Article 49 : conservation - 恒存の代償(前)
49-1 [AK ̄] 45
帰国するジョセフと別れ、レイルジェットとTGVリリアを乗り継ぎ、ほぼ一日かけて、あたしはジュネーブに戻った。
レマン湖畔に立つと、追い立てられるようにここを後にした日となにも変わらずに、蒼天を映した湖面に大噴水が虹をかけていた。
あたしは最後に取材する人物と、その人物を通してもうひとりの当事者を、湖畔のレストランのランチに招待した。
約束の時刻よりすこし前に、当事者のひとり――ベルナルド・フォン・ハイゼンベルク博士が店に入ってきた。
ベルナルドさんはあたしの顔を見ると、いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべた。けれど、そのまなざしには、表情とはうらはらな翳りがさしていた。
「君がいちばん辛かったときに、ぼくはなにもできなかった。いまさら合わせる顔もないんだが……」
ウィーンであわただしく別れてから、まだ三日しかたっていなかったけれど、あたしの心はすでに凪いでいた。
この人とすごした短い時間。そのなかで、笑い、怒り、泣き、そして……。それらは、恋心のようなものの記憶として、あたしの心のなかに安定した居場所を得ていた。
「それは、もういいんです。あたしの方こそ、ご迷惑をおかけして謝らなければならないくらいです」
そうか、と答えたベルナルドさんは、ところで、と話題を変えた。
「ぼくはCERNを去る身だ。もう、この事件に関わる資格はないと思うんだが、それでもいいのかい?」
「かまいません。この事件の決着は、これから来る人とあたしたちの三人で、つけるべきだから」
そうだね、とベルナルドさんが頷くのと時を同じくして、招待客が姿を見せた。約束した時刻きっちりだった。
ベルナルドさんと顔を合わせた彼は、ばつが悪そうに苦笑した。
「お忙しいのに、ランチにつきあっていただいてありがとうございます。……マクシミリアン・プランク所長」
かまわんよ、と言って、プランク所長は席についた。気のせいか、すこし憔悴しているように見えた。
「それで、話というのはなんだね」
前菜のキッシュがサーブされ、プランク所長はナイフとフォークを手にした。
あたしは自分の皿を退けて、かわりにCERNのレターヘッドが入った用紙――NPU研究プロジェクトに関する告発文をテーブルに広げた。
「率直に答えてください。これを書いたのはあなたですね、プランク所長」
ふむ、と唸って、プランク所長はしばらく言葉を発しなかった。
なにを根拠にと切り返してくるか、ばかばかしいと切り捨てるか。あたしはどちらでも対応できるように心の準備を整えて、彼の言葉を待った。
けれど、プランク所長の答えは、あたしが予想したどれでもなかった。
「気づいたのは、ジョセフ・クロンカイトかね? それとも、君かね?」
それは問いかけではあったが、事実上の認諾だった。
プランク所長から言質をとるという最大の関門をあっさりと通過してしまい、あたしは逆に戸惑った。
相手は老練な人物だろうから、逆にこちらは策など弄さずに、正面突破をするつもりだった。
なのに、門は閉ざされてすら、いなかったのだ。
なにか罠があるのかもしれない、とあたしは思った。ここからは慎重に進めよう。
あたしはミネラルウォーターを飲んで、心身をクールダウンさせてから答えた。
「ヒントをくれたのはジョセフです。ただ、この結論はあたしの考えです」
「それなら、君の考えを聞かせてもらおう」
はい、と答えて、あたしは組み立てておいた推論を披露した。
「NPUプロジェクトはボーア博士とシュレーディンガー博士が結託したことで、あなたのコントロールを離れ、サスーン・グループを裏切る形で進んでいた。
あなたがそれに気づいたのはあの実験の直前で、すでにあともどりができない状況だった。とりうる選択肢は、プロジェクト自体の中止しかなかった。
とはいえ、あなた自身が中止を命じれば、ボーア博士とシュレーディンガー博士だけでなく、協力関係にあるナノテック・エレクトロニクス社、ひいてはバックについているグローバル・ユリウスの恨みを買うことは確実だ。
あなたは、自分の立場は守りつつ、プロジェクトを中止に追い込む必要があった。
そんなときに都合よく、ジョセフ・クロンカイトに縁のあるひよっこ記者が現れた。あたしのことです。
そこで思いついたのが、内部告発という手段だった。
ジョセフほどのジャーナリストに告発文書が渡れば、この事件が報道されることは避けようがない。そうなれば、自分の手を汚さなくても、社会が制裁を与えてくれる。
しかも、おあつらえ向きに、あたしはハイゼンベルク博士に近づいていた。CERNに大きな影響力を持つハイゼンベルク家が動いているとなれば、あなたの立場では協力せざるをえない。今から思えば、告発文がマルガレーテさんの手を経てあたしに届けられたのも、そういう状況を作り出すための工作だったというわけです。
