029.羽ばたけ振袖、芽吹けよ大樹-06
※先日(3/23)は2回更新しています。
わたくしは今、無限の空に浮かぶ大樹の中で日記を書いております。
アルカス王陛下に仰せつかった使命は難航。
大樹の大臣様に住民たちを集めていただき、大樹を離れることの是非のお伺いを立てたのですが、およそ九割はこの大樹と命運を共にするご意思の様子。
わたくしなら、よるべなくたゆたうことよりも、地に足をつけることを望むのですが、やはり何代にも渡って大樹と共に生き続けたゆえでしょうか。
あるいはあの翼が、かつて大空を駆け巡るために役立てられていたからなのかもしれません。
クルイロさんいわく、「外の世界が想像できないからだ」ということですが……。
クルイロさんやリトさんのように、一部の飛行練習に余念のないかたたちは、女神の枕への移住に興味を持たれたようです。
しかし、こちらの派閥のかたがたは、とりわけ立派な翼をお持ちで、大臣様は瞳に映らないふりをして思い消しなさったのです。
大臣様は、まったく酷いかたです。
いっときでも信じてしまった、わたくしの純真を返して欲しく存じます。
シリンダさんも、「むしろあいつだけ置き去りにしたい」と怒り心頭のご様子。
激しく同意でございます。
シリンダさんといえば、恥ずかしながらわたくしは彼女と言い合いをして、焼きもちと興奮の果てに卒倒してしまいました。
暖かな木の葉の寝床で目を覚ますと、彼女が心配そうに見守っていらっしゃって、冗談が過ぎたとお謝りになられました。
もちろん、わたくしにも至らぬ点がございましたから、同じく謝意を伝え、ともがらとしての絆が少し強まったのではないかと存じます。
シリンダさんとは、すぐに仲直りができました。
それは、彼女の気質というよりも、お互いの友情がまだ芽吹いたばかりだからでしょう。
これが親しき友であれば、熟れすぎた果実は触れるだけで腐り落ちてしまうのではないかと恐れるでしょうから。
わたくしが「憧れのきみ」に向ける気持ちは、ますます強くなっています。
この気持ちのうしおは、作品の毀損や宝物殿への侵入などの恨みごとが、取るに足らない浜辺のひと粒に思えるほどに高くうねり、激しく打ちつけています。
不浄の死者に襲われた宝物殿に駆けつけられた、あの凛々しきお姿。
ジュウベエ様を貶めた魔王の手先をひと振りで斬り伏せた、柳眉立つ横顔。
まぶたを閉じれば鮮明に浮かぶそれらを見るたびに、父母の不幸を想うのにも似た気持ちが胸を締めつけるのです。
この想いがわたくしを異界へと背中押し、あのきみと親しげになさるシリンダさんへの嫉妬を生み落としたのだと考えています。
悋気など、煩わしいはずの感情です。
しかし、それを求むる想いがわたくしの中にあるのを強く感じるのはなぜか。
名もしれぬ想いと同じく、この大樹のさだめも漂流を続けております。
大樹の乗せたいのちは、しゃぼん玉のような命運をたどるのでしょうか。
不安が強まると同時に、期待も高まるのを感じます。
……また、あのかたが助太刀に来てくださるのではないかと。
美しきお姿を拝見するためだけに、この世界の命運を天秤に掛けようとしているのではないかという気さえして、わたくしは自分で自分が恐ろしく思えます。
わたくしがもてあまし、わたくしを弄ぶこの気持ち。
あなた様ならいったい、なんと名付けられるでしょうか?
