンの仲間に会いたがっていた。


 それでもふたりは、最後の時をゆっくりと過ごすことができただろう。

 領地には彼らを愛する者が多くおり、若き執事のザヒルも当主夫妻に不自由がないよう、睡眠を削ってまで奔走してくれた。


 ふたりは言った。「幸せだった」と。

 セリスも言った。「幸せでした」と。


 日記をしたためる手を止める。

 ようやくだ。今になって、ひと月ぶんの悲しみが襲ってきた。

 身体中に涙が詰まっていることを感じる。

 悲しみを呑みきった乙女の肉体にはもう、一滴も受け入れる余裕はない。


 ノックが聞こえる。

 戸の向こうの声色が、彼がお使いを果たしたことを教え、こころの中で執事を褒めておいた。


 返事をすれば、扉が開かれる。戸の軋む余韻が消えてから、こぼれないように立ちあがり、袖も揺らさず振り返れば、友の顔。


「お疲れ様、セリス」


 両腕を広げて待つはフロル・フルール。


 セリスは友の胸に抱かれ、泣いた。 


* * * *

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