⑪
「実は、少し前に自称『聖女』という女が現れたんだ」
サロンに移動し、エルヴィンが淹れてくれたお茶を飲んで一息ついたヘンリックは、離婚できなくなった事情を最初から説明してくれた。
私たちが住むバルテン王国の王城には、初代バルテン国王が精霊より授けられたとされるアブラッハという特別な樹がある。
白銀の樹皮、サファイアのような紺色の葉をつける不思議なこの樹は、林檎のように赤い実がなる。
この実からは、即効性のある回復薬をつくることができるのだ。
当然ながらアブラッハは大切に守られていて、目にすることすら限られた人にしか許されていない。
自称『聖女』は、アブラッハの樹がある庭にどこからともなく現れた。
「どこからともなくって、どういうこと?」
「本人が言うには、家で寝ていたはずなのに気が付いたらアブラッハの庭にいたのだそうだ。なんでも、別の世界から異世界転移してきたとか」
「異世界転移……」
前世で読んだ小説や漫画では、そういう設定が珍しくなかった。
私はなんだか嫌な予感がした。
「聖女というのは、自称なのか」
「ああ、あくまでも自称だ」
エルヴィンの問いに、ヘンリックは頷いた。
バルテン王国での聖女というのは、目覚ましい功績を挙げた女性に国王陛下から与えられる称号なのだ。
過去には、伝染病が国内に蔓延していた時に特効薬となる新薬を開発した薬師や、ドラゴンを単独で討伐した女性騎士などが聖女となった例があったはずだ。
「ただし、あの女は回復魔法の使い手なんだ。
状況次第だが、今後聖女の称号が与えられる可能性があるにはある」
「回復魔法とは、珍しいわね」
回復魔法というのは希少な魔法なのだ。
おそらく、今のバルテン王国には回復魔法をつかえる人は、その自称聖女以外にはいないだろう。
「珍しくはあるが、それだけでは聖女の称号には足りない。
功績か実績か、そういうのが必要なんだ」
「回復魔法が使えるんなら、そう難しくはなさそうだけど」
「そうでもない。
我が国にはアブラッハがあるからな」
ああそうか、と私は納得した。
アブラッハの実による回復効果は絶大なのだ。
だから、せっかくの回復魔法もあまり出番がなくて、功績を挙げる機会がないのだろう。
「とはいえ、回復魔法が有用であることに違いはない。
聖女の称号がほしいなら、いくらでもやりようはあるはずだ。
それなのに、あの女は……どうもその方向の努力をする気がないようなんだ」
ヘンリックのエメラルドの瞳が困惑に揺れた。
「あの女は他の世界から来たと言っていたが、最初からアブラッハのことを知っていた。
アブラッハだけでなく、第一王子殿下を初め数人の……そろいもそろって顔のいい男ばかりの名を知っていた」
「もしかして、そのなかにリックも含まれてるの?」
「……ああ、私のことも知っていた。
ただ、どういうわけか、私がヤミオチとかいうのをしていないと言って、大層驚いていた」
ヤミオチ……闇落ち、か?
「なんでも、私はルーカス様を守り切れず死なせてしまって、それが原因でヤミオチしているはずだったんだそうだ」
ルーカス様というのは、ヘンリックが護衛騎士として仕えている第二王子殿下のことだ。
「殿下はご健在よね?」
「ピンピンしてる。
病気も怪我もしてないし、これからも死なせるつもりはない」
なんとも奇妙な話に、私たちは首を傾げた。
「それから、コンラート第一王子殿下は、亡くした婚約者の面影を引きずっているはずで、今の総騎士団長は魔物に殺されて息子に代替わりしているはずで、アンゼルム大公は大怪我により体が不自由になっているはず、なのだそうだ」
第一王子殿下の妃は隣国の姫君で、二人は十代前半で婚約した時から相思相愛で、今でも仲睦まじいおしどり夫婦として有名だ。
昨年元気な男の子を授かり、バルテン王国中が祝福ムードになったのは記憶に新しい。
総騎士団長は、私の父と同世代の渋いおじさまだ。
息子もきっと騎士をしているのだろうが、私は顔も名前も知らない。
アンゼルム大公は、現国王陛下の年の離れた異母弟にあたる。
甘いマスクの女たらしで、浮名が絶えることがないゴシップ新聞の常連だ。
この前も人気舞台女優と優雅にダンスをしていたと新聞に書いてあったのを覚えている。
体が不自由なら、そんなことができるはずがない。
「あの女が、会ったこともない私たちのことを知っていたのは確かなんだが、私たちの現状については的外れなことばかりだ。
