夜の迷宮
階段を上がった瞬間、空気が変わった。
昼間の図書館の匂いではない。
湿った紙と、古い木と、どこか鉄のような匂いが混ざっている。
結は日記を強く握りしめた。
迷路のように並ぶ書架は、昨夜よりも増えている気がした。一本道だったはずの通路が枝分かれし、奥へ奥へと続いている。振り返ると、さっき通った道はもう存在していなかった。
「……嘘でしょ」
床に落ちた埃が、足元でざわりと動く。
まるで何かが息をしているみたいに。
日記を開くと、文字がゆっくりと浮かび上がる。
――右へ三列。
――七番目の書架。
――振り返るな。
「振り返るな、って……」
その瞬間、背後で足音が鳴った。
コツ。
コツ。
一定のリズムで、確実に近づいてくる。
結の喉がひゅっと鳴る。
振り返りたい衝動を必死にこらえ、指示通り右へ進む。三列目。七番目の書架。
そこにあったのは、鏡だった。
本棚の間に、不自然なほど大きな鏡が立てかけられている。
曇った表面に、結の姿が映る――はずだった。
だが、映っていたのは結だけではなかった。
背後に、黒い影が立っている。
ゆっくりと、影が首を傾げる。
結は反射的に振り向いた。
誰もいない。
もう一度鏡を見る。
影は消えていない。むしろ、少しずつ結に近づいている。
「……何なの、これ」
日記のページが、勝手にめくれた。
――影は奪う。
――名前を。
――記憶を。
――存在を。
その瞬間、結の頭の奥で、何かが弾けた。
花山の顔が、思い出せない。
声も、笑い方も、ぼんやりと霞がかかったように曖昧になる。
「やだ……やだ、やだ……!」
影は、消えたのではない。
奪われたのだ。
存在そのものを。
鏡の中の影が、すっと腕を伸ばす。
鏡の表面が水面のように揺れ、黒い手がこちらへ突き出された。
結は後ずさる。だが、背中が書架にぶつかる。
逃げ場がない。
そのとき、日記の最後の余白に、新しい文字が浮かび上がった。
――影の名を呼べ。
「名前……?」
影に、名前がある?
鏡の奥で、影が笑った気がした。
その瞬間、結の脳裏に、ひとつの言葉がよぎる。
この図書館の古い呼び名。
ずっと昔、取り壊されたはずの旧館の名。
「……クロノス書庫」
結がそう呟いた瞬間、鏡がひび割れた。
甲高い音とともに、空間が震える。
書架が崩れ、闇がざわめく。
影が苦しむように歪み、悲鳴とも風音ともつかない声を上げた。
だが、完全には消えない。
むしろ、怒りを帯びたように巨大化していく。
日記が焼けるように熱くなる。
最後の一文が浮かび上がる。
――次に奪われるのは、君だ。
影が一歩、こちらへ踏み出した。
結の足元の床が、音を立てて崩れる。
落ちる。
闇の底へ――。