* * * *
* * * *
指先にぷっくりと赤い球が浮かび、それをくちびるに当てる。
手を切ってしまった。石の彫刻や粘土とは勝手が違う。
セリスは貸してもらった部屋で、リトにもらった木っ端を相手に、彫刻刀で手遊びをしていた。
視界の端には、先端に時計の彫刻のついた杖。
シリンダは気球に乗って、アルカス王へ大樹の民の意向を伝えに戻った。
セリスがすべきことは、杖を使って大樹の崩壊を少しでも遅らせること。
時戻りの杖をこの場で突き立て、第三の宣誓を唱えるだけでいい。
杖が失われるわけではない。帰るときには抜けばいい。
だが、一度それを突き立ててしまえば、両親のいのちと大樹すべての生命を交換してしまうような気がして、杖に触れることさえできずにいた。
セリスはおもむろに立ち上がり、テーブルに開いたままになっていた日記のページを少し戻った。
仲直りをしたあかつきに、やりたいことや行きたい場所を記したメモ書きの項。
そこへ「温泉」と「空の旅」を書き加えると、重たい文字の詰まった日記帳を閉じた。
これもまた、務めを果たさねば夢のまた夢だと、セリスはおのれの見えぬ翼を温める……が、また彫刻刀と木片を手にした。
とある窃盗犯に翼がはえたものをイメージしながらの手遊びだったが、思い通りの作品が仕上がるのを待っていれば、大樹は空の塵と化してしまうだろう。
「大変よセリスさん!」
翼の少女が飛びこんできた。
「どうなさったの?」
「あのね、もっふもふなの! それで、お耳が翼みたいにびよーんって!」
リトは手で宙をこねくりかえしたり、両手をウサギのように頭にくっつけたりしている。
「そんなの後回しだって!」
今度はクルイロが飛びこんできた。
リトは反論しようとしたようだったが、少年とそろってこちらへと詰め寄った。
「大樹の種が掘り返されたんだ!」
事件を告げるハミングに手から彫刻刀がこぼれ、床へと突き刺さった。
リトは朝の散歩がてらに種の様子を見に行く途中に、「二匹の変な生き物」を目撃したという。
いっぽうは大きなネズミで、もういっぽうは白くて耳の長い獣で、大樹では見たことがないものだった。
「しかも、わたしより大きくて、二本足で立って歩いてたの!」
あとを追ったものの、すぐに見失ってしまったらしい。
獣人だろうか。だが、この世界にそんなものがいるはずもない。
「見間違いだったかなあ。なんて思って下におりたら、苗床が掘り返されてて! よく見たら床や階段に土がこぼれてるし、さっきの獣も毛皮が土で汚れてたような、植木鉢をかかえていたような!」
その亜人のふたりが、大樹の種を掘り返したのではないかということだ。
唐突に現れた存在に、この世界の未来まるごとが盗み去られてしまった。
「どわーーっ! 大変大変! ヤバいよセリス!」
お次にやってきたのは、女神の枕に戻ったはずのシリンダだ。
「もうお戻りになられたんですの? 今、種が盗まれたというお話が」
「マジで!? あたしもう、落ちて死ぬしかないじゃん!」
シリンダは頭を抱えながら部屋中をどたどたと駆け回った。
少年少女がなだめて落ち着かせると、肩で息をしながら彼女は語った。
「ゲートの向こうが行き止まりになっちゃってるんだよ!」
シリンダは翼の民の意志を伝えるために、プロペラ付き熱気球を使って、女神の枕へのゲートをくぐった。
ところが、くぐった先で気球は何かにぶつかって止まってしまった。
気球のバーナーが照らしたのは、汚れひとつなき白。
「向こう側が、あのバカみたいに硬い白壁に囲まれちゃって、帰れなくなったんだ。空気の流れも遮断されて、気球も詰まっちゃってて、こっちに戻るのに朝まで掛かっちゃったよ」
――白壁。まるで、わたくしたちの邪魔をするように。
創造神の眷属の邪魔をするといえば、破壊神の仕業だろうか。
ミノリは白壁には関わるなとは言っていたが……。
『とうとう私たちの枕元まで来ちゃったのねえ』
ミノリの声だ。
「ねえ、セリス。女神様の道具でどうにかならないの!?」
シリンダだ。同時に話しかけるな。
「白壁はサンゲ神の仕業でしょうか?」
セリスは神に問いかける。
『いいえ。サンゲちゃんはあれを壊すほうだし、穴は塞ぐよりも開くほうが好みよ。何か創るのは私のほうが得意だけど、あの白壁は領分外なの』
「では、何者の仕業ですの?」
『セリスちゃんは気にしなくてもいーの。そんなことより、このままだとみーんな落ちて死んじゃうよ~?』
「おっしゃる通りですが……」
そばにある杖が、果てしなく遠く感じる。