それだけならそれだけなら特に実害もないんだが、どういうわけか機密事項も知っていた」
機密事項?なんだか嫌な予感がして、私はぎゅっと唇をひき結んだ。
「実は、二年ほど前にアブラッハが元気がなくなったことがあった。
葉が萎れ、実の数も少なくなって」
「待ってリック! それって、今話してた機密事項じゃないの⁉」
厳重に警備されているアブラッハの詳細は、ほとんど秘匿されている。
なんたって、バルテン王国のかけがえのない宝なのだ。
第二王子殿下の護衛騎士を務めるヘンリックなら、多少はアブラッハの話題に触れることもあるだろうが、それを家族とはいえ私たちに漏らすのは問題だと思う。
「そうだが、最後まで聞いてほしい。
これはおそらく、私たちに関係することだと思うんだ」
ヘンリックはお茶を一口含んで喉を潤し、それからまた話し始めた。
「アブラッハが弱ったのは、根に虫型の魔物が寄生していて、養分と魔力が吸い取られていたのが原因だったのだが、それを突きとめたのはルーカス様と婚約者のハイデマリー様だった。
その後魔物は騎士団により無事退治され、アブラッハは元通りに回復している」
第二王子殿下とハイデマリー様は、二人揃って優秀な魔物の研究者なのだ。
特にハイデマリー様は神童と呼ばれるほどの天才で、まだ未成年ながら数々の優れた論文を発表し、その度に大きな話題となっている。
第二王子殿下はそんな婚約者を溺愛しており、ハイデマリー様が成人する十八歳の誕生日に結婚式を挙げる準備をしているのは有名な話だ。
「あの女は、アブラッハの根に寄生する魔物のことを知っていた。
その魔物を倒せばアブラッハは元気になると言って……とっくにそれは解決済みだと知るとまた妙なことを言い始めた」
嫌な予感が強まり、私は手をぎゅっと握りしめた。
「ここはあの女が主人公のマンガとかいう形態の本の中の世界で、私たちはその登場人物なのだそうだ」
ああ、やっぱりそんな流れなのか……
なんとなく展開が読めてきた。
「私と第一王子殿下と騎士団長の息子とアンゼルム大公はそれぞれ問題を抱えていて、それをあの女に癒されて、私たち全員があの女を愛するようになるはずなのだと」
「えぇぇ? そんな無茶な!」
マリアンネが叫んだ。
前世ではそういった感じの逆ハーレム展開になる小説や漫画もあったが、あれはあくまでの架空の世界の話だ。
前世からすれば異世界になるこの国の倫理観でも、現実的にそんなことが起こるとは考え難い。
それにしても、自称聖女……もしかしなくても、日本人なのではないだろうか。
「いろいろと常識外れなところはあるにしても、希少な回復魔法の使い手だ。
どこかの貴族家の養女になって平穏に暮らすことを提案してみたのだが、それは絶対に嫌だと拒否している。
どうにかすれば私たちを篭絡できると確信しているようだ」
そんなはずないのに。
少なくとも、マリアンネにぞっこんなヘンリックが他の女に心を移すなんてありえない。
「マンガがどうこうという点は無視されたが、アブラッハに関するところはそういうわけにもいかない。
どこかから機密が漏洩しているのなら、その元を絶たねばならない。
というわけで、現在あの女はアンゼルム大公に保護という名目で監視されている状態だ」
アンゼルム大公は独身だし、女性の扱いに慣れているだろうからきっと適任なのだろう。
もしヘンリックがその役目を仰せつかっていたら、自称聖女がこの家に来ることになっていたかもしれない。
そうならなくてよかった。
「意味不明ではあるが、私にはあの女が嘘をついているようには見えなかった。
リサの前世の記憶のこともあるし、そういう不思議なことがあってもおかしくないんじゃないかと思ったんだ。
それで、私は考えてみた。
もしこの国が、あの女が言う通り本の中の世界だと仮定して……これほど変貌した原因はなんだろうか、と。
そして……私とリサが結婚したことがそれにあたるのではないか、と思い当たったんだ」
「どうしてそう思ったの?」
ある程度の確信を持っているらしいヘンリックに、私たちは首を傾げた。
「私たちが結婚したのは約三年前のことだ。
私はマリアに再会して恋人になったことで精神的に充実し、エルにも鍛えられて、以前に比べてかなり腕を上げた。
皆も覚えていると思うが、ルーカス様が襲撃されたことがあっただろう。
あの時、私が賊を撃退できたのはそのおかげだ。
