⑦
あれは、私が七歳だった時のことだ。
久しぶりに父が帰宅した父が呼んでいるということで、面倒だなと思いながらサロンに向かった私は目を丸くした。
父の後ろに隠れるように、私とあまり年がかわらないくらいの男の子と女の子がいたからだ。
「あなた、そのみすぼらしい子共はなんなのです?」
私と同じように呼ばれたらしい母は、顔を顰めて父を睨んだ。
声に含まれる棘を隠そうともしない母に、小さな二人が身をすくませたのが見えた。
「マリアンネとエルヴィンだ。
この子らの母親が死んだから、我が家で引き取ることにした」
さらに顔を顰めた母の視線を父はさらりと受け流し、私と母のスカートの陰に隠れている弟に作り笑いを向けた。
「マリアンネはおまえたちの妹にあたる。
仲良してあげなさい」
やはり、そういうことか。
よく見たら父と目元が似ている女の子は、父と愛人の間にできた子なのだ。
それなら、父と全く似ていないその男の子は?
「では、この二人のことは任せたよ。
私はまだ外で仕事があるからね」
「あなた! そんな勝手なことを!」
父はなんとも無責任に二人を私たちに押し付けると、母の怒鳴り声に振り返ることなくさっさと屋敷を出て行ってしまった。
名前もわからない男の子は、泣きそうな顔のマリアンネというらしい女の子を抱きしめて気丈にも私たちを睨みつけている。
小さいながら、なんとしてでもマリアンネを守ろうと体を張っているのだ。
母は怒りも露わな表情で舌打ちをし、それを見た弟も母を真似て同じような顔をした。
使用人たちも困惑していて、どうしていいかわからないようだ。
うん、これはよくない。
私が何とかしないと、この二人はきっと酷い目にあうことになる。
私には生まれた時から前世の記憶があり、体は七歳だが精神的にはもう大人なのだ。
こんな小さな子たちが虐待されるなんて、見過ごせるわけがないではないか。
私は迷わず駆け寄ると、緊張にこわばっている二人の手をやや強引に握った。
「あなたたちは、今日から私のものにするわ!
こっちにいらっしゃい!」
私のものなんて言ったのは、母が見ている前で優しくするのは悪手だと思ったからだ。
父を愛していないにしても、愛人との子を憎らしく思うのは母の立場では当然のことだ。
私は周囲の大人がなにか言う前に、二人の手を引いて自室へと駆け戻った。
幸い、母の怒鳴り声が私たちを追いかけてくることはなく、二人も素直に私についてきた。
「私はクラリッサ。七歳よ。
あなたたちの名前と年齢を教えてくれる?」
「……エルヴィン。八歳。
マリアンネは五歳」
「始めまして。エルヴィン、マリアンネ」
私はこれ以上怖がらせないようににっこりと笑って見せた。
「まずは、あなたたちのことを教えてちょうだい。
それから、これからどうするか考えましょう」
メイドにお願いし三人分のお茶とお菓子を用意してもらい、じっくり腰を据えて話をすることにした。
エルヴィンは警戒心も露わなままだが、マリアンネは目の前のお菓子に私と同じ色の瞳を輝かせた。
「マリアンネ、私の分もあげるわ。
この家の料理人は腕がいいから、お菓子も美味しいのよ」
私の前に置かれていた焼き菓子が盛られた皿をマリアンネの前に移動させると、彼女はやっと可愛い笑顔を見せてくれた。
半分しか血は繋がっていないが、両親が同じ弟よりもよほど可愛くて、私も頬が緩んだ。
「エルヴィン、これからあなたに質問をするわ。
食べながらでいいから、できるだけ答えてくれる?」
こくりと頷いた彼にあれこれと質問をすると、始めはぽつぽつと、慣れてきてからは質問するまでもなく彼から自発的に話を聞かせてくれた。
彼はマリアンネの異父兄なのだそうだ。
父親は彼が生まれてすぐ亡くなり、母は食堂で働きながら彼を育ててくれていたが、あまり体が強いひとではなかったため、とても苦労していた。
それで私の父から愛人の話をもちかけられた時、一も二もなく飛びついた。
愛情のためではなく、生活のために愛人になったのだ。
私の父はエルヴィンたちを小さな邸宅に住まわせ、贅沢はできないまでも不自由しないだけの援助をしてくれていた。
飽きたのか他の愛人に夢中なのか、父が通ってくることがほとんどなくなっても、援助が途切れることはなかった。
