⑧
私とヘンリックが協議を重ねて決定した契約内容は、大まかに以下の通りとなった。
・三年間白い結婚を続けた後、子ができなかったからという理由で離縁する。
・私は体が弱いということにして、社交は最低限で基本は家に引き籠る。
・キルステン伯爵家とは没交渉で、援助も支援もしない。
・小説家としての活動は思う存分続けていい。
・もし恋人ができたらりしたら申告する。
・報告、連絡、相談は怠らない。
・快適に過ごせるよう、お互いに協力する。
・契約内容はお互いの同意のもとに随時変更することができる。
お金に関しても、きっちりと取り決めをした。
私は月に一度ヘンリックから決められた金額を受け取り、それで家政を取り仕切る。
余ったら私の好きなように使うことができ、三年間貯金しておいて、離縁の時にそれを手切れ金代わりに持って行ってもいい、ということになった。
ヘンリックが提示したのは、キルステン伯爵家の二か月分くらいの生活費相当の金額で、なんとも気前がいいことだと思いつつ、私は了承した。
結果として、私とヘンリックは出会って一か月で婚約し、その三か月後に正式に結婚した。
ヘンリックほど身分のある高位貴族の結婚としては異例の準備期間の短さに加え、美貌の貴公子が選んだ相手がよりにもよって身持ちの悪い性悪令嬢ということで、世間の注目を浴びた。
ヘンリックの養父母であるフューゲル侯爵夫妻は最初は反対していたが、実際に私に会うと噂が事実無根であるということを信じてくれただけでなく、私のキルステン伯爵家での扱いに憤り、さっさと結婚して家を出られるようにと後押ししてくれた。
契約結婚であることは秘密なので申し訳ないと思うが、歓迎されるのはありがたいことだ。
一方、私の家族はどうだったかというと、かなり格上な侯爵家からの婚約打診になにも知らない父は驚きつつも喜んでいた。
ヘンリックと出会ったきっかけを知っている母と弟は、なんとも言えない微妙な顔をして口を噤み、以前にも増して私を避けるようになった。
派手好きな母が結婚準備に口を出してくるのではないかと思ったが、そんなこともなかった。
さすがに後ろめたいのと、さりげなく塩対応な侯爵家からこれ以上の不興を買うのは得策ではないと判断したのだろう。
私はエルヴィンとマリアンネと一緒に悠々と結婚準備を進め、式の一か月も前にヘンリックが準備してくれた新居に三人で引っ越した。
家族は顔も見せなかったが、キルステン伯爵家の使用人たちは総出で別れを惜しんで見送ってくれた。
新居は、フューゲル侯爵家が所有する小さめの屋敷の一つだ。
白い結婚だということが侯爵夫妻にバレるのを防ぐため、新婚の間は二人で暮らしたいという理由でヘンリックが手配してくれたのだ。
さすがに同じ屋根の下で暮らすことになる使用人たちには隠せないので、口が堅くてヘンリックの幸せを第一に考えてくれるような人たちを侯爵家の使用人の中から選んで連れて来てあると聞いている。
エルヴィンとマリアンネもいるし、私も自分の身の回りのことは自分でできるから、使用人は最低限の人数でいいのだ。
「いらっしゃい、クラリッサ。待っていたよ」
「ヘンリック様。今日からお世話になります」
出迎えてくれた彼に、私が笑顔でカーテシーをするのと同時にエルヴィンとマリアンネもそれぞれ礼をとった。
「今日からここがきみたちの家だ。
周囲を気にせず、自由にのんびり過ごすといい。
私は特にこだわりはないから、予算の範囲内なら内装とかも好きにしていいからね」
「ありがとうございます、ヘンリック様。
そうさせていただきますわ」
荷物の大半はもう新居に運び込んであるので、引っ越し当日とはいえ身軽なものだ。
何度か荷物の整理のために新居に通ったこともあり、使用人たちとの顔合わせも済んでいる。
新生活に向けての準備はバッチリなのだ。
「せめて、きみたちがこの家に馴染むまで傍にいてあげたかったんだが……」
希望に胸を膨らませる私に、ヘンリックは申し訳なさそうに眉を下げた。
少し前に隣国で魔物関係の問題が起きたとのことで、魔物研究の第一人者として名高い第二王子殿下に支援要請がきたのだ。
隣国は王太子妃殿下の故郷でもある友好国で、好奇心旺盛な第二王子殿下は即座に隣国に行くことを決めた。
そうなると、専属護衛騎士であるヘンリックももちろん同行しなくてはならない。
結婚式を一か月後に控えているとはいえ、そんな個人的な事情より隣国との友好関係を維持することの方が優先なのは当然だ。
「たぶん、結婚式前には帰還できると思うけど……遅れてしまったらすまない」
契約結婚なのだから、私も結婚式にこだわりはなく、必要最低限で済ませるように手配してある。
仮に延期になっても、なんとかなるだろう。
というか、延期になったら様々な理由をつけてさらに簡素化できそうなので、できれば延期になってほしいと思っているくらいだ。