以前の私のままだったら、ルーカス様を守りきれなかった可能性が高い」
それは、そうなのかもしれない。
私たちの結婚を境に、彼がめきめきと腕を上げたのは事実だ。
「アブラッハが弱り始めたのは、襲撃の二か月後くらいだった。
あの襲撃の時、ハイデマリー様も一緒にいた。
ルーカス様が殺さるような状況なら、ハイデマリー様も無事では済まないと考えるのが自然だ。
もし襲撃であの二人が死んでしまっていたら、アブラッハが弱った原因を解明することは不可能だっただろう」
「そうでしょうね」
「第一王子殿下が結婚する直前、妃殿下が毒を盛られ命を落としかけるという事件があった。
それから、アンゼルム大公が地方に視察に赴いた際、魔物の群れに襲われて、大公と護衛として同行していた総騎士団長が負傷したことがあった。
どちらもアブラッハの魔物が討伐された後に起こったことだ。
もしアブラッハの実が採れなくなっていたら、妃殿下と総騎士団長は亡くなり、大公も体が不自由になるという、あの女が言ったような状況になっていたかもしれないと思うんだ」
私は考え込んだ。
前世で読んだ小説や漫画で、そういう設定のものがあった。
小説や漫画やゲームの世界になんらかの理由で日本人が入り込んで、オリジナルの内容では死んでしまうキャラを助けようとしたり、未来を知っていることで自分に有利な展開にしようとしたりするのだ。
自称聖女の場合は、オリジナルでは逆ハーレムをつくれるキャラになれたのに、ハーレム要因の男性たちが心身ともに健康で篭絡できなかった……ということなのではないだろうか。
「あの女は、暇さえあれば私とルーカス様に絡んでくるんだ。
なんでも、私がオシとかいうやつらしい。
ルーカス様も容貌が整っているから女性にモテるんだが、あの女はなんというか、私たち両方の気を惹こうとする。
私は既婚者だし、ルーカス様には婚約者がいると何度も言っているのに、全然諦めない。
最近は目が血走ってて、怖いくらいだ」
ヘンリックはマリアンネ一筋で、第二王子殿下もハイデマリー様一筋だ。
割り込む隙などないというのに、そこまでして逆ハーレムしたいのだろうか。
私にはさっぱり理解できない。
「アブラッハの機密を知っていた理由が明らかになるまでは、あの女を排除することはできない。
こんな状況で私が一時的に独身に戻ったら、ものすごく面倒なことになってしまう。
あの勢いと非常識さでは、押しかけ女房しにこの家に突撃してくることも十分に考えられる。
それだけは、なんとしてでも避けたいんだ……」
ヘンリックが悲壮な顔になった。
隣に座ったマリアンネは、そんな彼に寄り添い手を握った。
「だから最近、なんだか冴えない顔をしていたのね」
「マリア、すまない……」
「謝らないで。リックのせいじゃないわ」
「リサとエルも……私の事情に巻き込んで、すまない……
私がこんな顔じゃなかったら、あの女に好かれることはなかったのに……」
「それこそリックのせいなんかじゃないわよ」
「そうだぞ。リックも被害者じゃないか」
妙な女のせいで予定変更を余儀なくされるのは業腹だが、こんな事情では仕方がない。
「ところで、その自称聖女はなんていう名前なの?」
「カリナ・ミサワという名だ」
ヘンリックが口にした名に、私は心臓が止まりそうになった。
カップを持つ手が震える。
「お嬢? どうした?」
異変にいち早く気が付いたエルヴィンが、私の顔を覗き込んできた。
「カリナ・ミサワ……三沢かりな」
忘れもしない、忘れたくても忘れられない名だ。
これは偶然?
いや、そんなわけがない。
これは、必然だ。
「私もリックに同意するわ。
この件は、きっと私たちが関係しているんだと思う」
私はカップをテーブルに戻し、正面からヘンリックを見た。
「私を、そのカリナって女に会わせて」
結婚してから一度も社交の場に出ることなく引き籠っていた私の言葉に、三人は目を見開いた。
「構わないが……どうして急に?」
戸惑いを隠せないヘンリックだが、私の心はもう決まっている。
「私は、その女に直接会って確かめないといけないことがあるの」
「確かめるって、なにを?」
「それは、確かめた後に教えるわ」
同姓同名の別人という可能性もある。
だが、もしあの三沢カリナ本人だったら……
「ふふふ……面白いことになりそうね」
不敵に笑う私を、ヘンリックは訝し気に、マリアンネは不思議そうに、エルヴィンは心配そうに見ていた。




