⑨
興奮するヘンリックをなんとか宥め、サロンへと移動した。
いつもは穏やかなエメラルドの瞳は、ギラギラと輝きながらマリアンネを見据えていて、ちょっと怖い。
「それで、ヘンリック様がずっと探していた初恋の女性というのは、このマリーなのですね?」
「ああ、間違いない」
いつもは背後に控えているマリアンネは私の隣に座り、向かい側にいるヘンリックに困惑の視線を送りながら私の手を不安気に握った。
エルヴィンはそんな私たちが座るカウチのすぐ横に立ち、いつでも動けるように身構えている。
「いつマリーに出会ったのですか?」
「私がフューゲル侯爵家に引き取られてすぐの頃だ。
自分の置かれた状況は理解していたが、それでもまだ八歳の子供だったから、どうしても元の家族が恋しくなって……屋敷をこっそり抜け出して家族を探しに行って、案の定道に迷って途方に暮れていた時だった。
マリアは一緒に家族を探してくれて、最後は屋敷まで送ってくれた。
もちろん家族は見つからなかったんだが、マリアと手をつないで歩いたのが嬉しかったんだ。
以前は普通のことだったのに、侯爵家では誰も手をつないでくれないから……」
高位貴族になればなるほど、家族間でも身体的な接触は少ないのが一般的だ。
養子であるヘンリックに対しては、なおさらだったのだろう。
虐げられているわけではないにしても、寂しいと感じるのは当然だと思う。
「それから、たまに屋敷を抜け出して家族ではなくマリアを探すようになった。
いつも会えたわけではなかったが、会えるといつもマリアは私と手をつないで家族を探してくれた。
それが心の支えのようになって、侯爵家の生活にも慣れることができた。
なのに、ある時からいくら探してもマリアが見つからなくなった。
近所にいた同じ年頃の子供に聞いてみると、マリアの母親が亡くなって、親戚に引き取られたと言われて……無力な私には、大人になったら絶対にマリアを探し出そうと心に誓うことしかできなかった。
きれいな薔薇色の髪をした可愛い女の子だから、そう難しくはないと思ったのに、どれだけ手を尽くしてもマリアは見つからなくて……
いい加減に諦めろと言われても、どうしても諦めきれなくて……
本当に、ずっと探していたんだよ、マリア」
縋るような視線を向けられ、マリアンネは遠い記憶を探るように眉を寄せた。
「そんなことが、あったような、なかったような……」
ヘンリックが八歳ということは、マリアンネは五歳くらいだったはずだ。
そんな小さなころに数回だけ会っただけの少年のことを覚えていなくても無理はないと思う。
「エル、あなたは? なにか覚えていない?」
「いえ、特には。マリーは昔から人見知りしなかったから」
「ちょ、ちょっと待って。
そこの彼は、マリアとどんな関係なの?」
「ああ、言っていませんでしたね。
彼はエルヴィン。マリーの異父兄です。
そして、マリーは私の異母妹にあたります」
「ええぇぇぇ!?」
再び驚愕の表情になったヘンリックに、今度は私が説明をする番だ。
「エルのお父様は、彼が生まれてすぐに事故で亡くなったのだそうです。
それで、お母様が食堂で働きながら一人で彼を育てていて、私の父に見初められて愛人になり、マリーが生まれたのです。
そして、マリーが六歳になる前にそのお母さまも亡くなって、二人まとめてキルステン伯爵家に引き取られました」
二人が引き取られた時、マリーは五歳、私は七歳、エルヴィンは八歳だった。
それから、私たち三人はずっと一緒にいる。
「マリアも、そこの彼……エルヴィンも、顔を隠していたよね」
「ええ。
二人ともきれいな顔をしているから、母と弟に絡まれないようにしていたのです。
今頃、この二人のことを私の家族は誰も覚えてないと思いますわ」
私がそうなるように仕向けたのだ。
二人を傍に置いて、できるだけ他の家族の目に触れないようにしていた。
父にも私にも興味がない母は、不義の子にも興味を示さなかったのは幸いだった。
弟も使用人には興味がなく、父は新しい愛人にしか興味がない。
使用人たちも私の味方だから、二人に同情し親切にしてくれていた。
私たちは不遇ではあったが、虐げられるようなことはなく、それなりに快適に楽しく暮らしていたのだ。
「クラリッサ、すまないが……私は、マリアとしか結婚したくない」
「待ってください、それは困ります!」
今すぐ私との婚約破棄しそうなヘンリックを、私は慌てて止めた。
「ヘンリック様のお気持ちはわかります。
私だって、あなたが幸せな結婚をできるなら、そうしてほしいと思いますわ。
でもね、マリーにも心があるのですよ。
私は、マリーが望まない相手と結婚させるつもりはありませんからね!」
マリアンネは私の大切な妹なのだ。
もしヘンリックが無理を強いるというなら、今からでも出奔するのは躊躇わない。
そう思っているのはエルヴィンも同じなはずだ。
「それに、考えてもみてください。
こんな直前で私との結婚を白紙にするなんて、どう考えてもなにか問題があったようにしか見えません。
その上でマリーとの結婚なんてしたら、マリーは私を排除してヘンリック様を略奪した悪女だと噂されることになるでしょう。
世の中は、そういうゴシップが大好きな人で溢れていますからね。
あることないこと言われて、マリーが苦労することなってもいいのですか?」
「……それは……よくない……」
私の言葉に、ヘンリックの頭も冷えてきたようだ。
元々賢い人なのだから、冷静さを取り戻せば無茶なことはしないはずだ。
「私と白い結婚を続けながら、マリーを口説いてみてはいかがですか?
