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「それで、これがレディを襲った男なわけですか」
彼は汚物を見るような目で床にうつ伏せになり昏倒したままの男に向けると、ブーツの爪先を男の体に引っ掛けて仰向けにひっくり返した。
凛々しい形の眉がぐっと寄せられ、不快であることを表す。
このレベルの美貌だとこんな表情ですら絵になるのか、と無駄に感心してしまった。
「フローエ公爵家の次男ですね。
この男は、正真正銘身持ちが悪いので有名なんです」
フローエ公爵家というと、先代国王の妹が降嫁した家だったはずだ。
この男もかなりの高位貴族なようだ。
「邪魔なゴミは外に捨ててしまいましょう。
その前に、一発くらい殴っておきますか?」
王族に連なる血筋の高位貴族の令息をゴミ扱いする彼に、私は首を横に振った。
「やめておきますわ。
こんな男、触るのも嫌ですもの」
「同感です」
彼がまたひらりと手を振って風魔法を発動させると、男の体が浮き上がってふわふわと窓の外へと移動していった。
「では、先ほどの『契約結婚』についてですが、もう少し詳しく伺っても?」
「ええ、もちろんですわ」
私は真剣な顔で彼に向き直った。
「三年後に子ができなかったからという理由で離婚をするという契約を結んで、表面上は正式に結婚するのです。
白い結婚であるのは言うまでもないことですが、他にも条件があれば事前に話し合って、きちんと契約書を作成します。
私たちは夫婦を装いながら、お互いを助け合う協力者になるのです」
「それが可能なら、確かにお互いにメリットがあると言えるでしょう。
私はこれ以上結婚に関して煩わせられることはなく、あなたは堂々と家を出ることができる。
ですが、一つ懸念すべき重要な点があります」
私を見据えるエメラルドの瞳が、探るように眇められた。
「その契約は、レディが絶対に私に惚れないということを前提に成り立つものですね。
自分で言うのもなんですが、私はかなりモテるのです。
さきほどは怯えていたようですが、三年の間にレディは私に惚れないと言い切れますか?」
「言い切れますわ!」
私は余裕の笑みをうかべて頷いた。
これだけ美しい容姿で、性格もよくて、侯爵家出身で、第二王子殿下の護衛騎士を務めるくらい優秀な騎士なのだ。
妻の座を狙う令嬢にも、火遊びをしたい未亡人にも、モテまくっているだろうことは私にだってわかる。
それでも、こんな千載一遇のチャンスを逃す手はない。
私は少し迷ったが、思い切って秘密を明かすことにした。
「信じていただけないかもしれませんが……実は、私には前世の記憶があるのです」
これには彼も怪訝な顔で首を傾げた。
「前世での私は、魔法がない世界にいるごく普通の女性でした。
平和な国に生まれ、平凡ながら幸せに暮らしていました。
なのに……婚約者を寝取られた挙句、寝取った女に殺されてしまったのです」
前世の私は、美人でもないが不細工でもなく、読書と料理が趣味のどちらかといえば地味な日本人女性だった。
婚約者のことを真剣に愛していた私は呆然自失となっている間に、あっさりと殺されてしまったのだ。
あの絶望も悲しみも恐怖も痛みも、全てしっかり覚えている。
生まれ変わった今でも、新たな恋愛なんてしたいとは思えないくらいに。
「そんな記憶がありますので、私はもう恋愛はこりごりです。
男性も、男性に媚びを売る女性も苦手で、できるだけ近寄りたくないのですわ」
「……その話が本当なら、そうなるのも仕方がないことでしょう」
こんな荒唐無稽な話も、頭ごなしに否定せず理解する姿勢を示してくれる。
やはり、彼は優しく思慮深いひとなのだ。
それが伝わってくるから、前世の記憶のおかげで初対面の男性にはいつも身構えてしまう私でも、彼に対しては自然に接することができている。
「とはいえ、私の話だけでは信じられないでしょう。
一度、我が家にお越しいただけませんか?
私に前世の記憶があるということが納得していただけるようなものをお見せしますから。
その上で判断していただいても構いません」
「そのようなものがあるなら、是非とも見せていただきたいですね。
どちらにしろ、ここで即断できるような話でもありません。
一度持ち帰って、じっくり検討してみます」
「ええ、前向きに検討してくださるとありがたいですわ」
「そうするつもりですよ」
ちょうど話がだいたいまとまったところで、複数人の足音と話し声がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
さりげなく扉と私の間に彼が立ったところで、外から鍵がかけられていた扉がノックもされずに勢いよく開かれた。
「クラリッサ! このアバズレ……って、あれ?」
ドヤ顔で私を罵りながら入ってきたのは、言うまでもなく私の弟ヨーゼフだ。
いかにも柄も頭も悪そうな友人たちを引き連れ、傷者にされた姉を見物しに来たのだ。
「ノックもせずに、随分と無粋な連中だな。
美しいレディとの逢瀬が台無しだ」
余裕の表情で私を背中に庇うように立つ貴公子を見て、ヨーゼフたちは目を丸くしている。
「な、なんだ、あんたは」
「私はヘンリック・フューゲルという。
それなりに有名だと思うんだが、知らないのか?」
「フューゲルって……フューゲル侯爵家⁉ そんな、嘘だろ⁉」
ヨーゼフの後ろにいた友人の一人が、本物だと青い顔で呟き、ヨーゼフもまた青くなった。
「レディ、よろしければ私の馬車で家までお送りしましょう」
「まぁ、助かりますわ。
ありがたくお言葉に甘えさせていただきます」
「では、参りましょうか」
眩しくて直視できないくらいの笑顔を浮かべながら差し出された大きな手に、私は自分の手を重ねた。
こんな貴公子にエスコートされるなんて、役得だ。
青い顔のまま押し黙ったヨーゼフとその他数人をふふんと鼻で笑い、私はヘンリックに手を引かれながら控室を後にした。