そんな私の父に、この二人の母はとても感謝していたのだそうだ。
二人とも簡素ではあるがきちんとした服を着ている。
髪には艶があり、肌はすべすべで健康状態もよさそうなことから、不自由なく生活できていたのは本当なのだとわかった。
そして、二人ともかなり整った顔をしている。
父の目に留まったくらいだから、愛人だった二人の母も美しいひとだったのだろう。
私からしたらロクデナシでしかない父なのだが、愛人に生ませた子とその兄を見捨てるほどのヒトデナシではなかったのは幸いだ。
「おかあさん……」
亡くなったばかりの母親のことを話しているのを聞いたからか、マリアンネがしくしくと泣き出してしまった。
そんな妹をエルヴィンは抱きしめ慰める。
彼だってまだ八歳で、母が恋しくて泣きたいのは同じだろうに、ぐっと奥歯を噛みしめて涙を抑えているのを見ると胸が塞がる思いがした。
「マリーは、本当に伯爵様の子なんだ。
お願いだから、マリーだけでもひきとってくれないか」
しかも、どうやら彼はここを追い出されると思っているらしい。
妹だけでもと懇願する健気な男の子に、私は胸が痛むほど切なくなった。
「なに言ってるの! 二人ともひきとるに決まってるでしょ!」
すっかり情が移った私は二人を抱きしめた。
「これからは私があなたたちを守るわ!
だって、私たちは家族になるんだから!」
「でも、俺は」
「マリアンネはあなたの妹で、私の妹でもあるわ。
だから、私たち三人は家族なの!
いいわね?」
私とエルヴィンは赤の他人だが、マリアンネを間に挟めば家族みたいなものではないか。
そういうことにすれば、この仲がいい兄妹は離れ離れにならなくていいのだ。
「……本当に、いいのか?」
「いいのよ! あなたもここにいていいの!」
エルヴィンの澄んだ青い瞳に涙の膜が張った。
父の子ではない彼は、きっと自分の行く末が不安でしかたがなくて、でも妹の前で泣くのを必死で我慢していたのだろう。
「大丈夫よ、エルヴィン。もうなにも心配いらないわ」
にっこりと笑って見せると、青い瞳からぽろぽろと涙が零れた。
年齢のわりにはしっかりしているようだが、まだ幼い少年なのだ。
気が済むまで泣けばいい。
私は二人が泣き止むまで、小さな背中をぽんぽんと叩き続けた。
こうして、私たちは家族になったのだった。
とはいえ、二人の身分は平民だ。
私と同じ伯爵家の子として扱うわけにはいかない。
というわけで、二人は私専属のメイドと侍従の見習いにすることにした。
私専属なのだから、私の許可なく追い出されたりすることはないし、母や弟に無茶な命令をされても私が拒否することができる。
こんな小さな子に仕事をさせるのは前世の倫理観では考えられないことだが、はっきりとした立場を与えるのはこの二人を守ることにもなるのだ。
使用人たちも「お嬢様のお願いなら」と快く協力してくれることになった。
「お仕事は大変だと思うけど、これはあなたたちのためでもあるの。
頑張ってね」
「はい、お姉さま。頑張ります!」
「お嬢のためにも、俺も頑張ります」
かみ砕いてそういった事情を説明すると、幼いなりに同じ瞳の色をした私を姉だと理解したマリアンネは「お姉さまがそう言うなら」とメイド見習いになることを受け入れてくれた。
エルヴィンも、私への恩義に報いるためといった感じで侍従見習いとなった。
まだ小さな兄妹は真面目に仕事に取り組み、使用人たちから可愛がられるようになるのに時間はかからなかった。
それに加え、エルヴィンは本人の希望もあり、騎士たちから剣術や体術を習い始めた。
素質もあり熱心な彼はすぐに騎士たちにも気に入られ、「お嬢様専属護衛になれるように」と鍛えられるようになった。
もちろん、仕事や鍛錬だけをさせていたわけではない。
子供にとって勉強がとても大切であることをよくわかっていた私は、私が勉強する時は三人一緒にお勉強の時間にすることにした。
親切な家庭教師はエルヴィンたちにも読み書きや計算を教えてくれた。
前世の記憶のおかげで既に基礎的な学力が身についている私より、二人の方がよほど教えがいがある生徒だったので、家庭教師も気合が入っていた。
「お姉さま! どうして私までお勉強しなくちゃいけないの?