「お仕事なのですもの、しかたがありませんわ。
私は大丈夫ですから、心配なさらないでください。
ご無事のお帰りをお待ちしておりますね」
「ああ、行ってくるよ。
できるだけ手紙を書くからね」
こうして私たちと入れ違いで、ヘンリックは隣国へと旅立った。
普通の令嬢だったらとても寂しく心細い思いをするところだろうが、私はもちろんそんなことはない。
「さて、さっさと荷物を整理してしまいましょう。
今夜は皆で無礼講の晩餐会よ。
私も腕を振るうわ!」
ヘンリックが絶賛していたという私考案のレシピに興味津々だった料理番と協力し、私はハンバーグやフライドチキンやサンドイッチなどをたくさんつくり、フューゲル侯爵家から来てくれている使用人たちと同じテーブルで夕食をとった。
お酒も飲みすぎない程度にふるまったこともあり皆に大喜びされ、初日から私の株は急上昇した。
エルヴィンも酔って気が大きくなった庭師のおじさんに腕相撲を挑まれ圧勝し、男性陣から一目おかれるようになった。
それはよかったのだが、「ここでは野暮ったい恰好しなくっていいんだよ!」とメイド頭に言われて、それもそうかとマリアンネがメイドキャップを外したところ、私たち三人以外の全員が目を丸くして絶句した。
マリアンネの艶やかなストロベリーブロンドは珍しい色ではあるが、そんなに驚かれるほどではないはずなのに。
「……あんた、マリアンネっていう名前だったよね」
「はい、そうですが」
首を傾げる私たち三人と、さっきまで賑やかに騒いでいたのに神妙な顔を見合わせる使用人たち。
「どうしたの? マリーがなにか?」
私が問いかけると、メイド頭の夫である初老の家令が代表して答えてくれた。
「ええと、その……
坊ちゃまがお戻りなられたら、はっきりすると思いますので」
「ヘンリック様に関係することなの?」
「はい……それ以上は、私たちの口からはなんとも……」
どうやら、使用人の立場では口出しできない内容なようだ。
使用人たちはただ困惑しているだけで、マリアンネや私たちに対する隔意や悪意は感じられない。
それなら、別に構わない。
「よくわからないけど、ヘンリック様を待つしかないわけね。
どちらにしろそうするつもりなのだし、当面の予定は変わらないわ。
のんびりお帰りを待つことにしましょう」
ヘンリックにも言われた通り、普通にのんびり過ごすだけだ。
使用人たちも異論はないらしく、そろって頷いてくれたので、私もそれ以上この話題を掘り下げるようなことはしなかった。
こうして始まった生家を離れての暮らしは、とても快適だった。
初日に一瞬だけ妙な雰囲気になったが、それもあの時だけで、優秀な使用人たちはごく普通に私たちに接してくれる。
皆とても親切で、ちょっかいをかけてくるような不埒者はいないから、マリアンネだけでなくエルヴィンも素顔を晒している。
快適なのは私だけでなく、エルヴィンとマリアンネもキルステン伯爵家にいた時よりも明るい表情で過ごしている。
思い切って契約結婚を持ちかけてよかったと心から思いながら、このような環境を与えてくれたヘンリックに感謝しつつ彼の無事を祈っていた。
そして、彼がやっと帰国したのは、結婚式の三日前だった。
「おかえりなさい、ヘンリック様。
ご無事でなによりです」
出迎えた私に、ヘンリックは少し疲れた様子ながらも穏やかな笑顔を向けた。
「ただいま、クラリッサ。
なんとか結婚式前に帰ってこれたよ。
式の準備はどうなってる?」
「万事抜かりなく。延期はしなくて済みそうですわね」
「そうだね、よかった……」
言葉を切った彼は、疲労を滲ませていても美しい顔に見ているこちらが驚くくらいの驚愕の表情をうかべた。
大きく見開かれたエメラルドの瞳は、私の後ろを見つめている。
その視線を追うと、そこにいたのはマリアンネだった。
彼女がきれいな顔をしているのは確かだが、そこまで驚くほどのことだろうか。
マリアンネもその隣のエルヴィンも、そんなヘンリックに困惑している。
ヘンリックはよろよろとおぼつかない足取りで、マリアンネに歩み寄った。
エルヴィンはさっと彼女を背中に庇うように立ち、私は慌ててヘンリックの腕を引っ張った。
「ヘンリック様! 突然どうなさったの⁉」
「マリア……マリア!」
マリア? それって、マリアンネのこと?
そういえば、彼がマリアンネの素顔を見るのは今日が初めてなのだ。
「もしかして……ヘンリック様の初恋の相手って……」
「薔薇色の髪……あの頃の面影もある……きみは、私がずっと探してたマリアだ!」
「ええぇ⁉」
マリアンネの髪と素顔を見た使用人たちが、あんな反応をした理由がわかった。
彼らは、ヘンリックが長い間探している初恋の女の子の特徴を知っていたのだ。
なんたるめぐり合わせ。
事実は小説より奇なりというが、まさにそれだ。
あまりに予想外な展開に、私たちは顔を見合わせた。