そして、事態はあなたの思惑どおりに進んだ。
報道がきっかけになって、ボーア博士とシュレーディンガー博士の研究不正という形でプロジェクトは瓦解し、加担したナノテック・エレクトロニクスは甚大な被害を受け、背後のグローバル・ユリウスは煮え湯を飲まされた。あなたは、ボーア博士の裏切り行為とプロジェクトの失敗でサスーン・グループから非難されるどころか、逆に感謝されることになった。
しかもあたしの勇み足と迂闊な行動で、世間の耳目がゴシップネタに流れたおかげで、金と利権にまみれた裏事情が深く追求されることもなくなったし、厄介なハイゼンベルク博士をCERNから遠ざけることにも成功した。
ハイゼンベルク博士が指摘した通り、ボーア博士とシュレーディンガー博士のプライベートな関係まで告発する必要なんてなかったんです。なのに、告発文で研究不正と同等に扱われていたから、あたしはそれが重大なことだと思い込み、あまつさえボーア博士への個人的な感情で暴走してしまった。
そこまで意図していたかはわかりませんが、この告発文は、ほんとうに巧妙にできていたんです。
あの時点でそれをなしえた人物で、それによって最も利益を得た人物は誰だったか。そう考えれば、答えは明白です。
あたしとの最初の面談のとき、あなたは告発文を記事にすることに反対した。けれどそれは、あたしをその気にさせるためのポーズだった。
要するに、これはすべて、あなたが作ったシナリオだったということです。あなたは最初から、あたしを――マスコミを利用するつもりだったんです」
あたしの話を聞き終えたプランク所長は、表情も変えずに「なるほど」と言ってうなづいた。
「見事な推理だが、ひとつ、重大な誤りがある……」
追いつめたつもりだったのに、余裕さえ感じさせるプランク所長の指摘に、あたしは焦りを覚えた。
やはり、なにか見落としがあったのだろうか。
けれど、続いてプランク所長の口から出た言葉は、あたしの不安とは反対の言葉だった。
「君は私が利益を得たように言ったが、それは違う。私もまた、大切なものを失ったのだよ」
49-2 [MP ̄] 02
NPUプロジェクトは、私にとって最期の仕事になるだろうと思っていた。
私はそのころすでに科学者としては時代遅れになっていて、シュレーディンガーやハイゼンベルク博士の才能にはついていくことができなかった。
生涯を物理学の基礎研究に捧げてきたという自負はあったから、老醜をさらすくらいなら潔く引退した方がいいとさえ思いはじめていた。
だが、ひとつだけ、心残りがあった。
「ねえ、マクシミリアン。どうして原子のなかの電子の位置は、特定できないの?」
量子力学の基礎的なテキストを携えて、ニーナが不安そうにそう尋ねてきた。
「位置を特定できない、というわけではないのだよ。電子は軌道上で常に運動しているわけだが、それを観測するために光なり電磁波なりを浴びせると、それらとの相互作用を起こして、運動や位置が大きく変化してしまう。結果として、位置はわかるかもしれないが、本来の運動中の状態がどうだったかは、もうわからない」
「どんな理論で計算しても、わからないの?」
「むしろ、計算するための理論がない、という状況だ」
ニーナは心底驚いたと言わんばかりに、目を丸くした。
「たくさんの科学者が数十年にもわたって取り組んできて、まだ理論ができていないの?」
「ああ、そうだ。それどころか、理論が完成する見通しすらない。だから理論の構築などに時間をかけるより、いま分かっている事象を、どう扱うかを考えた方がいいのだ。利用価値の高い扱い方が見つかれば、社会の役にも立つし、自分への見返りも得られる。そういうことなのだよ」
わかったわ、とニーナは表情をほころばせた。
「私、理論とか計算とかは全然できないから、どうしようかと思っていたの。でも、あなたの言うようなことなら、なんとかなりそうだわ。ありがとう」
悩みの相談に的確な回答をもらった子どものように、ニーナは満面に笑みを浮かべた。
そうなのだ。
私がいなくなったなら、誰がこの女の面倒を見られるのか。
甘言を弄してニューヨークから連れてきて、研究資金の提供を受けるためにスポンサーのデイビッド・サスーンに差し出した。そのときは、役に立つ美しい女という以上の気持ちはなかった。
だが、そんな状況でも恨み言も言わず、私の教えることを素直に受け入れて成長していく姿を見ているうちに、次第に私の心の中でニーナの占める部分が大きくなっていった。
デイビッドが死んだとき、私は苦境に立たされるという不安感とともに、これでニーナを取り返すことができた、とも思った。
なんとしても今の地位を守り、この女はもうだれにも渡さないと決心した。