もうイヤ! 計算なんて大嫌い!」
計算が苦手なマリアンネは、静かに歴史書を読んでいた私に泣きついてきた。
どうやら、宿題の計算問題を解くのが嫌になったようだ。
こうやって我儘を言って甘えてくる妹が、私は可愛くて仕方がない。
「お勉強はとても大事なのよ、マリー」
「でも、私はメイドになるんでしょう?
メイドのお仕事に、こんな計算はいらないと思うわ」
「あなたは今は私の専属メイドだけど、将来はどうなるかわからないわ。
お勉強ができたら、メイドのお仕事以外にもいろんなことができるようになるのよ」
「いろんなことって?」
「そうねぇ、例えばお医者さんやお城で働く文官とかは、とても頑張ってお勉強しないとなれないの。
他にも、お勉強ができないと就けない職業はたくさんあるわ。
そのうちマリーにも、将来の夢がきっとできると思うの。
そうなった時、お勉強ができないせいで夢を諦めないといけなくなったら、とても悲しいでしょ?」
「う~……」
まだ五歳のマリアンネは、しかめっ面で必死に想像力を働かせているようだ。
「お勉強は大変だけど、あなたの将来のためにもしっかりやっておかないといけないの。
だから、頑張りましょうね」
「……」
まだ納得できないようで、マリアンネはさくらんぼのような唇を尖らせている。
これはこれで可愛いが、お勉強は手を抜くわけにはいかない。
「じゃあ、そうね。
マリーが間違えずに計算できるようになったら、なにかご褒美をあげましょう」
「ごほうび⁉」
パッチリとしたアメジストの瞳が輝いた。
「それなら、頑張る!」
マリアンネは俄然やる気になり、計算問題が書かれた紙とにらめっこを始めた。
そんな妹が可愛くて、艶やかなストロベリーブロンドを撫でていると、今度はエルヴィンがしかめっ面になった。
「お嬢、マリーをあまり甘やかさないでくれ」
「少しくらいいいじゃない」
母を亡くし、突然全く知らない場所に連れてこられただけでも大変なのに、普段はメイド見習いとして泣き言を言わず頑張っているのだから。
なにか理由をつけて、ご褒美をあげたいと思っていたところだ。
「エルヴィン、あなたにもご褒美をあげるわね。
あなたもとても頑張ってるもの」
エルヴィンも、侍従見習いとしての仕事もお勉強も鍛錬もすごく頑張っている。
ぜひともご褒美をあげたいのに、生真面目な顔で断られてしまった。
「……俺は……今は、なにもいらない」
「あらそう? 遠慮することないのよ?」
「遠慮してるわけじゃない。
そのうち全部まとめてもらうから、それまで俺の分のご褒美はとっておいてくれ」
「? ええ、あなたがそうしたいなら、それでいいけど」
つまり、ご褒美貯金みたいなものだろうか。
将来彼が自立する際、お祝い金みたいにして渡すのも悪くない。
私は伯爵令嬢だからどうなるかわからないが、この二人には自由に将来を選んでほしい。
そのために、私はできる限りの手助けをしていくつもりだ。
それからしばらくして、無事課題をクリアしたマリアンネが望んだご褒美は、「お姉さまとお菓子をつくりたいです!」という可愛らしいものだった。
なんでも、亡くなった母は料理上手で、マリアンネはお手伝いをするのが大好きだったのだそうだ。
私もいつか料理に手を出そうと思っていたので、ちょうどいい機会だと料理長に頼み、マリアンネとエルヴィンと一緒にクッキーをつくらせてもらった。
クラリッサになってから初めての料理だったが、前世の記憶のおかげで特に苦労することもなく、シンプルながらバターのいい香りのするクッキーが焼きあがった。
「お姉さま! すっごく美味しい!」
「そうね、上手にできてよかったわ」
クッキーを頬張ってはしゃぐマリアンネの可愛い笑顔に、私だけでなく皆が笑顔になった。
「厨房を使わせてくれてありがとう。またお願いしてもいいかしら?」
「もちろんでございます、お嬢様。
いつでもお手伝いいたしますよ」
子供好きな料理長は、ニコニコと頷いてくれた。
そんなことがあってから、私は厨房に度々顔を出すようになり、料理長と話し合いながら新しいレシピを次々と開発するようになった。
バルテン王国の料理は、基本的に肉は切ってスパイスと塩をつけて焼くだけ、スープは数種類の野菜を塩味で煮込むだけ、サラダは塩と植物油と酢をかけるだけ、という素材の味に頼りきった料理ばかりで、物足りないと思っていたのだ。
お肉を調味料に漬けて時間をかけて下味をつけたり、以前は捨てるだけだった鶏ガラで出汁をとったり、ドレッシングやマヨネーズの作り方を提案すると、料理長の手により即試作され、ほぼ毎回大絶賛された。
私がそうするようにと指示をしたわけではないが、使用人たちが示し合わせたようでこのことは両親には伝えられなかった。
おかげで私は誰にも煩わされることなく、楽しく料理をすることができたのはとてもありがたいことだった。
私は両親には恵まれなかったが、それ以外の周囲の大人たちにはとても恵まれていたのだ。
料理長はなにも知らない父に腕を上げたと褒められ、使用人たちも賄いが美味しくなったと皆が喜んでいた。
美味しい料理が食べられるようになり、私も大満足だった。
「お姉さまはどうしてお勉強もお料理もできるの?