三年以内に口説き落とせたら、私と離縁した後に正式に結婚すればいいのです。
それに、マリーは父に認知されていませんから平民です。
ヘンリック様の妻になるには、どこかの貴族家に養子にしてもらって身分を手に入れなくてはなりません。
その調整にも時間がかかるでしょう?」
「……そう、だね」
ヘンリックは苦い表情で頷いた。
「マリーとの平穏な結婚を望むなら、まずは私と予定通り結婚してください。
もし三年の間にマリーと深い中になっても、不貞なんていいません。
むしろ応援しますから」
マリアンネもヘンリックとの結婚を望むことが大前提というだけで、反対したいわけではない。
彼になら大切な妹を任せてもいいと思うくらい、彼はいい人なのだから。
私はヘンリックにもマリアンネにも幸せになってほしい。
それが同時に叶うなら、そんなに嬉しいことはないではないか。
「マリー、あなたはどう思う?」
「……私は、お姉様がそれでいいとおっしゃるなら」
「エルは?」
「俺も、お嬢に従う」
この二人の同意は得た。
では、残るはあと一人。
「……ずっと探してた。
もう見つからないんじゃないかと思ってた。
それが、こうして会えたんだ……
この幸運に、私は感謝しなくてはならない」
ヘンリックはぐっと拳を握りしめた。
「クラリッサ、私もきみの提案に従う。
私が一方的にマリアを思っていただけだということは、私だってよくわかっている。
これから時間をかけて、マリアの心を手に入れるよう努力することにするよ」
決意に満ちたエメラルドの瞳は、いつもの穏やかさを取り戻しつつある。
ヘンリックが理性的でよかった。
「……一つ、お願いがあります」
マリアンネが口を開いた。
「お姉様を不当に扱ったり、邪険にしたりしないと、それだけは約束してください」
マリアンネは、私の手をぎゅっと握りながら告げた。
「もちろんだ。そんなことはしないよ。
クラリッサのことは、これまでと同じように大切にするつもりだ。
その上で、マリア、私はきみと仲良くなりたいと思っている」
真摯に訴えるヘンリック。
「三年も猶予があるんだ。
焦るつもりはない。
とにかく、今は結婚式を無事に終えることに集中しよう。
その後で、またゆっくりと話をしようじゃないか」
私は頷いた。
「そうですね。そうすることにしましょう。
そうと決まったら、ヘンリック様は着替えてきてくださいな。
美味しい夕食を準備してありますから、期待していてくださいね」
ヘンリックがいない間に、新居の料理人にもキルステン伯爵家の料理人にしたのと同じように前世風の料理を伝授してある。
今夜は久しぶりに主人が帰宅するとのことで、今頃張り切って腕を振るっているはずだ。
ヘンリックが去ってから、私たちは三人で顔を見合わせた。
「とんでもないことになったわね」
「ごめんなさい、お姉様。
私、なにも覚えていなくて……」
「謝らないで。マリーのせいじゃないわ。
小さな頃のことなんて、忘れて当然だもの」
俯くマリアンネの華奢な肩を抱き寄せた。
彼女からしたら、とても複雑な気分だろう。
「マリー、あれは悪い男ではない。
おまえを探していたというのも本当だろう。
だが、おまえに無体を働くようなら、俺は容赦しない」
「その時は私も止めないわ。
ヘンリック様はそんなことしないと思うけど」
だからこそ、私の大切な妹を口説くことを許したのだ。
「あなたの心は、あなたのものよ。
ヘンリック様の手をとるかどうかは、あなたが自分で決めなさい。
私とエルは、あなたの意志を尊重するわ」
「わかりました、お姉様」
「大丈夫だ、マリー。
俺なら、お嬢とおまえを二人纏めて守るくらい余裕だ」
「ありがとう、お兄様。
そうね、お兄様とお姉様がいたら、私はなにも怖くないわ」
やっと可愛い笑顔が戻ったマリアンネに、私も胸を撫でおろした。
こうして、私たち四人の奇妙な生活は始まったのだった。