壁が世界を隔てたと知ったとたん、孤独感が一気に強くなった。
『セリスちゃん』
ミノリの浮ついた声が着地する。
『あなたは上手にできなくとも、常に前に進むことを選んできました。あなたの信じたいものを信じ、疑いたいものを疑いなさい。神の眷属のおこないは神の意志であり願いであるのですから、どのような結末を迎えようとも、恐れることはありません』
――信じたいものを信じる。
白き隔たりが招くのは、孤独ではないかもしれない。
女神のつるぎを携えた勇者の来訪の予感。
セリシール・スリジェは地面に刺さった彫刻刀を抜き、杖を手にした。
周囲では仲間たちが、どこどこの枝が枯れて落ちたとか、空の旅は好きだけど自由落下は勘弁だとか、あのネズミたちはどこに行ったのかと騒いでいる。
女神もまた、ふわふわと応援したり励ましたりしてくれている。
セリスは雑音を頭から追い出し、杖の石突きを床の割れ目へと押し当てた。
――あのかたはきっと来てくれる。わたくしは、わたくしのできることを精一杯する。
瞳を閉じ、この樹の滅びのさだめを両親と重ね、歌うように誓いを口ずさむ。
「……汝の願いは吾の願い。吾は誓わん、女神ミノリの名のもとに。御神の美斗を構う聖心に殉じることを」
杖の石突きが大樹の中へと潜りこみ、虹色の光が溢れだした。
樹木のしわや木目のすべてが七色の血管を脈打たせ、光は静かに引いた。
「これで、枯れの進行は緩やかになりました。探しに行きましょう、種を」
杖をかえりみず、部屋の外へと歩き出す。
突然の光に驚いていた仲間たちがあとを追い、リトが「でも見失っちゃった」と悄然とした言葉を落とした。
「見たこともない生き物だったし、探しようもないよ。本当に急に消えちゃったの」
「お気を落とされることはありませんわ。ネズミが出ようとウサギが消えようと、わたくしたちが調べるべきかたは、たったおひとり。違いませんこと?」
そう言ったお嬢さまが振り向けば、「大臣!」のコーラスが返された。
少年クルイロは知っている。太っちょ大臣の秘密を。
「あのおっさん、あんなナリして、じつはかなり飛べるんだぜ」
少女リトは聞いたことがある。不遜な重役のおこないを。
「倉庫の宝物を持ち出して、自分のものにしてるんだって噂だよ」
蒸気技師シリンダは言った。
「あのスケベおやじを気球のおもりにしてやろう!」
歳を重ねた樹皮に激しく風が叩きつける外縁。
垂直の幹の上方に、巨大なこぶがひとつ。
そのこぶの空洞は内側からは到達できず、外側にも階段すら作られていない。
気球で登ろうにも、こぶの真上にある小枝の作る茂みが邪魔をするだろう。
「汝の願いは吾の願い」
短き文言を唱え、母からもらった具現の絵筆を、樹皮がキャンバスと走らせる。
願いの絵の具が描きだしたのは、大きなはしご。
はしごの絵は虹色に輝くと樹皮から浮き出て、実物のはしごへと変じた。
それをクルイロとリトに頼んで立てかけてもらい、一同は大臣の秘密の部屋へと忍びこむ。
「まあ!」
こぶの穴に飛びこめば、隠れるいとまもなく問題の生物と対峙した。
先日紹介された倉庫に似た広い部屋。
木の籠がたくさん置かれており、さまざまな品物が詰まっている。
「おい、窓から誰か入って来たぞ!」
ウサギが口を利いている。
可愛らしいというよりは、なんだか意地の悪そうな顔だとセリスは思った。
彼(?)は黄金に光る実を籠に流しこんでいる最中だった。
「あれ? どこかで会ったような気がするな」
大きなネズミは鼻声で言った。
白いお腹がもっふもふで愛くるしく、思わず抱き着きたくなる。
とはいえ、種泥棒だ。
「おふたりは、この大樹の財産をどうなさるおつもりで? 種はどこに?」
いささか咎める調子で訊ねるセリス。
ふたりは特に隠し立てをせずに、部屋の隅に置かれた鉢植えを指差した。
「えーっと、どこかで会ったような。兄貴、おで、思い出せねえ」
ネズミが訊ねると、ウサギは肘で彼の脇腹を突っつき、頭を下げさせ、なんぞ耳打ちをした。
「そうだ! くさい死体の王様んとこで働いていたときにやられてた子だ!」
「バカッ! 内緒話を大声で言うやつがあるか!」
ネズミ男は怒られたようだったが、こちらを見てにこにこと笑って、「足、元に戻ったんだな」と言った。
――死体の王様。
ずきりと足首が痛んだ。
「あなたがたとお会いした覚えはございませんが、あの悪人のお知り合いでして?」
セリスは帯びに差した匕首を抜き身で取り出し、構える。
