帰ってきた兄
大賀は椅子から倒れたりはせず、その場で踏みとどまった。貧弱な女の腕でも、勢い良く殴られたら結構痛いわけで。
「おっ、とと……いきなりだね……蓮」
特に疲れるようなこともしていないのに、俺は肩で呼吸していた。
ただ、彼を一発殴って、思いの外すっきりしたような気がする。
「気安く俺の名前を呼ぶな」
「……ごめん」
自分の口からこんな言葉が吐かれたことに驚きだが、そんなことよりも、目の前の男についてだ。
彼は鳴海大賀。俺の実の兄である。そして俺を虐げた張本人。
なぜ彼が今頃になって……あ。
少し前の父との会話を思い出す。
そういえば、俺に謝りたいとか言っていたような。
「……大賀は驚かないのか?」
今すぐでも大爆発を起こしそうな俺を片腕で制しながら、父は大賀に尋ねる。
「そりゃ驚いてるさ。最初は母さんに似てる子だなぁって思ったけど、母さんはもういないし、他人の空似だと思ったよ」
「その割には落ち着いてるな。おれなんか年甲斐もなく泣いてしまったというのに……」
父は苦笑しながら白身魚を一口食べた。
「母さんが死んだショックであんな自暴自棄になったんだから、そっくりな姿の子なんて見ちゃったらそうなるだろうね」
はは、と軽く笑いながら大賀が呟いた。そして、流れるように俺をまっすぐと見つめた。
改めてじっくり見ると、父に似ている。
「さて、僕がここに来た本題だ。蓮、僕はお前に謝りに来た」
今更謝ったって、もう遅い。時が経ちすぎた。
「本当に、すまなかった。あの頃僕は無垢すぎたんだ。許してくれ、とは言わないけど、僕の気持ちだけでも理解してほしい」
そんな自分勝手な。
俺は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
幼い頃の精神的な傷は完全に消えることはない。
「……あの頃の俺は園児だったし、その分受けるダメージも大きかったけど、今はもう高校生だし、もういいや」
だが、傷は癒そうとすれば良くなるはずだ。
「でも、俺がお前を許すかは、今後のお前次第だから。わかったかクソ兄貴!」
俺は立ち上がり、勢いをつけて大賀を指差して叫んだ。
大賀は面食らったような顔になるが、すぐに笑って言った。
「立派な……ツンデレに育ったな……」
「あぁ!?」
前言撤回したい。今のは割と真面目なシーンだったはずなのに。
腹が立ったので、もう一発殴った。大賀は今度は倒れた。
─────────
「それにしても蓮が女の子だったなんて知らなかったな。ずっと男だと思ってた」
俺の作った夕飯をつまみながら、笑顔でそう述べた大賀。俺と父は顔を見合わせる。
どうやらこの男、勘違いをしているようだ。
父が咳払いし、少しだけ気まずそうに説明した。大賀は相槌を打ちながら聞いていた。
「何、突然性別が変わったの?」
「まぁ……そういうこと」
顎に手を当ててウンウンと唸る大賀。こうして見ると、それなりに容姿に恵まれているのがわかって妙にむかつく。
「とりあえずだ。可愛いよ、蓮」
「きも……」
クルッと一回転してから、ウインクして言われた。
考え抜いた先の答えがこれか。気持ち悪すぎて冷や汗をかいた。
視界に何か動くものが見えたので、反射的にそちらを見てみれば、父が首を激しく上下に振っていた。
それはまさか同意ということなのだろうか。いや、父が俺のことを可愛く思うのは当たり前だし、別にいいか……。
食事の間、俺は周りの情報を遮断した。
─────────
「今日からここで寝泊まりするからよろしくな〜」
食器を洗っていると、何事もないかのような声が耳に入った。俺はあまり深く考えずに手を動かしていたが、その言葉は俺の耳を通り抜けずに脳の途中で引っかかった。
思わず振り向いてしまう。大賀はさも当然かの如く、荷物を空き部屋に置きに行った。
うちには、俺の部屋の反対側にももう一つ部屋があり、そこは昔に大賀が出ていってからは空き部屋だったが、まさか戻ってくるとは。
彼は会社の寮で過ごしていたはずだが、それはどうしたのか。というか、会社はどこにあるのか。
疑問は絶えないが、とりあえず俺は今日はさっさと風呂に入って寝ることにしよう。
なんとなく怖いので、部屋の鍵を閉めて布団に入った。
「はぁ……明日で女になって一週間だけど、今週色々ありすぎだろ……」
天井を仰ぎながら、物思いに耽る。
土曜日は目覚めたら性別が変わっていた。女子と一緒に風呂に入った。
日曜日は学校に行ってから、服を買いに行ったら篠宮と遭遇した。
月曜日は学校に行ったら周りの視線が嫌だった。萌希と篠宮に弁当を作ることになった。
火曜日は今まで親しかったネッ友が有村だったことが判明した。
水曜日は女子からいじめられた。篠宮のスペックが高いことが判明した。
木曜日は篠宮に好きな人がいることを知ったり、大賀が帰ってきたりした。
明日は平穏な一日になればいいな。
そんなことを考えているうちに、俺は眠りに落ちた。




