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Article 50 : conservation - 恒存の代償(後)

50-1 [MP ̄] 02(承前)


 無論、決心だけで上手くいくほど、世の中は甘くない。

 次の所長選挙で勝つために、そしてサスーン・グループからの資金提供を継続させるために、相応の業績が必要だった。

 それらを一挙に解決するための切り札が、ニーナの考案したテルスノヴァ・プロジェクトだった。


 LHCの出力を二倍に引き上げ、さらに陽子衝突の量を増やすことでマイクロメートルサイズのブラックホールを多量に生成し、その重力効果で多重世界への扉をこじ開ける。

 実利より夢を追うような計画で、実現の可能性は低いものの、数年間は物理学界の注目を浴びる研究になることは確実だった。そしてここが肝要だが、世界中でその実験ができるのは、LHCを有するこのCERNだけだということだ。

 地道な基礎研究ばかりを続けてきた私にとって、それは極めて魅力的なものだった。

 最後にひと花咲かせてみたい、と私は思った。


 プロジェクトは、私とニーナの多数派工作が奏功して、理事会の審議にかけられることになった。過半数にぎりぎり届き、承認される見込みだった。

 だが、蓋を開けてみれば、一票差での否決だった。

 ハイゼンベルク家の横やりが入ったのだ。メリットとリスクを天秤にかけた結果、リスクが大きいと判断されたのだろう。危険因子は顕在化するまえに除去する。それが、ヨーロッパ最大の保守勢力であるハイゼンベルク家の行動原理であった。



 巨大な圧力で、プロジェクトとともに、私の目論見も潰えた。

 だが、失望と落胆に沈む私とニーナの前に、思いがけない救世主が現れた。


 敵陣営ともいえるハイゼンベルク研究室の助手だった、アルバート・シュレーディンガーだ。

 ルイ・ド・ブロイとデイヴィッド・ボームが提唱したパイロット波理論と、ヒュー・エヴェレットの多世界解釈を結びつけ、独自のNPU理論を考案した彼は、紛れもない天才だった。

 NPUという特殊な素子だけで実験が可能であり、その素子の開発や製造も半導体メーカーと組めば実現できるレベルのものだ。産学連携は私の最も得意とするところだし、CERNの予算をほとんど使わないから、理事会の承認を得る必要もない。

 それは、テルスノヴァ・プロジェクトにとって、起死回生の福音とも言えるものだった。NPU研究の先にあるのは、多重世界へのアクセス――つまり、テルスノヴァ・プロジェクトそのものなのだ。

 これが成功すれば、ニーナもアルバートも、そして私もノーベル物理学賞の候補に挙がるだろう。そうなれば当然、私はCERN所長の座を守れる。そして、ニーナを庇護することも……。


 だが、そう信じ、そう願っていたのは、私だけだった。

 そのときすでに、世界は後戻りのできない分岐点を通り過ぎていたのだ。

 私だけが、それに気づかずにいた。そして、私の願いは、もっとも残酷なかたちで打ち砕かれた。


 ニーナの変節だ。

 マンハッタンのゴミだめから救い上げ、地位も金も与えてやった私を捨てて、ニーナはアルバートの許に走った。

 あまつさえ、恩義のあるサスーン・グループを裏切り、敵対しているグローバル・ユリウスと連携するという暴挙にまで及んだ。

 私がそれを知ったのはNPU実証実験の当日で、もうなにもかも手遅れだった。


 こんな実験の存在が世間に、そしてサスーン・グループに知られたら、私たちがどうなるか。

 彼らの正体を知る私には、これからたどるだろう悲惨な末路が見えていた。

 身の破滅を回避するためには、この実験がなかったことにしなければならない。記録もデータも、一切残っていてはいけないのだ。

 コンピュータのモニターに表示された『完全に削除』というボタンを、私はためらいもなくクリックした。


 これは、プロジェクトのリセットにすぎない。誤ったベクトルを修正し、最初からやり直せばいいのだ。

 ニーナとアルバートが改心して私に頭を下げるなら、もう一度チャンスを与えてやってもいい。

 私は、そう思っていた。しかし……。


 私に差し出されたものは、ニーナとアルバートからの詫び状ではなく、NPUに関する学術論文だった。

 その論文は、理論構成についてはともかく、実験結果による検証の部分は穴だらけだった。消去したはずの画像が添えられていたが、データによる裏付けがないことはだれが見ても明らかだった。