「そんな物騒なもんしまってくれって! 俺たちは行く当てが無くて従ってただけなんだ! この仕事も、ここの王様に頼まれて交易品を運んでるだけだぞ!」
敵意は無いらしい。
クルイロとリトが鉢植えを回収して出ていったが、抵抗もしなかった。
「あの枯れ木みたいな王様に命令されたのかい?」
訊ねるシリンダは腕を持ち上げ、鉄の棘を吐き出す箱を向けている。
「枯れ木? 王様はまるまるに太ってるだろ?」
ウサギが長い耳の頭をかしげると、部屋の奥からくだんの「王様」が現れた。
「見つかってしまいましたな。そのような顔は似合いませぬぞ、翼無き麗人たち」
言うまでもないが、大臣である。
「大臣様、ご説明いただけますか? 何ゆえ、このような場所に財を集め、次代の種を盗み出しになられたのか」
「盗むなどと、人聞きの悪い」
大臣はにっこりと笑った。
「この国では、やる気のあるものが王を務めるのです。すなわち、わしが王。王はすべてを所有する。どの世界でも、そういうものなのでしょう?」
彼はかごからひとつ黄金の実を取り出し、小気味のいい音を立ててかじった。
「種さえあれば、大地のある場所にて、またやり直しができましょう」
「あなた以外のかたはどうなさるの?」
「声を掛けております。助けて頂けるのでしょう?」
「それは、少数だけを救う苦渋の選択です。まずは芽吹きを試してからだと、昨日の会合でも決定されたはずですが」
「聞いておりませぬな」
「同席していらっしゃったでしょうに。希望の船に乗せるかたも、あなたが気ままにお選びになったかたになるのでしょう?」
問いかけてはいたが、断罪的だった。
セリスはもはや白黒に悩まず、濡れ衣も恐れていなかった。
あいつは絶対に悪いやつだ。
「翼小さき者は、確かにわしの好みですな。ですが、種が大地に根づけば、翼はいっそう邪魔になるものではないですかな? 実益も兼ねておるのですよ」
いやらしい顔だ。大臣は獣人たちのほうを見ると、声を張りあげた。
「インファ、ボッコー! こいつらを捕まえたら、大臣に取り立ててやるぞ!」
ぎゃあ! 大臣は命令の直後に悲鳴を上げた。
彼のむき出しの足の甲に、鉄の針が突き刺さっていた。
「あっ、ごめん……。よけると思ったんだよ」
シリンダが何か言った。
「ピーストン様じゃないんですから、避け慣れてないでしょうに」
「ごめんて、脅しのつもりだったんだよ」
シリンダはなぜかこちらに謝っている。
「や、野蛮人めっ! おいおまえたち、王の危機だぞ! 褒美が欲しくないのか!?」
大臣は顔を赤い実にしてがなり立てる。
ところが。
「欲しいけどよ。どうも雲行きが怪しくなってきたぜ」
ウサギ男はすでにセリスの隣に立ち、大臣と向いあわせだ。
「おでも、大臣になるよりも、ウマの世話係のほうがいい」
ネズミの大男も、よたよたとこちらへとやってくる。
「足、治ったの、ホントによかったなあ」
ネズミ男が短い腕でセリスの頭に触れた。
セリスは思わず悲鳴をあげた。
驚いたのではない、首が折れるかと思ったのだ。
「す、すまねえ。撫でようとしたんだ」
「ご心配はありがとう存じますが、力加減を考えてくださいまし」
「おい、うすのろ怪力。そいつを怪我させると、ろくなことにならないぞ」
警告されたボッコーは腕を引っこめ、もう一度「ごめんよ」と謝った。
「裏切るのかおまえたち!」
大臣は足を押さえながらわめく。
「裏切るっつーか、あんたに騙されてたっぽいしな。それに、気の強い女にゃ逆らわないほうがいいってのは、この前学んだところだ」
事情はよく分からないものの、叛乱は苦労せずに鎮圧できそうだ。
セリスは絵筆をとると、第一の誓いを口ずさみ、大臣を縛るための縄を描いた。
「だ、大臣さん!」シリンダが叫んでいた。
それは、これまでの敵意や憎悪、いたずら心などをいっさい孕まない、若い娘の、本当の心配の声だった。
セリスは床のキャンバスから顔を上げ、くだんの大臣の顔を見た。
……まっかな実は完全に熟れてしまっていた。
熟れすぎた実は、腐るか、割れるものだ。
赤々とした果汁が額から流れ、丸いひげを濡らし、その先から地面へと、ぽたぽた滴り落ちている。
いのちを溢れさせる割れ目からは、金属質に光るやいばが突き出ていた。
それがずるりと引き抜かれると、野望の男は肺から息を淀んだ滓のように漏らしながら、床に崩れた。
セリスは見上げる。
血の滴るやいばを。不気味なマスクをした、その持ち主を。
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* * * *