誰にも習っていないんでしょう?」
そんな素朴な疑問を口にしたのは、マリアンネだった。
二歳年上なだけの私が、あれこれできるのを不思議に思うのは当然なことだ。
「それはね、私には前世の記憶があるからよ」
「ぜんせのきおく?」
「私がクラリッサ・キルステンとして生まれる前、別のところで別の人として生きていた時のことを覚えているのよ。
今の私はまだ七歳だけど、前の私は大人だったの」
「いくらお嬢の言うことでも……そんなことあるのか?」
エルヴィンは難しい顔で考え込んだ。
「ふふふ、嘘ではないけど信じなくてもいいわ。
ただ、このことは私たち三人だけの秘密よ」
「ひみつ!」
「そうよ。秘密よ。誰にも言ってはいけないの。
お約束できる?」
「できる! お姉さまとお兄さまと私だけのひみつね!」
前世の記憶についてはよくわからなかったようだが、マリアンネは嬉しそうに笑った。
「……わかった。俺はお嬢を信じる。
これは、俺たちだけの秘密だ」
エルヴィンは、真面目な顔で頷いた。
信じられないと思いつつも、私の言うことだから信じることに決めたようだ。
意図したわけではなかったが、秘密を共有したことで私たちの絆は強くなった。
私たちは家族として互いに助け合い支え合いながら、すくすくと育っていった。
私としては、エルヴィンとマリアンネが成長したら自由に未来を選べるようにとお勉強などをさせていたのだが、絆が予想以上に強くなりすぎたのか、二人とも私から離れようとしなかった。
エルヴィンは十分に騎士として身を立てることができる腕前になっているのに侍従のままだし、私と一緒に淑女教育を受けた可愛らしいマリアンネは外に出れば嫁ぎ先は選び放題になるだろうに、そんなことにはまったく興味がないようだ。
二人が傍にいてくれるのはありがたいが、それよりも大切な家族に幸せになってほしいのに。
「私は恋愛には興味ありませんから。
お姉様の小説で恋愛気分を味わえれば十分です」
「騎士になんかなったら、傍にいられる時間が減ってしまうじゃないか。
お嬢にお茶を淹れる役目を誰かに譲る気はない」
何度かさりげなく水を向けてみたが、二人の答えはいつも同じだった。
エルヴィンは私に恩義を感じてのことだと思うが、マリアンネには私の男嫌いが影響してしまったのかもしれない。
私は十五歳になる頃には小説でお金を稼ぐことができるようになっていたので、家を出て三人でずっと暮らすのも悪くないかなと思っていた。
とはいえ、それはあくまでも選択肢の一つで、出奔するのは最後の手段のつもりだった。
一応貴族令嬢である私が突然姿を消したら、お世話になった使用人たちに迷惑がかかってしまうかもしれないからだ。
母と弟のおかげで、ほとんど社交界に出ていないのに私は悪評にまみれている。
こんな私にまともな嫁ぎ先などないだろうし、それ以前に私は誰にも嫁ぐつもりなどないかった。
修道院に行くふりをして、三人で隣国あたりに逃げるのが無難だろうか。
ヘンリックに出会ったのは、そんなことを考えている時のことだった。