 だというのに、審査委員会はその論文を合格とし、アルバート・シュレーディンガーに博士号が与えられた。

 なんらかの政治力が働いたことに、私はすぐに思い至った。そしてそれが、ニーナと、彼女の新たなスポンサーであるグローバル・ユリウスの意思によるものであることも。



 完全な敗北だった。

 意気揚々と記者会見に臨んだアルバート・シュレーディンガーを横目にしながら、私は自らの進退を考えはじめた。


 だが、その会見の終わり間際にひとりの学生記者が発した質問で、状況は一変した。

 理論の不備をえぐりだした彼女の問いは、同時に論文の審査がいかにおざなりだったかということも暴き出した。

 理論に誤りがないからこそ、実証実験の若干の不備を許容した。論文審査の結果をそう理解していたが、その前提が成り立たない――つまり理論そのものに誤りがあるとなれば話は別だ。そんな研究で博士号が与えられることなどあってはならないし、そんな論文がCERNで認められたとなれば、ことはニーナとアルバートの破滅だけではすまない。場合によっては、CERNの存在意義を問われかねないのだ。

 ニーナの巧妙な切り返しで会見場の記者たちは騙せたようだが、優秀な学者の目はごまかしきれまい。


 私は、質問を発した記者の身元を調べた。そして、彼女が世界的に有名なジャーナリスト、ジョセフ・クロンカイトの弟子であることを知った。しかも彼女は、ハイゼンベルク博士に招かれて、NPU研究プロジェクトの検証に協力していることもわかった。

 このままではいずれ、マスコミの報道と欧州委員会からの追求があることは必至だ。そうなってからでは、打つ手はなくなる。

 なんとしても、事態を私のコントロール下に置いて、収拾のためのイニシアチブを握らなければならない。


 そして、私は逆転の一手を思いついた。

 内部告発だ。

 マスコミを、そしてハイゼンベルク家を、私の味方につければいいのだ。

 ニーナとアルバートは研究者として汚点を残すことになるだろうが、CERNや物理学界から追放されるほどのことではない。そして、グローバル・ユリウスに打撃を与えることで、サスーン・グループに対する私の顔も立つ。

 そのときは、神が与えたもうた僥倖だ、と思った。実際は、悪魔の勧誘だったのだろうが。


 告発文を書く私の脳裏に浮かぶのは、ニーナの笑顔ばかりだった。

 ニーナ、なぜ私を裏切ったのだ。おまえが私のもとにいたのなら、こんなことをしなくても良かったのに。

 ふと過った感傷を、私は追い払った。

 そして、出どころを隠したまま、告発文がマルガレーテ・フォン・ハイゼンベルクの手に渡り、そこからあの学生記者に届くように手はずを整えた。



50-2 [AK ̄] 46


「個人的な動機もたしかにあった。しかし、それ以上に、私にはCERNを守る義務と責任があったのだ。私がしたことを卑劣だと非難したいのなら、すればいい。だが、君たちには理解できないかもしれないが、立場のある人間には、不本意であっても成さねばならないこともある。地位によって人は、変質せざるをえないのだ」


 そう言って、プランク所長は口を閉じた。

 嘆きも怒りも感じさせないその表情には、ただ憂いの色だけがあった。

 彼の行為や言い分を、間違いだと言うことはできなかった。ましてや、悪事と断罪することも。

 けれど、あたしは無性に腹が立った。

 そんなことのために……。


 こみ上げてきた怒りが、口をついて出そうになったとき。

 すぐ隣で、ばんとテーブルを叩く音がした。「ふざけるな」と、ベルナルドさんが吠えた。


「いったいそれで、どれだけの人間の人生が狂わされたと思っているんだ。ぼくやアヤノやニーナ、それにアルバートも……」


 こんなに激しい言葉で、ベルナルドさんが人を詰るのは、はじめて聞いた。周囲の客から白い眼を向けられても、彼は声を落とさなかった。


「あなたが策略など巡らせずに、正しくその責任を果たしていたら、みんなあそこまでひどい目にあわなかっただろうし、アルバートを死なせることもなかっただろう。ちがいますか」


 ベルナルドさんの指摘は、あたしの気持ちをほぼ代弁していた。

 どう言い訳をしようが、そこにはプランク所長の保身しか見えなかった。それがこの悲劇の引き金を引き、必要のない犠牲者を出すことにもなった。

 その道義的な責任は、回避できるものではない。

 けれど、それを突きつけられてもなお、プランク所長は穏やかに「そうだな」と受け止めた。


「だが、さきほども言ったとおり、私も少なからず代償を支払った。勝手な言いぐさに聞こえるだろうが、私はそれでもニーナを愛していたのだ。もしアルバート・シュレーディンガーがいなければ、負け犬としてではあっても、晩節を汚すことなく静かにCERNを去ることになっていただろう。そしてニーナを失うことも、なかったはずだ。だが、シュレーディンガーは我々の前に現れ、世界の秘密を垣間見せた。そしてそれに魅惑された人々を、あの実験によって、幾多の思惑が渦を巻く混沌のなかに放り込んだ。そこからなんなく脱出できた者もいれば、溺れてしまった者もいる。何かを求め、それを得た者、得られなかった者。あるいは、ただ何かを失っただけの者。私もニーナも、そしてシュレーディンガー自身も、そういう人間の一人にすぎないのだよ。君たちも同じだ。君たちはいったい、なにを失い、なにを得たのかね?」


 あたしもベルナルドさんも、口を閉じるしかなかった。

 たしかにアルバートさんの理論と実験は、この世界のあり方を、いや、この世界に対するあたしたちの理解を、根本から揺るがせた。プランク所長の言う「混沌」は、まさに言いえて妙だ。

 だが、そうであるにもかかわらず、あの実験の結果はいまだに不明だ。アルバートさん自身にもわからなかった、あの実験の成果はいったいなんなのか。

 あたしは実験に立ち会った三人目の人物に、それを確かめることにした。


「それなら、シュレーディンガー博士の実験は、成功していたということですか。多重世界は、存在したのですか?」


 あたしの問いかけに、プランク所長はしばし沈黙した。

 そしてその黒い瞳をあたしに向けた。そのまなざしが帯びた憂いの色は、底の見えない深淵のようだった。


「残念だが、私は、いや、あの場にいただれもが、それを観測していない(・・・・・・・)のだ。CGでしか描けない、モニターの中だけでしか確認できない事象。そんなものが、現代では実験と呼ばれている。この目で見ていないということは、つまり観測していないということだ。だとすると、それは量子的な状態にあったと言えるのではないかね?」

「それでは、実験の成否はだれにもわからない、あるいはデータとともに失われたということですか?」


 いやちがう、とプランク所長は首を横に振った。


「エネルギー保存の法則は知っているね?」


 あたしは黙ってうなづいた。

 プランク所長もうなづき返してから、先を続けた。


「情報もまた、エネルギーを構成する要素だ。だから、いったん発生した情報は、けして消滅することはない。たとえ我々が観測できていなくとも、そしてコンピュータに記録が残っていなくとも、この世界自体がそれを記憶し保存しているのだ。もっとも、それを読み出すのは、残念ながら私の仕事ではないようだがね」


 プランク所長はコーヒーを飲み干すと、「ではこれで失礼するよ」と言って席を立った。

 そして、まだ怒りがおさまらないという表情のベルナルドさんに、おだやかな笑顔で呼びかけた。


「ハイゼンベルク博士。すこし面倒ごとを頼みたいのだが、このあとCERNの所長室まで来てもらえるだろうか」

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